土佐出身の歴史家平尾道雄氏の著作である。「陸援隊始末記」「海援隊始末記」ともに戦前に一旦完成し、その後幾度かの改訂を経て、昭和五十二年(1977)に刊行されたものが文庫化された。
中岡慎太郎の精力的活動には驚かされる。たとえば慶応元年(1865)の動きは以下のとおりである。
1月24日 五卿に従って大宰府へ
2月 5日 下関を出発して、同月京都へ
3月23日 離京。再び大宰府へ
4月27日 大宰府を出て、京都へ
5月24日 離京。閏5月6日鹿児島に至る。
閏5月16日 鹿児島を出発。同月下関着
閏5月29日 龍馬とともに下関を出て京へ
7月19日 離京
8月 再度上京
9月3日 下関帰着
10月16日 大宰府へ戻る
10月25日 福岡に出張
と、まるで席があたたまる暇がない。この年、中岡は「時勢論」を著すなど、もっとも気力、体力とも充実した年だった。中岡の活動を支えたのは、実家が庄屋を務めており、比較的裕福だったことも大きい。龍馬の家も商家であり、二人とも経済的には恵まれていたのである。
中岡慎太郎の「剛」に対し、坂本龍馬の「柔」と対比される。この両者が、ときには手を取り合って、時には異なる道を進みながら、維新を推進したことは歴史の妙というほかはない。
中岡慎太郎伝であれば、近江屋において両雄が凶刃に倒れるところで幕を閉じることになるが、この本は「陸援隊始末記」である。陸援隊のその後まで筆が及んでいる。頭梁を失った陸援隊は、田中顕助に率いられて高野山に挙兵する。挙兵といっても、紀伊見峠で大阪からの敗兵と小競り合いがあった程度で、大きな戦闘もなく上京を果たしている。田中顕助は、高野山挙兵により「紀州牽制という第一目的は完全に達することができた」「紀州をして指一本すらも動かすことを得せしめなかったのは、全く高野山義軍の功績」(田中光顕著「維新風雲回顧録」)と戦術的意義を強調しているが、それほどの意味があったのだろうか。いずれにせよ、あまり世間に知られていない高野山挙兵の経緯が詳述されており、それだけでもこの本は一読の価値がある。
「海援隊始末記」の方も龍馬の死後、海援隊の解散までを紹介している。その間、事実上、隊の保護指導にあたったのは、土佐藩大監察佐々木三四郎であった。佐々木は長崎奉行所に乗り込んで談判し、平和裡に長崎の民政を引き継いだ。このとき多くの海援隊士らも大いに活躍している。あまり知られていない史実であるが、このどさくさに花山院家理を担ぎ出した浪士団が天草島に侵入するという事件が発生した。彼らは暴慢なふるまいが多く、倒幕派も手を焼いたが、海援隊士、薩摩藩士、大村藩士らが出張して説諭した結果、呆気なく解散した。一方で海援隊の一部は、塩飽諸島や小豆島などの鎮撫にも出向いており、その結果、海援隊は、長崎と讃岐諸島に分裂する形となり、統制を失った。この状況を見た山内容堂は、慶応四年(1868)閏四月、海援隊の解散を決心した。海援隊出身者の多くは、明治新政府に仕えてそれぞれ功を成した。海援隊は人材供給の面でも大きな役割を果たしたのであった。
中岡慎太郎の精力的活動には驚かされる。たとえば慶応元年(1865)の動きは以下のとおりである。
1月24日 五卿に従って大宰府へ
2月 5日 下関を出発して、同月京都へ
3月23日 離京。再び大宰府へ
4月27日 大宰府を出て、京都へ
5月24日 離京。閏5月6日鹿児島に至る。
閏5月16日 鹿児島を出発。同月下関着
閏5月29日 龍馬とともに下関を出て京へ
7月19日 離京
8月 再度上京
9月3日 下関帰着
10月16日 大宰府へ戻る
10月25日 福岡に出張
と、まるで席があたたまる暇がない。この年、中岡は「時勢論」を著すなど、もっとも気力、体力とも充実した年だった。中岡の活動を支えたのは、実家が庄屋を務めており、比較的裕福だったことも大きい。龍馬の家も商家であり、二人とも経済的には恵まれていたのである。
中岡慎太郎の「剛」に対し、坂本龍馬の「柔」と対比される。この両者が、ときには手を取り合って、時には異なる道を進みながら、維新を推進したことは歴史の妙というほかはない。
中岡慎太郎伝であれば、近江屋において両雄が凶刃に倒れるところで幕を閉じることになるが、この本は「陸援隊始末記」である。陸援隊のその後まで筆が及んでいる。頭梁を失った陸援隊は、田中顕助に率いられて高野山に挙兵する。挙兵といっても、紀伊見峠で大阪からの敗兵と小競り合いがあった程度で、大きな戦闘もなく上京を果たしている。田中顕助は、高野山挙兵により「紀州牽制という第一目的は完全に達することができた」「紀州をして指一本すらも動かすことを得せしめなかったのは、全く高野山義軍の功績」(田中光顕著「維新風雲回顧録」)と戦術的意義を強調しているが、それほどの意味があったのだろうか。いずれにせよ、あまり世間に知られていない高野山挙兵の経緯が詳述されており、それだけでもこの本は一読の価値がある。
「海援隊始末記」の方も龍馬の死後、海援隊の解散までを紹介している。その間、事実上、隊の保護指導にあたったのは、土佐藩大監察佐々木三四郎であった。佐々木は長崎奉行所に乗り込んで談判し、平和裡に長崎の民政を引き継いだ。このとき多くの海援隊士らも大いに活躍している。あまり知られていない史実であるが、このどさくさに花山院家理を担ぎ出した浪士団が天草島に侵入するという事件が発生した。彼らは暴慢なふるまいが多く、倒幕派も手を焼いたが、海援隊士、薩摩藩士、大村藩士らが出張して説諭した結果、呆気なく解散した。一方で海援隊の一部は、塩飽諸島や小豆島などの鎮撫にも出向いており、その結果、海援隊は、長崎と讃岐諸島に分裂する形となり、統制を失った。この状況を見た山内容堂は、慶応四年(1868)閏四月、海援隊の解散を決心した。海援隊出身者の多くは、明治新政府に仕えてそれぞれ功を成した。海援隊は人材供給の面でも大きな役割を果たしたのであった。