(蓬莱橋)
勝海舟之像
蓬莱橋のたもとに勝海舟像が建立されたというニュースを入手した。今回静岡県を目指した主目的はこの海舟像を見るためで、あとの史跡はオマケみたいなものであった。
それにしてもどうして蓬莱橋に海舟像が建てられたのだろうか。牧之原の茶畑を開墾したのは中條景昭(金之助)、大草高重ら旧幕臣であった。海舟は、旧幕臣から様々な相談を持ち掛けられ、経済的な援助も惜しまなかった。明治八年(1875)に官職を辞した後も、影に日なたに牧之原開拓士族を物心両面で助力し続けた。
明治六年(1873)には、仕事を失った川越人足たちも茶畑の開墾を始めた。この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原から大井川を渡って島田と交流をもつ旧幕臣が増えた。当初は小舟を利用して川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可を得て架けられたのが蓬莱橋である。茶畑の開墾を支援し続けた海舟の存在を抜きに牧之原大茶園を語ることをできないとして、平成三十年(2018)にこの地に海舟像が建立されたというわけである。フロックコートをまとった海舟は、いつになくカッコいい。
(JAおおいがわ)
JR東海道線金谷駅(大井川鉄道の発着駅でもある)の駅前を通る商店街は旧東海道に重なっている。現在JAおおいがわのある場所がかつての金谷宿本陣跡である。
金谷宿の本陣は柏屋といい、代々河村八郎左衛門を名乗った名家の一つで、代々本陣と名主を務めていた。先祖の河村弥七郎が徳川家康に忠節を尽くしたことで、信州に知行地を与えられ、金谷宿、島田宿にも屋敷を与えられた。江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋が脇本陣であった。寛政三年(1791)の竹下屋火事と呼ばれる大火によって全ての宿泊施設が焼失してしまった。天保十四年(1843)の記録には、柏屋本陣は「凡建坪弐百六拾四坪 門構・玄関附」とある。尾張徳川家、紀伊徳川家の定宿となっていた。嘉永七年(1854)の東海大地震で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営んだ。
柏屋本陣(一番本陣)跡
(金谷坂)
金谷駅の南側に往時の街道の石畳が残された場所がある。
この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落に助郷を命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き詰めたものである。近年、僅か三十メートルを残す以外は、全てコンクリートなどで舗装されていたが、平成三年(1991)、町民約六百名の参加を得て実施された「平成の道普請」により延長四百三十メートルが復元された。
金谷坂の石畳
現在、旧街道上の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所のみとなっている。
(水神公園)
金谷宿八軒屋橋
大井川鉄道新金谷駅付近の水神公園は、大井川の川渡し場の手前、水神社のあった場所に設けられた公園である。かつて旅人は川会所で川札・台札を購入した。番宿(ばんやど)では川越人足が五十人ずつ、一番から十番まで組み分けされ、小頭の管理下で待機していた。宿(仲間の宿)は小頭や特別に選ばれた熟練した待川越(まちかわごし)の詰め所で、その日の越え立ての順番が決められた。
東海道金谷宿大井川川越之圖
川越人足は、十五歳以下の弁当持ちから始まり、水入り、半川越と呼ばれる厳しい見習い修行を経て、一人前となった。高度の徒渉技術を身に付けた熟練の技術集団であった。
なお大井川を渡った島田市博物館前には川越港跡がある。
この日は大井川の水量が著しく減っており、歩いてでも渡れるほどであった。
義人仲田源蔵像
水神公園に仲田源蔵の石像が置かれている。仲田源蔵は天保十二年(1841)、醤油屋の三代目として金谷宿八軒屋に生まれ、二十六歳で家督を継いだ。明治三年(1870)に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、島田、金谷合わせて千二百名の川越人足が失業し困窮を極めた。これを見かねた源蔵は、私財を投じて援助したが、それにも限度があった。その後、求められて大井川金谷方川越人足総代を引き受け、島田郡政役所等に人足窮状を嘆願するが却下された。この上は政府に訴えるほかはないと上京し、同年十一月、伊達民部卿(宗城)に直訴に及んだが、捕らえられ拷問を受けるが、訴状事実が判明し釈放された。源蔵の熱意が政府を動かし、一戸当たり金拾両と東西萩間村原に三百ヘクタールの開墾が許可され、明治四年(1871)六月、金谷方人足百人を率いて入植し、牧之原大茶園の基礎となった。その後、向坂弥平次(焼津)と大井川木橋の架橋に専念し、明治十六年(1883)四月、全長七二〇間(千三百メートル)の木橋を開通させた。明治二十二年(1889)、四十八歳で没し、丸尾原霊園に永眠している。