史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「日本の戦死塚」 室井康成著 角川ソフィア文庫

2022年04月30日 | 書評

本書は平成二十七年(2015)に刊行された「首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか」に加筆・修正し、増補し、改題の上、文庫化したものである。もっとも大きな改訂は、巻末の「戦死塚一覧」である。原版では六六〇の類例が掲載されていたが、読者からの「ここが漏れている」という指摘を受け、一六八六例にバージョンアップしている。

本書は文庫としてはかなり分厚い五百ページを超えるものであるが、333ページ以降はひたすら全国の戦死塚のリストが続いている。幕末維新期に限定ではあるが、全国の戦死者の跡を見てきたと自負がある私としては、何といってもこのリストに釘付けになった。

幕末維新期に限って言えば、天狗党の乱と禁門の変、幕長戦争、戊辰戦争、そして西南戦争の戦死者の墓と塚に限られているので、たとえば天誅組の変や生野の変関係はごっそり抜けている。桜田門外の変で犠牲となった井伊大老、彦根藩士らの墓はリストに掲載されているが、幕末に暗殺された人物は井伊直弼だけではない。さらにいえば、戊辰戦争や西南戦争関係でも、私が訪問済みのものであって、本書のリストに掲載されていないものも多数あるので、このリストが完璧なものとは言えないだろう。それにしても、これだけの類例を全国から集めた筆者の熱意には頭が下がる。

全国を歩いていると、平将門や楠正成の首塚と称するものに出会う。本来、首は一つしかないものであるから、仮にそのうちの一つに将門や正成の首が埋葬されていたとしても、それ以外はニセモノということになる。それでも一つひとつの首塚にそれらしい伝承がある。その背景には、被葬者に対する民衆の畏れとか、同情とか、願望などがある。

将門の首塚・胴塚は、京都から東、北関東に至る太平洋側に偏在している。将門は下総国猿島郡(現・茨城県坂東市)で戦死したが、将門の首級は京でさらされ、その後切り離された胴を求めて飛び立ち、途中で落下したという、あり得ない話をもとに、各地に首塚ができたのである。

将門が戦死した天慶三年(940)から九百年余り後の幕末、近藤勇もまたその首を三条河原にさらされた。

近藤の首は、京都東山に埋葬されたという説のほか、岡崎法蔵寺、会津天寧寺、米沢高国寺に首塚と伝わるものが存在している。将門の時代と比べれば、伝承が生まれにくい時代のはずだが、それだけ近藤勇に対する庶民の畏敬や同情があったという証かもしれない。

巻末のリストでは西南戦争の戦死塚も数多く紹介されている。このGWの連休は大分県、宮崎県で西南戦争の戦跡を訪ねる予定である。本書で初めて知った戦死者の墓もあった。この時期にこの本に出会うことができて良かった。

 

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「百姓たちの幕末維新」 渡辺尚志著 草思社文庫

2022年04月30日 | 書評

先日読んだ須田努著「幕末社会」(岩波新書)で「力作」と紹介されていたので、興味をもった。早速、近所の書店で手に入れた。

幕末というと、「鎖国か開港か」「尊王か佐幕か」という主義主張で国論が割れ、日本中が沸き立つように議論が交わされていた印象が強いが、当時日本の人口の八割以上を占めていたという百姓たちは、そのような議論とは無縁の生活を送っていた。彼らは、そのような概念的な論争より、日々どうやって食っていくのか、どうやって年貢を納めるのか、どうやって先祖伝来の土地を守っていくのか、といったより現実的な課題に向き合い、必死に生きていたのである。そんな彼らにとって、尊王攘夷も開国佐幕も、言ってみればどうでも良い問題だったのであろう。

本書では山口村(現・山形県天童市)を例に取り上げ、江戸時代の村の変遷を考察している。山口村では、寛政五年(1793)時点では、全戸数が172、このうち持高0の家が82軒であった。それが幕末の慶應二年(1866)には全戸数が235に増え、持高0の家は136軒と顕著に増加している。幕末期の村は、かなりの「格差社会」であった。

村山地方は、紅花の産地であった。紅花などの商品作物の発展により、規模の小さな農家、あるいは所有地ゼロの家であっても、商品作物の生産に関わることで生計を成り立たせていたのである。商品経済や工業生産の発展にともなって、個々の百姓世帯の経済的自立度は高まり、村人同志の結びつきは次第に緩やかになっていくと考えられる。ところが、村を守るために、彼らは時として結束して問題に当たるのである。

村人の多くが困窮して年貢を納められないような場合、村役人の所有地を担保として村が主体となって借金をして、それを村人に分配して年貢を納めさせた。

実は借金を返済できずに担保に入れた土地を失っても、小作料を支払わないという、言わば不法行為に訴えて土地の奪回に努めた。百姓というのはなかなか強かな人たちだったのである。

天保四年(1833)は、全国的な大飢饉となった(天保の大飢饉)。困窮した百姓たちは、所有地を質入れして借金し、その金で食糧を購入して何とか飢えを凌ごうとした。しかし、大凶作のもとで金融事情も悪化し、なかなか金を貸してくれる人がいない。窮余の一策として、百姓たちは借金証文に記載された質入れ地に加えて、契約には現れない土地も貸し手に渡すことで、どうにか金を借りることができた。この「おまけ」の土地を「抜地(ぬけち)」と呼んだ。抜地の名目上の所有者は借り手のままであるが、実際にはその土地は貸し手に渡っている。抜地からの収益は貸し手に入るにもかかわらず、年貢は借り手が納めなくてはいけない。つまり、当座の金を手に入れる代わりに、後々ツケが回ってくるという性格のものであった。

結果、抜地が多くなるにつれ、年貢徴収が滞ることになった。天童に隣接する観音寺村(現・山形県東根市)では名主から代官に対し、質流れとなった土地を返還するよう要求を突き付けた。現代的感覚からすれば、請け戻ししたいのであれば、元金に上乗せした金額を払うのが通常であるが、江戸時代「無年季的質地請け戻し」という慣行があったので、必ずしも無茶な要求というわけでもなかった。領主にしてみれば、年貢を払えない百姓が増えることは、年貢の減収につながる忌々しき事態であった。その結果、質流れ地は、すべて元金で請け戻されることになったのである。百姓たちの全面勝利であった。

ここに登場する人物は、名主の久右衛門や貸し手の専之助といった無名の村人だけである。ここには坂本龍馬も西郷隆盛も高杉晋作も登場しない。ここで取り上げられた抜地問題は、ほんの一例であるが、おそくら日本全国でこのようないさかいが発生していたであろう。この時代の日本人の多くは、尊王佐幕の議論ではなく、このような土地問題に頭を悩ませていたのである。

百姓たちが、否応なく幕末の争乱と関わらざるを得なくなったのが、戊辰戦争であった。百姓は武器弾薬や食糧などの物資を戦場まで運搬させられ、行軍路の整備や陣地の構築などを行う軍夫として借り出された。筆者によれば、「こうした後方要員がいなければ、戦争の遂行は不可能」であり、後方任務を担ったのが百姓たちであった。

本書では、食糧を提供する代わりに村が放火されるのを逃れようとしたり、家財をかかえて山野に逃げる百姓の姿が紹介されている。多くの百姓は被害者であったが、中には積極的に戦闘に参加する者もいた。恩賞として武士身分への取り立てられることもあった。百姓が農兵となって、同じ百姓身分の者の家に放火する例もみられる。筆者によれば、「百姓は単なる無力な被害者・犠牲者」ではなく、農兵として戦闘に参加し、軍夫として軍隊を支えた。そのことは百姓が加害者にもなったことを意味している。

明治新政府による地租改正(明治六年(1873))では、全国一律の土地制度と税制が展開された。これ以降、名目上の土地所有者と実際の所有者が異なる「抜地」は解消された。一方で、無年季的質地請戻し慣行も否定された。小前百姓には光と影の部分があったが、江戸時代から続く問題は一気に解決に向かったのである。

本書は英雄の登場しない「百姓目線」の幕末維新史である。個人的にはこれまでほとんど触れることがなかった百姓の歴史を知ることができ、大変面白かった。様々なテーマがかなり深く掘られており読み応え十分。間違いなく力作である。

 

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浅草 Ⅹ

2022年04月23日 | 東京都

(長敬寺)

 

長敬寺

 

 長敬寺に遠藤胤緒(もしくは胤統)の墓がある。残念なことに墓地は工事中で遠藤家の墓石に近づくことができなかった(台東区西浅草1‐2‐7)。

 

舊遠藤 東子爵家累代之墓(遠藤胤緒の墓)

 

 遠藤胤緒は寛政五年(1793)の生まれ。父は大垣藩主戸田氏教。享和元年(1801)、遠藤胤冨の養子となり、文化八年(1811)、家督を継ぎ、同年十二月、従五位下但馬守に叙任された。天保四年(1833)、大阪城玉造口定番となり、天保八年(1837)二月、大塩平八郎の乱鎮定に活躍し、三老中連署の感状を賜った。天保十二年(1841)、出府し若年寄に任じられ、嘉永五年(1852)、勝手掛および西丸造営ならびに海岸防御筋用掛を命じられ、同年十二月には二千石を加増された。安政元年(1854)十一月、江戸湾台場築造の用掛、安政三年(1856)、蝦夷地開拓の用掛、安政五年(1858)には将軍家茂将軍職宣下の用掛を務めた。安政六年(1859)には外国事務掛を命じられ、露国使節ムラヴィヨフに面謁のため酒井忠眦とともに品川沖停泊の露艦に至り、芝愛宕下天徳寺で露使に応接した。万延元年(1860)閏三月、神奈川開港に尽力した労を賞賜され、城主格を命じられ、本丸造営用掛、国益主法掛、外国貿易筋用掛、和宮婚姻大礼用掛。文久元年(1861)には陸海軍備向ならびに軍制の用掛を命じられた。のち若年寄を免じられ、従四位下民部大輔に叙任され、雁之間参席を命じられた。文久三年(1863)、願いにより隠退し、嫡孫胤城(第三男)へ家督を命じられた。元治元年(1864)十二月、中務大輔と改称した。明治三年(1870)、七十八歳で没。

 

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御徒町 Ⅳ

2022年04月23日 | 東京都

(龍福院)

 龍福院には浮世絵師小林清親の墓がある。門前に台東区教育委員会の建てた説明板がある。残念ながら墓地入口は堅く施錠されており、墓は未公開(台東区元浅草3‐17‐2)。

 

龍福院

 

清親画伯之碑

 

 墓地には入れなかったが、本堂前に「清親画伯之碑」が建てられている。

 小林清親は、弘化四年(1847)、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加。維新後は、新聞、雑誌に挿絵を描き、生計を立てた。イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真から日本画を習得し、浮世絵師として大成をはかった。やがて清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗、建物が光と影によって描き出され、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、広く一般に迎えられた。広重や国芳とも違い、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かした作風は、浮世絵の興亡の歴史において、最後の光といわれた。我が家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していたと伝わる。大正四年(1915)、六十九歳で没。

 

 龍福院墓地には、石川光明(彫刻家・東京美術学校教授)、守邨抱儀(俳人)の墓もあるはずだが、墓地に立ち入ることができないまま撤退することになった。

 

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上野 ⅩⅡ

2022年04月23日 | 東京都

(西照寺)

 地下鉄稲荷町駅から地上に出て直ぐのところに西照寺がある(台東区東上野6‐2‐4)。ここに人力車を発明した鈴木徳次郎の墓があるというので、墓地を歩いた。鈴木家の墓は複数発見したが、徳次郎の名前は見つけることができなかった。

 

西照寺

 

(唯念寺)

 唯念寺には加賀藩医藤井方亭(ほうてい)の墓がある(台東区元浅草2‐7‐12)。墓地は本堂の道を挟んで向かい側にある。

 

唯念寺

 

藤井家之墓(藤井方亭の墓)

 

 藤井家の墓は新しく建て替えられているが、側面に「瓊岡院亀淵楽易居士 弘化二年八月八日 俗名方亭 行年六十八才」とある。

 藤井方亭は、安永七年(1778)、伊勢奄芸郡大野田の生まれ。江戸に出て宇田川玄真のもとでオランダ医学を学んだ。蘭語学習の一面としては「道普華児麻」を手写したことが伝えられている。異業は浅草鳥越町に開いていたが、文化六年(1809)、玄真の推薦で吉田長淑とともに加賀藩の侍医となった。天保元年(1830)、坪井信道が私信の中で方亭のことに触れ、「官事忙しく、殊に大志も無之」としている。天保七年(1836)、老年のため藩医を辞し、弘化二年(1845)、本郷加賀藩用邸に没した。年六十八。

 

(誓教寺)

 誓教寺には「富嶽三十六景」で有名な葛飾北斎の墓がある(台東区元浅草4‐6‐9)。

 

誓教寺

 

葛飾北斎翁

 

画狂老人卍墓(葛飾北斎の墓)

 

 北斎は宝暦十年(1760)、江戸本所割下水(現・墨田区亀沢)に生まれた。十九歳のとき、浮世絵師勝川春章の門に入り、本格的に絵画の修行を始めた。そのとき勝川春朗の名を与えられた。画号は春朗のほか、宗理、画狂人、卍翁など(約三十種類あるとも)。寛政四年(1792)、春章が没すると勝川派を離れ、狩野派、土佐派、淋派や西洋画なども学び、独自の画境を開いた。住居を九十三回も移し、奇行に富んだ。嘉永二年(1849)、江戸浅草聖天町の長屋で長女阿栄(葛飾應為)に看取られて亡くなった。墓石側面には「ひと魂でゆく気散じや夏の原」という辞世が刻まれている。

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日暮里 ⅢⅩⅢ

2022年04月23日 | 東京都

(谷中霊園つづき)

 

島村俊明之墓

 

 島村俊明(しゅんめい)は、安政二年(1855)の生まれ。家は代々宮彫師。幼少から才能を認められ、明治五年(1872)、父の死により、二男でありながら十八歳で家を継いだ。既に十六歳のとき、父の高弟小野寺俊泰の後見で、両国回向院の欄間に十六羅漢を彫刻して全都の評判となった。明治十四年(1881)、第二回勧業博覧会に牙彫遊女を出品し、妙技二等賞を得た。明治二十九年(1896)、年四十二で没。【甲新16号29側】

 

竹内綱之墓

 

 竹内綱は、天保十年(1839)の生まれ。板垣退助を助けて自由党を創立。衆議院議長などを歴任。京釜鉄道の専務として活躍した。吉田茂は竹内綱の五男。【甲8号13側】

 

「寂」(鄭永寧の墓)

 

 鄭永寧は、文政十二年(1829)、長崎の唐通詞の家に生まれた。嘉永元年(1848)、無給稽古通事となり、万延元年(1860)、小通事過人に進み、華語を実兄泰蔵に、英語を養父に学んだ。明治二年(1869)、外務省に入り、大訳官となり、明治三年(1870)、李鴻章、會国藩に会見して条約締結を打診し、明治四年(1871)八月、伊達宗城、柳原前光に随行して、日清修好条規通商章程を締結、翌年上海領事代理、明治七年(1874)、一等書記官、さらに権大書記官に進んだが、明治十四年(1881)、外交上の見解の相違から司法省に移り、大清会典の訓点を付して法典編纂の資料とした。明治十八年(1885)、外務省に復し、伊藤博文の天津会談に随行した。明治三十年(1897)、年六十九で没。【乙4号12側】

 

陽家之墓(陽其二の墓)

 

 陽其二(そのじ)は、天保九年(1838)、長崎の唐通詞の家に生まれた。安政二年(1855)、小通事末席となり、安政六年(1859)、長崎開港に伴い港会所(のちの税関)に勤務。文久二年(1862)、幕府海軍に属し、長崎丸汽鑵方、本木昇造の配下となり、慶応元年(1865)、長崎製鉄所に転じ、活版製造に従事した。明治三年(1870)、昌造の推薦で神奈川県に招かれ、横浜毎日新聞発刊に尽力した。明治五年(1872)、横浜に印刷所景諦社を創立(明治七年(1874)、王子製紙と合併し製紙分社と改称)、昌造、平野富二を助けて築地活版所設立に貢献し、のち相談役となり、また我が国菎蒻版の製造に貢献した。明治三十九年(1906)、年六十九で没。墓石側面にある法名「大有院殴陽靖洲居士」が其二のものと思われる。【乙2号11側】

 

西村郡司招魂碑

 

 西村郡司は文化十一年(1814)の生まれ。初め江戸深川で商業を営み、安政六年(1859)、神奈川開港の直後、同地に赴き貿易に従事し、渋澤栄一らと交わった。奥羽征討の師起こるや、軍資金として一万両を献じ、五口俸を給され称氏帯刀を許された。維新後、明治政府は東京府の流民救済のため、下総の旧幕府の牧野(佐倉七牧)を開放し、明治二年(1869)四月、窮民を募って帰農させた。この時、郡司は三井八郎右衛門らとともに会社の頭取にあげられた。郡司は翌三年(1870)、現八街市の北半を占める旧柳沢牧の開墾に当たる。明治五年(1872)五月、会社は解散したが、郡司は以来現地に住み地主として開墾を続けた。無住の原野が今日、人口六万余の八街市となるに至った街づくりの功労者である。明治二十八年(1895)、年八十二で没。【甲8号13側】

 

(長久院)

 長久院門前には塩田三郎の巨大な顕彰碑が建っていて、墓地には塩田三郎の墓がある(台東区谷中6‐2‐16)。

 

長久院

 

特命全権公使正三位勲二等鹽田君墓

(塩田三郎の墓)

 

特命全權公使正三位君弐等塩田君碑

 

 塩田三郎は、天保十四年(1843)の生まれ。父は幕府医師順菴といい、代々医師として幕府に仕える家であった。安政三年(1856)、父に従って箱館に行き、漢学を栗本鋤雲に、英学を名村五八郎に、仏学を仏人某に受け、文久三年(1863)、帰府して通弁御用となった。この頃、兄宗寂の病死により嗣子となった。同年末、外国奉行池田長発を正使とする横浜鎖港談判使節に通弁御用出役(調役格)として一行に加わり、仏国に赴いて翌元治元年(1864)、帰国した。ついで慶應元年(1865)、外国奉行柴田剛中に従って英仏二国に赴き、慶応三年(1867)には外国奉行支配組頭に進んだ。幕府瓦解後、一時横浜に移住して仏学を教授したが、明治三年(1870)、民部省、ついで外務省に出仕し、外務権大記として鮫島少弁務官に従って英仏普三国に赴き、明治四年(1871)、特例弁務使として伊国の万国電信会議に出席した。同年、外務大記として岩倉特命全権大使の米欧回覧に随行し、明治六年(1873)、外務大丞に任じられ、明治八年(1875)には露国における電信会議に出席した。その後、外務大書記官、外務少輔を歴任し、明治十四年(1881)、井上外務卿の下で各国使臣と条約改正について折衝した。明治十八年(1885)、特命全権公使として清国に駐箚したが、明治二十二年(1889)北京で客死した。年四十七。

 

(本通寺)

 本通寺の墓地の奥の方に儒者、国学者日尾荊山の墓がある(台東区谷中4‐2‐33)。

 

本通寺

 

荊山日尾先生墓

 

 日尾荊山(けいざん)は、寛政元年(1789)の生まれ。父は町医者日尾林庵。学は和漢を兼ね、また筆蹟もよくした。漢学は亀田鵬斎の門人で、私学は清水浜臣の門人。資性耿介にして左手に觴(さかずき)を把み、右手に巻を披いて(ひらいて)、「天下の至楽なり」とし、その窮乏を顧みなかった。荊山の旧蔵書は多く東京静嘉堂文庫に収められていたが、当時の三才女の一人と称された後妻の邦子は、また筆道の弟子でもあったため、その夫君の文字と酷似し、判別に苦しむものもある。「堤中納言物語」「落窪物語」の荊山本は、現在も国文学者の注意を引いている。安政六年(1859)、年七十一で没。同じ墓所に娘で教育者として知られる日尾直子の墓もある。

 

(龍泉寺)

 

龍泉寺

 

 龍泉寺の墓地の一番奥に辻守静の墓がある(台東区谷中5‐9‐9‐26)。

 

三枝守静墳墓

(辻守静の墓)

 

 辻守静(しゅせい)は、幕臣、歌人。嘉永三年(1850)三月、甲府勤番大草能登守支配より浦賀奉行支配組頭を勤め、安政元年(1854)、林奉行となった。国学を能くし、和歌を大石千引に学び、のち海野遊翁の門人となった。また仏学を荻野梅塢(ばいう)に学び、書を中村仏庵に学んでこれを能くした。明治六年(1873)、没。墓石には父三枝氏の姓が刻まれている。

 

(善性寺つづき)

 

梔園小出粲墓

 

 小出粲(つばら)は、天保四年(1833)の生まれ。父は浜田藩主松田三郎兵衛。雅号は梔園、如雲、三小庵など。幼時荒木寛快に絵画を学んだが、三年ほどで止め、藩学官諭社に入った。武芸を好み、特に槍術は宝蔵院流の皆伝を受けた。十六、七歳から歌道を志し、のちに島原藩の瀬戸久敬に学んだ。二十歳のとき小出修吉の養子となり、大小姓から近習に進んだ。慶應二年(1866)、幕府の長州再征の際、浜田藩は落城し、粲は藩主松平武聡を守護して居を松江、京都、美作と移した。明治八年(1975)、太政官十三等出仕。明治十年(1877)、宮内省に入り文学御用掛。明治十七年(1884)、京都へ転勤。明治二十年(1887)、東京に戻り、明治二十一年(1888)、御歌所勤務となり、小石川水道端に住んだ。明治二十四年(1891)、吉野、京都行幸に供奉した。明治二十五年(1892)、御歌所寄人を仰せ付けられ、明治三十三年(1900)、御歌所主事心得を命じられたが、明治三十五年(1902)、辞して閉居した。旅中日記「麻衣」などがある。明治四十一年(1908)、年七十六で没。

 

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本駒込 Ⅷ

2022年04月23日 | 東京都

(大林寺つづき)

 

橋本直香之墓

 

 橋本直香(なおか)は、文化四年(1807)、代々飛脚問屋島屋を営む家に生まれた。直香の時代には機屋を営んだが、家業不振、そのため江戸に出た。橘守部に入門。のち一派を興して赤坂弁天山に卜居。門弟を育成し、赤坂氷川神社畔に移って以来栄えた。門人は旗本、御家人から庶民に及んだ。「万葉集」研究に努め、出京後も郷国に関心を寄せ、神保雪居、神保臥雲、大島義矩と親交を保ち、「上野歌解」はじめ業績にもそれを反映している。著書のうち刊行されたものは「上野歌解」「万葉集私抄」のみ。明治二十二年(1889)、年八十三にて没。

 

(蓮光寺つづき)

 

元老院議官陸軍少将正三位勲一等

男爵井田譲墓

 

 井田譲は天保九年(1838)、大垣藩士の子に生まれた。藩主戸田氏彬の侍読、西洋流砲術教授方を勤め、文久三年(1863)、京都禁裏守護士となり、長州征伐に従軍してのち、幕政の奉還を主張した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いには藩老小原鉄心の股肱として活躍し、同年六月、新政府に仕えて軍務官権判事となり、明治二年(1869)、会計官権判事に転じた。同年六月、但馬生野の人民騒擾鎮撫に出張、八月には生野県権知事となり、明治三年(1870)には生野県知事に進んだ。ついで久美浜県知事、長崎県知事、大蔵大丞を経て、明治四年(1871)、陸軍少将に任じられ、鎮西鎮台出張を命じられた。のち清国福州領事、上海総領事となり、明治七年(1874)、再び陸軍少将に任じられた。広島鎮台司令長官、陸軍省第一局長を経て、西南戦争では陸軍卿代理を務めた。明治十三年(1880)以降は、特命全権公使となり、欧州各国に駐在した。帰朝後、元老院議官、陸軍大学校長などを歴任した。明治二十二年(1889)、年五十二で没。

 「明治維新人名辞典」では井田譲の墓は、「伝通院」となっていたが、どういうわけだか、蓮光寺の本堂前にあったので、伝通院を探す手間が省けた。

 

青山景通之墓

 

 廃仏毀釈が全国でも頭抜けて熱狂的に行われた地域として、薩摩藩と並んで美濃苗木藩が挙げられる。維新直後の藩政を握っていたのが、青山直通である。直通は、父景通の影響を受けて平田国学に心酔していた。景通は、平田篤胤の没後門人で、維新後新政府に取り立てられ、神祇官権判事に就いた。その関わりから苗木藩では、幕末から平田国学が流行し、明治三年(1870)春には、藩主以下、藩の上層部が挙って入門したため、神道一色となった。青山直通の主導で藩内の廃仏毀釈の動きが本格化したといわれる。

 

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茗荷谷 Ⅴ

2022年04月23日 | 東京都

(高源院)

 

高源院

 

 高源院には萩藩医で兵学者でもあった東条英庵の墓を探した。東条英庵は、長州の出身でありながら、幕府に取り立てられ幕臣となり、維新後は静岡で学問研究所教授などを務めたという異色の経歴の持ち主である(文京区大塚3‐8‐4)。残念ながら英庵の墓を発見するには至らなかったが、その代わり通詞立廣作の墓誌を見つけることができた。

 

立君墓誌

 

 立廣作は、弘化二年(1845)の生まれ。名村五八郎(泰蔵)から英語を学び、パリ外国宣教会のメルメ・ド・カションからフランスを学んだ。第一回遣欧使節団(正使・竹内保徳)に最年少(当時十七歳)通詞として随行した。維新後は、外務省に一等訳官として入り、大訳官、文書権正、外務大丞となり、さらに大蔵省に転じ大蔵大丞に進んだが、それを最後に官を辞し、第九十五銀行頭取に就任した。明治十二年(1879)、三十四歳で没した。国際法学者として名の高い立作太郎を養子とした。

 高源院の墓誌は、明治十三年(1880)の建碑。中村正直の撰文。

 

(本傳寺)

 

本傳寺

 

 本傳寺の墓地の一番奥の塀際に中村家の墓所がある。そこに漂流民仙八(仙太郎)の墓がある(文京区大塚4‐42‐23)。

 

三八君墓(仙八の墓)

 

 仙八(元の名は仙太郎)は安芸生口島の出身。ジョセフ彦と同じく、嘉永三年(1850)、永力丸に乗船中大嵐に遭って漂流し、アメリカ商船に救助されてアメリカに渡った。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊に伴われて来日し、香山栄左衛門と面会している。香山栄左衛門は、このときの仙八について「アメリカ風之衣服相用、頭は五分月代(断髪)にて、同国之風躰」と記録している。このとき仙八は頑なに上陸を拒んだが、万延元年(1860)、宣教師ゴーブルとともに晴れて母国の土を踏んだ。その後、宣教師が住居とした神奈川の成仏寺で起居した。墓誌傍らの石碑によれば「『聖書摩太福音書』の翻訳に協力した。その後、クラーク教師に仕え、晩年は敬宇先生 (中村正直) の馭者」となったという。明治七年(1874)、四十一歳にて没。

 本傳寺の中村家の墓所には、中村正直の父、武兵衛やその妻、正直の長男、長女(いずれも夭折したらしい)が葬られている。

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東池袋 Ⅵ

2022年04月16日 | 東京都

(雑司ヶ谷霊園つづき)

 

雪放石川君墓(石川利政の墓)

 

 石川利政は旗本。一橋家家臣石川源兵衛の子に生まれ、文久三年(1863)、小姓組から小納戸役に進んだ。慶應二年(1866)、ロシアとの間で樺太国境画定交渉の遣露使節団の一員に選ばれ、ロシアとの交渉記録を残した。慶應三年(1867)、帰国すると外国奉行に就任し、のちに兵庫奉行に転じた。慶應四年(1868)、小出秀実の後を受けて江戸北町奉行に就いた。最後の北町奉行といわれる。江戸奉行の廃止に際して石川を大目付に抜擢しようとしたが、新政府の態度に抗議して切腹したと伝えられる。【1種4A号13~24側】

 

長郷泰輔墓

 

 長郷泰輔は会津出身。嘉永二年(1849)生まれ。ロシア正教会主教ニコライの紹介で,横浜のフランス人建築技師レスカスに学んだ。建築会社を設立し東京駿河台のニコライ堂、フランス、ロシア両大使館などの建設に関わった。明治四十四年(1911)。年六十三。

 

橋本家之墓(揚州周延の墓)

 

 橋本周延(ちかのぶ)は天保九年(1838)の生まれ。雅号は揚州。はじめ国芳および三代豊国に学び、のち豊原国周の門に入った。美人画が多く、特に大奥の風俗画を得意とした。ほかに明治初期の風俗画、子供錦絵、役者絵、挿絵なども残した。明治十二年(1879)には外務省の命により作画し、明治十五年(1882)には絵画共進会に出品して褒状を受けるなど、国周門下でももっとも画技に優れた。晩年は古版画の模写をしていたという。大正元年(1912)、年七十五で没。墓石の前には「最後の浮世絵師揚州周延歿後百年の碑」が建てられている。【1種4B号5側40番】

 

大野家之墓(大野吉之助の墓)

 

 大野吉之助は高田藩士。神木隊。慶應四年(1868)五月十五日、上野戦争にて戦死。墓誌には五月十四日となっている。

 

吉澤家之墓(吉澤勇四郎の墓)

 

 吉澤勇四郎(友三郎とも)は、工兵頭並。工兵隊長。明治二年(1869)五月、五稜郭にて戦死(亀田で行方不明とも)。墓誌によれば、没日は五月十一日となっている。三十一歳。

 

生亀恭介之墓

 

 生亀(いけがめ)恭介は、嘉永二年(1849)の生まれ。墓石背面および側面には、京都守護職に任じられた主君に従って上京したことや、戊辰戦争では朱雀隊銃卒。半隊長として越後口に出陣して負傷したことなどが記されている。維新後は宮内省に出仕。明治四十三年(1910)、六十二歳にて没。

 

本地利屋之墓 静岡県士族

 

 「幕末維新全殉難者名鑑」に掲載されている本地巳之太郎のものか。本地巳之太郎は、幕軍歩兵差図役下役。慶應四年(1868)一月四日、鳥羽にて戦死。

 

元田家之墓(元田直の墓)

 

 元田直(なおし)は、天保六年(1835)の生まれ。父は豊後杵築藩儒元田竹渓。幼時、父に経史文を学び、十九歳で父の塾生を教え、算学を古原、国学を物集高世に受け、帆足万里、広瀬淡窓らにも教えを受けた。楠木正成の忠節や水戸学に傾き勤王を志し、大阪に赴いて、さらに文久三年(1863)、京師に出て小河一敏を通じ志士と交わった。慶應二年(1866)、毛利氏と乱を謀り幽囚されたが、維新により赦され、明治元年(1869)、上京。内国事務局書記、渡会府判事となり、太政官大史に任じられ、神祇官宣教使の建議をした。明治二年(1869)、東京代言人初代会長となり、明治七年(1874)、法律学舎を建て箕作麟祥らを招いた。明治十三年(1880)、長崎上等裁判所判事に進んだが、明治十五年(1882)に辞し、斯文会を興した。明治二十年(1887)、東京府学務課長兼師範学校長となった。晩年、失明した。大正五年(1916)、年八十二にて没。【1種1号1】

 

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西巣鴨 Ⅲ

2022年04月16日 | 東京都

(本妙寺つづき)

 

大久保氏之墓(大久保一翁の墓)

 

 大久保氏の墓石、上部中央に大久保一翁忠寛の名前を確認することができる。

 同じ墓所に一翁の息、大久保三郎の墓もある。

 

大久保三郎墓

 

 大久保三郎は安政四年(1857)の生まれ。植物学者。明治四年(1871)に米国ミシガン大学に留学し、植物学を修めた。「クララの明治日記」(クララ・ホイットニー著)にもしばしば登場する。大正三年(1914)、五十六歳で没。

 

河島氏墓(河島重蔵の墓)

 

 河島重蔵は、旧幕臣にして彰義隊士。慶應四年(1868)五月十五日、戦死(墓石には五月十七日となっている)。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。

 

(慈眼寺)

 慈眼寺墓地には、芥川龍之介、司馬江漢、小林平八郎(忠臣蔵吉良上野介の臣)らの墓がある。

 

慈眼寺

 

先祖代々霊位(小檜山鉄蔵、包四郎の墓)

 

 小檜山家の墓は小檜山鉄蔵によって建立されたもの。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、鉄蔵は「与力組。戊辰役に死す」と書かれているが、この墓は大正に入って建てられたものとある。

 鉄蔵の息、包四郎は六石二人扶持。町野隊付。慶應四年(1868)閏四月二十三日、越後三国峠にて負傷。小千谷にて戦死。二十六歳。

 次男岩次郎も朱雀足軽隊に属して慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて二十三歳で戦死している。

 墓石側面に「圓月院開受日観信士 明治元年九月朔日」とあるのは包四郎のものだろうか。

 

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