本書は大河ドラマに便乗したものではなく、今から二十年以上も前の平成十年(1998)に上梓され、今なお版を重ねている新書である。篤二(とくじ)や敬三、あるいはその周辺の人物はよく調べられており、しかも非常に面白い。
渋沢栄一の伝記は、本人が残した「雨夜譚」(あまよがたり)を初めとして数種類のものが入手可能だが、栄一の子篤二、孫の敬三に至る三代を刻銘に描いた書籍は本書のほかに見当たらない。
渋沢栄一といえば、「論語と算盤」あるいは「道徳と経済の一致」「合本主義」を唱え、それを実践した人物である。我が国における近代資本主義の父とも称される巨人である。
その偉大な父を持つ篤二については、実は栄一の伝記にもほとんど登場することがない。それもそのはずで、放蕩の末、廃嫡されるという不肖の息子だったのである。篤二の存在は、言わば栄光に彩られた渋沢家の暗部であり、タブーであった。
篤二が廃嫡された引き金は、明治四十四年(1911)にアカ新聞に報じられた新橋の芸者玉蝶とのスキャンダルであった。アカ新聞というのは、興味本位のゴシップや暴露記事を扱う低俗な大衆紙をいう。栄一は激怒し、周囲のとりなしにかかわらず、篤二を廃嫡した。しかし、女性問題に関して、栄一はかなり奔放であった。
大蔵省時代には妾大内くにを家族と同じ屋根の下に生活させていた。正妻千代らと一緒に撮った写真も残っている。栄一は大内くにとの間に二人の娘をなしており、そのうちの一人てるは、大川平三郎に嫁いでいる。
栄一は外にも妾を囲っていたらしく、子供の数は二十人近くになるともいわれるが、もはや正確なところは分からない。
明治十五年(1882)、千代を病気で失うと、翌年には豪商伊藤八兵衛の娘兼子と結婚し、三人の子供を成している。現代の道徳観念ではあまり感心したものではないが、当時の政治家、実業家が妾を持つこと自体はそれほど珍しいことでもない。
その栄一が篤二のスキャンダルを許さなかったのは、相手が花柳界の女性だったというだけではないだろう。篤二が家庭を顧みず玉蝶に入れ込んだこと、その結果、本業である会社経営(当時、篤二は渋沢倉庫の初代支配人であった)が疎かになってしまったようなことがあったのかもしれない。
筆者は「巨人栄一の重圧から逃れるため放蕩に走った悲劇の人物」と評している。しかし、見方を変えれば義太夫、常盤津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画。ハンティング、犬の飼育など多岐にわたる趣味に没入し、いずれも玄人はだしの腕前だった。好きな女性と暮らすことを選び、趣味の世界に耽溺した篤二の人生は案外幸せだったのではないか。世の中、趣味を持つ人は多いが、趣味三昧で生きていける人は少数である。
筆者は執拗に調査して、玉蝶の本名(岩本イト)を突き止め、篤二の死後の玉蝶のその後を追っている。岩本イトは転居を繰り返し、故郷広島に戻って原爆に遭い、再び東京に戻って死を迎えたという。
イトは死の間際まで篤二が大事にしていた打ち出の小槌型をした金の根付けを持っていた。その根付けをのぞくと、小さなレンズ越しに幼い篤二と母千代、姉歌子の三人が写った写真が入っていた。九歳のときに母を亡くしたことが篤二の人生に微妙に影を落としていたのかもしれない。
筆者によれば、栄一の父市郎右衛門も義太夫を愛し、書や俳諧をたしなむ風流人だったというし、栄一自身も風流を解する人であった。何より自分の娘に歌子、琴子と名付けるくらいであるから歌舞音曲に愛着があったと思われる。千代の実家である尾高家に目を転じれば、尾高久忠(指揮者)、尾高惇忠(作曲家)、尾高忠明(指揮者)という我が国を代表する音楽家を輩出している。間違いなく渋沢家には遊芸を愛する血が流れていた。
因みに今年の二月に亡くなった尾高惇忠の作品は、あまり演奏されることはないが、先日NHK交響楽団が珍しく演奏会で取り上げた。決して難解なものではなく、言ってみれば映画音楽のような音楽であった。
生物学に興味のあった篤二の長男敬三は農学部に進もうとしたが、栄一に懇願されて英法科に変更した。卒業後は栄一の期待とおり銀行家の道を歩んだ。
一方で敬三が情熱を燃やしたのが民俗学であった。自宅の屋根裏に私設博物館「アチック・ミュージアム」を開いた(国立民俗博物館の収蔵品の母体)。療養のため訪れた静岡県内浦で四百年におよぶ住民の記録を発見し、それを自宅に持ち帰って七年の歳月をかけて筆写し「豆州内浦漁民史料」として刊行した。学者の道を進んでもこの人は一流を究めたであろう。
生物学や民俗学を義太夫や音楽と同列に遊興遊芸と呼ぶのは無理があるかもしれないが、いずれにせよ敬三にとって実業界より学究の道が本望であった。
しかし、渋沢の嫡流という逆らえない宿命、そして巨人渋沢栄一の期待を背負った敬三はひたすら実業家の道を務め、日銀総裁、大蔵大臣まで昇りつめた。戦後の財閥解体を受けて渋沢同族株式会社は解散し、三田に保有していた渋沢家の屋敷も没収された。岩崎弥太郎の孫である妻の木内登喜子は、渋澤家が没落すると別居。別居生活は敬三の死まで続いた。
筆者は「悲劇的な境遇」と表現している。確かに本人の思い描いた人生とは違ったかもしれないが、それでも日銀総裁や大蔵大臣まで究めたということは実業界でも十分に通用する能力をもった人だったのであろう。
失敗の連続であっても振り返れば一筋の光明がある人生もあれば、端からみれば羨むような成功者であっても当人にしてみれば悔いの残る人生かもしれない。敬三の人生もひと言で「悲劇的」と総括できるようなものでもない。
個人的見解であるが、人間が人間たる所以は、遊興や遊芸、あるいは音楽やスポーツ、生物学や民俗学などのように、一見すると直接人間が食っていくために無駄に思えることに時間を費やし、情熱を燃やすことができることにあると思っている。もし、人間が食って寝るだけの生き物に堕してしまったら、動物と大差ないではないか。人類の文化的活動はさほど重要なものだと考えている。
さて、今年の大河ドラマでは渋沢栄一が主役である。農民から身をおこし、一橋家の家臣となり、パリ万博に参加して西欧文明に接し、維新後は大蔵官僚として腕を振い、官僚辞任後は実業家として活躍し、我が国資本主義の父とまで称される偉人となった。坂本龍馬や西郷隆盛と比べれば、比較的知名度が低いためか、荒唐無稽な設定は少ない。渋沢栄一の自伝である「雨夜譚」などに忠実に描かれているので、個人的には落ち着いて視ることができている。長七郎の説得により高崎城乗っ取りを諦めたことやその後長七郎が長々と泣き続けたこと、長七郎が精神を病んで人を斬ったことなどは、「雨夜譚」のとおり。栄一が折田要蔵の塾に潜入し、「さまでの兵学者でもない。さまで非凡の人才と思われぬ。外面の形容ほどには実力のない人」と報じたのも事実であるし、平岡円四郎が襲撃された際に、川村恵十郎が顔面を斬られたのも史実のとおりである。
もちろん大河ドラマは偉人の成功譚として描かれ、その裏にあった篤二や敬三の「悲劇」まで語られることはないのかもしれない。でも少しでもそこに触れてもらうと、栄一伝もかなり立体的になるだろう。期待して視ることにしたい。