史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

出雲

2017年06月11日 | 島根県
(出雲大社)
 出雲といえば、何と言っても出雲大社である。幕末維新の関連史跡というわけではないが、せっかくなので立ち寄ることにした。といっても、私が出雲大社を訪れたのは、午前五時半にもならない早朝だったので、広い境内には散歩を楽しむ人がまばらに見えるだけであった。神楽殿の脇の道を抜けると、日御碕へと通じている。


出雲大社拝殿

(宇龍港)
 今回、松江市内に宿をとり、早朝五時前に出発して目指したのは、宇龍港という辺鄙な漁港である。明治九年(1876)十月、萩で反政府の挙兵を起した前原一誠、奥平謙輔らは政府軍の手によって鎮圧されると、東京に向けて萩を出港し、途中悪天候のために宇龍港で停泊した。そのとき、地元民が県令佐藤信寛に通報したことから捕縛され、首謀者は全員斬首された。
 これまで佐賀の乱の江藤新平が捕縛された甲浦を訪問した私としては、ずっと前から一度は宇龍を訪ねたいと念願していたが、ようやく実現することができた。


宇龍港

 宇龍港は、鴎が群生していることを除けば、何の変哲もない漁港である。強いて特徴をいうとすれば、不釣合いなほど立派な日御碕(ひのみさき)神社という神社が存在していることくらいであろうか。


日御碕神社

 司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」(文庫本第七巻「衝撃」)によれば、明治九年(1876)十一月四日、「横山俊彦とその若党白井林蔵が、けもののように縄でからめとられ、もっこに入れられて松江警察署にはこばれてきた」。これを知った長州藩出身の島根県県令佐藤信寛は、同じく長州人である属官清水清太郎に命じ、船内に潜伏している前原らに接触させた。このとき清水は、「わが長州の士、弱かつ鈍といえども、いまだかつて一人も鳥獣の扱いを受けた者はおらぬ」と発言し、船中に向け佐藤県令と自分の手紙を届けさせた。前原は清水の説得に応じ船から出てきた。前原は、東京で明治政府の専制を批難することを望んだが、佐賀の乱の前例に従い、彼らの身柄は萩に戻され、そこで一週間ほどの審理の結果、前原以下八名が斬罪、終身懲役が六十四名という判決が下された。刑は同年十二月三日に執行された。

(ふれあいセンター)


前原一誠之碑

 この地で前原一誠が捕縛された史実を示すものは、ふれあいセンターの横の階段を上がったところにある、小さな石碑のみである。傍らにマジックインキで「日本で唯一の前原一誠卿を偲ぶ石碑」を書かれていたが、確かにそのとおりであろう。
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安来

2017年06月11日 | 島根県
(常福寺)
 山陰道鎮撫総督より切腹を要求された松江藩家老大橋筑後は、常福寺においてその時を待った。しかし、藩主松平定安の奔走で、死を免じられ、寸前で救われた。


常福寺

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隠岐

2017年06月11日 | 島根県
(西郷港)
 隠岐の島は、島根沖約五十キロメートルに浮かぶ島嶼である。松江市内からバスで揺られること三十分余りで、七類という港に着く。そこからフェリーで片道二時間半(高速船であれば一時間四十分ほど)で島後の西郷港に至る。決して近いとは言えない距離である。
 二等船室は片道二千九百二十円。連休中ということもあって、かなり人は多かったが、何とか一人分の横になるスペースを確保することができた。事前に隠岐汽船に問い合わせたところ、
「特に予約しないでも乗り損ねることはありません」
ということだった。ほとんど船が揺れることはなかったが、船に滅法弱い私は酔い止め薬を飲用して万全を期した。
 隠岐の島は、大小百八十の島から成る群島を指すが、このうち大きな島は、四つのみで、今回私が訪れたのは北方に位置する「島後」と呼ばれる島である。直径二十キロメートルのほぼ円形をしており、だいたい「五時」の方向に西郷港がある。ここでレンタカーに乗って島の史跡を訪ねる。その日の午後三時過ぎのフェリーで戻ることにしていたので、島での活動時間はわずかに三時間半。一刻の遅滞も許されない。
 レンタカーの店舗から歩いても数分という場所に隠岐騒動の石碑が建てられている。これが最初の史跡である。


フェリーくにが


隠岐騒動勃発地

 この地で「騒動」が起こったのは、慶応四年(1868)三月十九日。島民三千人が蹶起し、松江藩の役人を追い出して島民による自治政府が樹立 した。島民は藩の役人に餞別として米、味噌、酒を贈ったという、優しい「革命」であった。
 この場所は、隠岐代官所(陣屋)のあった場所で、維新後は隠岐県庁、鳥取県隠岐出張所、島根県隠岐四郡役所、隠岐島庁、隠岐支庁等が置かれた。隠岐騒動の際には、この陣屋の攻守を巡って、島民と代官所、松江藩兵との間に激戦が繰り広げられた結果、郡代が追放され、藩兵が引き揚げることとなった。島民はこの陣屋を中心に会議所、総会所と称する自治機関を設けて政権を確立した。明治二年(1869)二月、隠岐県設置とともに政権は明治政府に引き渡された。
 ここを起点に島内の隠岐騒動関連史跡を回ることとしよう。

(乃木ハウス)


乃木ハウス

 西郷の集落に乃木希典が泊ったといわれる住宅が残されている。

(西郷小学校)
 西郷小学校の校庭に隣接して、広い墓地がある。その真ん中辺りにロシア人墓地がある。
 この墓は、日露による日本海海戦の際、漂着したロシア軍人八人の遺体をこの地に埋葬して供養したものである。建立したのは、隠岐國在郷軍人会。


露国軍人墓

(中村)


中沼了三肖像(隠岐郷土館蔵)

 中沼了三の肖像画が隠岐郷土館に残されている。鳥羽伏見の戦いの際の出陣の姿を描いたもので、征討代将軍仁和寺宮から賜った陣羽織を着用し、浅見絅斎の太刀を手にしている。

 島後の中村という集落が中沼了三の出身地である。白鳥海岸展望台から南下していくと、道沿いに「中沼了三顕彰碑」と書かれた案内板が建っており、それを見逃さなければ、ここに行き着くことはさほど難しくない。ここは中沼了三の生家である。碑の近くに、奈良の十津川高校の同窓会による植樹などを見ることができる。


中沼了三先生顕彰碑

 中沼了三は、京都に遊学し、崎門学を極め、師の鈴木遺音の後継者となり、塾を開いたが、その先鋭な主張が幕末に時勢に合致し、憂国の志士が競ってその教えを請うた。維新後は新政府の参与参謀となった。
 この石碑の建立は、昭和五十一年(1976)、中沼了三先生顕彰会によるものである。

(玉若酢命神社)


玉若酢命神社

 玉若酢(たまわかす)神社は、隠岐の総社として創建された古社で、島の開拓にかかわる神と考えられている。現在の本殿は、寛政五年(1793)の建築で、隠岐造といわれる様式である。樹齢千年以上という杉の巨木が目を引く。


隠岐家住宅

 玉若酢神社に隣り合って、茅葺の隠岐家住宅がある。母屋の隣は宝物展示室となっており、奈良時代の駅鈴や光格天皇から下賜された唐櫃、ラフカディオ・ハーンの遺品などが展示されていて、受付の女性が熱心に説明をしてくれる。私の興味は母屋に残された隠岐騒動の傷跡であった。説明が途切れた瞬間を見計らって、刀痕を見ることができるか尋ねたところ、母屋自体は生活空間となっているので見学はできないが、刀痕は見学が可能という。早速、母屋の方に回って隠岐騒動の際の刀痕、弾痕を見学させていただいた。


隠岐騒動の際の刀痕

 慶応四年(1868)五月一日、松江藩軍十数人が隠岐家を襲った。当時隠岐家の当主、隠岐有尚は自治政府の会議所長老を務めていた。大黒柱に刀痕、中戸に火縄銃による弾痕が残されている。


弾痕

(水若酢神社)


水若酢神社

 水若酢(みずわかす)神社は、隠岐一の宮ともいわれる。本殿は、寛政七年(1795)二建てられたもので、妻飾りには鯉と波をかたどった美しい彫刻が施されている。水若酢神社の宮司は、忌部(いんべ)氏。幕末の当主忌部正弘は隠岐騒動における尊王派正義党のリーダー格であった。


私塾膺懲館跡

 水若酢神社の鳥居をくぐって右手に膺懲館跡を示す石碑が建てられている。
 膺懲館は、京都で中沼了三から崎門学の教えを受け、尊王攘夷に燃えて帰国した中西毅男(山田出身)が養父中西淡斎を講師として協力を得、島の若者を集めて隠岐国を外夷から護るために文武の道を教授した私塾である。ここで学んだ若者らは、その情熱を慶応四年(1868)の隠岐騒動に傾注した。建物は維新後、郡学校として使われ、明治三十年(1897)頃まで存続していた。

(隠岐郷土館)
 水若酢神社の東隣に隠岐郷土館がある。この擬洋風木造建築は、西郷港近くの松江藩陣屋跡に隠岐四郡町村連合会が、明治十八年(1885)に建築した旧周吉(すき)郡外三郡役所庁舎を、昭和四十五年(1970)に移築したものである。
 郷土館の展示は、岩石や化石、貝の標本、考古資料などが並ぶが、何といっても隠岐騒動のコーナーに注目である。


隠岐郷土館


村上寅之助之墓

 隠岐騒動関係展示の一角には、明治元年(1868)五月七日に死亡した村上寅之助の墓が置かれている。室内展示で墓石を見たのは初めてであるが、本物なのかレプリカなのか判然としない。この年月日は、松江藩の武力反攻にあって、隠岐自治政府が一時解散させられた時期に一致する。その時の犠牲者と思われる。


隠岐騒動関係の展示

 いずれも隠岐騒動の指導者。右は横地官三郎、左は井上甃介の写真と紹介である。

(白鳥海岸)


白鳥海岸

 島の北端に白鳥海岸と呼ばれる美しい海岸がある。地質学的にも興味深いものらしいが、全くの専門外であり、取り敢えずは景色を楽しむしかない。今回の隠岐の旅では、一切観光地らしい場所は訪問しなかったし、土地のうまいものも何も口にしなかったが、せっかくここまで来てそれも寂しいので、展望台から絶景を楽しむことにした。ゴールデン・ウィークというのに、この日この時間にこの場所に来た観光客は私一人だけであった。

 西郷港の売店で松本侑子著「島燃ゆ 隠岐騒動」(光文社文庫)を購入した。隠岐騒動にについて詳述した小説である。本来、これを読んでから隠岐を訪ねた方が良かったかもしれないが、まずは一読してみたい。

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松江 Ⅱ

2017年06月10日 | 島根県

(白潟公園)


青柳楼の大燈籠

 夜行バスで京都駅前から松江へ移動。松江には午前五時過ぎに行き着く。この日は隠岐の島に渡って、島内の史跡を巡る予定であったが、七類港行のバスが出るまでの数時間、松江市内を散策することにした。松江のテーマは「錦織かよ」である。
 松江駅から西へ六百メートルほど歩くと、宍道湖畔に白潟公園がある。この公園のシンボル的存在が、大きな石燈籠である。
 この石燈籠は、もともと明治初期から松江の歓楽地として賑わった白潟天満宮の裏にあって、代表的な料亭の一つ「青柳楼」にあったものである。当時、その辺りは宍道湖の浪打ち際であって、高さ六メートル余りの石灯篭は、入江の灯台の役割を果たしていたもので、松江の名物の一つとなっていた。その後、宍道湖の埋め立てにより取り残されていたが、松江開府三百五十年祭に因んで、昭和三十三年(1958)、現在地に移設された。錦織かよ(別名・玄丹かよ)が芸妓として務めていたのが青柳楼の隣にあった鳴玉楼だったことから、この石燈籠も「お加代燈籠」とも呼ばれている。


玄丹かよ像

 白潟公園の宍道湖沿いに錦織かよの胸像が置かれている。台座には、刀の切っ先に突き刺したカマボコを向けられるかよの姿が描かれている。


錦織かよ像の台座のレリーフ

(光徳寺)


光徳寺


侠女お加代の墓

 松江市石橋三丁目に光徳寺に錦織かよの墓がある。
 錦織かよは、天保十三年(1842)、出雲生まれ。父錦織玄丹は松江藩士であったが、盲目となったため浪人し、現在の松江市新町洞光寺下に住んで針医をしていた。慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使西園寺公望が西下したとき、かよは二十七歳。城下で酌婦をしていた。鎮撫使は、親藩である松江藩に対して四箇条の難題を示し、その催促のために川路利恭副総督(薩摩藩士。川路大警視の養子。後に奈良県知事、熊本県知事、福岡県知事などを歴任)を松江に下した。この時、城下は目も当てられぬ混乱となった。勝気なかよは、自ら進んで川路の接待にあたり、刀の先に突き刺したカマボコを口で受けた。家老大橋筑後が引責切腹ときくや、助命に一身を捨てようと決意し、首尾よく米子城三の丸本陣に入り込み、西園寺に面談し、赦免状を得た。彼女がみずから馬で安来に駆け付けたとき、家老は切腹寸前であったという。玄丹かよと呼ばれ、侠女として名を高めた。大正七年(1918)没。

(善導寺)


善導寺

 慶応四年(1868)五月、隠岐騒動の責任を負い、松江藩士山郡右宇衛門は、善導寺で切腹して果てた。善導寺は山郡家の菩提寺であるが、右宇衛門の墓は残されていないという。

(松江大橋北)
 松江大橋の北に電信発祥の地の石碑を発見。これまで東京、横浜、神戸、京都などの比較的大都市で電信発祥の地を見てきたが、地方都市では初めてであった。


松江電信発祥の地

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松江

2016年10月14日 | 島根県
(松江城)


松江城

 久し振りの島根県である。これまで四十七都道府県を踏破した私であるが、全ての県庁所在地を歩き、残すは松江だけとなった。前日、鳥取県の米子に宿をとり、早朝松江に向かった。
 松江城は、現存する十二の天守のうちの一つ。これで「現存十二天守」の踏破も達成した。日本百名城の一つに数えられ、国宝にも指定されている。派手さはないが、質朴重厚な城である。


堀尾吉晴像

 松江城は、関ヶ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が慶長五年(1600)に出雲・隠岐両国に封じられた。慶長十二年(1607)から足かけ五年を費やして築城された。完成は慶長十六年(1611)。堀尾忠氏は慶長九年(1604)に急死したが、父堀尾吉晴が築城工事を引き継いだ。松江城前には、工事を指揮する吉晴の銅像が建てられている。
 堀尾吉晴が死去すると嗣子がなかったため、京極氏に引き継がれたが、やはり嗣子がなく断絶。その後、松平氏が十代続いて松江藩を治めた。
 松江藩主松平氏は、徳川家康の二男結城秀康の子、松平直政を祖とする。第七代藩主治郷は、不昧という名を持つ茶人としても有名であった。
 幕末の藩主は、十代松平定安。親藩であり佐幕色の強い藩であり、長州征伐にも出兵した。しかし、大政奉還後、藩論を勤王に転換した。しかし、不明瞭な態度が官軍の疑惑を招き、慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使西園寺公望が松江・浜田藩の調査に来た際、たまたま松江藩の軍艦八雲丸が鎮撫使滞陣地近くの丹後宮津に寄港したため、「其意不審」として捕えられた。この頃、上洛した定安が山陰道を通って西下していた鎮撫使一行を迎えても挨拶もせず通過したという事件が重なった。いずれも、事情を知らずに起こった偶発的事件であったが、松江藩の立場は非常に苦しいものとなり、苦心の末、苦境を切り抜けることになった。


興雲館

 松江神社横の白亜の洋館は、明治三十六年(1903)、松江市工芸品陳列所として建てられた建物である。明治天皇の行在所として使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多用した華麗な仕上げとなっている。明治天皇の巡行は実現しなかったが、その後皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰道行啓にあたって旅館として利用された。


西南戦争碑

 興雲閣の前に建つ円形の碑は、松江と西南戦争の関わりを記したもの。明治十九年(1886)、当時の島根県知事籠手田安定(平戸藩士。維新後は、滋賀県知事や島根県知事等地方官を歴任)が浄財を募り、明治二十一年(1888)に建立されたものである。

(武家屋敷)
 松江城の北側に、二百石から六百石の中級武士の屋敷が並ぶ武家屋敷があった。今も昔ながらの屋敷が残されている。


武家屋敷

(小泉八雲記念館)
 武家屋敷の並びに小泉八雲の旧居跡と記念館がある。
 小泉八雲(アイルランド名ラフカディオ・ハーン)は、英語教師として松江に赴任し、セツ夫人と結婚した後、かねてからの念願であった武家屋敷を求めて、この屋敷を借りて暮らした。当時この屋敷は旧松江藩士根岸家の持ち家で、あるじ干夫は簸川郡(現・出雲市)の郡長に任命され任地に赴任していたため、たまたま空き家であった。


小泉八雲記念館


小泉八雲胸像

(月照寺)


月照寺

 月照寺は、もと洞雲寺と称したが、松平直政が生母月照院の霊牌を安置するため、寛文四年(1664)、改称復興したものである。以来、松江藩主松平家の菩提所ならびに念佛道場として、江戸時代二百年間、尊崇を受けて来た。
 境内の松平家墓所には、九代にわたる藩主の廟が整然と鎮座している。歴代藩主および夫人の奉献した宝物を展示する宝物殿もある。
 私が月照寺を訪れたのはまだ拝観時間前で境内に入ることは叶わなかった。


雷電の碑

 門前には雷電之碑がある。雷電は天明八年(1788)、二十二歳のとき、松江藩主松平治郷(不昧公)にお抱え力士として召し抱えられ、不昧公より雷電為右衛門の名前を賜った。二十一年間、三十四場所の土俵生活で、二百五十八戦のうち負けたのはわずかに十回で、その勝率は古今の相撲史上第一位である。

(禅慶院)
 鹿島町手結の浦は、因藩二十士のうち詫間樊六以下五名が、本圀寺事件で暗殺された黒部権之介や早川卓之丞の遺族らによって斬殺された場所である。禅慶院の本堂裏の坂を上ると、突き当りの小高い場所に彼らの墓がある。


禅慶院


遺蹟保存会の建てた顕彰碑


詫間樊六ほか四士の墓

 ここに葬られているのは、詫間樊六、太田権右衛門、吉田直人、中野治平、中原忠次郎の五名。中原忠次郎は、因藩二十二士ではないが、二十士が橋津から脱出する際に支援した「義人」である。手結に奇港した際、現地の役人に怪しまれたため、交渉の結果、この五人が手結に残り、ほかは長州へ向かうことになった。どういう基準で五人が選ばれたのかはよく分からないが、ここで手結に留まったことが、彼らの命を縮めることになった。黒部権之介らの遺族は、詫間ら五人を討ち取り、報復を果たしたのである。

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