実はこれまで何度も覚王院義観の墓を訪ねて谷中霊園をアタックしているが、失敗を重ねている。今日は義観の墓まで行き着かなければ帰らないと気合いを入れて臨んだ。そのお陰でようやく義観の墓に出会うことができた。
義観の墓は、谷中霊園の7号11側に近い真如院墓地にある。
寂静心院義観塔
覚王院義観は、新座郡根岸村の出身。二十六歳のとき住職となって輪王寺宮執当覚王院となった。慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦争で幕軍が敗れ官軍が江戸に迫ると、徳川慶喜は寛永寺に入って謹慎の意を表した。慶喜を護衛するという名目で彰義隊が結成され、官軍に一矢報いたいという旧幕臣らを吸収して、みるみる間に数を増やした。上野戦争が勃発すると、輪王子宮公現法親王(のちの北白川能久親王)を守って会津若松から仙台まで逃れたが、同年九月に捕えられ江戸に送還された。罪状が確定する前に獄死(一説には絶食による自死)した。四十七歳。吉村昭の小説「彰義隊」では、輪王寺宮との仲が次第に疎遠になっていく様子を印象的に描いている。
従四位南摩羽峯先生之墓
墓には南摩羽峯という雅号が刻まれているが、諱名は綱紀(つなのり)。文政六年(1823)若松城下に生まれ、幼くして藩校日新館に入って頭角を表した。二十五歳で藩命により、江戸の昌平黌に学んだ。更に安政二年(1855)以降、藩命を受けて関西諸州を歴遊して各地の内情を探った。文久二年(1862)からは、蝦夷に渡りその地に六年とどまった。鳥羽伏見の戦いが起こると大阪に潜行して形勢を探策し帰藩した。会津落城後は、一時高田藩に幽閉されたが、維新後は太政官、文部省を経て、東京大学教授、高等師範学校教授を歴任し、西村茂樹らと弘道会を結成して副会長に就いた。八十七歳にて没。
谷中霊園には、南摩羽峯の顕彰碑も建てられている。
羽峯南摩先生碑銘
沼間蓮翠翁之墓
幕臣沼間守一の墓である。安政六年(1859)、長崎にて英学を修め、のちに幕府の陸軍伝習生として仏式操練を習い、慶応四年(1868)一月には歩兵頭並まで進んだ。戊辰戦争では伝習隊精鋭二十名を率いて江戸を脱走し、会津、庄内藩兵に操練を教授した。維新後は大蔵省に出仕、継いで司法省に転じて欧米各国を周遊して帰国した。帰国後は民権論を唱え、嚶鳴社を組織した。のちに東京横浜毎日新聞を経営し、晩年には東京府会議長も務めた。明治二十三年(1890)年四十八にて死去。
司馬遼太郎先生の長編「翔ぶが如く」は、欧行中の川路利良と沼間守一のやりとりで幕を開ける。多弁な沼間とほとんど口をきかない川路とが対照的に描かれる。司馬先生は、沼間守一の人となりを多彩な表現で描きだす。「人の心をえぐるような雄弁のもちぬし」「江戸っ子のくせにおよそ愛想というもののない男」「つねに自分が関心をもっていること以外、他人の関心に興味を示さない男」読者には沼間守一という人物が目の前に立っているようなリアルさを持って伝わってくるのである。
櫻老加藤煕之墓
墓の前に猫が昼寝を貪っていた。ここを居場所と決めているらしく、カメラを構えたくらいでは動き出す気配はなかった。
加藤桜老(有隣)は笠間藩士で、会沢正志斎、藤田東湖の門下に学んだ。藩校時習館で学んだあと、学識の高さを買われて十八歳の若さで都講に就任している。安政三年(1856)には筑波山、加波山など十三の山々が見えることから、笠間の自宅を十三山書楼と名付け悠々自適の生活を楽しんだ。多くの同志がここを訪ねており、なかでも万延元年(1860)九月には、諸国遊歴中の高杉晋作が訪問していることは注目される。二人は随分と意気投合したらしい。
陸軍主計総監男爵野田豁通之墓
野田豁通は、熊本藩士。戊辰戦争従軍後、軍事参謀試補、軍監、胆沢県少参事、弘前県参事、青森県大参事、勧農寮大属を歴任。西南戦争には会計軍吏正として従軍し、以後、陸軍の会計関係の重職を担っている。明治三十七年(1904)からは貴族院議員を務めた。大正二年(1913)、五十八歳にて死去。
豁通の甥に「城下の人」を著わした石光真清がいる。「城下の人」を読むと、野田豁通は田舎から出てきた石光真清を随分と支援したようである。上京してきたものの勉学に身が入らない石光真清を、受験に専念させるために預けたのが柴五郎のもとであった。ここから石光真光と柴五郎との生涯を通じた交友が始まる。その後、真清の子、真人の手により柴五郎の遺書が校訂され「ある明治人の記録」(中公新書)として世に出ることになった。野田豁通の墓の前で、そのことに想いを馳せた。
平野富二之墓
平野富二は、弘化三年(1846)長崎の生まれ。三歳のとき父を失い、苦学の末、本木昌造に見いだされて、長崎製鉄所で機関手候補となった。本木昌造から汽船航法等を学び、慶応二年(1866)には回天丸を江戸に回航させた。明治三年(1870)には本木昌造のあとを受けて製鉄所所長となったが、翌年には製鉄所の工部省移管に反対して辞官した。その後、しばらく昌造を助けて活版印刷事業に従事したが、明治九年(1876)、海軍省の石川島造船所を借り受け、石川島平野造船所(IHIの前身)と改称して、鋼鉄、砲艦等の製造に寄与した。年四十七にて没。
東洋小野梓墓
小野梓は、嘉永五年(1852)に土佐藩宿毛に生まれた。明治初年に三年間米英に留学し、帰国して司法省に出仕した。やがて、大隈重信のブレーンとなって、法律の整備と会計検査の基礎作りに貢献した。明治十四年の政変で大隈が下野すると、小野も政府を去った。大隈重信に協力して立憲改進党の結成に尽力すると同時に、明治十五年(1882)十月、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に関わった。しかし、明治十九年(1886)一月、病のため三十五歳という若さで世を去った。
義観の墓は、谷中霊園の7号11側に近い真如院墓地にある。

寂静心院義観塔
覚王院義観は、新座郡根岸村の出身。二十六歳のとき住職となって輪王寺宮執当覚王院となった。慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦争で幕軍が敗れ官軍が江戸に迫ると、徳川慶喜は寛永寺に入って謹慎の意を表した。慶喜を護衛するという名目で彰義隊が結成され、官軍に一矢報いたいという旧幕臣らを吸収して、みるみる間に数を増やした。上野戦争が勃発すると、輪王子宮公現法親王(のちの北白川能久親王)を守って会津若松から仙台まで逃れたが、同年九月に捕えられ江戸に送還された。罪状が確定する前に獄死(一説には絶食による自死)した。四十七歳。吉村昭の小説「彰義隊」では、輪王寺宮との仲が次第に疎遠になっていく様子を印象的に描いている。

従四位南摩羽峯先生之墓
墓には南摩羽峯という雅号が刻まれているが、諱名は綱紀(つなのり)。文政六年(1823)若松城下に生まれ、幼くして藩校日新館に入って頭角を表した。二十五歳で藩命により、江戸の昌平黌に学んだ。更に安政二年(1855)以降、藩命を受けて関西諸州を歴遊して各地の内情を探った。文久二年(1862)からは、蝦夷に渡りその地に六年とどまった。鳥羽伏見の戦いが起こると大阪に潜行して形勢を探策し帰藩した。会津落城後は、一時高田藩に幽閉されたが、維新後は太政官、文部省を経て、東京大学教授、高等師範学校教授を歴任し、西村茂樹らと弘道会を結成して副会長に就いた。八十七歳にて没。
谷中霊園には、南摩羽峯の顕彰碑も建てられている。

羽峯南摩先生碑銘

沼間蓮翠翁之墓
幕臣沼間守一の墓である。安政六年(1859)、長崎にて英学を修め、のちに幕府の陸軍伝習生として仏式操練を習い、慶応四年(1868)一月には歩兵頭並まで進んだ。戊辰戦争では伝習隊精鋭二十名を率いて江戸を脱走し、会津、庄内藩兵に操練を教授した。維新後は大蔵省に出仕、継いで司法省に転じて欧米各国を周遊して帰国した。帰国後は民権論を唱え、嚶鳴社を組織した。のちに東京横浜毎日新聞を経営し、晩年には東京府会議長も務めた。明治二十三年(1890)年四十八にて死去。
司馬遼太郎先生の長編「翔ぶが如く」は、欧行中の川路利良と沼間守一のやりとりで幕を開ける。多弁な沼間とほとんど口をきかない川路とが対照的に描かれる。司馬先生は、沼間守一の人となりを多彩な表現で描きだす。「人の心をえぐるような雄弁のもちぬし」「江戸っ子のくせにおよそ愛想というもののない男」「つねに自分が関心をもっていること以外、他人の関心に興味を示さない男」読者には沼間守一という人物が目の前に立っているようなリアルさを持って伝わってくるのである。

櫻老加藤煕之墓
墓の前に猫が昼寝を貪っていた。ここを居場所と決めているらしく、カメラを構えたくらいでは動き出す気配はなかった。
加藤桜老(有隣)は笠間藩士で、会沢正志斎、藤田東湖の門下に学んだ。藩校時習館で学んだあと、学識の高さを買われて十八歳の若さで都講に就任している。安政三年(1856)には筑波山、加波山など十三の山々が見えることから、笠間の自宅を十三山書楼と名付け悠々自適の生活を楽しんだ。多くの同志がここを訪ねており、なかでも万延元年(1860)九月には、諸国遊歴中の高杉晋作が訪問していることは注目される。二人は随分と意気投合したらしい。

陸軍主計総監男爵野田豁通之墓
野田豁通は、熊本藩士。戊辰戦争従軍後、軍事参謀試補、軍監、胆沢県少参事、弘前県参事、青森県大参事、勧農寮大属を歴任。西南戦争には会計軍吏正として従軍し、以後、陸軍の会計関係の重職を担っている。明治三十七年(1904)からは貴族院議員を務めた。大正二年(1913)、五十八歳にて死去。
豁通の甥に「城下の人」を著わした石光真清がいる。「城下の人」を読むと、野田豁通は田舎から出てきた石光真清を随分と支援したようである。上京してきたものの勉学に身が入らない石光真清を、受験に専念させるために預けたのが柴五郎のもとであった。ここから石光真光と柴五郎との生涯を通じた交友が始まる。その後、真清の子、真人の手により柴五郎の遺書が校訂され「ある明治人の記録」(中公新書)として世に出ることになった。野田豁通の墓の前で、そのことに想いを馳せた。

平野富二之墓
平野富二は、弘化三年(1846)長崎の生まれ。三歳のとき父を失い、苦学の末、本木昌造に見いだされて、長崎製鉄所で機関手候補となった。本木昌造から汽船航法等を学び、慶応二年(1866)には回天丸を江戸に回航させた。明治三年(1870)には本木昌造のあとを受けて製鉄所所長となったが、翌年には製鉄所の工部省移管に反対して辞官した。その後、しばらく昌造を助けて活版印刷事業に従事したが、明治九年(1876)、海軍省の石川島造船所を借り受け、石川島平野造船所(IHIの前身)と改称して、鋼鉄、砲艦等の製造に寄与した。年四十七にて没。

東洋小野梓墓
小野梓は、嘉永五年(1852)に土佐藩宿毛に生まれた。明治初年に三年間米英に留学し、帰国して司法省に出仕した。やがて、大隈重信のブレーンとなって、法律の整備と会計検査の基礎作りに貢献した。明治十四年の政変で大隈が下野すると、小野も政府を去った。大隈重信に協力して立憲改進党の結成に尽力すると同時に、明治十五年(1882)十月、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に関わった。しかし、明治十九年(1886)一月、病のため三十五歳という若さで世を去った。