史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

興津 Ⅲ

2022年05月21日 | 静岡県

(清見寺つづき)

 

清見寺

 

 久しぶりに清見寺を訪ねた。今回は拝観料三百円を支払って、庭園や西園寺公望の書の写真を撮影した。

 

清見寺庭園

 

明治天皇玉座

 

 清見寺は、明治二年(1869)および明治十一年(1878)の二度にわたり明治天皇の鳳輦を迎えている。今も明治天皇の玉座が当時のまま保存されている。

 

「長吟對白雲」

西園寺公望筆

 

 清見寺の大方丈に西園寺公望の書「長吟對白雲(はくうんにたいしちょうぎんす)」が掲げられている。扁額は、中川小十郎が京都の職人に篆刻させて、清見寺の住職に贈ったものである。昭和四年(1929)、西園寺公望八十一歳の書である。

 

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静岡 Ⅹ

2022年05月21日 | 静岡県

(瑞光寺)

 瑞光寺墓地に野崎彦左衛門の墓を訪ねた。墓地の真ん中辺りに野崎家の墓域があって、その中に彦左衛門の古い墓石も置かれている。

 

瑞光寺

 

明徳院殿慈雲積善居士(野崎彦左衛門の墓)

 

 野崎彦左衛門は、天保十四年(1843)の生まれ。幼名は延太郎といった。長じて鬼島広蔭に和歌、三浦弘夫に国学・漢籍を学んだ。二十一歳にして家業を継ぎ商家を営んだ。神奈川開港にともない安政六年(1859)正月、武州子安村に北村彦次郎、野呂伝左衛門ら駿府商人とともに出店を構えた。また明治元年(1868)、政府軍総督府が駿府に設けられると、その会計局にあたり物資調達に奔走した。静岡藩が成立すると渋沢栄一の商法会所の御用達となって商業に活躍した。のち野崎銀行を創立した。明治三十八年(1905)、年六十三歳にて没。

 

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藤枝 Ⅱ

2022年05月21日 | 静岡県

(大慶寺)

 大慶寺は田中藩主太田家の菩提寺である。その関係で、墓地の一角に田中藩士の墓が集められている。ただし、歴代藩主は江戸詰めだったため、ここには田中藩初代藩主太田資直(1658~1705)の墓があるのみである。

 

大慶寺

 

 大慶寺境内には、樹高約二五メートル、根回り約七メートルという久遠の松がそびえている。

 

田中藩士墓碑

 

 中央の背の高い墓石が太田資直のものである。

 

縄齋石井先生之墓

 

 石井縄齋(じょうさい)は、田中藩本多家の家臣。日知館創立者として漢学師範を勤め、経史を講じ、門下より熊沢(漢史学)、恩田(兵学)、佐竹(槍術)等多くの逸材を輩出した。天保八年(1837)に開かれた日知館は、水戸弘道館とともに「天下の二関」と称され、東海道文武の関門であった。天保十一年(1840)、五十五歳にて没。

 

贈従五位熊澤先生墓碑

 

聡明院慧智日徳信士(熊沢太郎の墓)

 

 熊沢太郎の墓碑の前に置かれている小さな墓石が当人の墓である。

 熊沢太郎惟興は、寛政三年(1791)の生まれ。中小姓御広間番、学問所世話役を経て、藩儒石井縄齋の代講を勤め、石井の帰藩により昌平黌に学んだ。天保五年(1834)、田中藩諸稽古場ができるに及び、世話役・目付となり、またこれが日知館と改称されると、その教授方を勤めた。弘化四年(1847)、上方を旅すると、暇を願って出発。密かに歴代御陵を調査して「御陵私記」二巻を著わしたが、事顕れるときは没書の難を恐れて深く秘蔵した。平素勤王の志が厚く、国体に関する史伝・考証に関する著書が多い。維新に際し、田中藩が方向を誤らなかったのは、太郎の教化によるところが大きいといわれる。安政元年(1854)、年六十四で没。

 

香遠院荷渓日泰(大塚荷渓の墓)

 

 大塚荷渓は、安永七年(1778)、藤枝宿屈指の豪商として栄えた奥州屋の大塚家に生まれた。奥州屋は、酒造業のかたわら、中央の文化人との交流に力を入れ、郷土の文化の拠点としての役割も果たしていて、荷渓はその中心となった。南画や漢詩に優れ、幅広い教養を兼ね備えていた。荷渓は詩社「紅山社」を結成し、石野雲嶺などの後輩の育成に力を入れた。天保十五年(1844)没。

 

田中藩士の墓(鈴木只六、青島専右衛門の墓)

 

 手前は棒術師範鈴木只六清久の墓。その奥は砲術師範青島専右衛門有方の墓である。鈴木只六は、安政二年(1858)、六十一歳にて没。青島専右衛門は安政五年(1855)、六十五歳にて没。

 

 

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焼津

2022年05月21日 | 静岡県

(光西寺)

 焼津市下小田の光西寺には、算学者古谷道生(ふるやどうせい)の墓がある。本堂裏手に旧墓、その近くに新しく建てられた古谷家の墓があり、墓誌に古谷道生の名前を確認することができる。

 

光西寺

 

関流院古谷道生居士(古谷道生の旧墓)

 

先祖代々之墓(古谷道生の墓)

 

 古谷道生は、文化十二年(1815)、下小田村の生まれ。農民善次郎の四男。天保三年(1832)、駿河田中藩士岩本常師について算学を学び、翌年藩主本多氏に連れられ、江戸の長谷川磻渓に学び高弟となった。いったん郷里に戻るも、再び四国、九州に赴き、福岡藩士久間太六に天文、暦法を学び磻渓によって免許を受け、続いて隠題、伏題免許も受けた。安政二年(1855)、田中藩士に取り立てられ、日知館算学指南となり、以来門弟は駿遠両国に三百余人を数え、田中藩長移封に伴う、域地の測量、東海道宇津谷隧道の測量、地租改正を始め土木工事等に数々の足跡を残した。明治二十一年(1888)、年七十四歳にて没。

 

(古谷數学道場所在旧跡)

 

古谷數学道場所在旧跡

 

古谷先生之碑

 

 下小田の住宅街の一角に古谷道生の数学道場の跡が残されている。顕彰碑は、明治二十五年(1892)の建立。

 

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掛川 Ⅳ

2022年05月21日 | 静岡県

(三邑院)

 

三邑院

 

 浜野の三邑院に墓地入口に歌人にして国学者八木美穂(よしほ)の墓がある。

 

中林美穂之墓

 

中林美穂居士(八木美穂の墓)

 

 八木美穂は寛政十二年(1800)の生まれ。中林は雅号。父美庸に家学を学び、和歌・俳句をたしなんだ。文政二年(1819)、白須賀の夏目甕麿に学んだ。弘化二年(1845)、横須賀藩士籍編入、歌道および和漢学侍講、学問所出仕となり、嘉永三年(1850)、横須賀学問所教授長。また城東郡浜野村庄屋役を兼ねた。安政元年(1854)年五十五にて没。学問所出仕は十年に及んだ。国学者の交友が多く、門人も数百に及んだ。和歌は万葉調の古調を尊重し、書紀や古事記関係の著述とともに、国学思想を説いた「磯之松」や、郷土誌、歴史地理関係のものが多いが、洋学には批判的であった。

 

(美穂園)

 

美穂園

 

美穂園

 

 三邑院の近くに八木美穂の旧宅地がある。現在その場所は美穂園と名付けられている。

 美穂は愛郷の心が常に篤く、自分の住まう浜野の居宅に家塾誦習館を設け、郷土の子弟を教育した。遠近より百余名が集まり、美穂の声名は四方に及んだ。

 

八木美穂先生之偈

 

国学者八木美穂先生住宅

 

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浜松 Ⅳ

2022年05月21日 | 静岡県

(浜松報徳館)

 本来、花粉症のシーズンであり、この時期に外出するのはあまり気が進まなかったが、浜松市内から史跡の旅を始めた。浜松のあとは掛川、焼津、藤枝、静岡を巡った。天気にも恵まれ、快適な旅となったが、かなりの量の花粉を浴びてしまった。

 

浜松報徳館

 

二宮尊徳像

 

安居院先生頌徳碑

 

 浜松報徳館には安居院庄七の顕彰碑がある。

 安居院(あごいん)庄七は、寛政元年(1789)の生まれ。父は権大僧都密正院秀峯。先祖は相模国大山の修験者で、代々権大僧都であった。長じて曾屋村の安居院家を継いだ。幼時より利発、大志を抱き、「一軒の家を興すより、一万軒の家を興す」と言って、天保十四年(1843)、小田原藩領下野国桜町に二宮尊徳を訪ね、報徳の教えを修得した。尊徳の理論を身をもって実践する決意を固め、弟の浅田勇次郎とともに浜松を中心に東海地方に遊説すること二十年。それより浜松在下石田報徳社をはじめ、着々と東海方面の村々を説いて、教化六十余村に及んだ。嘉永元年(1848)、庄屋岡田佐平治を説き、牛岡組報徳社を掛川在に結成したが、これが現在の報徳社の始まりで、その数は六十一社に達した。その後、嘉永六年(1853)、いわゆる遠州七人衆(内田啓助、岡田佐平治、竹田兵右衛門、桜井藤太夫、中村常蔵、山中利助、神谷与平治)を引き連れて二宮尊徳を日光に訪ね、ますます報徳の道に専心する覚悟を深めた。その後、十年間、驕る心をおさえ荒地を開墾し、用水路を開き、農耕を奨励し、善行の人を表彰。貧しい人を哀れみ、勤勉・倹約・清廉を旨として東海の村々を感化したが、文久三年(1863)、浜松の田中五郎兵衛方にて客死した。年七十五。

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、安居院庄七の墓は浜松市田町の玄忠寺にあるという。玄忠寺は、浜松駅近くの繁華街に位置しており、しっかり鍵がかけられて中に入ることはできなかった。奥の方に寺族の墓地や墓石らしきものが複数確認できたが、残念ながら確信を得ることはできなかった。また玄忠寺の墓地は、市内の中沢霊園に移されているという情報を得たので、念のため中沢霊園にも足を運んでみたが、そこでも安居院庄七の墓を発見することはできなかった。

 

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静岡 Ⅸ

2020年03月07日 | 静岡県

(中村敬宇旧宅跡)

 中村敬宇の旧宅跡地を訪ねて、年末京都の実家に帰省した帰路、静岡で途中下車して、駅から徒歩で当該地を目指した。歩いて三十分。富春院の二本北の道に石碑を発見した。

 

村敬宇先生舊宅之跡

 

 大正十五年(1926)に建立された石碑の上部は戦災によって欠損しており、中村の「中」の字が消えてしまっている。

 駿府藩主となった徳川家達を追って静岡に移り住んだ中村敬宇(正直)は、静岡学問所の一等教授に就任し、家達をはじめとする子弟の教育に努めた。この場所に「無所争斎」と称する半洋式の住宅を建て、明治五年(1872)に東京に戻るまで住んでいた。敬宇が「西国立志編」や「自由之理」を著わしたのは、静岡在住時代のことである。

 

(静岡陸軍墓地)

 先日、中公新書「軍神」を読み終えたところである。この本で静岡市内にも陸軍墓地があることを知り、さっそく訪ねることにした。

 静岡駅からバスで十五分くらいの「三松」というバス停で降りれば便利である。

 広い敷地のほとんどはグラウンド状の平地となっており、近所の子供たちの良い遊び場であろう。陸軍関係者は木立の中に葬られている。

 

陸軍墓地

 

静岡陸軍墓地

 

陸軍歩兵中佐従六位勲四等功四級橘周太之墓

 

 日露戦争遼陽の戦闘で戦死し、「軍神」と称えられた橘中佐もここで眠っている。

 

 

 

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御殿場

2019年11月16日 | 静岡県

(西田中八幡神社)

 

 西田中八幡神社

 

 文化八年(1811)十二月、伊能忠敬の測量隊は御殿場で測量し、八幡神社前の百姓平兵衛宅にて昼休みをとり、また富士山の高さを測量したことが日記に記録されている。

 八幡神社はJR御殿場駅から北に約1・5キロメートル。駅前の観光案内所で自転車を借りて、片道十分程度である。小雨がパラつく中であったが、何とか時間内に往復することができた。昼間の御殿場線は一時間に一本前後しかないので、八幡神社訪問には自転車を活用することをお勧めしたい。料金は二時間以内であれば五百円。

 

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藤枝

2019年11月09日 | 静岡県

(岡部宿)

 

岡部宿本陣址

 

岡部宿本陣址

 

 

岡部宿大旅籠柏屋

 

 岡部宿は、東海道二十一番目の宿場。かつて街道を往来する旅人で賑わったが、明治以降鉄道の東海道線が峠越えの難所を避けて海沿いに敷設されたことから、衰退してしまった。しかし、そのことで今も風情のある雰囲気が残されることにもなった。

 本陣跡の門をくぐると綺麗に手入れされた芝生が広がるが、ここはかつて本陣の建物があった場所で、相当大きな建物があったことが偲ばれる。

 隣接する大旅籠柏屋(かしばや)は、江戸時代の建物を改修して資料館として公開したものである(国登録有形文化財)。

 

 この日の史跡探訪はここまで。前日の天気予報では東海地方は雨となっていたので、覚悟していたが結局一滴も雨は降らなかった。良い方に予報が外れてくれて非常に助かった。

 

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島田 Ⅲ

2019年11月09日 | 静岡県

(蓬莱橋)

 

       

勝海舟之像

 

 蓬莱橋のたもとに勝海舟像が建立されたというニュースを入手した。今回静岡県を目指した主目的はこの海舟像を見るためで、あとの史跡はオマケみたいなものであった。

 それにしてもどうして蓬莱橋に海舟像が建てられたのだろうか。牧之原の茶畑を開墾したのは中條景昭(金之助)、大草高重ら旧幕臣であった。海舟は、旧幕臣から様々な相談を持ち掛けられ、経済的な援助も惜しまなかった。明治八年(1875)に官職を辞した後も、影に日なたに牧之原開拓士族を物心両面で助力し続けた。

 明治六年(1873)には、仕事を失った川越人足たちも茶畑の開墾を始めた。この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原から大井川を渡って島田と交流をもつ旧幕臣が増えた。当初は小舟を利用して川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可を得て架けられたのが蓬莱橋である。茶畑の開墾を支援し続けた海舟の存在を抜きに牧之原大茶園を語ることをできないとして、平成三十年(2018)にこの地に海舟像が建立されたというわけである。フロックコートをまとった海舟は、いつになくカッコいい。

 

(JAおおいがわ)

 JR東海道線金谷駅(大井川鉄道の発着駅でもある)の駅前を通る商店街は旧東海道に重なっている。現在JAおおいがわのある場所がかつての金谷宿本陣跡である。

 金谷宿の本陣は柏屋といい、代々河村八郎左衛門を名乗った名家の一つで、代々本陣と名主を務めていた。先祖の河村弥七郎が徳川家康に忠節を尽くしたことで、信州に知行地を与えられ、金谷宿、島田宿にも屋敷を与えられた。江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋が脇本陣であった。寛政三年(1791)の竹下屋火事と呼ばれる大火によって全ての宿泊施設が焼失してしまった。天保十四年(1843)の記録には、柏屋本陣は「凡建坪弐百六拾四坪 門構・玄関附」とある。尾張徳川家、紀伊徳川家の定宿となっていた。嘉永七年(1854)の東海大地震で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営んだ。

 

柏屋本陣(一番本陣)跡

 

(金谷坂)

 金谷駅の南側に往時の街道の石畳が残された場所がある。

 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落に助郷を命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き詰めたものである。近年、僅か三十メートルを残す以外は、全てコンクリートなどで舗装されていたが、平成三年(1991)、町民約六百名の参加を得て実施された「平成の道普請」により延長四百三十メートルが復元された。

 

金谷坂の石畳

 

 現在、旧街道上の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所のみとなっている。

 

(水神公園)

 

 

金谷宿八軒屋橋

 

 大井川鉄道新金谷駅付近の水神公園は、大井川の川渡し場の手前、水神社のあった場所に設けられた公園である。かつて旅人は川会所で川札・台札を購入した。番宿(ばんやど)では川越人足が五十人ずつ、一番から十番まで組み分けされ、小頭の管理下で待機していた。宿(仲間の宿)は小頭や特別に選ばれた熟練した待川越(まちかわごし)の詰め所で、その日の越え立ての順番が決められた。

 

東海道金谷宿大井川川越之圖 

 

 川越人足は、十五歳以下の弁当持ちから始まり、水入り、半川越と呼ばれる厳しい見習い修行を経て、一人前となった。高度の徒渉技術を身に付けた熟練の技術集団であった。

 なお大井川を渡った島田市博物館前には川越港跡がある。

 

 この日は大井川の水量が著しく減っており、歩いてでも渡れるほどであった。

 

 

義人仲田源蔵像

 

 水神公園に仲田源蔵の石像が置かれている。仲田源蔵は天保十二年(1841)、醤油屋の三代目として金谷宿八軒屋に生まれ、二十六歳で家督を継いだ。明治三年(1870)に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、島田、金谷合わせて千二百名の川越人足が失業し困窮を極めた。これを見かねた源蔵は、私財を投じて援助したが、それにも限度があった。その後、求められて大井川金谷方川越人足総代を引き受け、島田郡政役所等に人足窮状を嘆願するが却下された。この上は政府に訴えるほかはないと上京し、同年十一月、伊達民部卿(宗城)に直訴に及んだが、捕らえられ拷問を受けるが、訴状事実が判明し釈放された。源蔵の熱意が政府を動かし、一戸当たり金拾両と東西萩間村原に三百ヘクタールの開墾が許可され、明治四年(1871)六月、金谷方人足百人を率いて入植し、牧之原大茶園の基礎となった。その後、向坂弥平次(焼津)と大井川木橋の架橋に専念し、明治十六年(1883)四月、全長七二〇間(千三百メートル)の木橋を開通させた。明治二十二年(1889)、四十八歳で没し、丸尾原霊園に永眠している。

 

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