史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「司馬遼太郎の描いた異才Ⅱ」 週刊朝日編集部 朝日新聞文庫

2014年01月25日 | 書評
本書では高田屋嘉兵衛、千葉周作、江藤新平の三名を取り上げる。いずれも司馬遼太郎が小説の主役に選んだ人物である。『菜の花の沖』と『北斗の人』『歳月』という三作品に共通する特徴は、小説の対象に筆者がぞっこん惚れ込んでいるということであろう。
実は、数多い司馬作品の中には、筆者が必ずしも惚れ込んでいない対象も存在している。例えば、『覇王の家』の徳川家康、『殉死』の乃木希典などはその例である。司馬先生は、人の好き嫌いがはっきりしており、嫌いな人物を描くと、自ずとその気分は文章に現れる。
そういう意味では、高田屋嘉兵衛、千葉周作、江藤新平は、司馬先生好みの人物であり、作品を通じて筆者の愛情が感じられる。
本書を読むと、取り分け司馬先生の思い入れが強いのは、高田屋嘉兵衛だったようである。司馬先生は『菜の花の沖』について語った講演会で高田屋嘉兵衛のことを
――― 江戸時代を通じてだれが一番偉かったでしょうか。学者、大名、医者、発明家、いろいろ出ました。私は高田屋嘉兵衛だろうと思います。それも二番目が思いつかないくらいに偉い人だと思っています。いま生きていても、世界のどんな舞台でも通用できる人ですね。世界史的に見ても偉い人でした。
と、大絶賛している。
『菜の花の沖』は、かなり前に読んで以来、再読していない。あまり感動した記憶は残っていないが、もう一度読んでみようかという気になった。

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「明治めちゃくちゃ物語 維新の後始末」 野口武彦著 新潮新書

2014年01月25日 | 書評
野口武彦氏のシリーズも本作をもって完結ということらしい。著者のあとがきによれば、明治も「むちゃくちゃ」なのは明治十一年(1878)の紀尾井坂の変辺りまでで、これ以降、明治政府は「尤もしごくな国策に沿って突っ走り始める」ことになるのだという。
野口氏がいうように、明治十年(1877)までの日本は、まだまだ維新の混乱の中にいた。依然として要人の暗殺やテロ行為は続き、台湾に外征し、江華島事件を起こして砲艦外交に出るかと思えば、佐賀の乱や神風連の乱、秋月の乱、萩の乱といった不平士族による内乱も相継いだ。矢継ぎ早に打ち出される徴兵制度や秩禄処分、敵討禁止令、新聞紙条例、讒謗律、廃刀令に、世間は振り回されることになった。ひと言でいうと「むちゃくちゃ」ということになるのだろうが、この時代に生きた人はさすがに大変だったろう。一方で、後世から見ると、これほど魅力的で面白い時代はほかにない。
その後、憲法が制定され国会が開設されると、ほぼ現代の政治システムの原型が出来上がる。もちろん、そこで展開される政治状況は現代と比べると「萌芽期」と呼ぶべきもので、依然として混迷が継続していることに変わりはない。だが、残念ながら後世から見た「面白味」という点では急速に後退してしまう。この時代は、野口氏によれば、「史上めったにない密度で奇人・珍人・変人・偏人が出現した時代」なのである。つまり「面白さ」と「むちゃくちゃ」とは密接に相関があるということであろう。恐らく私は一生この時代と離れられそうもない。


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「維新暗殺秘録」 平尾道雄著 河出文庫

2014年01月25日 | 書評
 「海援隊始末記」などの著書で知られる史学者平尾道雄氏の著作である。この本も古本屋で購入したもので、現在普通の書店では入手不可である。
 桜田門外に斃れた井伊直弼を始めとして、坂本龍馬、佐久間象山、大村益次郎といった著名人から、無名の犠牲者に至るまで、三十件の暗殺事件を収録している。
 この本を読むと、改めて幕末とは暗殺の時代であったと実感できる。今からわずか百五十年前、日本はテロが横行する、極めて危険な国であった。
 翻って現代日本は世界的に見ても平和で安全な国である。中東や中南米、ロシアで相継ぐテロ事件や強盗事件を報道で見るたび我々は顔をしかめるが、実は百五十年前、我が国はテロの国であった。暗殺は卑劣な行為であり、どう考えても正当化されるものではないが、時代が変革を経験するとき、避けて通れない試練なのかもしれない。
 なお、本書65ページで、鳥居志摩が要殺された壬生藩を(京都)と紹介しているのは、明らかな間違い。壬生藩は下野国(現・栃木県壬生町)の小藩である。


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鶯谷 Ⅲ

2014年01月18日 | 東京都
(西蔵院)


西蔵院

 鶯谷駅から徒歩七分ほど。西蔵院には佐久間貞一の追悼碑がある。書は舊友榎本武揚による。


佐久間貞一君追悼碑

 佐久間貞一は幕臣の出身である。彰義隊に加わって上野戦争に参加したが、敗れて静岡に移住。明治九年(1876)、活版印刷所秀英舎を創立した。秀英舎はのちに大日本印刷株式会社に発展した。ほかにも印刷会社や銀行の創立経営に関わった。

(下谷警察署)
 現・下谷警察署は川路大警視の邸宅跡である。川路利良は、明治のはじめ、この地に一万五千坪に及ぶ大邸宅を有していた。敷地内には池沼があり、鴨猟が催されることもあったという。川路は明治十二年(1879)十月十三日、病死するが、その後この邸宅は昭和三十一年(1956)まで子孫に引き継がれた。


川路大警視邸跡


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白山 Ⅱ

2014年01月18日 | 東京都
(心光寺)


心光寺

 綱淵謙錠の小説「斃」によれば、地下鉄白山駅のすぐ近く、心光寺に吉岡艮太夫の墓があるというので訪ねてみた。


吉岡先生之墓

 心光寺墓地を隈なく歩き回ったところ、吉岡家の墓を一つだけ発見した。これが吉岡艮太夫の墓という確信は得られていないが、表面には「吉岡先生之墓」と流麗な文字で刻まれている。吉岡艮太夫は幕府海軍草創期に関わった人で、咸臨丸でアメリカに渡った。このとき「亜行日記」を残した。上野戦争には参加しなかったが、戦後、上野の敗残兵や旧幕臣などが彼の名を慕って集まり、反政府分子として追われる身となった。明治三年(1870)東光院に潜伏しているところを捕えられ、処刑された。最初東光院に葬られたが、のちに吉岡家菩提寺である心光寺に改葬されたという。


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泉岳寺 Ⅲ

2014年01月18日 | 東京都
(旧高松宮家)


旧細川家のしいの木

 旧高松宮家から高松中学辺りは、かつて肥後細川家の下屋敷があった。高さ十メートルを越える大きなシイの木も細川邸にあったものである。


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御茶ノ水 Ⅵ

2014年01月18日 | 東京都
淡路公園)


開成学園発祥の地

 JR御茶ノ水駅から南東に数分歩いた淡路公園の植え込みの中に開成学園発祥の地碑がある。明治四年(1871)、佐野鼎がこの地に共立学校を開いたのが現在の開成中学・高校の前身で、関東大震災で当地の校舎が全焼したため、大正十三年(1924)に西日暮里に移転した。
 実はこのたびカメラを新調した。これまで使っていたデジカメは購入してまる七年が経過しており、ときどきピントが合わなかったり、思うような写真が撮れないことが多くなったので、思い切って購入することにした。七年間の技術の進歩は目覚ましく、今は写真を撮りたくてうずうずしております。


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銀座 Ⅱ

2014年01月18日 | 東京都
(銀座東七丁目)
 銀座東七丁目交差点にはX字状の陸橋が架けられている。四つの橋脚のたもとには、それぞれ付近で発掘された手水鉢(龍野藩脇坂家)や礎石(仙台藩上屋敷)などが展示されている。


間知石と切り石

 どの屋敷で使われていたものかは分からないが、汐留付近の大名屋敷で使われていた間知石と切り石である。いずれも石組溝(排水施設)に使われていたもの。



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市ヶ谷

2014年01月18日 | 東京都
(防衛省)
 JR防衛省の北側に防衛省の広大な敷地が広がる。尾張藩の上屋敷の跡地である。ほとんど遺構らしきものは見当たらないが、辛うじて裏門(左内門)の前に藩邸で使われていたらしい石垣が残されている。


尾張藩邸跡


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神楽坂

2014年01月18日 | 東京都
(矢来公園)
 神楽坂駅から南に広がる矢来町一帯には、かつて小浜藩邸があった。町内に藩邸跡の遺構が点在している。


小浜藩邸跡


矢来公園

 若狭国小浜藩の酒井忠勝が時の将軍徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、周囲に竹矢来を巡らせたため、矢来町の名がつけられた。蘭学者杉田玄白もこの屋敷内で生まれた。矢来公園には大きな木があって、その根本の周りを囲む巨岩も藩邸で使われていたもののようである。

(秋葉神社)


秋葉神社

 秋葉神社も、酒井家小浜藩下屋敷の内社である。

(矢来町ハイツ)


酒井藩邸記念碑

 矢来ハイツというマンションの入り口脇、通りに面したところに酒井藩牛込屋敷のあったことを示す記念碑が建てられている。戦前までこの地には、酒井家の邸宅があり、藩祖酒井忠勝以下、酒井家の墓地もあった(現在、小浜に改葬)。マンションの南側には、藩邸の名残と思われる石垣も見ることができる。


矢来ハイツ南側の石垣


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