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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛 滅びの美学」 澤村修治著 幻冬舎新書

2017年10月28日 | 書評
これも大河ドラマ関連本。
西郷隆盛の人生は謎に満ちている。幕末維新期に活躍した人物は何千何万といるが、謎の数でいえば群を抜いている。
まず、月照との入水事件。月照は息を引き取り、西郷は蘇生した。西郷がここで命を落としていれば、無論、その後の西郷隆盛は存在しない。本書では小林秀雄と林房雄の酒席での論争を紹介している。小林秀雄は「西郷のような大望を持った者が、あのような死に方を選ぶのは僕にはわからない、不可解だ。」と話したそうである。
次いで元治元年(1864)の第一次長幕戦争。西郷ははじめ長州征伐を強硬に主張した。長州人を狡猾と断じ、もし長州が投降したら〈わずかに領地を与え、東国辺へ国替え迄は仰せ付けられず候わでは、往先御国(ここでは薩摩藩)の災害を成し〉と言い切っている。ところが、自ら岩国に出向き、長州側の吉川監物と談判した西郷は、三家老の自刃をもって戦争を終わらせた。このとき何故考えを急転換したのか。
沖永良部島に流された西郷は、和泊の野外に急ごしらえされた、二坪余りの狭隘なる牢に入った。〈東西戸ナク南北壁ナク四面繞ラスニ四寸角余ノ格子ヲ以ッテシ〉というほどの粗末な造りであった。西郷は不平もいわずに荒畳に端坐し続けた。見かねた土持政照は拍子木を与えて何かあったら叩くようにと促し、入浴で牢を出るとき機会をとらえて運動を進めたが、西郷は応じなかった。何故頑なに狭い牢から出ようとしなかったのだろうか。
特権を奪われる士族の面目守護者との像を示した一方で、秩禄処分には原則的に賛成している。さらには反開化主義士族の頭領然としてありながら、明治三年(1870)に岩倉具視に提出した建白書では〈西洋各国迄も普く斟酌〉して国家のしくみを整えよと主張している。そして廃藩置県にひと言の反論もせずに同意した。留守政府の首班となった西郷は数々の近代化政策を進めた。たとえば、士農工商の身分撤廃、農民の土地所有権認可、被差別民解放令と人身売買禁止令の布告、学制の公布(国民皆教育路線の成立)、新橋―横浜間の鉄道敷設、陸海軍両省設置と徴兵制の導入、裁判所の設置、国立銀行条例の制定、さらには太陽暦の採用など、近代化の重点政策がこのときの政府によって矢継ぎ早におこなわれた。西郷その人は「古い道徳」を堅牢にもち、「封建」の世の秩序を心の奥深く蔵し、明治十年(1877)には「最後のサムライ」として城山で滅んだ。一方で近代化政策を推し進めたというのはどういう心事だったのだろうか。
そして最大の謎は、何故西郷は遣韓使節を主張したのか、である。このテーマについては、これだけで一冊の本になるほど奥が深く、これまでも様々な論者がこの解明に挑んでいる。
明治六年の政変後、西郷は一介の農夫と化した。我が国でただ一人の陸軍大将として、さらに近衛都督と参議を兼ね、いわば最高の栄爵を極めた人物が、一転して地方に逼塞し、そこで鍬をふるったなどという例は西郷の前にも後にもない。
あの西南戦争も謎だらけである。何故西郷は、決起は愚かなことだと知りつつ「負け戦」へ突入したのか。何故一切陣頭指揮を取らなかったのか。何故一路熊本城を目指したのか。敗色が濃くなっても、何故早期に降伏しなかったのか。晩年の西郷は、体調も勝れず、常に死を意識することになった。むしろ死に逃避する傾きがあった。そのことを思えば、当人は戦死することに対して何のためらいもなかったかもしれないが、前途ある若者まで道連れにすることは、果たして西郷の本意だったのだろうか。もっと早く降伏すれば多くの命を救えたはずだし、それができたのは西郷しかいなかったのである。
本書では、できる限り西郷自身が残したテクスト ――― 漢詩、書簡、弔文など ――― に立ち返ることに努めているが、基本的に西郷は筆マメな方ではないし、日記の類は残していない。従って、西郷に関わる数々の謎を解明しようとすれば、西郷の書き残したテクストを点として、その点と点を結ぶ西郷の心事は、想像や推論で埋めるしかないのである。
筆者は、悪戦苦闘しつつ、謎の真相に迫ろうとする。それが成功したかどうかは、読み手によって異なるだろう。
個人的には、西郷の言動を何でもかんでも「是」として解釈する姿勢にはやや違和感がある。例えば、「武職の長として明らかに巨人」「日本の軍指導者の将器についてひとつの理念型」「将の将たる器」「武職の長としてゆるぎない存在」と、言葉を尽くして称賛するが、本当にそうだろうか。自分が一介の軍兵だったとして、そのトップが「死に癖」「死の誘惑にとらわれやすい」人物だったら、どうだろう。個人的には真っ平御免である。西郷隆盛という人は軍人としては決して適性が高かったようには思えない。
同様に政治家として、壁に当たるたびに隠遁しようとする癖は褒められたものではない。筆者は徳富蘇峰の言葉を引いて「高踏勇退の癖」ともっともらしい言葉を使って美化するが、政治家としてみれば、あまりにも無責任といえよう。
私は、軍人としての西郷、政治家としての西郷をどうしても評価できないのである。一方、人格者として西郷をとらえれば、これほど無私無欲で、清廉潔白な人物は、日本史上を眺めても西郷をおいてほかに存在しない。誰もが認める「立国の功労者」でありながら、西郷は再三にわたって位記返上を申し出た。政府高官(井上馨や大隈重信ら)が、茶屋遊びに興じ、〈家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀〉る様子を〈天下に対し、戦死者に対して面目無き〉と嘆いた。参議大隈重信は白馬に乗って、元旗本の大邸宅から太政官に通った。西郷はこうした連中を蔑んだ。こと倒幕に際して流した血と汗の量の少なかった肥後閥には、根底に反感があったであろう。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」これが西郷の魅力であり、人気の理由である。しかし、超越した人格者が必ずしも軍人、政治家として優れているとは限らない。そこをごちゃまぜにしてはいけないように思うのである。

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「幕末明治 鹿児島県謎解き散歩」 徳永和喜監修 中経の文庫

2017年10月28日 | 書評
翌年の大河ドラマ「西郷どん」放映を前に続々と関連本が書店に並び始めた。「最近、読みたいと思わせてくれる本が無いな」と嘆いていた私としては、嬉しい悲鳴である。
本書は、鹿児島市生まれで、現・鹿児島市立西郷南洲顕彰館館長徳永和喜氏の監修による、鹿児島史跡紹介本である。さすがに地元の方の手に拠る書籍で、個人的には知らない史跡も満載であった。
「謎解き」というタイトルのとおり、「西郷はどのような家庭環境に生まれた?」といった問いに答える形で、史跡を紹介していく。特に深い意味のある「問い」はなく、単純に鹿児島県内の史跡を紹介してもらえば十分という気がする。
鹿児島県内の史跡は、二十年前の鹿児島県大口市(現・伊佐市)在勤時に歩き回って以来、長らく足が遠のいている。当時は西南戦争百二十年を迎えた時期であり(因みに今年は西南戦争百四十年目である)、訪れたい史跡は山ほどあったのだが、三女が生まれたばかりであり、幼子を残して家を空けるわけにいかず、結果的には欲求不満を残したまま転勤となってしまった。
以来、鹿児島県内の史跡を探訪できる日を夢見ながら、史跡リストを整備しているが、そのボリュームは既にA4サイズで十ページに及んでいる。私の目算では、所要時間は一週間。離島訪問も含めれば十日は必要である。サラリーマンには、なかなかそれだけまとまった時間を取るのは難しい。いつになるか分からないが、ひたすらリストの整備に努める日々である。

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「鬼官兵衛烈風録」 中村彰彦著 日経文芸文庫

2017年10月28日 | 書評
中村彰彦氏の処女長編小説。会津藩の佐川官兵衛を主役に幕末の会津藩を描いた力作である。
これを読むと、佐川官兵衛という人は当代一流の武将であった。部下を心酔させる人間的魅力に溢れ、戦場にあっては冷静にして適切な判断を下すことができる。一方で大局を捕えて大きな方向を過つこともない。
西南戦争において、佐川は警視隊を率いて参戦した。上官は土佐の桧垣直枝(清治)。彼の保有している能力を考えれば、本来桧垣直枝が官兵衛の下に就くべきだったのかもしれないが、両者にとって不幸なことに、桧垣は維新の勝者たる土佐藩の出身であり、官兵衛は賊藩会津の出身であった。
桧垣がもたもたしている間に戦機を失い、それでも最善を尽くそうとした官兵衛は、二重峠で壮烈な戦死を遂げる。司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」では、官軍への「面当て」のために官兵衛は自爆死したように描かれているが、本書では決して現状を悲観することなく、与えられた持ち場で最善を尽くしながら死を迎えたように描かれる。部下を率いる将として当然のことかもしれないが、こちらの方が自然に映る。
なお、本書278ページに「薩軍の三好軍太郎」と表記されるが、三好軍太郎(のちの重臣)は長州藩出身である。本書は何度も版を重ねて出版されているようなので、どこかで正していただきたい。

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「観光コースでない台湾」 片倉佳史著 高文研

2017年10月28日 | 書評
台湾は私が平成七年(1995)から平成八年(1996)にかけて駐在した思い出の地である。台湾は私にとって一際思い入れのある土地である。海外駐在期間でいえば、シンガポールは五年以上にもなるし、それに比べれば台湾はわずかに二年足らずである。しかし、今も現地スタッフは時々メールを送ってくれるし、日本に出張に来た際にはお土産を持ってきてくれる(シンガポールのスタッフからも時々メールは届きますが)。新会社の立ち上げというやや特殊な体験を共有したという背景もあるのかもしれない。それにしても、もう台湾をあとにして二十年以上が経つというのに、彼らとの付き合いは今も濃密である。
台湾は正確にいえば国とはいえないが、もっとも親日的な外国であることは論を待たないであろう。当時のスタッフが未だにコンタクトをくれることもその一例といえるかもしれない。五十年に及ぶ日本統治時代にその理由を求める議論が主流である。確かに、日本が統治した五十年で、台湾における鉄道や電力といったインフラの整備は飛躍的に進んだ。今日の台湾発展の基礎となる工業や農業が萌芽したのもこの時期である。多くの台湾人が日本の残した遺産に感謝するのも謂れのないことではない。しかし、一方で日本が台湾を統治したのは植民地政策の一環であり、この間、かなり強引な同化政策が取られ、反抗する勢力に対して激しい弾圧が加えられたことも事実である。日本統治時代を手放しで礼賛するのは慎重になった方が良い。
戦前の植民地時代のことを未だに韓国から恨みがましくいわれることを思えば、台湾の親日的、愛日的姿勢は対照的である。ネタをばらしてしまえば、国民党の統治があまりに酷かったために日本統治が相対的に「良かった」(要するにマシだった)というだけのことである。国民党は「犬が去ったあと豚が来た」とまで揶揄されるほど、現地の人々から嫌われた。「犬」とは日本のことであり、要するに番犬くらいの役には立ったという意味である。日本人の中には、八田與一や西郷菊次郎らのようにダムや堤防建設に尽くした人もいた。彼らの存在も現地の人々から今も日本人が敬愛される大きな理由となっている。
一方、国民党は四十年以上の長きにわたって戒厳令を敷き、抵抗勢力を惨殺し、言論の自由を奪った。中国の人権無視もヒドイが、国民党独裁時代の弾圧もこれまたヒドイものであった。李登輝が現れ民主化が進み、ようやく台湾の人たち(特に本省人と呼ばれる人々)は解放されたと言ってよい。
今も中国統一・現状維持を主張する国民党と台湾独立を説く民進党の対立は続いている。これは単なる政党の対立ではなく、外省人と本省人との対立でもある。台湾の選挙はいつも熱い。しかし、普段、会社内では誰が外省人で誰が内省人なのか、特に言葉が不自由な日本人には見えにくい。これも台湾人の生活の知恵なのだと思うが、基本的には職場で政治を議論することはない。
中国大陸との確執はそう容易に片が付くものではないであろう。恐らくまだ暫く時間を要するであろう。しかし、中国に返還された香港が、「一国二制度」を唱えつつ時間の経過とともに中国に取り込まれる様を台湾の人々はどうみているだろうか。自由と民主主義を手に入れた台湾の人たちにとって、人権を抑圧する中国政府のやり方は、到底受け入れられるものではないだろう。台湾が中華人民共和国の一自治区に収まる日は永遠に来ないと信じたい。中国が成熟した大人の国なのであれば、いつか過去を洗い流し、台湾を独立した国と認めても良いのでないか。今でも実質的に台湾は独立している。中国が可とすれば、台湾はほかの国とも国交を樹立することができ、一人前の国としての扱いを受けることができる。台湾もそれを認めてくれた中国に対し決して悪い感情は持たないだろう。
十年前の台湾出張時に購入した本であるが、台湾旅行を前に久しぶりに本書を本棚から引っ張り出して読み返してみた。十年前にこの本を買ったのは、四重渓温泉の琉球藩民五十四名墓が掲載されていたからであるが、台湾の苦難の歴史が端的に述べられているほか、台北に偏らないで地方の無名の史跡も多数紹介されている。台湾に住んで十年以上という筆者の台湾への愛があふれる一冊である。

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奥多摩

2017年10月20日 | 東京都
(竹島家)
 JR川井駅を降りると、多摩川にかかる奥多摩大橋が目に入るが、川井の交差点をこの橋と反対側、すなわち北側に三十分ほど歩くと、大丹波の集落に行き着く。道路に沿って大丹波川の清流が流れ、付近ではニジマス釣りが盛んである。川井駅から往復一時間。良い汗をかいた。

 大丹波の集落の中で、土蔵を備えた一際大きな家が竹島家である(奥多摩町大丹波99)。
 慶応四年(1868)五月の飯能戦争で大敗を喫した振武軍は潰走した。生き残った隊士は、新政府軍の追及を逃れるためにそれぞれ山地に潜入した。


竹島家

 振武軍隊士三名が大丹波村の竹島武右衛門家に一夜の宿を求めた。同家の伝承によれば、うち一人は手傷を負っていたという。次の日、彼らは三本の刀を残して御嶽山方面に逃げて行ったという。この刀は、第二次世界大戦の前後まで竹島家の土蔵の二階に保管されていたそうだが、戦後銃砲刀剣登録制度が実施されると手続きが煩雑なため提出してしまい、現存していないという(「幕末維新江戸東京史跡辞典」(新人物往来社))。

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青梅 Ⅱ

2017年10月20日 | 東京都
(宗福寺)
 JR青梅駅から徒歩数分。宗福寺には西分町名主を務めた浜中良亮(よしあきら)の墓がある(青梅市西分町1‐33)。宗福寺墓地は小高い丘陵に設けられており、その西端に近い場所である。


宗福寺

 慶応四年(1868)、箱根ヶ崎の振武軍から黒沢村名主とともに青梅の代表として呼びつけられた。地形の説明と援助を要求されたが、良亮は地形の不利を説明し、ルートを飯能に変更させることに成功した。一説に、森下の陣屋検地役人から密命を帯びていたともいわれる。明治二十八年(1895)、六十八歳にて没。


温良院恭斎義敬居士(浜中良亮の墓)

(青梅商工会議所)


青梅商工会議所

 現在、青梅市商工会議所がある辺りに米穀商兼質屋を営む吉野屋があった(青梅市上町373)。
 慶応二年(1866)三月から続いた天候不順は、著しい物価の高騰を招き、商人や金融業を営んでいる者が多額の利益を挙げていた。そのため、質草すらなくなった農民窮民が、慶応二年(1866)六月十三日に武州秩父の名栗村で一揆を起すと、たちまち関東西部一帯に拡がった。成木村の農民を主流とする一党は、北小曽木の吹上峠を越えて、黒沢村の豪農柳内幸助邸、酒造柳内源之助邸、糸商兼質屋中村忠蔵邸を破却し、六月十五日、青梅宿に出現した。
 一揆勢は上町の吉野屋根岸久兵衛邸を打ち壊しにかかった。一切の家財道具は散乱し、破られた米俵からこぼれた米で周囲の道路が一面真白になったといわれる。
 さらに本町の酒造豊島屋佐藤庄次郎、住江町の小間物商兼三好屋海藤などを次々と破却し、今度は東西に分れて、東勢は新町から瑞穂村の長谷部新田に向い、西勢は御嶽村、柚木村で打ち壊しをしながら進撃した。その後、東勢は八王子の築地の渡しで、西勢は五日市村のまいまい坂でそれぞれ壊滅した。

(金剛寺)


金剛寺

 箱根が崎を発した振武軍は、一説に拠れば青梅の金剛寺を目指したといわれるが、結局彼らは飯能に向かった。
 金剛寺は、境内に幼稚園や広い駐車場を備えた寺院で、大軍を駐屯させるには十分な広さを有している(青梅市天ケ瀬町1032)。
 なお本堂前の青梅は、季節が過ぎても黄熟せず、落実まで青いため「青梅」と呼ばれる。青梅市の名称もこれに拠っている。


金剛寺の青梅

 どうでもいい話であるが、プロレスラーのストロング金剛は、青梅市出身である。私が青梅の事業所に勤務していた頃、時々犬を連れて付近を散歩していた。別に何かしたわけではないが、坊主頭の巨漢が歩いているだけで、ちょっとおっかない思いをしたものである。ストロング金剛のリングネームは、この寺に拠ったものだろうか。

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船橋 Ⅵ

2017年10月20日 | 千葉県
(海神念仏堂)
 二回目の海神念仏堂である。かつてここには脱走方四人と薩州一人の戒名を連刻した墓碑があった。脱走方とは幕軍の撒兵隊のことである。昭和八年(1933)、小室彌四郎らの墓の右側後にこの墓碑がみすぼらしく傾いていたことを佐々木晧堂という人が記録しており、昭和三十四年(1959)刊行の「船橋市史前篇」にそのスケッチが載っているらしいが、その行方は分からなくなっていた。(『「遺聞」市川・船橋戊辰戦争』内田宜人著 崙書房)
 最近になってこの墓碑が復元された。敵と味方が一緒に葬られている、不思議な墓である。


心誠院衽刃喜楽居士 脱走方
誠志院向銃勇照居士   同
慈誠院臨刃躍応居士   同
誠忠院逢銃善心居士   同
華誠院連刃光西居士  薩州

 『「遺聞」市川・船橋戊辰戦争』に、念仏堂墓地の矢作家墓所に「慈誠院刃躍応居士 姓氏不詳」という墓があることが記載されている。早速、矢作家の墓所を探した。
 驚いたことに、念仏堂墓地には矢作家の墓地が複数あった。それも一つや二つではない。確かにこの付近を歩いていると矢作姓の表札を掲げる家が多い。
 一つひとつ矢作家の墓石を確認して漸く一つの墓に行き着いた。辛うじて戒名の一部が読み取れる。


慈誠院刃躍応居士 姓氏不詳

 先に紹介した連名墓の中に酷似した戒名があり、同一人物と推定される。ただし、何故矢作家の墓にこの人物だけが合葬されているのか謎多き墓である。戦闘の後、無名の脱走方兵士の遺骸が矢作家の敷地内に残されていたということだろうか。

(大覚院)


大覚院

 海神の大覚院は朱色の山門が有名で、「あかもん寺」とも称される。私が訪れたとき、ちょうど山門および本堂の改築工事中で、その赤門も本堂も見ることができなかった。
 江原鋳三郎率いる撤兵隊第一中隊半隊の一部は、大覚院に砲を置き、福岡藩兵を中心とする新政府軍に弾丸を浴びせた。堪らず福岡藩兵は四散して退却し、とどまった一部は土手に拠って応戦した。

(薬王寺)


薬王寺

(長福寺)
 薬王寺、長福寺とも、船橋宿に北方、少し高くなった丘の上に立つ寺院である。両寺院とも船橋戦争の際、全焼した。


長福寺

 慶応四年(1868)閏四月三日、市川・船橋戦争の火蓋が切られた。夏見台から船橋を目指す新政府軍の主力佐土原藩軍は、夏見村で堀大隊と衝突した。このとき撤兵隊の一部は、東方の浸食谷をへだてた金杉台を迂回して、佐土原軍の背後をついた。佐土原藩は大砲で反撃し、後方の敵を撃破し、ついで前面の敵を攻撃した。この戦闘で、夏見村の薬王寺、長福寺はいずれも佐土原軍によって焼かれた。この火がもととなって夏見村の半分が焼けた。未明から始まった戦闘は既に四時間が経過しており、佐土原藩兵は疲れ切っていたが、斥候の報告により船橋大神宮に陣をおく堀大隊はまだ迎撃の準備を完了していないことを知り、一挙に船橋に突入することを決した。
 船橋の旧幕軍を追い払うと、敵の再侵入を防ぐため、佐土原藩は船橋宿にも放火し、船橋大神宮はこのとき焼失した。佐土原藩が船橋を制圧したのは同日の午後二時頃であった。


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梅島 Ⅱ

2017年10月20日 | 東京都
(梅田神明宮)


梅田神明宮


教祖之碑(禊教師井上正鐡碑)

 梅田神明宮は、慶長年間の創建と伝えられる。明歴あるいは宝暦年間の江戸の大火にて芝神明宮が類焼した直後、神明社として建立され、のちに梅田神明宮と改称された(足立区梅田6‐19‐4)。
 天保十一年(1840)、井上正鐡(まさかね)大人が神主に就任し、息の行法をもって神道の極意を伝え、大名から庶民に至るまであらゆる階層の人々が入門して教えを受けた。正鐡は禊教教祖として崇められて、梅田神明宮に祭神として祀られている。正鐡によって伝えられた神道行法も、今に伝えられている。井上正鐡は天保十三年(1842)、幕府滅亡を予言するような言動を理由に三宅島に流され、嘉永二年(1849)、現地で没した。

(梅島稲荷)


梅島稲荷

 梅島稲荷(足立区梅田5‐9‐5)の本殿の右手奥に井上正鐡の墓がある。左手には正鐡の妻安西男也の墓が並べられている。
 なお、正鐡の墓は、梅田稲荷のほか、谷中霊園と没地である三宅島の三ヶ所にある。


井上正鐡大人之墓

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恵比寿 Ⅲ

2017年10月14日 | 東京都
(別所児童公園)


別所児童公園

 江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に「講」がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。別所坂を登りきった高台に新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸の名所の一つとなっていた。この新富士は、幕府の役人であり、蝦夷地における探検調査で知られる近藤重蔵が文政二年(1819)、自分の別邸内に築いたものである。見晴らしがよく、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(「遊歴雑記」)と書かれた。新富士は昭和三十四年(1959)に取り壊され、山腹にあった「南無妙法蓮華経」「小御嶽」「吉日戊辰」などの銘のある三つの石碑が別所児童公園内に移設されている(目黒区中目黒2‐1)。

 重蔵は大阪勤番弓奉行を命じられると、塚原半之助に屋敷と庭園の管理を頼んだ。半之助は重蔵の留守中に隣接地に蕎麦屋を開業し、そこから新富士が見えるように重蔵の敷地を勝手に改造してしまった。文政四年(1821)、大阪から戻った重蔵は、屋敷地が改造されていることに激怒し元に戻すように要求したが、半之助は従わなかった。
 重蔵の息子、富蔵は父重蔵と仲が悪かったといわれる。父に従って大阪に赴くと、そこで女と知り合い結婚を誓ったが、父重蔵は認めなかった。そこで父を窮地に追い込んでいる塚原半之助を討てば、結婚を許してもらえると考え、文政九年(1826)五月十八日、半之助の蕎麦屋を襲撃し、半之助やその妻、母ら一家七人を斬殺した。評定の結果、近藤家は断絶、重蔵は近江国大溝藩分部家に預けられ、富蔵は八丈島に流罪となった。重蔵は近江で没したが、富蔵は明治十三年(1880)に許されて本土に戻った。その後八丈島に帰りそこで生涯を閉じた。
 七人を殺害するという残忍極まりない事件を起こした富蔵であったが、罪を悔い、八丈島では虫も殺さぬ生活を送ったといわれる。滞在中に地理や風俗をまとめた「八丈実記」七十二巻をまとめあげた。民族学者柳田國男は、富蔵を我が国民俗学の草分けと絶賛している。


新富士の石碑
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靖国神社 Ⅴ

2017年10月14日 | 東京都
(北の丸公園)
 北の丸公園内に弥生慰霊社という神社がある。警視庁および東京消防庁の殉職者を祀ったものであるが、特別功労者として初代大警視川路利良とフランスから招かれて警察顧問をつとめたガンベッタ・グロースも合祀されている。


弥生慰霊社

 北の丸公園は非常に広大な敷地を有するが、重厚な田安門から入って直ぐに左手に弥生慰霊社がある。公園の案内地図にも載っていないが、「昭和天皇御野立所跡」石碑が目印である。


田安門

 田安門が創建された年代は明らかではないが、寛永十三年(1636)と推定されている。ただし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期に撤去されたが、昭和三十六年(1961)~四十一年(1966)の修理の際、復旧整備されたものである。田安門は江戸城の総構え完成当時に遡る現存唯一の遺構となっている。

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