史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

常陸大宮

2010年05月24日 | 茨城県
(野口小学校跡)


旧野口小学校

 野口小学校は一年前に閉校になったらしい。校舎はそのまま残されており、その前に閉校記念碑が建てられている。記念碑には野口小学校の校歌と沿革が記されている。沿革によれば、野口小学校が、旧郷校時擁館跡地である当地に移設されたのは、明治十年(1877)のことである。


時擁館跡

 時擁館は、水戸藩領内の各所に開設された郷校の一つで、嘉永三年に当地に開かれたものである。講師に加倉井砂山が招かれた。天狗党に参加した田中愿蔵もこの郷校に通った。その関係で一時田中隊はここに駐留した。また、桜田門外の変に参加した斉藤監物、鯉淵要人(二人とも神官)も時擁館に学んでいる。

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那珂

2010年05月24日 | 茨城県
(静神社)


静神社

 静神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに古くから東国の三鎮守と称された古い歴史を有する神社である。天保十二年(1841)の火災で全焼し、現在の社殿は徳川斉昭によって再建されたものである。


監物斉藤君墓

 桜田烈士の一人、斉藤監物の墓がここにあると聞いたので、静神社を訪ねた。静神社には迷わず行き着いたのだが、斉藤監物の墓の場所が分からない。境内で掃除をしていた男性に聞くと、
「静神社を出て、池の周りのサイクリング・ロードを数百メートル行ったところに在る」
という。言われたとおり、サイクリング・ロードの傍らに斉藤家の墓が在った。

 斉藤監物は、常陸静神社の神官。藤田東湖に師事し、剣術も能くした。安政五年(1858)の勅書降下問題では、高橋多一郎と計って部下の神官を上京させ、伊勢、京都、大阪を巡歴させた。万延元年(1860)の大老襲撃の打ち合わせを済ませると、同志海後磋磯之介、鯉淵要人と脱藩した。桜田門外の変では重傷を負って、脇坂邸に自訴して斬奸状を提出した。三月八日、傷のため吟味中に死去。年三十九。

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常陸太田

2010年05月24日 | 茨城県
(太田小学校)


太田小学校

 太田小学校は、かつての太田城(舞鶴城)の跡地である。構内には舞鶴城址の石碑やこの地に開かれた郷校益習館を表す石碑が建てられている。

舞鶴城址

 この地に天保八年(1837)郷校益習館が開かれた。構内には初代館守日下部連、その子の日下部伊三治の顕彰碑が建てられている。日下部伊三治は、父と同じく郷校の館守に就いた。その後、戊午の密勅降下に活躍したが、そのため捕らえられ安政の大獄の犠牲となった。


天興正義碑

(進徳幼稚園)


進徳幼稚園


佐藤進胸像

 佐藤進は、佐藤尚中の養嗣子となって順天堂を継いだ。若くしてドイツ・ベルリン大学に留学し、日本人として初めて医学博士号を取得した。西南戦争では軍医監として活躍した。日清・日露戦役では軍医総監に任じられた。佐藤進は常陸太田の出身で、明治四十四年(1911)郷里に多額の寄付をして進徳幼稚園を設立した。

(法然寺)


法然寺

 幕府の命により天狗党追討に参加した二本松藩が本陣とした法然寺である。

(浄光寺)


浄光寺

 同じく壬生藩が脇本陣を置いた浄光寺である。

(立川醤油店)


立川醤油店

 常陸太田の目抜き通りは、昔ながらの風情を残している。その中に一際歴史を感じさせる建物が立川醤油店である。店の方に伺ったところでは、店舗は築百五十年、奥の母屋の方は築二百年という。この街は火事がおおかったらしく店舗は百五十年前に一度全焼したそうである。
 店の方に天狗党による刀創を拝見したいとお願いすると、母屋に案内された。刀創は数箇所残されていて、傷痕を消すために削られているものもあったが、明確に刀創と分かるものも見られる。貴重な史跡である。


刀創

(久昌寺)


久昌寺

 久昌寺にも壬生藩が本陣を置いた。

(瑞竜山)


瑞竜山


史跡 水戸徳川家墓所

 瑞竜山は、水戸光圀が開いた水戸徳川家の墓所である。初代頼房以降、光圀、斉昭、慶篤ら、歴代水戸藩主のほか、光圀が招いた中国の儒者朱舜水の墓もある。
 また支藩である宍戸藩主で、水戸藩の騒乱を鎮定するために藩主慶篤の名代として水戸城に赴き、結局、騒乱を拡大してしまった責を負って自刃した松平頼徳の墓も瑞竜山にある。
 瑞竜山の水戸徳川家墓地は、現在非公開。硬く門扉は閉ざされており、残念ながら墓を見ることはできない。

(田中愿蔵生誕の地)


田中愿蔵生誕の地


田中愿蔵生誕の地

 悪名高き田中愿蔵の生誕地である。常陸太田の東連池町の集落の中にある。
 場所がよく分からなかったので、路傍に所在無げに立っていた男性に聞いてみたところ、「昔聞いたことはあるけど、よく分からんんぁ」という返事であった。男性は
「年寄りに聞いたら分かるかもしらん」
というので、一緒に近所のご老人の家を訪ねることになった。老人はちょうど玄関先で休んでおられた。田中愿蔵の生誕地を探していると伝えると、老人は「よっしゃ」とばかりに自転車にまたがって「ついてきな」と言う。自転車を持ちだすほどのこともなく、本当にすぐ近くに田中愿蔵の生誕地はあった。
 生家跡は何もない更地になっていて、その片隅に生誕の地と記した石碑が建っている。

(宝金剛院)


宝金剛院

 元治元年(1864)九月、宝金剛院に逃げ落ちた大発勢の一部は、付近の農兵に取り囲まれ壊滅した。

(枕石寺)


枕石寺

 枕石寺には、天狗党追討軍二本松藩が本陣を置いた。

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大子

2010年05月23日 | 茨城県
 今年のGWの前半は、父と奈良県十津川村方面の史跡を巡った。後半は鉄道マニアの息子(中学二年生)と茨城県大子町周辺を旅することになった。息子の目当ては、「水郡線に乗る」ことに尽きたが、こちらとしてはそれだけでは寂しいので、観光スポットである袋田の滝を見て、月居山(つきおりさん)を回るハイキングを計画した。月居山は、単なるハイキング・コースではなく、元治甲子の騒乱(いわゆる天狗党の乱)の戦場になった場所でもある。私としては有名な袋田の滝より、こちらの方が重要なスポットであった。


水郡線

 水郡線は、その名のとおり水戸と郡山を結ぶローカル線である。連休中ということもあって、特別に快速列車が運行されていたが、それに乗っても水戸から袋田までの所要時間はほぼ一時間である。水戸を離れると、しばらくのどかな田園風景と渓谷が続く。

(袋田の滝)


袋田の滝
モデルは息子

 袋田の駅を降りて、少し歩くと袋田の滝と大きな字が刻まれた碑に出会う。書は毎日新聞社社長本田親男(1899-1980)。


袋田の滝

 袋田の滝を見るには、観瀑施設利用券(大人三百円、小人百五十円)を購入しなければならない。要するに有料である。滝を見るのに金が要るのか、と一瞬たじろぐがここまで来て引き返すわけにいかない。トンネルを進むと、やがて観瀑展望台に行き着く。間近に見る袋田の滝は、凄まじい迫力であった。
 最近になってエレベータで上階に行って、少し高い場所から滝を見下ろすことができるようになった。我々がエレベータに乗ったときは五分程度の待ち時間であったが、降りてきたときには長い行列ができていた。

(月居山)
 吊り橋を渡ったところに、月居山への登山口がある。渡って直ぐの登山口は、階段が設置されていて上りやすいような印象を受けるが、実は思いのほか急峻な坂となっている。散歩気分で階段を上り始めた方は、途中で泣きを見ることになるだろう。少し先の御茶屋さん脇の登山道の方が坂は緩やかだし、北面から迂回することになるので、日差しを避けることもできる。それでもかなりハードなハイキングになるので、それなりの準備は必要である。
 月居山の標高は404メートルというから、決して高い山ではない。頂上に達するまで三十分くらいのものであるが、登り切るとそれなりの充実感がある。天気にも恵まれ、眺望も素晴らしい。


吊り橋


月居峠戦場跡

 観音堂の下辺りに、元治甲子の乱でこの地が戦場となったことを示す説明が出ている。天狗党は総勢約一千。対して市川三左衛門率いる水戸藩諸生党は約二千。数に勝る諸生党が天狗党を撃破し、このあと天狗勢は水戸を追われ、西上の途につくことになる。


月居山観音堂

 元治甲子の戦闘で光明寺観音堂は焼き払われた。観音堂の堂宇は昭和十七年(1942)に再建された。その後、傷みが激しくなり、平成十一年(1999)に改築されている。


石仏

 観音堂の石仏・石塔は、助川海防城主の末裔山野辺義智が昭和十六年(1941)に寄進したものである。石仏群の前に、徳富蘇峰筆による供養塔が建てられている。


蘇峰 供養塔


斉昭歌碑

 観音堂の脇の道を少し登った左手の草むらの中に徳川斉昭の歌碑が建てられている。この歌は、天保五年(1834)大子地方を巡村したときに、袋田の滝に立ち寄り、佐竹義宣とともに秋田に去った月居城主を偲んで詠んだものといわれる。

 尋ねれば人は昔の名のみにて
 雲井の月ぞすみ渡りける


月居山山頂からの眺望

 下りは延々と階段が続く。途中から脚が痙攣しだした。その後、筋肉痛に数日悩まされることになった。

(思い出浪漫館)
 袋田の滝とJR袋田駅の中間辺りに「思い出浪漫館」と名づけられた旅館がある。月居山ハイキングで汗をかいたので、ここで日帰り温泉に入ることにした。入浴料は大人千円とやや高いが、川縁の露天風呂が気持ちいい。


関鉄之助歌碑

 思い出浪漫館の前に関鉄之助の歌碑、同駐車場には徳富蘇峰の歌碑が建てられている。
 桜田門外の変の首謀者の一人、関鉄之助は事件後逃亡して、一時袋田に潜伏した。その後、関鉄之助は越後まで逃亡してそこで捕えられ、江戸小伝馬牢に護送されて文久二年(1862)斬首された。

 河鹿鳴山川みすのうきふしに
 あはれははるの夜半にもそしる


徳富蘇峰歌碑

 蘇峰の漢詩である。蘇峰が昭和十四年(1939)、袋田の滝を訪れたときに詠んだものである。

 山似画屏囲四方
 水如翠帯一川長
 更有温泉迸玉液
 人間此処是仙郷

(大子小学校)
 袋田から水郡線で一駅郡山方面に北上すると、大子駅である。駅の周りに小さな街が形成されている。
 駅から歩いて五分くらい、十二所神社の階段を昇った右手に大子小学校がある。ここが郷校文武館の跡地である。


大子小学校


文武館跡のけやき群

 大子小学校の校庭にあるけやきの大木は樹齢五百年といわれる。この場所は、古くは大子奉行所が置かれ、安政三年(1856)には大子郷校文武館が開設されるなど、公的機関の用地として使用されてきた。元治元年(1864)の天狗党の騒乱では、ここも戦場となって戦火に焼かれることになった。文武館は明治四年(1871)の廃藩置県とともに廃校となったが、ケヤキ群はその後も大切に維持され現在に至っている。


文武館文庫

 郷校文武館に付属した文庫が現存している。この文庫には、約四千六百冊に和書漢籍が保管されていたというが、今となっては、当時の書籍は散逸して詳細は分からない。

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ひたちなか Ⅲ

2010年05月23日 | 茨城県
(那珂湊第一小学校)


文武館跡

 文武館は安政四年(1857)に開設された郷校である。文武館は、本館、館守舎、鉄砲場、井戸等から構成されていた。中でも鉄砲の操練が重視された。元治甲子の乱でやはり戦火に焼かれ、ことごとく破壊されてしまった。

(首塚)


忠勇戦士之墓

 天狗党と諸生党の抗争は、当時水戸藩随一の商業都市であった那珂湊に結集して展開された。那珂湊における戦闘は熾烈を極め、七十数日に及ぶ長期戦となった。特に十月十日の部田野原における戦闘は激烈なものとなり、天狗党側は大きな打撃を受けた。このときの戦死者の首級を葬ったのが、首塚である。

 慶応二年(1866)土地の人々が戦死者の供養のために建てたのが、忠勇戦士之墓である。


首塚 天狗党員之墓

(正徳寺)


正徳寺

 正徳寺の門は、安政七年(1860)にもともと水戸藩典医久保田宗仙が屋敷門として建築したもので、昭和四十六年(1971)に当寺に寄進・移築された。元治甲子の乱で久保田家の屋敷も戦火に遭い、この門も一部を焼失し、当時の弾痕が残っている。


正徳寺の門に残る弾痕

(百色山戦場供養碑)


天狗党百色山戦場供養碑

 ひたちなか市三反田の那珂川沿いの道脇に天狗党百色山戦場供養碑が建てられている。傍らには「百色山の忠魂を弔う」と題した詩(作 宮内智光)を刻んだ歌碑も建てられている。


弔百色山忠魂

 元治元年天狗戦
 幾多遺霊此處眠
 今はたとへ那珂川の瀬戸に沈むとも
 清き心は月ぞ照らさん
 回頭百有余年夢
 風雲長為弔忠魂

(酒列磯崎神社)


酒列磯崎神社

 酒列(さかつら)磯崎神社は、古い由緒を持つ神社で、水戸徳川家との関係も深い。元禄年間に光圀が参拝し、斉昭もこの地を訪れた記録が残されている。境内に鎮座する「斉昭公お腰かけの石」の由来は不明ながら、水戸徳川家と磯崎神社との関係の深さを物語っている(ような気がする)。


水戸斉昭公お腰かけの石

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水戸 酒門共有墓地 Ⅱ

2010年05月23日 | 茨城県
(酒門共有墓地)


菅政友君之墓

 菅(かん)政友は、幕末から明治期に活躍した歴史家、考古学者で、安政五年(1858)に彰考館に入って「大日本史」の編纂に関わった。維新後は神官に転じ、古伝にある神池から刀や玉を発掘して考古学に貢献した。その後、修史館で重野安繹のもとで黎明期の考証史学の確立に尽した。明治三十年(1897)死去。


平山(兵助)家之墓

 平山兵助は一刀流の名人という。万延元年(1860)、斉昭亡きあと、藩を脱して上国を目指したが、堺にて捕えられた。文久元年(1861)五月、帰藩して領内に潜伏。老中安藤信睦の要撃について同志を求めて謀議を重ねた。文久二年(1862)正月十五日、坂下門に安藤老中を襲撃して闘死した。年二十二。


故岡田信濃守(新太郎)徳至(左)
岡田氏露間(兵部) (右)墓

 岡田徳至、岡田新太郎父子の墓である。
 岡田徳至(のりよし)は、享和二年(1802)水戸藩家老の家に生まれ、文政六年(1823)に家督を継いだ。万延元年(1860)、大場一真斎、武田耕雲斎らと藩政に参与したが、文久元年(1861)に東禅寺事件が発生すると謹慎に処された。同年十一月に再び執政に任じられたが、元治元年(1864)、市川三左衛門らが藩政の実権を握るに及んで、参政を免ぜられた。捕吏に謹慎中の自宅を襲われ自刃した。六十三歳。

 長男新太郎は、天保十一年(1840)の生まれ。安政五年(1858)家督を継いで書院番頭に就いた。密勅降下に際しては、朝旨遵奉を主張した。元治元年(1865)、大寄合頭に進んだが、市川三左衛門が実権を握ると、慶篤に三左衛門の排斥を訴えた。しかし、再び市川三左衛門が政権を得ると、水戸に送致されて下獄。慶応元年(1865)斬に処された。年二十六。


帆平海保君墓

 海保帆平は一刀流の達人。天保十二年(1841)、戸田蓬軒の推挙により与力となった。弘化元年(1844)藩主斉昭が幕譴を蒙ると、雪冤運動に加わって処罰された。安政五年(1858)海保帆平が井伊家に斬り込むとの風説が流れ、幕命により役を取り上げられ、謹慎に処された。文久二年(1862)に赦されたが、翌年没した。年四十二。


石河幹忠の墓

 石河幹忠(徳五郎)は、寛政八年(1797)に水戸に生まれ、斉昭の藩主擁立に功があり、斉昭のもとで勘定奉行、郡奉行として藩政改革に活躍した。斉昭の命を受け、反射炉の建設にも尽力した。安政四年(1857)死去。六十二歳。


水戸故剣術教師渡辺(清左衛門)先生墓

 渡辺清左衛門は北辰一刀流千葉周作の門下。水戸藩の剣術指南。


清衛門大内君墓

 大内清衛門は那珂湊の豪商。問屋業のかたわら回船業を営んだ。天保九年(1838)には斉昭の内命を受けて、千島、シベリア、サハリンを視察して報告している。墓のかたわらには、司馬遼太郎先生が清衛門について記した一節が刻まれた碑が建てられている。


司馬遼太郎誌碑

 「菜の花の沖」を書いていて、清衛門というような江戸中期以降の美質(経済と教養が無理なく融けていて、しかも経綸の才と志もあったということ)をそなえた典型的人物だと思いタイム・カプセルに乗ってこういう人に会えるなら何年寿命をちぢめてもいいと思ったりしました。
昭和五十八年三月二日 司馬遼太郎


雪潭加藤先生墓誌

 加藤彦太郎雪潭は、松平雪山に画を学び、画家として名を成したが、元治元年(1865)天狗党の騒乱では、先手同心頭として那珂湊に出征し、同年十月戦死した。五十六歳。


原南陽の墓

 原南陽は、宝暦三年(1753)水戸藩の侍医の家に生まれ、京都に遊学して山脇東門の門で学び、産科を賀川玄悦に学んだ。帰藩して侍医に取り立てられ三十年以上その職にあった。一方で多くの医学書を著し、名医として天下に知られた。文政三年(1830)六十八歳にて死去。


贈正四位 今井金衛門墓

 今井金衛門は寛政十二年(1800)に生まれた。勘定奉行、若年寄を経て、天保十四年(1843)、寺社奉行に任じられると、厳しく廃仏政策を断行し、反発を招いた。弘化元年(1844)免職の上、謹慎に処された。同年、死去。四十八歳。

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水戸 城西 Ⅱ

2010年05月23日 | 茨城県
(神崎寺)


神埼寺


逸民飛田先生墓
(弘道館教授)

 飛田逸民は、安永七年(1778)に生まれた。大田錦城、藤田幽谷に学び、彰考館で「大日本史」の編纂にも関わった。文政七年(1824)、大津浜に異国船の乗組員が上陸するという緊急事態が発生したとき、会沢正志斎とともに現地に急派されたことがあった。このとき水戸藩では異国船(イギリス船)に対して薪水を支給して去らせたが、これ聞いた藤田幽谷、東湖父子は憤ったという。文久元年(1861)八十四歳で死去。


贈正五位稲田重蔵墓

 稲田重蔵は、文化十一年(1814)に那珂郡下国井村に生まれた。父は農民であったが、重蔵は農民となるのを嫌い、水戸に出て田丸直諒(田丸稲之衛門の養父)に仕え、のちに町方同心に推され、金子孫二郎が郡奉行のとき、郡吏に取り立てられた。万延元年(1860)の桜田門外の変で大老井伊直弼を襲って闘死した。時に四十七歳。襲撃側二十人の中で、現場で命を落とした唯一の人物である。

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水戸 弘道館 Ⅱ

2010年05月23日 | 茨城県
(水戸城)
 水戸城の歴史は、平安時代まで遡れるというが、天正十八年(1590)常陸北半を領していた佐竹氏が一気に水戸城を攻めこれを占拠した。これを機に水戸城は佐竹氏五十四万石の本拠となり、城郭も拡張され城下町も整備された。秀吉の死後、佐竹義宣は石田三成と結んで家康に抗したため秋田に国替えとなり、慶長十四年(1609)家康の十一子頼房が藩主となった。頼房は二ノ丸に居城を築き、三之丸を作り三重の堀と土塁を巡らせる大工事を実施した。水戸三十五万石を象徴する偉容を誇ったが、現在大半の建造物は撤去され、水戸一高(かつての本丸跡)に薬医門が復元再建されているのと、水戸ニ中の校庭に樹齢四百年といわれる巨大なシイの木が残されているのみである。


水戸城薬医門

 水戸一高内に復元移築されている薬医門は、現存する唯一の水戸城の遺構である。この門の創建時期は佐竹氏の時代と言われ、のちに徳川家に引き継がれたものである。


水戸城跡のシイの木


彰考館跡

 徳川光圀が『大日本史』の編纂を始めた彰考館は、元禄十一年(1698)光圀の隠居に伴って江戸藩邸内から当地(水戸ニ中)に移された。その後『大日本史』の編纂事業は、江戸と水戸に分かれて進められたが、幕末に再びこの地に集約された。『大日本史』の編纂は、明治維新後、偕楽園南隅に移って続けられた。完成を見たのは、明治三十九年(1906)のことである。

(徳川斉昭像)


徳川斉昭公像

 南町三丁目にも斉昭の像がある。
 徳川斉昭は、寛政十ニ年(1800)に江戸小石川に生まれた。父は徳川治紀。会沢正志斎らに学び、文政十二年(1829)、九代藩主に就くと、民政に意を用い、特に海防の見地から強烈に藩政改革を推し進めた。弘化元年(1844)五月、幕府より隠居謹慎の命が下り、藩政改革は一旦挫折した。同年十一月、謹慎が解かれると、関白鷹司政通を通じて朝廷との関係を深めた。嘉永六年(1853)、海防参与に任じられると、意見十ヶ条を建言。大鑑製造を主張した。安政三年(1856)、老中阿部正弘が死去すると、国政参与を辞したが、将軍継嗣問題や条約調印問題に関する斉昭に対する不信が深まり、謹慎を命じられた。安政六年(1859)には水戸禁固を命じられ、万延元年(1860)八月、病を得て水戸城中にて死去した。年六十一。

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「東京『幕末』読み歩き 志士の足跡を訪ねる」 三澤敏博著 心交社

2010年05月21日 | 書評
本屋の店頭でこの本を見つけ、衝動的に購入した。私自身、都内の史跡は行き尽くした感があったが、この本で未だ訪ねていない史跡や墓が数多く残されていることを知り、思いのほか値打ちものであった。著者の幕末への傾倒は尋常ではなく、自分と同じ匂いを感じた。著者の本職は、グラフィック・デザイナーだそうで、この本のイラストレーション、デザインも担当している。赤色を使ったカラーリングは落ち着きがなく、やや違和感を覚える。個人の趣向の問題だろうが、単色刷りでもこの本の価値を損なうものではないだろう。
コメント (2)
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海津

2010年05月13日 | 岐阜県
 海津市には、高洲藩の領地が含まれる。大垣まで新快速を乗り継ぎ、大垣で養老鉄道に乗り替える。養老鉄道は、サイクルトレインといって、電車に自転車を載せられるユニークな取り組みで知られる。この日も通学の学生やサイクリングを楽しむ家族連れなどがサイクルトレインを利用していた。裏を返せばそれだけ電車が空いているということである。昼間はだいだい一時間に一本しか走っていない。欲をいえば、もう少し本数を増やしてもらいたいが、一人も立っている乗客がいないような現状を見ると、それも無理な注文かもしれない。
 養老鉄道で揺られること三十分で駒野の駅に着く。ここからは駅のレンタサイクルを使って、史跡を回る。


養老鉄道

(城跡公園)
 城は歴史の交差点である。史跡を訪ねているうちに、自然と全国の城を歩くことになった。“城専門”という友人は、もう何百も城を訪ねている。その手の専門家には及ばないが、私も幕末関連の城を訪ねて、その数ようやく百に達した(中にはあまり幕末に関係のない八王子城なども含まれるが…)。百番目は長岡城か五稜郭辺りで達成したいと考えていたが、そううまくいくものでもなく、結局思いがけなく海津城が百番目の記念の城になった。しかし、城跡というにはあまりに何も残っていない。城跡公園というからにはもう少しそれらしいものが置かれているかと期待したが、近所の公園と何ら変わりのない小さな公園である。


城跡公園


高洲小学校 二本松

 高洲小学校、高洲稲荷神社、明誠高校のある場所がかつての城跡と推定される。主水橋の南に小さな公園が作られており、そこに海津城の概要が記されている。

 高洲小学校門前に聳え立つ二本の松は、藩校日新館にあったものが移植されたものという。藩校日新館は文久年間(1861~63)に開かれたものである。


主水橋

(高洲稲荷神社)


高洲稲荷神社

 高須稲荷神社も城の遺構である。高須松平家は江戸在府が認められていたため、松平義建の高須帰藩は生涯二度に過ぎない。従って海津市にはほとんど義建の遺品が残されていないが、高須神社には義建の筆による扁額が残されている。

(海津市歴史民族資料館)
 平成五年(1993)に完成したという歴史民族資料館は、この小さな街には過剰なほど、立派な建物である。海津城跡には一切城郭など残っていないが、その代わり歴史民族資料館は城と呼んでもおかしくないほどのものである。


海津市歴史民族資料館

 一階と二階の常設展示は、やはり当地の土地柄、治水の歴史が主題となっている。三階には高洲藩主の屋敷が再現されている。


高洲藩主の屋敷

(行基寺)


行基寺

 駒野駅から行基寺まで、自転車で十五分もかからない。国道から寺までの参道は急な坂になっている。私は深く考えもせず、自転車を手で押しながら坂を上ったが、思いのほかきつかった。行基寺に行き着いたときには汗が迸り、息も絶え絶えという状態であった。苦労して来た甲斐があって、ここからの眺望は抜群に素晴らしい。


行基寺より海津市内を見下ろす

 行基寺は、高洲藩主の菩提寺となっており、初代から十二代まで(ただし三代、五代、十一代、十三代を除く)の墓が並べられている。高洲四兄弟の父、義建の墓は向かって左手にある。その右にはわずか二歳で世を去った十二代藩主義端(よしまさ)の墓がある。


高洲歴代藩主の墓


芳潤院殿前中書大卿羽林次将
建譽魁翠秉斎大居士 神儀
松平義建の墓

 義建は、寛政十一年(1799)に江戸小石川の水戸藩邸に生まれ、兄篤之助が文化六年に亡くなったため、小石川から四ツ谷の高須藩邸に移り、天保三年十代高須藩主となった。子女に恵まれ、六人の男子はそれぞれ大名家を継いだ。
 次男義恕(よしくみ)は、宗家尾張徳川家を継いだ慶勝、五男義比(よしちか)は高須家を継いだのち、慶勝のあとを継いで茂徳と名乗り、隠居後、一橋家を継いで茂栄(もちはる)となった。三男鎖之丞は石見浜田藩主松平武成(たけしげ)、七男銈之允(けいのすけ)は会津藩主容保、八男欽之助は桑名藩主松平容敬、十一男義勇(よしたけ)は十三代高須藩主となった。また、一女幸姫は十三代米沢藩主上杉茂憲に嫁している。
 高須藩主としては勧農、治水に尽くした。義建は、文久二年(1862)八月、世を去った。享年六十四。


泰巖院殿瑞譽秀光映琳大童子神儀
松平義端の墓

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