今年のGWの前半は、父と奈良県十津川村方面の史跡を巡った。後半は鉄道マニアの息子(中学二年生)と茨城県大子町周辺を旅することになった。息子の目当ては、「水郡線に乗る」ことに尽きたが、こちらとしてはそれだけでは寂しいので、観光スポットである袋田の滝を見て、月居山(つきおりさん)を回るハイキングを計画した。月居山は、単なるハイキング・コースではなく、元治甲子の騒乱(いわゆる天狗党の乱)の戦場になった場所でもある。私としては有名な袋田の滝より、こちらの方が重要なスポットであった。
水郡線
水郡線は、その名のとおり水戸と郡山を結ぶローカル線である。連休中ということもあって、特別に快速列車が運行されていたが、それに乗っても水戸から袋田までの所要時間はほぼ一時間である。水戸を離れると、しばらくのどかな田園風景と渓谷が続く。
(袋田の滝)
袋田の滝
モデルは息子
袋田の駅を降りて、少し歩くと袋田の滝と大きな字が刻まれた碑に出会う。書は毎日新聞社社長本田親男(1899-1980)。
袋田の滝
袋田の滝を見るには、観瀑施設利用券(大人三百円、小人百五十円)を購入しなければならない。要するに有料である。滝を見るのに金が要るのか、と一瞬たじろぐがここまで来て引き返すわけにいかない。トンネルを進むと、やがて観瀑展望台に行き着く。間近に見る袋田の滝は、凄まじい迫力であった。
最近になってエレベータで上階に行って、少し高い場所から滝を見下ろすことができるようになった。我々がエレベータに乗ったときは五分程度の待ち時間であったが、降りてきたときには長い行列ができていた。
(月居山)
吊り橋を渡ったところに、月居山への登山口がある。渡って直ぐの登山口は、階段が設置されていて上りやすいような印象を受けるが、実は思いのほか急峻な坂となっている。散歩気分で階段を上り始めた方は、途中で泣きを見ることになるだろう。少し先の御茶屋さん脇の登山道の方が坂は緩やかだし、北面から迂回することになるので、日差しを避けることもできる。それでもかなりハードなハイキングになるので、それなりの準備は必要である。
月居山の標高は404メートルというから、決して高い山ではない。頂上に達するまで三十分くらいのものであるが、登り切るとそれなりの充実感がある。天気にも恵まれ、眺望も素晴らしい。
吊り橋
月居峠戦場跡
観音堂の下辺りに、元治甲子の乱でこの地が戦場となったことを示す説明が出ている。天狗党は総勢約一千。対して市川三左衛門率いる水戸藩諸生党は約二千。数に勝る諸生党が天狗党を撃破し、このあと天狗勢は水戸を追われ、西上の途につくことになる。
月居山観音堂
元治甲子の戦闘で光明寺観音堂は焼き払われた。観音堂の堂宇は昭和十七年(1942)に再建された。その後、傷みが激しくなり、平成十一年(1999)に改築されている。
石仏
観音堂の石仏・石塔は、助川海防城主の末裔山野辺義智が昭和十六年(1941)に寄進したものである。石仏群の前に、徳富蘇峰筆による供養塔が建てられている。
蘇峰 供養塔
斉昭歌碑
観音堂の脇の道を少し登った左手の草むらの中に徳川斉昭の歌碑が建てられている。この歌は、天保五年(1834)大子地方を巡村したときに、袋田の滝に立ち寄り、佐竹義宣とともに秋田に去った月居城主を偲んで詠んだものといわれる。
尋ねれば人は昔の名のみにて
雲井の月ぞすみ渡りける
月居山山頂からの眺望
下りは延々と階段が続く。途中から脚が痙攣しだした。その後、筋肉痛に数日悩まされることになった。
(思い出浪漫館)
袋田の滝とJR袋田駅の中間辺りに「思い出浪漫館」と名づけられた旅館がある。月居山ハイキングで汗をかいたので、ここで日帰り温泉に入ることにした。入浴料は大人千円とやや高いが、川縁の露天風呂が気持ちいい。
関鉄之助歌碑
思い出浪漫館の前に関鉄之助の歌碑、同駐車場には徳富蘇峰の歌碑が建てられている。
桜田門外の変の首謀者の一人、関鉄之助は事件後逃亡して、一時袋田に潜伏した。その後、関鉄之助は越後まで逃亡してそこで捕えられ、江戸小伝馬牢に護送されて文久二年(1862)斬首された。
河鹿鳴山川みすのうきふしに
あはれははるの夜半にもそしる
徳富蘇峰歌碑
蘇峰の漢詩である。蘇峰が昭和十四年(1939)、袋田の滝を訪れたときに詠んだものである。
山似画屏囲四方
水如翠帯一川長
更有温泉迸玉液
人間此処是仙郷
(大子小学校)
袋田から水郡線で一駅郡山方面に北上すると、大子駅である。駅の周りに小さな街が形成されている。
駅から歩いて五分くらい、十二所神社の階段を昇った右手に大子小学校がある。ここが郷校文武館の跡地である。

大子小学校
文武館跡のけやき群
大子小学校の校庭にあるけやきの大木は樹齢五百年といわれる。この場所は、古くは大子奉行所が置かれ、安政三年(1856)には大子郷校文武館が開設されるなど、公的機関の用地として使用されてきた。元治元年(1864)の天狗党の騒乱では、ここも戦場となって戦火に焼かれることになった。文武館は明治四年(1871)の廃藩置県とともに廃校となったが、ケヤキ群はその後も大切に維持され現在に至っている。
文武館文庫
郷校文武館に付属した文庫が現存している。この文庫には、約四千六百冊に和書漢籍が保管されていたというが、今となっては、当時の書籍は散逸して詳細は分からない。