史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「渋沢三代」 佐野眞一著 文春新書

2021年06月26日 | 書評

本書は大河ドラマに便乗したものではなく、今から二十年以上も前の平成十年(1998)に上梓され、今なお版を重ねている新書である。篤二(とくじ)や敬三、あるいはその周辺の人物はよく調べられており、しかも非常に面白い。

渋沢栄一の伝記は、本人が残した「雨夜譚」(あまよがたり)を初めとして数種類のものが入手可能だが、栄一の子篤二、孫の敬三に至る三代を刻銘に描いた書籍は本書のほかに見当たらない。

渋沢栄一といえば、「論語と算盤」あるいは「道徳と経済の一致」「合本主義」を唱え、それを実践した人物である。我が国における近代資本主義の父とも称される巨人である。

その偉大な父を持つ篤二については、実は栄一の伝記にもほとんど登場することがない。それもそのはずで、放蕩の末、廃嫡されるという不肖の息子だったのである。篤二の存在は、言わば栄光に彩られた渋沢家の暗部であり、タブーであった。

篤二が廃嫡された引き金は、明治四十四年(1911)にアカ新聞に報じられた新橋の芸者玉蝶とのスキャンダルであった。アカ新聞というのは、興味本位のゴシップや暴露記事を扱う低俗な大衆紙をいう。栄一は激怒し、周囲のとりなしにかかわらず、篤二を廃嫡した。しかし、女性問題に関して、栄一はかなり奔放であった。

大蔵省時代には妾大内くにを家族と同じ屋根の下に生活させていた。正妻千代らと一緒に撮った写真も残っている。栄一は大内くにとの間に二人の娘をなしており、そのうちの一人てるは、大川平三郎に嫁いでいる。

栄一は外にも妾を囲っていたらしく、子供の数は二十人近くになるともいわれるが、もはや正確なところは分からない。

明治十五年(1882)、千代を病気で失うと、翌年には豪商伊藤八兵衛の娘兼子と結婚し、三人の子供を成している。現代の道徳観念ではあまり感心したものではないが、当時の政治家、実業家が妾を持つこと自体はそれほど珍しいことでもない。

その栄一が篤二のスキャンダルを許さなかったのは、相手が花柳界の女性だったというだけではないだろう。篤二が家庭を顧みず玉蝶に入れ込んだこと、その結果、本業である会社経営(当時、篤二は渋沢倉庫の初代支配人であった)が疎かになってしまったようなことがあったのかもしれない。

筆者は「巨人栄一の重圧から逃れるため放蕩に走った悲劇の人物」と評している。しかし、見方を変えれば義太夫、常盤津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画。ハンティング、犬の飼育など多岐にわたる趣味に没入し、いずれも玄人はだしの腕前だった。好きな女性と暮らすことを選び、趣味の世界に耽溺した篤二の人生は案外幸せだったのではないか。世の中、趣味を持つ人は多いが、趣味三昧で生きていける人は少数である。

筆者は執拗に調査して、玉蝶の本名(岩本イト)を突き止め、篤二の死後の玉蝶のその後を追っている。岩本イトは転居を繰り返し、故郷広島に戻って原爆に遭い、再び東京に戻って死を迎えたという。

イトは死の間際まで篤二が大事にしていた打ち出の小槌型をした金の根付けを持っていた。その根付けをのぞくと、小さなレンズ越しに幼い篤二と母千代、姉歌子の三人が写った写真が入っていた。九歳のときに母を亡くしたことが篤二の人生に微妙に影を落としていたのかもしれない。

筆者によれば、栄一の父市郎右衛門も義太夫を愛し、書や俳諧をたしなむ風流人だったというし、栄一自身も風流を解する人であった。何より自分の娘に歌子、琴子と名付けるくらいであるから歌舞音曲に愛着があったと思われる。千代の実家である尾高家に目を転じれば、尾高久忠(指揮者)、尾高惇忠(作曲家)、尾高忠明(指揮者)という我が国を代表する音楽家を輩出している。間違いなく渋沢家には遊芸を愛する血が流れていた。

因みに今年の二月に亡くなった尾高惇忠の作品は、あまり演奏されることはないが、先日NHK交響楽団が珍しく演奏会で取り上げた。決して難解なものではなく、言ってみれば映画音楽のような音楽であった。

生物学に興味のあった篤二の長男敬三は農学部に進もうとしたが、栄一に懇願されて英法科に変更した。卒業後は栄一の期待とおり銀行家の道を歩んだ。

一方で敬三が情熱を燃やしたのが民俗学であった。自宅の屋根裏に私設博物館「アチック・ミュージアム」を開いた(国立民俗博物館の収蔵品の母体)。療養のため訪れた静岡県内浦で四百年におよぶ住民の記録を発見し、それを自宅に持ち帰って七年の歳月をかけて筆写し「豆州内浦漁民史料」として刊行した。学者の道を進んでもこの人は一流を究めたであろう。

生物学や民俗学を義太夫や音楽と同列に遊興遊芸と呼ぶのは無理があるかもしれないが、いずれにせよ敬三にとって実業界より学究の道が本望であった。

しかし、渋沢の嫡流という逆らえない宿命、そして巨人渋沢栄一の期待を背負った敬三はひたすら実業家の道を務め、日銀総裁、大蔵大臣まで昇りつめた。戦後の財閥解体を受けて渋沢同族株式会社は解散し、三田に保有していた渋沢家の屋敷も没収された。岩崎弥太郎の孫である妻の木内登喜子は、渋澤家が没落すると別居。別居生活は敬三の死まで続いた。

筆者は「悲劇的な境遇」と表現している。確かに本人の思い描いた人生とは違ったかもしれないが、それでも日銀総裁や大蔵大臣まで究めたということは実業界でも十分に通用する能力をもった人だったのであろう。

失敗の連続であっても振り返れば一筋の光明がある人生もあれば、端からみれば羨むような成功者であっても当人にしてみれば悔いの残る人生かもしれない。敬三の人生もひと言で「悲劇的」と総括できるようなものでもない。

個人的見解であるが、人間が人間たる所以は、遊興や遊芸、あるいは音楽やスポーツ、生物学や民俗学などのように、一見すると直接人間が食っていくために無駄に思えることに時間を費やし、情熱を燃やすことができることにあると思っている。もし、人間が食って寝るだけの生き物に堕してしまったら、動物と大差ないではないか。人類の文化的活動はさほど重要なものだと考えている。

さて、今年の大河ドラマでは渋沢栄一が主役である。農民から身をおこし、一橋家の家臣となり、パリ万博に参加して西欧文明に接し、維新後は大蔵官僚として腕を振い、官僚辞任後は実業家として活躍し、我が国資本主義の父とまで称される偉人となった。坂本龍馬や西郷隆盛と比べれば、比較的知名度が低いためか、荒唐無稽な設定は少ない。渋沢栄一の自伝である「雨夜譚」などに忠実に描かれているので、個人的には落ち着いて視ることができている。長七郎の説得により高崎城乗っ取りを諦めたことやその後長七郎が長々と泣き続けたこと、長七郎が精神を病んで人を斬ったことなどは、「雨夜譚」のとおり。栄一が折田要蔵の塾に潜入し、「さまでの兵学者でもない。さまで非凡の人才と思われぬ。外面の形容ほどには実力のない人」と報じたのも事実であるし、平岡円四郎が襲撃された際に、川村恵十郎が顔面を斬られたのも史実のとおりである。

もちろん大河ドラマは偉人の成功譚として描かれ、その裏にあった篤二や敬三の「悲劇」まで語られることはないのかもしれない。でも少しでもそこに触れてもらうと、栄一伝もかなり立体的になるだろう。期待して視ることにしたい。

 

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山梨 Ⅱ

2021年06月19日 | 山梨県

(歌田)

 山梨市歌田の日川(ひかわ)駐在所の隣に明治天皇日川御小休所阯碑がある。さらにその裏手には大きな駐輦碑がある。

 

明治天皇日川御小休所阯

 

駐輦碑

 

 駐輦碑は昭和四年(1929)の建立。題額は貴族院議長徳川家達。

 

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韮崎 Ⅱ

2021年06月19日 | 山梨県

(韮崎小学校)

 明治十三年(1880)六月二十二日、明治天皇は巡幸西上の際、韮崎を通過し、この地(当時は韮崎学校)で昼餐をとった。そのことを記念して校庭の片隅に記念碑が建立されている。

 この日は週末ということもあって、学校の正門は施錠されて余所者の進入を拒否していた。すぐ目の前に石碑はあるのだが、どう頑張っても表面を見ることはできない。残念ながら裏面の写真を撮影して撤収することになった。

 

韮崎小学校

 

明治天皇御昼餐所址

 

(円井)

 

内藤家

 

 円井(まるい)は、甲州街道中にあった街で、駿州街道との分岐点にあり賑わったが、宿場は置かれていなかった。

 明治十三年(1880)六月二十二日、韮崎学校で昼食をとった明治天皇は、甲州街道を進み円井の内藤家で休息をとった。

 内藤家は今もなまこ塀と大きな長屋門を持つ家である。

 

明治天皇御座所之跡

 

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北杜 Ⅲ

2021年06月19日 | 山梨県

(台ケ原)

 

甲州街道台ケ原宿

 

 台ケ原宿は、甲州街道の設定以前から交通集落として機能を果たしていたといわれる。元和四年(1618)に甲州街道に宿請が申しわたされ、台ケ原宿も宿場として整備・拡充されていった。甲州街道中四十番目の宿場である。

 

 

「七賢」 山梨銘醸

 

 台ケ原は今も宿場町の風情を伝えているが、その中心にあるのが、山梨銘醸とその向かいの和菓子屋「金精軒」である。山梨銘醸では、南アルプス駒ケ岳の伏流水を醸して「七賢」という銘酒を醸造している。一方、金精軒は信玄餅を製造・販売している老舗である。

 

 山梨銘醸に隣接するふれあい休息所辺りが高札場跡や郷倉跡と推定されている。さらにその向かい側、金精軒のある辺りに問屋場があったとされている。

 

金精軒

 

秋葉大権現常夜石燈籠

 

台ケ原宿本陣屋敷跡

 

 秋葉大権現常夜石燈籠のある屋敷が本陣跡である。台ケ原宿が火災や水害に見舞われたことに起因して、慶応三年(1867)、秋葉講が生まれた。秋葉講では、防火防災を祈願して秋葉大権現の石燈籠を旧本陣跡(小松家)に寄進建立した。

 

明治天皇菅原行在所

 

 山梨銘醸の前に明治天皇菅原行在所の石碑が建てられている。明治十三年(1880)六月の巡幸の際に行在所となったことを記念したものである。

 山梨銘醸は、もともと信州高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家をして、大中屋という屋号で酒造りを始めたことが起源となっている。以来営業は大いに発展し、幕末には諏訪高島藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、台ケ原では脇本陣も兼ねていた。

 北原家住宅は、旧街道に面して建つ大規模な町屋建築である。建築年代は天保年間から嘉永にかけてと推定されている。

 

(下教来石)

 

明治天皇御田植通覧之址

 

 北杜市白州町下教来石(しもきょうらいし)は明治十三年(1880)の明治天皇の巡幸の際に休憩所となった場所である。明治天皇が田植えを天覧したという記念碑と湧水を飲んだという記念碑のほか、小休所の場所にも石碑があるはずだが、見落としてしまった。

 

御膳水跡

 

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富士見

2021年06月19日 | 長野県

(原ノ茶屋)

 天気予報では久しぶりに好天ということだったので、朝五時に八王子を出て、長野県富士見町から南下して山梨県下の明治天皇の聖蹟を訪ねることにした。基本的にこの日の明治天皇聖蹟碑は、いずれも明治十三年(1880)の巡幸に関係するものである。

 家を出るときは曇天であったが、予報とは裏腹にほどなく強い雨になった。勝沼辺りでようやく雨が止み、少し青空が見えるようになった。富士見町に着いて車を降りると今度は予想以上に空気が冷たくて、ティーシャツ一枚で出かけたことを後悔した。冷房が効きすぎて寒いオフィスのようであった。

中央高速道路を北上して山梨県を出て長野県に入る。県境を接しているのが富士見町である。JR中央線や中央高速と並行して、旧甲州街道が町を斜めに横断している。原ノ茶屋と呼ばれる集落に明治天皇の駐蹕碑と御膳水の碑がある。

 

明治天皇駐蹕之處

 

明治天皇御膳水

 

御膳水

 

 御膳水碑のそばでは、今も滔々と清水が流れている。

 

(平岡)

 

明治天皇平岡御野立所

 

 原ノ茶屋の駐蹕所から約六キロメートル南下した田圃の中に明治天皇が休息をとった野立所の跡がある。

 明治十三年(1880)六月、山梨、長野、三重、京都などの民情視察のため、明治天皇の巡幸が行われた。六月二十三日の朝、台ケ原(現・山梨県北杜市白州町)を出て、御前十時に蔦木本陣に到着。しばし休息をとった後、平岡の野立所に向かった。当日、沿道の家々では日の丸を掲げ、小学校児童をはじめ近郷近在の住民は沿道に連なって御巡幸を迎えた。

 御野立所の位置は、あらかじめ宮内省より街道筋の柳の大木のある草地を指定されていた。地元ではそこに白砂を盛って、菊花紋のついた紫の幔幕を張り巡らし、白木の机と椅子を備えて玉座とした。

 この日、天皇は金色燦然たる大元帥の礼服に身を包み、小さな箱を携えて玉座についた。ここまで二頭立ての馬車で来たが、行き先の瀬沢坂、芋ノ木坂が難路だったため、四人担ぎの板輿に乗り換えた。

 それから巡幸の行列は徒歩で次の休息地である原之茶屋に向かった。

 

鸞躅碑

 

 野立所の碑の横には鸞躅(らんたく)碑や二基の歌碑が建てられている。篆額は藤堂高猷。歌碑は草書でかかれている上に表面が損耗しており、何が書かれているか解読できない。

 

(蔦木宿)

 蔦木(つたき)宿は、江戸幕府の宿駅制度により慶長十六年(1611)頃、甲州街道の第四十三番目の宿駅として設置された。本陣は広大で、多くの座敷や板敷、土間のほか、堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間を備えていたといわれる。明治維新を迎えると、宿駅制度が廃止され、鉄道の敷設とともに次第にさびれていった。

 

甲州道中 蔦木宿本陣跡

 

明治大帝御駐輦跡

 

 現在、本陣跡には表門のみが残されている。この表門は元治元年(1864)の火災後に再建されたものとみられる。

 

蔦木本陣表門

 

与謝野晶子歌碑

 

 本陣の近くには御膳水があり、与謝野晶子の歌碑が添えられている。

 

 白じらと並木のもとの石の樋が

 秋の水吐く蔦木宿かな

 

御膳水

 

 

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田端 Ⅱ

2021年06月19日 | 東京都

(大龍寺)

 

大龍寺

 

 田端の大龍寺は、俳人正岡子規や陶芸家板谷波山らの墓があることで知られる。私の目当ては、大川平三郎の墓である(北区田端4‐18‐4)。

 

子規居士之墓(正岡子規の墓)

 

 正岡子規は、伊予松山の出身。母方の叔父加藤拓川を頼って上京し、東京帝国大学国文科に学んだ。在学中に喀血し、自身の病に因んで「子規」と号した。明治二十五年(1892)に大学を中退し、新聞「日本」に入社して記者として活躍した。紙上に「俳諧大要」を連載して、俳句の文学性を強く主張するとともに、旧来の月並み俳諧のありようを厳しく批判した。明治二十九年(1896)頃よりカリエスを併発して歩行困難に陥ったが、俳句に続いて短歌革新にも着手し、明治三十一年(1898)には御歌所派を標的に「歌よみに与ふる書」を連載し、合わせて自作「百中十首」も発表。「墨汁一滴」や「病牀六尺」などの随筆に加え、雑誌「ホトトギス」を舞台にした写生文運動など精力的に筆をふるったが、明治三十五年(1902)没した。傍らには母八重の墓がある。

 

正岡八重墓

 

天龍院殿康德櫻塘大居士墓(大川平三郎の墓)

 

 大川平三郎は武蔵國川越藩士の子に生まれ、明治八年(1875)から抄紙会社(のちの王子製紙)で外国人技師の助手を務め、やがてアメリカに赴き技術を独学し、専務取締役まで累進した。明治三十一年(1898)、経営層の内紛を受けて退社。その後、独立の起業家として九州製紙、樺太工業会社などを設立、富士製紙の社長にも就任した。自他ともに認める国内最有力の製紙起業家となったが、昭和八年(1933)、樺太工業と富士製紙を敵視した王子製紙に合併され、「製紙王」としての夢を絶たれた。夫人は渋沢栄一の四女照子である。昭和十年(1935)没。

 

慈雲院殿義山壽榮大居士(田中栄八郎の墓)

 

 大川家の墓地を上がったところに、大川平三郎の実弟田中栄八郎の墓がある。栄八郎も実業家として平三郎を支えた。

 

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鎌倉 Ⅳ

2021年06月12日 | 神奈川県

(鎌倉大仏殿高徳院)

 

鎌倉大仏

 

 実はこれまで江ノ島にも行ったことがなければ、江ノ電に乗ったこともないし、鎌倉大仏も見たことがなかった。奈良の大仏はもちろん、東京大仏、鎌ヶ谷大仏、岐阜大仏などは訪問済みなのだが、どういうわけだか鎌倉大仏だけは縁がなかった。

 幕末維新とはあまり関係はないが、せっかくなので江ノ島から江ノ電に乗って、長谷駅で下車して鎌倉大仏を見学してきた。拝観料は三百円である。普段はお金を払えば大仏の中まで入ることができるのだが、現在はコロナ感染症予防対策で禁止されている。

 

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江ノ島

2021年06月12日 | 神奈川県

(江島神社)

 

江ノ島

 

 江ノ島は藤沢市南部の相模湾岸の境川河口にある島である。境川の運ぶ土砂によってできた片瀬海岸との陸繋島で、島の形が「江」の字に似ていることから江ノ島と呼ばれるようになった。関東ローム層に覆われ、南岸には関東大震災の際に隆起した海食台がある。江島神社は、琵琶湖の竹生島、安芸の宮島とともに日本三弁天の一つに数えられる。江戸時代に庶民の参詣が盛んになり、参道に門前町が発達した。明治十年(1877)、E・モースが臨海実験場、明治十六年(1883)にはサムエル・コッキングが植物園を開いた。

 

エドワード・S・モース記念碑

日本近代動物学発祥の地

 

 江の島大橋を渡り切った左手の公園の片隅にモース記念碑が建てられている。

 さらにお土産屋の並ぶ参道を進むと、江島神社の赤い鳥居と瑞心門が見えてくる。

 

江島神社大鳥居

 

江島神社(辺津宮)

 

 江島神社は辺津宮、中津宮、奥津宮の三社から成る神社である。

 

(龍野ヶ岡自然の森)

 

西湖曾根君碑

 

 奥津宮の近くに「龍恋の鐘」という「恋人たちの聖地」がある。そこから歩いて直ぐのところに曾根荒助(あらすけ)の顕彰碑が建てられている。明治四十四年(1911)建碑。篆額は同郷の桂太郎、三島毅撰文、高島九峰書。

 曾根荒助は嘉永二年(1849)の生まれ。養父は萩藩士宍戸氏。戊辰戦争に従軍。フランス留学後、陸軍省に出仕。のち内閣官報局長、法制局書記官等を経て明治二十三年(1890)、初代衆議院書記官長となった。明治二十五年(1892)、第二回総選挙に当選し、衆議院副議長をつとめる。明治二十六年(1893)、駐仏公使に転じ、条約改正の折衝にあたった。第三次伊藤内閣では司法相、第二次山県内閣で農商務相、第一次桂内閣蔵相等を歴任。日露戦争に際して戦費の調達に尽力。明治三十三年(1900)から貴族院勅選議員。枢密顧問官。韓国副統監を経て明治四十二年(1909)、伊藤博文暗殺直後、第二代韓国統監となった。明治四十三年(1910)、六十二歳にて没。

 

(児玉神社)

 

児玉神社

 

 江島神社の大鳥居のそばにある児玉神社は、児玉源太郎を祀る神社である。境内に後藤新平の詩碑、山県有朋の歌碑などがある。今回の江ノ島訪問の目玉であった。ところが、行ってみると施錠されて閉鎖されており、境内に入ることはできなかった。山県有朋の歌碑にもご丁寧にもブルーシートがかけられ見ることができなかった。

 帰宅して調べたところ、児玉神社は資金難に陥っており、現在競売にかけられているのだという。残念であるが、帰趨を見守るしかない。

 

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坂戸 Ⅱ

2021年06月12日 | 埼玉県

(横沼)

 坂戸市の横沼は、大川平三郎の生誕地である。平三郎の生誕地である大川道場跡は、平成十九年(2007)、大川平三郎翁記念公園として整備されている。

 

大川平三郎翁生誕の地

 

(大川平三郎翁記念公園)

 大川平三郎翁記念公園(坂戸市横沼333‐1)は、神道無念流の剣術家大川平兵衛英勝の道場のあった場所である。平兵衛は享和元年(1801)熊谷市上之(かみの)の渡辺家に生まれ、幼い頃に小鮒家の養子となって、栄治郎と称した。その頃、県北地方では、神道無念流が栄えており、熊谷付近の箱田村に道場を構えていた秋山要助の弟子となり、厳しい稽古に耐えて、文政五年(1822)、二十歳のときに免許皆伝を得ている。二十二歳の時、横沼村の大川与佐衛門の婿養子となって、名を平兵衛と改め、邸内に道場を設けて多くの門弟を育てた。文久二年(1862)には川越藩主松平大和守直克に登用され、剣術師範となった。後に藩主の前橋移封に伴い、平兵衛親子も移り住むことになったが、藩の飛び地であった松山(現・東松山市)の陣屋で剣術を指導しているところで幕末を迎えた。

 

大川平三郎翁記念公園

 

 公園内には、大川平三郎の頌徳碑が移設されている。この頌徳碑は、昭和九年(1934)九月、旧樺太の恵須取町民によって旧恵須取神社の境内に建立されたものである。昭和六十二年(1987)、旧恵須取町を訪問した墓参団の方からこの石碑の存在が知らされ、関係者の尽力により平成四年(1992)一月、ウゴレゴルスク市から坂戸市に贈られ、当時は坂戸市役所の庭園内に移設されていた。平成十九年(2007)に道場跡が公園として整備されたことを機に再移設されたものである。

 

大川平三郎翁頌徳碑

 

(大川家墓所)

 大川平三郎翁記念公園に隣接した場所に大川家墓所がある。大川平兵衛夫妻のほか、平兵衛の長男栄助夫妻、平兵衛の長女花井の墓などがある。

 

大川家墓所

(中央は平兵衛の長男栄助の墓)

 

大川先生墓志

 

 大川平兵衛は明治四年(1871)九月に七十歳で没した。平兵衛を慕う門人五百六十九人により墓地に顕彰碑が建立された。篆額は前福井藩主松平春嶽、撰文は尾高惇忠。

 

 なお、大川平兵衛の二男修三は、渋沢栄一の従兄弟である尾高惇忠(藍香)の妹みちを娶っている。平三郎は渋沢栄一の四女照子を妻に迎えており、渋沢家・尾高家とは固い血縁関係で結ばれていた。

 

(勝光寺)

 勝光寺は、大川家代々の菩提寺である(坂戸市横沼361)。山門前に大川平三郎の胸像と頌徳碑が置かれている。

 

勝光寺

 

大川平三郎翁像

 

 大川平三郎は幼い頃から剣術修行に励み、学問にも熱心に取り組んだ。明治五年(1872)、十三歳の時、叔父にあたる渋沢栄一を頼って上京し、明治八年(1875)には十六歳で抄紙会社(現・王子製紙)に入社した。毎日、早朝より出社して機械操作を研究し、十八歳で日本人初の製紙技師となった。大学南校に学び、畑地で米国に留学し、さらにヨーロッパにて製紙技術を高めた。以後、独自の創意工夫を重ね、製紙技術の向上に貢献するとともに、多くの会社経営に携わり、「日本の製紙王」とも称された。貴族院議員に勅選。昭和十一年(1936)、七十七歳にて没した。

 

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東海 Ⅲ

2021年06月05日 | 茨城県

(泉福寺墓地)

 再度、東海村の黒澤家墓地を訪問した。

 

黒澤亀太郎君墓

 

 墓誌には名前が見えないが、向かって左奥の古い墓石「黒澤亀太郎君墓」は、覚蔵の長男亀太郎のもの。天狗党の争乱において、元治元年(1864)九月九日、久慈郡島村にて戦死。

 

故 利兵衛黒澤君墓

 

 黒澤利兵衛は、郷士黒澤七之助利貞の祖父。慶應元年(1865)七月五日、下総銚子にて獄死。六十歳。「幕末維新全殉難者名鑑」では理兵衛と表記されている。

 

先祖累代之墓(黒澤彦七の墓)

 

 傍らの墓誌裏面に黒澤彦七の事歴が記されている。彦七は準合資善兵衛邦好の二男。慶應元年(1865)十一月一日、下総町銚子にて獄死。二十四歳。

 

黒澤家累代之墓(黒澤伊予蔵の墓)

 

 黒澤伊予蔵は、慶応二年(1866)六月二十日、江戸佃島にて獄死。二十四歳。墓誌では二十五歳となっている。

 

林介黒澤君墓

 

 黒澤林介は元治元年(1864)八月二十三日、石神外宿村にて民兵と戦い死亡。四十八歳。

 

故 助七黒澤利貞君墓

 

 黒澤助七は郷士利兵衛利義の長男。明治元年(1868)十月一日、水戸弘道館門外にて戦死。三十五歳。

 

 黒澤家だけでこれだけの殉難者の墓に出会うことができた。さすがに石神勤王村と呼ばれるだけのことはある。茨城県下でももっと子細に調査すれば、もっと殉難者の墓に出会うことができるのかもしれない、と予感させてくれるものがあった。

 

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