史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 Ⅹ

2009年07月19日 | 東京都
実はこれまで何度も覚王院義観の墓を訪ねて谷中霊園をアタックしているが、失敗を重ねている。今日は義観の墓まで行き着かなければ帰らないと気合いを入れて臨んだ。そのお陰でようやく義観の墓に出会うことができた。
 義観の墓は、谷中霊園の7号11側に近い真如院墓地にある。


寂静心院義観塔

 覚王院義観は、新座郡根岸村の出身。二十六歳のとき住職となって輪王寺宮執当覚王院となった。慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦争で幕軍が敗れ官軍が江戸に迫ると、徳川慶喜は寛永寺に入って謹慎の意を表した。慶喜を護衛するという名目で彰義隊が結成され、官軍に一矢報いたいという旧幕臣らを吸収して、みるみる間に数を増やした。上野戦争が勃発すると、輪王子宮公現法親王(のちの北白川能久親王)を守って会津若松から仙台まで逃れたが、同年九月に捕えられ江戸に送還された。罪状が確定する前に獄死(一説には絶食による自死)した。四十七歳。吉村昭の小説「彰義隊」では、輪王寺宮との仲が次第に疎遠になっていく様子を印象的に描いている。


従四位南摩羽峯先生之墓

 墓には南摩羽峯という雅号が刻まれているが、諱名は綱紀(つなのり)。文政六年(1823)若松城下に生まれ、幼くして藩校日新館に入って頭角を表した。二十五歳で藩命により、江戸の昌平黌に学んだ。更に安政二年(1855)以降、藩命を受けて関西諸州を歴遊して各地の内情を探った。文久二年(1862)からは、蝦夷に渡りその地に六年とどまった。鳥羽伏見の戦いが起こると大阪に潜行して形勢を探策し帰藩した。会津落城後は、一時高田藩に幽閉されたが、維新後は太政官、文部省を経て、東京大学教授、高等師範学校教授を歴任し、西村茂樹らと弘道会を結成して副会長に就いた。八十七歳にて没。
 谷中霊園には、南摩羽峯の顕彰碑も建てられている。


羽峯南摩先生碑銘


沼間蓮翠翁之墓

 幕臣沼間守一の墓である。安政六年(1859)、長崎にて英学を修め、のちに幕府の陸軍伝習生として仏式操練を習い、慶応四年(1868)一月には歩兵頭並まで進んだ。戊辰戦争では伝習隊精鋭二十名を率いて江戸を脱走し、会津、庄内藩兵に操練を教授した。維新後は大蔵省に出仕、継いで司法省に転じて欧米各国を周遊して帰国した。帰国後は民権論を唱え、嚶鳴社を組織した。のちに東京横浜毎日新聞を経営し、晩年には東京府会議長も務めた。明治二十三年(1890)年四十八にて死去。
 司馬遼太郎先生の長編「翔ぶが如く」は、欧行中の川路利良と沼間守一のやりとりで幕を開ける。多弁な沼間とほとんど口をきかない川路とが対照的に描かれる。司馬先生は、沼間守一の人となりを多彩な表現で描きだす。「人の心をえぐるような雄弁のもちぬし」「江戸っ子のくせにおよそ愛想というもののない男」「つねに自分が関心をもっていること以外、他人の関心に興味を示さない男」読者には沼間守一という人物が目の前に立っているようなリアルさを持って伝わってくるのである。


櫻老加藤煕之墓

 墓の前に猫が昼寝を貪っていた。ここを居場所と決めているらしく、カメラを構えたくらいでは動き出す気配はなかった。
 加藤桜老(有隣)は笠間藩士で、会沢正志斎、藤田東湖の門下に学んだ。藩校時習館で学んだあと、学識の高さを買われて十八歳の若さで都講に就任している。安政三年(1856)には筑波山、加波山など十三の山々が見えることから、笠間の自宅を十三山書楼と名付け悠々自適の生活を楽しんだ。多くの同志がここを訪ねており、なかでも万延元年(1860)九月には、諸国遊歴中の高杉晋作が訪問していることは注目される。二人は随分と意気投合したらしい。

 
陸軍主計総監男爵野田豁通之墓

 野田豁通は、熊本藩士。戊辰戦争従軍後、軍事参謀試補、軍監、胆沢県少参事、弘前県参事、青森県大参事、勧農寮大属を歴任。西南戦争には会計軍吏正として従軍し、以後、陸軍の会計関係の重職を担っている。明治三十七年(1904)からは貴族院議員を務めた。大正二年(1913)、五十八歳にて死去。
 豁通の甥に「城下の人」を著わした石光真清がいる。「城下の人」を読むと、野田豁通は田舎から出てきた石光真清を随分と支援したようである。上京してきたものの勉学に身が入らない石光真清を、受験に専念させるために預けたのが柴五郎のもとであった。ここから石光真光と柴五郎との生涯を通じた交友が始まる。その後、真清の子、真人の手により柴五郎の遺書が校訂され「ある明治人の記録」(中公新書)として世に出ることになった。野田豁通の墓の前で、そのことに想いを馳せた。


平野富二之墓

 平野富二は、弘化三年(1846)長崎の生まれ。三歳のとき父を失い、苦学の末、本木昌造に見いだされて、長崎製鉄所で機関手候補となった。本木昌造から汽船航法等を学び、慶応二年(1866)には回天丸を江戸に回航させた。明治三年(1870)には本木昌造のあとを受けて製鉄所所長となったが、翌年には製鉄所の工部省移管に反対して辞官した。その後、しばらく昌造を助けて活版印刷事業に従事したが、明治九年(1876)、海軍省の石川島造船所を借り受け、石川島平野造船所(IHIの前身)と改称して、鋼鉄、砲艦等の製造に寄与した。年四十七にて没。


東洋小野梓墓

 小野梓は、嘉永五年(1852)に土佐藩宿毛に生まれた。明治初年に三年間米英に留学し、帰国して司法省に出仕した。やがて、大隈重信のブレーンとなって、法律の整備と会計検査の基礎作りに貢献した。明治十四年の政変で大隈が下野すると、小野も政府を去った。大隈重信に協力して立憲改進党の結成に尽力すると同時に、明治十五年(1882)十月、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に関わった。しかし、明治十九年(1886)一月、病のため三十五歳という若さで世を去った。

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「世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵」 原口泉著 PHP新書

2009年07月18日 | 書評
 ともすれば、我々は歴史の面白さに耽溺し、歴史から現代に生きる知恵を学ぶことを忘れてしまいがちである。だから、歴史は繰り返すし、人類は同じ過ちを犯すのである。
 この本では、島津斉彬、小松帯刀、坂本龍馬、大久保利通、岩崎弥太郎、浜崎太平次、渋沢栄一、五代友厚、松方正義、前田正名、さらに渋沢敬三、松方幸次郎といった、幕末から明治を生きたさまざまな先人の生き方や思想を紹介しながら、「百年に一度の大不況」の出口を示唆する。たとえば前田正名の人生から「中央主導での経済再生には、もう任せておけない。『百年の計』で地域社会と民生の安定を目指し、地域から旗揚げしていくためにも、私たちは前田正名から多くのことを学ぶべき」と(どこかの県知事のようなことを)主張する。私は、ことの良否を判断するだけの材料を持ち合わせていないが、国家を挙げて富国強兵のキャッチフレーズのもとで、まっしぐらに近代工業化に突き進んでいるときに、農村の立て直しに身命を賭けていた前田正名のような人物がいたということは非常に興味深い。
 筆者は、アメリカ型の市場経済至上主義に警鐘を鳴らすとともに、渋沢栄一の生き方に照明を当てる。渋沢栄一は、数多くのメーカーや金融機関を創設したが、決して己の利益だけを追求したわけではない。「義が利を生む」「論語算盤説」「道徳経済合一説」を実践した渋沢栄一の姿勢を我々は想い起こすべきだ。日本人には「陰徳の精神」があった。CSRなどと声高にアピールするのではなく、人知れず社会に還元することが真の社会貢献だと著者は主張する。
 そりゃあ、そうかもしれないが…と思うのである。著者の主張には全く同感であるが、一方で現代資本主義社会において、我利我利亡者のような株主の意向を無視して、利益に直結しない社会貢献に多額の資金を注ぎ込むことなどできようか。経営者にはそれほどの裁量も与えられていないのが現実である。社会の熟成を待たねば、今すぐ企業が「陰徳」を積むことにはならないだろうと思うのである。

 なお、本書P.101に京都の小松邸のことが出ている。
―――維新後、この屋敷は大久保利通に譲られ、今は大久保利通邸という碑が建てられていて、(小松)帯刀の屋敷だったことは何も残されていません。
 とあるが、大久保利通が維新後、京都に居を構えたという記憶がなかったので、念のため調べてみた。石田孝喜「幕末京都史跡大事典」によると、大久保利通が藩邸を出てこの屋敷に移ったのは慶応二年(1866)のことである。現在も同所に残る茶室は小松邸から移築されたものらしいが、いずれにせよ、この地が小松邸だった履歴はないようである。また、京都における小松帯刀の邸宅位置については、正確にいうと確定には至っていないようであるが、堀川一条の近衛家堀川屋敷辺りと推定されている。


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笠間

2009年07月11日 | 茨城県
(宍戸藩陣屋跡)

 この日は、古河から下妻、筑西を経て笠間に至るルートを走破した。梅雨のさなかで天候が心配であったが、悪い予感は的中するもので、案の定雨に襲われた。その上、下調べが十分行き届かず、目的地に行き着かないことも何回もあり、“惨敗”という一日であった。日を改めて再挑戦を誓った。


宍戸藩陣屋

 宍戸藩は、水戸黄門こと徳川光圀が、弟松平頼雄に一万石を与えて支藩としたものである。天狗党の乱が起きると、宍戸藩九代藩主松平頼徳は幕命を受けて鎮圧に向かったが、もともと天狗党に同情的であった頼徳は鎮圧に失敗した。頼徳勢は大発勢と呼ばれた。大発勢は、諸生党のこもる水戸城に迫り開城を求めたが、拒絶され那珂湊方面に引き上げた。そこで天狗党と共同戦線を戦う形となり、当初の目的である鎮撫を果たせないばかりか、更に混乱を深める結果となった。責任を負った頼徳は投獄され、切腹を命じられた。宍戸松平藩は改易に処され、頼徳の父、頼位(よりたか)は官位剥奪の上、新庄藩にお預け、江戸藩邸の家臣約五十名も高松藩にお預けとされた。

(宍戸藩陣屋長屋門)


宍戸藩陣屋長屋門

 宍戸藩陣屋にあった長屋門が笠間市土師に移築されている。

(養福寺)


養福寺


宍戸藩天狗党殉難碑

 大田町養福寺境内には、宍戸藩校教授であった川口翊宸の撰文、書による天狗党殉難碑が建てられている。

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下妻

2009年07月11日 | 茨城県
(大宝八幡神社)


大宝八幡神社

 下妻市北郊の大宝八幡神社は、大宝年間(701~)に起源を遡るという古い歴史を持つ神社である。室町時代には、下妻城主多賀谷氏の庇護を受けて隆盛を誇った。
 元治元年(1864)七月九日早朝、多宝院に本営を置く、追討軍を潰走させた天狗勢は、大宝八幡神社で奇襲成功を感謝するため社殿に拝礼して勝鬨をあげた。

(多宝院)


多宝院

 元治元年(1864)七月、筑波山にたてこもる天狗勢を追討するため、軍監氷見貞之丞と小出順之助指揮する幕府軍と水戸藩門閥派市川三左衛門率いる水戸藩軍は下妻に入り、多宝院、新福寺、光岸寺、林翁寺、圓福寺、光明寺、観音寺、雲充寺、専覚寺といった主だった寺院や商家を宿舎として分宿した。氷見と小出は、多宝院を本営と定め、市川ら水戸藩兵は新福寺を宿所とした。
 筑波山をおりた天狗勢と追討軍は下妻郊外で緒戦を戦ったが、火力兵力に優る追討軍が終始優勢で、天狗勢を敗走させた。
 少ない兵力で追討軍をやぶるために、天狗勢は参謀飯田軍蔵を道案内に、藤田小四郎、竹内百太郎らが各隊を率いて幕府軍本営多宝院に夜襲を仕掛けた。虚を突かれた幕府軍は、ある者は寝巻きのまま飛び出し、ある者は裸体で逃げ惑った。このとき多宝院は炎に包まれ全焼した。
 勢いをかって天狗勢は、水戸藩の宿所である新福寺を襲い、水戸藩兵を追い払った。市川三左衛門は、命からがら辛うじて逃げのびたという。

(新福寺)


新福寺

 市川三左衛門が宿所とした新福寺である。

(光明寺)
 光明寺門前には、天狗勢と幕府追討軍との間での戦闘で戦死した追討軍側三名の墓がある。


光明寺


追討軍兵士の墓

 向って右が、下妻藩士大野権次の墓。中央の墓の主である酒井玄八郎とともに、七月九日の多宝院における戦闘で戦死した。
 左の墓は、佐々木運八家来弥吉のものとある。死亡日は七月十一日となっているが、やはり同所における戦闘の犠牲者である。

(光岸寺)


光岸寺


今邨忠禮之墓

 下妻藩は、一万石という小さな藩であった。城は持たず、陣屋が置かれていた。幕末の藩主は井上正巳。戊辰戦争が起きると、井上正巳は新政府軍への加担を決めたが、一部の佐幕派藩士が会津に走ったため、新政府からそのことを咎められ改易の危機に瀕した。そこで佐幕派の家老、今村昇らを殺害し難を逃れた。
 光岸寺には、殺害された今村昇(忠礼)の墓がある。

(雲充寺)


雲充寺

 天狗勢の一隊、三橋金六の率いる兵四百が下妻に入ったときには、多宝院も焼けおち追討軍も逃げ去ったあとであった。三橋は、高崎藩兵がのこる雲充寺に攻め入った。高崎藩兵は抵抗らしい抵抗も見せず敗走した。

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筑西

2009年07月11日 | 茨城県
(下館城跡)


下館城址

 慶応四年(1868)四月十七日早朝、旧幕諸隊を率いる土方歳三は、二門の四ポンド山砲を据えて下館城の大手門に照準を合わせ、軍使を城内に派遣し降伏を勧めた。
 下館藩は、石川家二万石の小藩である。藩主石川総管(ふさかね)は、小大名でありながら、幕末に講武所奉行、陸軍奉行並、若年寄を歴任した若手官僚のホープであったが、土方隊の接近を聞いて早々に城を出て、水戸に逃れていた。残された藩士たちには抵抗する兵力もなく、兵糧を提供して窮地を凌いだ。

 下館城も古い歴史をもつ城であるが、これまた完璧なほど遺構らしきものは残されていない。本丸跡に下館城址の石碑と八幡神社が建てられているのみである。神社に隣接する高台に下館小学校が建てられているが、この土塁も城の遺構かもしれない。


贈従四位渋谷君碑銘

 八幡神社の境内に、下館藩士渋谷伊予作の顕彰碑がある。渋谷伊予作実行は、勤王の志を募らせ、文久元年(1861)には脱藩して上京、明治天皇の外祖父の家である中山家に仕えた。文久三年(1863)、長州藩が外国船を砲撃したことを聞くと、奇兵隊に身を投じた。のちに京都に戻って中山忠光の小姓頭となり、元治元年(1864)天誅組挙兵に参加。“天誅組四天王”の一人と称された。賊名を晴らそうと藤堂藩に謁を乞うたが、捕えられて投獄。同年三月、刑に処された。二十三歳であった。

(飯田軍蔵の墓)


贈正五位飯田軍蔵之墓

 飯田軍蔵は、天保三年(1832)木戸村の名主の家に長男として生まれた。筑西市木戸の飯田医院の裏の空き地に墓が建てられている。
 飯田軍蔵は、十五歳で江戸に出て安積昆斎に師事し、のちに水戸の弘道館に学ぶ。兵学、武技を学ぶ傍ら、勤王の諸士と交わり尊王攘夷思想を募らせた。
 元治元年(1864)、田丸稲之右衛門、藤田小四郎らとともに筑波山にて挙兵した。同年七月には幕府追討軍の陣地である下妻多宝院を奇襲して快勝を得た。そのとき軍蔵は寺の再建の資金として二十五両を寄付したという。
 更に天狗党は、武田耕雲斎と合流して東茨城小川町に陣をひいて、幕府軍宇都宮藩と激戦を交わした。軍蔵は大いに軍功をあげたが、十月十六日の部田野原の戦闘で左脚膝部に銃創を負い、後方に移送された。鉾田で治療を受けているところを幕府に知られ、間もなく捕えられ笠間の獄に入れられた。直後、創傷が悪化して死亡した。行年三十一。

(千妙寺)


千妙寺

 筑西市黒子にある千妙寺は、観応二年(1351)の開山と伝えられる古刹である。意外なほど広い境内に幾つも石碑が並んでいるが、その中で頭一つ背の高い石碑が飯田軍蔵を顕彰する忠烈碑である。


忠烈碑

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古河

2009年07月11日 | 茨城県
(古河城跡)
古河城は平安時代まで歴史を遡ることができるという古城である。江戸期には、土井家、永井家、奥平家など、幕府の要職を務める譜代大名が城主を務めた。幕末の藩主は、大老土井利勝を祖にもつ土井利与(としとも)であった。戊辰戦争が起きると藩論は割れたが、家老小杉監物の決断で幼主利与を擁して、慶応四年(1868)四月、上京して朝廷に勤王の意を表した。官軍の兵食方を命じられ、また奥州白河口に出兵。総督府へ一万五百両の献金をするなど、藩の保全に腐心した。
古河城は、相当大きな城郭を誇ったと推測されるが、見事なほど何も残っていない。明治末期から大正年間にかけ、城の東側を流れる渡良瀬川の大規模な改修工事が実施され、建造物のみならず、城址も消滅してしまった。残された数少ない遺構の一つが頼政神社である。この神社は、十七世紀末に城内に創建されたというが、やはり渡良瀬川の改修工事の際に現在地に移設されている。現在、神社の建っている台地は、古河城の土塁である。


古河城本丸跡


頼政神社

 頼政神社から渡良瀬川沿いに西に進むと、土手に古河城本丸跡の標柱に出会う。

(正定寺)


正定寺

 正定寺には、江戸初期に幕府の大老を務めた土井利勝および土井家歴代の墓がある。土井家は、歴代藩主を務めた中でも最も古河と所縁の深い家である。


土井利勝像

 土井利則は、土井宗家十三代、古河藩六代藩主である。嘉永元年(1848)前藩主の死去に伴い家督を継いだ。以後、慶応三年(1867)四月まで藩主の座にあった。その間、西洋流の砲術、教武所の創設など、藩政改革に尽力した。明治二十四年(1891)死去。六十一歳。


土井利則の墓

(泉石記念館)


泉石記念館

 古河は、有名な儒学者鷹見泉石を生んだ街である。鷹見泉石は天明五年(1785)に古河に生まれ、十三歳のとき小姓として君側に侍し、天保二年(1831)には家老に進んだ。天保五年(1834)、藩主土井利位が大阪城代として赴くのに従い、折しも勃発した大塩平八郎の乱の鎮定に功があった。天保九年(1838)、利位が老中となると、これを補佐して藩政の改革に当たった。その一方で蘭学を修め、開港を主張し、蝦夷地開拓の必要を説いた。弘化三年(1846)、幕府の忌諱に触れて退隠を余儀なくされ、古河に蟄居した。徳川斉昭、島津斉彬を始め交際が広く、門人学友には渡辺崋山、石川桜所、高野長英といった偉才が名を連ねる。安政五年(1858)七十四歳で死去。渡辺崋山筆鷹見泉石像は、強固な意思を持つ泉石の人柄を伝える肖像画で、国宝に指定されている。
 旧武家屋敷の一角に建てられた泉石記念館は、蟄居を命じられた鷹見泉石が晩年を過ごした旧宅である。

(正麟寺)


正麟寺


故太夫泉石鷹見府君之墓

 正麟寺には鷹見泉石の墓がある。故太夫泉石鷹見府君之墓と刻まれる。

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「幕末遊撃隊」 池波正太郎著 集英社文庫

2009年07月07日 | 書評
 昭和六十二年に発表された池波正太郎の作品である。主人公は伊庭八郎。池波正太郎の美意識がそのまま乗り移ったようなカッコイイ伊庭八郎である。彼が何を想って遊撃隊を率い、最期は箱館で徹底抗戦したのか、別に当人が語り残しているわけではないので、そこは想像するしかない。池波正太郎は、伊庭八郎に次のように語らせている。
――― 負けることはわかっていますが…だが、いいのですよ。徳川が豊臣をほろぼして天下をつかみとったときもそうなんだが…つまり、時世のうつりかわりの境目というやつは大切なものなんでねぇ…こういうときに、いろいろな人間が、どのような善と悪と、白と黒とを相ふくんで生きてきたか、こいつだけは、はっきりとさせておきたいのですよ
 伊庭の行動を追うと、確かに彼には、幕府の行く末も、戦争の帰趨も見えていながら、それでも薩長の作り上げた政権に尻尾を振ることには頑として抗ったように見える。徳川幕府が消えゆく瞬間、全ての日本人が合理的に判断して、幕府に殉死しようという人間が一人もいなかったというのでは、日本の歴史はあまりに寂しいものになるだろう。美意識という理屈を超えた観念に殉ずる人がたくさん産み出されたというのが、幕末という時代の特徴である。伊庭八郎のような人間どもが集団となって五稜郭に立て籠もったという歴史を、私はとても誇りに思う。

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静岡 Ⅱ

2009年07月06日 | 静岡県
(駿府城跡)


駿府城巽櫓・東御門

 泊まりがけの合宿や研修が続き、その上前日は夜遅くまで飲んだのでダメージが残っていたが、予定とおり静岡を散策することにした。先ず、静岡駅構内にある観光案内所で、この近くに自転車を貸してくれるところはないか聞いてみたが、やはり「無い」という返事であった。しかたなく、歩いて史跡を訪問することになった。終日、曇ってはいたが、蒸し暑くてかなり汗をかいた。これほど魅力的な史跡に溢れる静岡の街に、貸し自転車がないというのは理解に苦しむ。採算の覚束ない地方空港を造るより、貸し自転車の方が余程利用価値が高いように思うのだが…。
静岡駅から十分程度歩くと、広大な駿府城公園に行き着く。天守閣などの建造物は全く残されておらず、唯一東南隅に巽櫓と東御門が再建されているだけである。


徳川家康像

 徳川家康が七歳から十八歳まで、今川家の人質として暮らしたことで知られる駿府城に、その後武田氏を追った家康が天正十三年(1585)浜松城から移った。しかし、ほどなく豊臣秀吉により江戸に移封され、さらに関が原の戦後、その地で幕府を開くことになる。将軍職を次男秀忠に譲ると、家康は慶長十二年(1607)に再び駿府城に入り、以後大御所として実権を握った。家康は元和二年(1616)七十五歳にて駿府城内で亡くなった。非常に家康と所縁の深い城である。
 江戸時代、秀忠の二男忠長が改易されて以降、駿府には城主が置かれず、城代が置かれた。
 維新後、徳川慶喜に代わって徳川家を継いだ徳川家達(幼名:亀之助)が駿府七十万石を与えられ藩主に就き、廃藩置県により東京に移り住むまで、この地に居住した。


静岡学問所之碑

 駿府城周辺には、多数の史跡が残っている。駿府公園の西側、地方法務合同庁舎の前のお堀端に建てられている静岡学問所の石碑を訪ねておきたい。静岡学問所は、駿府藩の人材養成を目的に明治二年(1869)に創設されたものである。教授陣には、向山黄村、津田真一郎(真道)、中村正直(敬宇)、外山捨八(正一)ら当代一流の学者が名を連ねた。このほかに海外からも学者を招いた。間違いなく静岡学問所の教育水準は当時我が国で最高を誇っていた。しかし、明治五年(1872)、学制発布とともに教授、学生とも東京に移住したため、廃校となった。


教導石

 静岡県庁の前、三の丸の堀端には、教導石が建っている。これは明治十九年(1886)、地元の有志が住民のために建立されたもので、「教導石」の文字は山岡鉄舟が書いている。
 「尋ネル方」に質問を書いた紙を貼っておくと、反対側の「教エル方」に回答が出るという仕組みで、現代でいえばインターネットの相談コーナーみたいなもので、なかなか優れたアイデアである。尋ね事のほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告、遺失物や迷子などが掲示されたという。


駿府町奉行所址


札之辻址

 御幸通りを渡って、静岡市役所には駿府町奉行所址の碑が建てられている。駿府町奉行がこの地に置かれたのは、寛永九年(1632)のことで、以後明治元年(1868)まで六十三名が町奉行として任命された。町奉行は、裁判、町政、宿場の管理など、広範な業務を所管していた。
 駿府町奉行所址の石碑を七間町方面に一筋進むと、賑やかな交差点の一角に札之辻の碑が建っている。江戸時代、ここには駿府町奉行所によって高札場が設けられ、幕府の政策や法令が掲示されていたという。


静岡御用邸跡 明治天皇御製碑

 静岡市役所の場所には、明治三十三年(1900)に御用邸が建てられた。御製歌碑には、明治天皇の歌が刻まれている。当時、二階から富士山を臨むことができたそうである。

はるかなるものと 思いし富士の根を のきはにあふぐ 静岡のさと

(西草深公園)


西草深公園

 浅間神社の東側、西草深公園がある。この公園を含む西草深町一帯に、明治二年(1869)六月、静岡藩主となった徳川家達が屋敷を構えた。当時、使われていた門が市立静岡高等学校に移設されている。


徳川慶喜公屋敷跡

 やはり西草深町の一角に徳川慶喜公屋敷跡の石碑が建てられている。
 慶喜は、慶応四年(1868)七月から静岡の宝台院で謹慎生活を続けたが、明治二年(1869)に勤慎を解かれて、紺屋町の駿府代官屋敷(現・浮月楼)に移り住んだ。慶喜はここで約二十年を過ごしたが、明治二十一年(1888)にかつて家達が住んでいた西草深町に引っ越し、東京に戻る明治三十年(1897)までをここで過ごした。慶喜が去った後の徳川邸は、「葵ホテル」として利用され、明治三十七年(1907)には日露戦争の捕虜収容所の一つとしても使われたが、翌年火事により焼失し、その後再建されることはなかった。

(富春院)


富春院

 浅間神社からひたすら北に向かって歩く。やがて左手に朱色の門が見える。これが富春院の山門である。門の前に「尚志」と刻まれた小さな石碑が置かれている。福沢諭吉が三田聖人と呼ばれたのに対し、中村正直(敬宇)は江戸川聖人と称された。石碑には江戸川聖人中村敬宇先生が西国立志編を訳述したこと、この付近に居宅があったことが記されている。


尚志碑

(臨済寺)


臨済寺


関口隆吉之墓

 臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師として知られる太原雪斉(たいげんせっさい)による開山である。境内墓地には、氏輝と太原雪斉の墓もある。

 墓地中腹には、幕臣出身の関口隆吉(たかよし)の墓がある。関口隆吉は、米艦隊が浦賀に来航すると強硬な攘夷論を唱え、開国派の勝海舟を襲って失敗した。このことが機縁となって、海舟と交友を結んだ。明治元年(1868)の江戸開城にあたっては、精鋭隊頭取と町奉行支配組頭を兼帯し、更に閏四月には市中取締役頭となった。維新後は、地方官として活躍し、明治八年(1875)には山口県令に昇進。翌年、前原一誠が萩の乱を起こすと、直ちにこれを平定した。西南戦争時には前原残党の蠢動を許さなかった。元老院議官などを経て、明治十七年(1884)には静岡県令、同十九年に同県知事となった。特に牧の原台地の開拓に力を注いだという。明治二十二年(1889)四月、愛知県招魂祭に出席する途上、列車事故に遭い負傷し、このときの怪我が原因となり死去した。行年五十四。なお、広辞苑の編者として有名な新村出は、関口の長男である。

(蓮永寺)


蓮永寺

 蓮永寺まで、観光案内所に行き方を教えてもらいバスで行くことにした。最寄のバス停は三松である。


勝海舟翁 母信子 妹じゅん の墓

 墓前の朽ちかけた墓標には、「母信子 妹じゅんの墓」とあるが、海舟の父小吉も一緒に葬られているようである。妹じゅんは、佐久間象山に嫁いでいたが、象山が元治元年(1864)に京都で暗殺されたので、要するに出戻って静岡で一緒に生活していたのであろう。
 母信子は、明治三年(1870)三月二十五日に静岡で亡くなっている(享年六十七)。この頃、海舟は静岡に居を構えながら、たびたび新政府からの呼び出しに応じて上京し、一方で静岡に移住した徳川宗家や旧幕臣の就職や生活の支援をするといった状態で、多忙を極めていた。結局、明治五年(1872)六月に東京に戻ることになったが、静岡は海舟にとって忘れられない土地になったであろう。

(静岡市立高等学校)


静岡市立高等学校 田安門

 ちょうどこの日は、静岡知事選挙の投票日に当たっていた。あとから報道で聞いたところによると、今回の知事選は飛躍的に投票率が上昇したという。なるほど、投票所に指定されている静岡市立高校には、ひっきりなしに近所の住民が訪れていた。
 駿府藩主に任じられた徳川家達は直ちに駿府城に入ったが、翌明治二年(1869)藩籍奉還により藩知事に任命された。公私の別をつけるために家達は城を出て、西草深町の屋敷に移り住んだ。高校の南門として移築されている田安門は、徳川家屋敷の貴重な遺構である。家達が田安家の出身であったことから、田安門と称されている。

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