これも大河ドラマ関連本。
西郷隆盛の人生は謎に満ちている。幕末維新期に活躍した人物は何千何万といるが、謎の数でいえば群を抜いている。
まず、月照との入水事件。月照は息を引き取り、西郷は蘇生した。西郷がここで命を落としていれば、無論、その後の西郷隆盛は存在しない。本書では小林秀雄と林房雄の酒席での論争を紹介している。小林秀雄は「西郷のような大望を持った者が、あのような死に方を選ぶのは僕にはわからない、不可解だ。」と話したそうである。
次いで元治元年(1864)の第一次長幕戦争。西郷ははじめ長州征伐を強硬に主張した。長州人を狡猾と断じ、もし長州が投降したら〈わずかに領地を与え、東国辺へ国替え迄は仰せ付けられず候わでは、往先御国(ここでは薩摩藩)の災害を成し〉と言い切っている。ところが、自ら岩国に出向き、長州側の吉川監物と談判した西郷は、三家老の自刃をもって戦争を終わらせた。このとき何故考えを急転換したのか。
沖永良部島に流された西郷は、和泊の野外に急ごしらえされた、二坪余りの狭隘なる牢に入った。〈東西戸ナク南北壁ナク四面繞ラスニ四寸角余ノ格子ヲ以ッテシ〉というほどの粗末な造りであった。西郷は不平もいわずに荒畳に端坐し続けた。見かねた土持政照は拍子木を与えて何かあったら叩くようにと促し、入浴で牢を出るとき機会をとらえて運動を進めたが、西郷は応じなかった。何故頑なに狭い牢から出ようとしなかったのだろうか。
特権を奪われる士族の面目守護者との像を示した一方で、秩禄処分には原則的に賛成している。さらには反開化主義士族の頭領然としてありながら、明治三年(1870)に岩倉具視に提出した建白書では〈西洋各国迄も普く斟酌〉して国家のしくみを整えよと主張している。そして廃藩置県にひと言の反論もせずに同意した。留守政府の首班となった西郷は数々の近代化政策を進めた。たとえば、士農工商の身分撤廃、農民の土地所有権認可、被差別民解放令と人身売買禁止令の布告、学制の公布(国民皆教育路線の成立)、新橋―横浜間の鉄道敷設、陸海軍両省設置と徴兵制の導入、裁判所の設置、国立銀行条例の制定、さらには太陽暦の採用など、近代化の重点政策がこのときの政府によって矢継ぎ早におこなわれた。西郷その人は「古い道徳」を堅牢にもち、「封建」の世の秩序を心の奥深く蔵し、明治十年(1877)には「最後のサムライ」として城山で滅んだ。一方で近代化政策を推し進めたというのはどういう心事だったのだろうか。
そして最大の謎は、何故西郷は遣韓使節を主張したのか、である。このテーマについては、これだけで一冊の本になるほど奥が深く、これまでも様々な論者がこの解明に挑んでいる。
明治六年の政変後、西郷は一介の農夫と化した。我が国でただ一人の陸軍大将として、さらに近衛都督と参議を兼ね、いわば最高の栄爵を極めた人物が、一転して地方に逼塞し、そこで鍬をふるったなどという例は西郷の前にも後にもない。
あの西南戦争も謎だらけである。何故西郷は、決起は愚かなことだと知りつつ「負け戦」へ突入したのか。何故一切陣頭指揮を取らなかったのか。何故一路熊本城を目指したのか。敗色が濃くなっても、何故早期に降伏しなかったのか。晩年の西郷は、体調も勝れず、常に死を意識することになった。むしろ死に逃避する傾きがあった。そのことを思えば、当人は戦死することに対して何のためらいもなかったかもしれないが、前途ある若者まで道連れにすることは、果たして西郷の本意だったのだろうか。もっと早く降伏すれば多くの命を救えたはずだし、それができたのは西郷しかいなかったのである。
本書では、できる限り西郷自身が残したテクスト ――― 漢詩、書簡、弔文など ――― に立ち返ることに努めているが、基本的に西郷は筆マメな方ではないし、日記の類は残していない。従って、西郷に関わる数々の謎を解明しようとすれば、西郷の書き残したテクストを点として、その点と点を結ぶ西郷の心事は、想像や推論で埋めるしかないのである。
筆者は、悪戦苦闘しつつ、謎の真相に迫ろうとする。それが成功したかどうかは、読み手によって異なるだろう。
個人的には、西郷の言動を何でもかんでも「是」として解釈する姿勢にはやや違和感がある。例えば、「武職の長として明らかに巨人」「日本の軍指導者の将器についてひとつの理念型」「将の将たる器」「武職の長としてゆるぎない存在」と、言葉を尽くして称賛するが、本当にそうだろうか。自分が一介の軍兵だったとして、そのトップが「死に癖」「死の誘惑にとらわれやすい」人物だったら、どうだろう。個人的には真っ平御免である。西郷隆盛という人は軍人としては決して適性が高かったようには思えない。
同様に政治家として、壁に当たるたびに隠遁しようとする癖は褒められたものではない。筆者は徳富蘇峰の言葉を引いて「高踏勇退の癖」ともっともらしい言葉を使って美化するが、政治家としてみれば、あまりにも無責任といえよう。
私は、軍人としての西郷、政治家としての西郷をどうしても評価できないのである。一方、人格者として西郷をとらえれば、これほど無私無欲で、清廉潔白な人物は、日本史上を眺めても西郷をおいてほかに存在しない。誰もが認める「立国の功労者」でありながら、西郷は再三にわたって位記返上を申し出た。政府高官(井上馨や大隈重信ら)が、茶屋遊びに興じ、〈家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀〉る様子を〈天下に対し、戦死者に対して面目無き〉と嘆いた。参議大隈重信は白馬に乗って、元旗本の大邸宅から太政官に通った。西郷はこうした連中を蔑んだ。こと倒幕に際して流した血と汗の量の少なかった肥後閥には、根底に反感があったであろう。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」これが西郷の魅力であり、人気の理由である。しかし、超越した人格者が必ずしも軍人、政治家として優れているとは限らない。そこをごちゃまぜにしてはいけないように思うのである。
西郷隆盛の人生は謎に満ちている。幕末維新期に活躍した人物は何千何万といるが、謎の数でいえば群を抜いている。
まず、月照との入水事件。月照は息を引き取り、西郷は蘇生した。西郷がここで命を落としていれば、無論、その後の西郷隆盛は存在しない。本書では小林秀雄と林房雄の酒席での論争を紹介している。小林秀雄は「西郷のような大望を持った者が、あのような死に方を選ぶのは僕にはわからない、不可解だ。」と話したそうである。
次いで元治元年(1864)の第一次長幕戦争。西郷ははじめ長州征伐を強硬に主張した。長州人を狡猾と断じ、もし長州が投降したら〈わずかに領地を与え、東国辺へ国替え迄は仰せ付けられず候わでは、往先御国(ここでは薩摩藩)の災害を成し〉と言い切っている。ところが、自ら岩国に出向き、長州側の吉川監物と談判した西郷は、三家老の自刃をもって戦争を終わらせた。このとき何故考えを急転換したのか。
沖永良部島に流された西郷は、和泊の野外に急ごしらえされた、二坪余りの狭隘なる牢に入った。〈東西戸ナク南北壁ナク四面繞ラスニ四寸角余ノ格子ヲ以ッテシ〉というほどの粗末な造りであった。西郷は不平もいわずに荒畳に端坐し続けた。見かねた土持政照は拍子木を与えて何かあったら叩くようにと促し、入浴で牢を出るとき機会をとらえて運動を進めたが、西郷は応じなかった。何故頑なに狭い牢から出ようとしなかったのだろうか。
特権を奪われる士族の面目守護者との像を示した一方で、秩禄処分には原則的に賛成している。さらには反開化主義士族の頭領然としてありながら、明治三年(1870)に岩倉具視に提出した建白書では〈西洋各国迄も普く斟酌〉して国家のしくみを整えよと主張している。そして廃藩置県にひと言の反論もせずに同意した。留守政府の首班となった西郷は数々の近代化政策を進めた。たとえば、士農工商の身分撤廃、農民の土地所有権認可、被差別民解放令と人身売買禁止令の布告、学制の公布(国民皆教育路線の成立)、新橋―横浜間の鉄道敷設、陸海軍両省設置と徴兵制の導入、裁判所の設置、国立銀行条例の制定、さらには太陽暦の採用など、近代化の重点政策がこのときの政府によって矢継ぎ早におこなわれた。西郷その人は「古い道徳」を堅牢にもち、「封建」の世の秩序を心の奥深く蔵し、明治十年(1877)には「最後のサムライ」として城山で滅んだ。一方で近代化政策を推し進めたというのはどういう心事だったのだろうか。
そして最大の謎は、何故西郷は遣韓使節を主張したのか、である。このテーマについては、これだけで一冊の本になるほど奥が深く、これまでも様々な論者がこの解明に挑んでいる。
明治六年の政変後、西郷は一介の農夫と化した。我が国でただ一人の陸軍大将として、さらに近衛都督と参議を兼ね、いわば最高の栄爵を極めた人物が、一転して地方に逼塞し、そこで鍬をふるったなどという例は西郷の前にも後にもない。
あの西南戦争も謎だらけである。何故西郷は、決起は愚かなことだと知りつつ「負け戦」へ突入したのか。何故一切陣頭指揮を取らなかったのか。何故一路熊本城を目指したのか。敗色が濃くなっても、何故早期に降伏しなかったのか。晩年の西郷は、体調も勝れず、常に死を意識することになった。むしろ死に逃避する傾きがあった。そのことを思えば、当人は戦死することに対して何のためらいもなかったかもしれないが、前途ある若者まで道連れにすることは、果たして西郷の本意だったのだろうか。もっと早く降伏すれば多くの命を救えたはずだし、それができたのは西郷しかいなかったのである。
本書では、できる限り西郷自身が残したテクスト ――― 漢詩、書簡、弔文など ――― に立ち返ることに努めているが、基本的に西郷は筆マメな方ではないし、日記の類は残していない。従って、西郷に関わる数々の謎を解明しようとすれば、西郷の書き残したテクストを点として、その点と点を結ぶ西郷の心事は、想像や推論で埋めるしかないのである。
筆者は、悪戦苦闘しつつ、謎の真相に迫ろうとする。それが成功したかどうかは、読み手によって異なるだろう。
個人的には、西郷の言動を何でもかんでも「是」として解釈する姿勢にはやや違和感がある。例えば、「武職の長として明らかに巨人」「日本の軍指導者の将器についてひとつの理念型」「将の将たる器」「武職の長としてゆるぎない存在」と、言葉を尽くして称賛するが、本当にそうだろうか。自分が一介の軍兵だったとして、そのトップが「死に癖」「死の誘惑にとらわれやすい」人物だったら、どうだろう。個人的には真っ平御免である。西郷隆盛という人は軍人としては決して適性が高かったようには思えない。
同様に政治家として、壁に当たるたびに隠遁しようとする癖は褒められたものではない。筆者は徳富蘇峰の言葉を引いて「高踏勇退の癖」ともっともらしい言葉を使って美化するが、政治家としてみれば、あまりにも無責任といえよう。
私は、軍人としての西郷、政治家としての西郷をどうしても評価できないのである。一方、人格者として西郷をとらえれば、これほど無私無欲で、清廉潔白な人物は、日本史上を眺めても西郷をおいてほかに存在しない。誰もが認める「立国の功労者」でありながら、西郷は再三にわたって位記返上を申し出た。政府高官(井上馨や大隈重信ら)が、茶屋遊びに興じ、〈家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀〉る様子を〈天下に対し、戦死者に対して面目無き〉と嘆いた。参議大隈重信は白馬に乗って、元旗本の大邸宅から太政官に通った。西郷はこうした連中を蔑んだ。こと倒幕に際して流した血と汗の量の少なかった肥後閥には、根底に反感があったであろう。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」これが西郷の魅力であり、人気の理由である。しかし、超越した人格者が必ずしも軍人、政治家として優れているとは限らない。そこをごちゃまぜにしてはいけないように思うのである。