史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたのか」 鏡川伊一郎 於:文京シビックセンター

2014年10月25日 | 講演会所感
以下は「書評」ではなく、先日(平成二十六年十月二十一日)、受講した講演の所感である。
先日、新宿歴史博物館が開催する歴史講座「高須四兄弟~幕末維新を生き抜いた大名家の兄弟~」に申し込んだところ、「定員六十名のところ、合計百六十名という大変多くの皆様からお申込みがあり、抽選の結果、残念ながら貴意に添えない結果となりました。」と返信があり、要するに敢え無く落選した。世の中にこれほど幕末史に興味を持つ人がいることが少し驚きであった。
その直後、新聞の関東版の記事で、今回の講演のことを知った。さすがに高須四兄弟と比べれば、赤松小三郎の知名度は低い。こちらは簡単に予約できた。
この日は早々に仕事を切り上げ会場である文京シビックセンターに駆け付けた。五分ほど遅刻してしまったが、ちょうど講演が始まったところであった。
一言でいうと、この講演には大いに落胆した。そもそも「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたのか」と題しておきながら、肝心の赤松小三郎の暗殺に触れたのはほんのわずかであった。「赤松小三郎は薩摩藩の軍事顧問を担当しており、薩摩藩の軍事機密を知ってしまった故に暗殺された」というのがこの講演の核心であるが、本当に赤松小三郎は薩摩藩の軍事機密を知っていたのかという点について、この講演では触れられることはなかった。赤松小三郎が薩摩藩の軍事機密を握っていたがために暗殺されたという説は、ウキペディアにも記載されている説で、取り立てて目新しいものではない。そう主張するのであれば、もう少しその根拠にまで踏み込んでもらいたかったと思うのである。
まず鏡川先生は、孝明天皇の崩御に始まる慶應二年末から鳥羽伏見戦争に至る幕末史を概観されたが、桜田門外の変や錦の御旗にまで話が飛んで、なかなか本題に入らない。開演から一時間が経とうという頃、ついに聴講者の一人が手を挙げ「私は赤松小三郎について話を聞きに来た」と発言し、ようやく本題に入ることになった。
その中で鏡川先生は「私は西郷隆盛が大嫌い」「テロリスト西郷」などと発言された。嫌いな人物の事績は全て「悪」という歴史の見方は歪んでいる。西郷隆盛が討幕のためにあらゆる権謀術数を駆使したことは否定しない。恐らくその全容が明らかになれば、世間に流布している人格者西郷隆盛のイメージは随分と違ったものになるだろう。それほどアクドイことにも手を染めたことはあっただろうし、非情・冷酷といえるような手だても取ったであろう。綺麗ごとだけでは討幕といった事業を成し遂げることなどできなかったと私は思う。
因みに私としては、西郷隆盛はどちらかというと「好き」な方であるが、私の「好き」という意味は単なる好悪を言っているのではなくて、「もっと知りたい」と思う対象か否かというだけである。好悪で判断すると、歴史を見る目が曇ってしまうような気がしてならない。
西郷が月照と錦江湾に入水したのは、錦江湾の水温を計算して、月照だけを死に至らせるための暗殺であるというのは、珍説・奇説としては面白いが、多くの聴衆を前に影響力のある先生が発言する類のものではないだろう。
西郷が写真を残さなかったのは、暗殺を恐れてのことだという説も同様である。西郷以外にも写真を残さなかった人物は大勢いる。その全員が同様に暗殺を恐れていたというのであればこの説も説得力があるが、あまりに主観的・直感的に過ぎないか。
孝明天皇の暗殺説については、今やアカデミーの世界では否定されているが、鏡川先生は「孝明天皇を暗殺したのは岩倉具視。毒を盛ったのではなく、天然痘ウィルスを食事に混ぜたのであろう。」と自説を述べている。しかし、幕末の医療水準で、天然痘ウィルスを採取してそれを食べ物に混入させることが可能だったのか(それが可能であれば、ほかにもこの手の毒殺が使われていそうなものだが…)。これは居酒屋の与太話でなく、有料の講演である。大勢の聴衆を前に話をするのであれば、それなりに根拠を検証した上で披露してもらいたいものである。さもなければ、これは故人に対する冒涜ではないか。
最後は「明治維新は、薩長によるインチキ政権」と星亮一ばりの主張まで出現し、辟易してしまった。私は薩長政権を手放しに礼賛するものではないし、旧幕府や会津藩の言い分も理解しているつもりであるが、それにしても感情的で偏った発言には違和感を覚える。講演の途中で挙手をして脱線続きの講話に抗議したあの男性は、講演の内容に耐えられなかったのか(はたまた何か用事があったのか)途中で退席されてしまった。
ここまで筆の勢いに任せて不平不満を書き連ねてきたが、決してそればかりで終わったわけではない。私は京都の金戒光明寺と上田の月窓寺の赤松小三郎の墓に詣でているし、京都東洞院の暗殺場所も訪れたことがある。従って赤松小三郎という名前は決して知らなかったわけではないが、その事績については詳細を承知していなかった。一般にはあまり著名ではない赤松小三郎について、長野県の上田高校の同窓生が中心となり赤松小三郎研究会なるものを設立し、小三郎の研究に努めているという。この日の講演会では赤松小三郎が松平春嶽に宛てた「政体改革意見書」のコピーが配られた。小三郎はこの中で議会制度の導入や学校の開設、税制改革、貨幣制度、海陸軍の兵備、畜産の奨励など、先進的な意見を具申している。これが坂本龍馬の「船中八策」の一か月前のことである。こうした埋もれた幕末の人物の功績を掘り起し、世に知らしめるという地道な活動をされている団体が存在しているということに大変感銘を受けた。この日の講演会にも、研究会の方がたくさん出席されており、大いに熱意を感じることができたのは収穫であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幕末軍艦咸臨丸 上」 文倉平次郎著 中公文庫

2014年10月25日 | 書評
植松三十里の「咸臨丸、サンフランシスコへ」を読んで、早速インターネットで探してこの本を古本で入手した。上下二巻にわたる大部の書で、読破するのに相当な時間とエネルギーを要する。さすがに一人の男が生涯をかけて書き上げた書籍だけのことはある。一か月を費やして、ようやく上巻を読み終えることができた。取り敢えず、ここでは上巻の書評のみとし、下巻については別に記すことにする。
上巻では咸臨丸の誕生から太平洋横断、それから箱館戦争で最期を迎えるまでの「一生」を克明に紹介している。咸臨丸が登場したのは、まさに幕末動乱期であり、かの一生も波乱に満ちたものであった。
咸臨丸の名を歴史上不動のものにしたのは、万延元年(1860)の太平洋横断であった。艦長勝海舟が船酔いのために船室に閉じこもったまま、ほとんど用を成さなかったのは有名な逸話である。海舟が船室に入ったまま出てこなかったのは、船酔いのせいだけでなく、不平不満が充満して、ふてくされていたという事情もあったようである。それだけでなく、海舟は、入港の際に掲げる徽号(旗印)のことや、祝砲に対する答礼のことなど、一々ケチをつけている(「咸臨丸亜行日記」)。木村喜毅が大人の対応をしたので大ごとにならなかっただけのことである。
これを見ると、海舟という人は、自分の権限をかさにきた、実にイヤな人物である。会社組織でもこういう人は必ず存在していて、こちらから持って行った提案に対して、必ず首を縦に振らない。一回は難癖をつけるというお偉い様がいるものであるが、海舟もその一人かもしれない。
後世から見れば、勝海舟は幕臣でありながら日本の将来を見通し、我が国の海軍創設に重要な役割を果たし、さらに江戸城無血開城の最大の功労者として史上燦然たる名を残しているが、そういう教科書的な記述では伺い知れない、臨場感にあふれた記述がこの本の魅力である。勝海舟という人物の臭いが漂ってくるようなリアリティである。行間に著者の海舟嫌い、芥舟(木村喜毅)好きが透けて見える。
咸臨丸といえば太平洋横断の快挙ばかりが脚光を集めるが、その後、対馬でロシア艦船が騒動を起こした事件や、小笠原諸島の調査にまで遠征していることはあまり知られていない。戊辰戦争にも参加しようとしているが、実はその時点では機関は老朽化して取り外され帆船となっていた。とても軍艦と呼べるものではなく、実際幕府の軍艦籍からは外されていた。幕府艦隊は慶応四年(1868)八月に品川を発したが、鹿島灘で遭難した。咸臨丸は漂流して下田にたどり着いた。さらに船体修理のため清水港に入ったところで拿捕された。ここで乗組員が官軍に斬殺される悲劇が起きている。
戦後、咸臨丸は開拓使の手に渡り明治四年(1871)九月、北海道木古内の更木岬沖で難破して沈没したが、どういうわけか、これだけ咸臨丸の生涯について徹底的に調査した文倉平次郎が「筆者はその後の文献に接しないので不明である」としている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田原 黒羽 Ⅱ

2014年10月19日 | 栃木県
(鎮国社)


鎮国社

 黒羽城址公園の前の道を北上する。鎮国社は、その左手の林の中に鎮座しているが、そこにあるという情報がなければ、入ってみようとは思わないような場所である。道路脇の小道を登ると、静かな境内が出迎えてくれる。


大関公之碑

 本殿の前に大関公之碑がある。大関増裕の顕彰碑である。明治七年(1875)三月建立。勝海舟の撰文。
 大関増裕は、外様の小藩の藩主であり、本来であれば幕政に参画することはあり得なかったが、譜代の名門西尾氏(遠江横須賀藩)の出身であったことから、幕府に重用されて講武所奉行や陸軍・海軍奉行さらに若年寄などの要職を歴任した。




鈴木庄作正直墓

 参道脇に墓地があり、そこに鈴木庄作の墓が二つある。うち一つは官修墳墓である。鈴木正作の諱は正直または正勝。慶応四年(1868)四月十八日、斥候に出たところを幕兵に捕えられ、翌十九日、下野蓼沼村で斬。四十五歳(三十二歳とも)。

(黒羽招魂社)


黒羽招魂社

 黒羽招魂社(黒羽神社)は、明治二年(1869)十二月、戊辰戦争における黒羽藩の戦死者四十七霊を祀るため、大関増勤らにより創建された神社である。のちに日清・日露・太平洋戦争の戦死者の霊が合祀されることになった。


大関増裕像


高橋長雄戦死之碑

 高橋長雄は、通称高橋亘理、鹿之助とも呼ばれた。小隊長。明治元年(1868)九月十四日、若松城下にて戦死。三十五歳。この戦死之碑は、明治二年(1869)九月、三田称平の撰文、土浦雪江の書ならびに篆額にて建立された。


地山三田翁碑

 三田称平は、文化八年(1811)、黒羽藩士秋庭清房の子に生まれ、のちに三田政武の養子となった。号は地山。郡奉行として民政に尽くし、飛び地の益子においては益子焼を奨励した。安積艮斎に朱子学を学び、陽明学者大塩平八郎の下で学んだこともあった。藩校作新館の学頭をしていた慶應四年(1868)閏四月、情勢探索のため仙台に派遣された。時に白石で奥羽列藩会議が開催中であったことから、称平も招かれて、列藩同盟への加入を求められた。しかし、拒絶して帰国。藩論を尊王に一本化した。維新後は藩公議人を務め、私塾地山堂を開き、子弟教育に当たった。明治二十六年(1893)、八十二歳で没。


益子信明戦死之碑

 益子四郎信明の慰霊碑である。益子四郎は、小隊長。江戸で学び、洋式兵法、砲術に長じた。物頭。慶応四年(1868)八月二十三日、下野小谷村にて戦死。二十二歳。明治十三年(1881)建碑。

(前田赤台共同墓地)
 前田共同墓地を探して、走り回った末に偶然前田赤台共同墓地にたどり着いた。念のため墓地内を歩いてみると、ちょうどその真ん中辺りに官修墓地があり、黒羽藩鮎瀬文蔵の墓があった。偶然の所産である。


正棟院戦山良功居士(鮎瀬文蔵の墓)

 鮎瀬文蔵は、五郎ともいう。諡号を正棟。黒羽藩二番隊(隊長渡邊福之進隊)平士。慶応四年(1868)九月五日、会津若松にて戦死。十九歳。

(前田共同墓地)
 今回の栃木県下の史跡訪問では、竹様のHPを参考にさせていただいたが、毎度のことながら竹様の探求力というか、発見能力には感心させられる。この前田共同墓地についても、私は竹様のHPであらかたの位置が分かったから行き着けたようなものである。県道26号線から墓地に至る道は、未舗装道路である。私は一旦自動車で行こうとしたが、とても最後まで行けないと危険予知して、途中から引き返して県道に車を止め、そこから歩いて前田共同墓地まで移動した。ほぼ十分かかった。途中は田畑しかないような場所で、この先に墓地があるという確信は持てない。よく前田共同墓地を探し出したものだと、心の底から感心する。


新江新吾克己墓

 新江新吾は、新吉ともいう。名は克己。明治元年(1868)九月二十七日、下野佐良土村で南下してきた水戸市川勢と遭遇し戦死。四十六歳。


新江壽三郎正教墓

 新江壽三郎は、名を正教または克成といった。卒。慶応四年(1868)四月十八日、官軍隊長祖式金八郎と連絡に出て、幕兵に捕えられ、十九日、下野河内郡本郷村で斬。二十五歳。

(午居渕共同墓地)


小室末蔵政重墓

 小室末蔵は、明治元年(1868)九月二十七日、下野佐良土にて戦死。二十五歳。墓石は新しく建て替えられたものらしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田原 Ⅱ

2014年10月19日 | 栃木県
(大田原護国神社)

前回大田原神社を訪ねたとき、境内の石碑や石燈籠の類はことごとく倒壊しており、目当てだった招忠魂碑も見つけられなかった。あれから数年が経ち、境内もかなり整理されたようである。


招忠魂碑

 神殿の前に移設された招忠魂碑を発見した。裏面には、「戊辰役大田原藩戦死人名」と刻まれ、軍夫を含めて十八名の戦死者名が記されている。明治十年(1877)の建碑。

(不退寺)
 新富町の不退寺には、会津藩野出政之進の墓がある。意外と小さな墓で、見つけ出すまで三十分以上、墓地内を歩き回った。


不退寺


辨阿義頓居士(野出政之進の墓)

 会津藩野出政之進の墓である。側面には「奥州会津若松藩 野出蔵主墓」とある。野出政之進は、土屋八左衛門の子。百石。歩兵差図役。慶応四年(1868)五月二日、下野大田原にて戦死とされるが、大田原藩士と口論の末、斬殺されたという。大田原藩士は、腹いせに墓石に刀で斬りつけたそうで、その逸話を裏付けるように、今も墓石の上部には刀痕が残っている。二十六歳であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五十里

2014年10月11日 | 栃木県
(長念寺)


長念寺

 鬼怒川温泉郷からさらに国道121号線(会津西街道)を北上すると、巨大な五十里ダムに行き着く。国道は二筋に分れて五十里ダム沿いに続く。そのうち右のルートはダムでせき止められてできた湖(五十里湖)の東岸を北上する。とても国道とは思えない道である。路上には雨で流されてきたと思われる土砂や木の枝がそのまま散らかっている。分岐した国道が合流するという地点の手前に長念寺(かつては、五十里湖の湖底にあったそうである)がある。何の表示もないので、余程気を付けて走っていないと見落としてしまうだろう。
 急な坂道を登ると、ぽっかりと開いた空間があってそこに長念寺の堂と墓所がある。墓地には会津藩井上佐久馬の墓がある。


井上佐久馬墓

 井上佐久馬は六石五斗二人扶持。朱雀足軽二番桜井隊に属した。慶応四年(1868)閏四月十七日、下野大桑村にて戦死。三十二歳。
 今回の栃木県史跡訪問の旅は、天気には恵まれなかった。ずっと曇り空で、時折雨が降った。唯一、長念寺を訪ねたときだけ、青空を見ることができた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鬼怒川 Ⅱ

2014年10月11日 | 栃木県
(鬼怒川公園)

 鬼怒川公園には「日蓮上人遺跡」とされる帝釈堂があるが、その手前の斜面に戊辰戦争当時の塹壕跡が残る。


帝釈堂


塹壕跡

 旧幕軍は伝習隊、草風隊、会津藩隊から構成されていた。現在、鬼怒川公園のある小原沢は、モウキ山が鬼怒川に突き出したところで、通行の難所の一つであった。新政府軍がここを越えて、上り坂になっている切通しを通行しようとすると対岸の小高い丘から旧幕軍は一斉に射撃した。現在も当時の塹壕跡がかなり明確に残っている。

(弾除けの松)


弾除けの松

 鬼怒川小学校の裏手の山の斜面に「弾除けの松」がある。小原沢における決戦の際、対岸の佐賀藩陣屋から放たれる砲弾を、旧幕兵は大松の蔭に身を隠して難を逃れたという言い伝えがある。樹齢四百年といわれた大松は、平成八年(1996)七月、当地を襲った突風により倒れたが、その後、地元住民の手により二代目の松が植えられている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今市 Ⅲ

2014年10月11日 | 栃木県
(大室)


戊辰役戦死者墓

 大室の戊辰役戦死者墓は、この地で戦死した会津藩士三名を慰霊するものである。被葬者は不明。平成十六年(2004)、地元の狐塚義久氏が建立したものである。
 ちょうど県道279号線が二股に別れる交差点付近に狐塚氏墓所があるが、同じ山林の中の少し離れた場所にある。

(来迎寺)


来迎寺

 森友の明静寺の墓地は本堂に向って左右に分かれているが、左手の比較的古い墓地内の齊藤家墓所内に齊藤嘉兵衛の墓石がある。また齊藤家の墓所には、平成十六年(2004)に末裔である齊藤岳彦氏が「森友村名主首を斬らる」と書いた小さな碑も置かれている。


洗譽水心悦雲善清信士(齊藤嘉兵衛の墓)

 齊藤嘉兵衛(墓碑には齊藤嘉平とある)は、森友村の名主である。旧幕軍に兵糧を提供したとして、慶応四年(1868)七月二十六日、佐賀藩兵に斬首された。

(明静寺)
 明静寺には阿久津安之助の墓がある。墓石の背面には「会津軍行村惣代死 安之助」とある。この墓は、もともと今市毘沙門山麓の雑木林内の瀬尾上ノ平一二五七番地墓地にあったが、平成三年七月、子孫の意思により明静寺墓地に改葬されたものである。


明静寺


忠運全恵清信士(阿久津安之助の墓)

 今市で戦闘が繰り広げられていた頃、瀬尾村は東西両軍の中間地帯であった。そこに東軍(会津藩兵か)がきて「若者を従軍させよ。さもなくば村を焼く」と村役人を脅かした。村では一同相談の上、阿久津安之助ら三名を差し出し、焼き討ちを免れた。明治元年(1868)十月、安之助は会津まで従軍してそこで戦死。遺族は、同僚が持ち帰った遺品の頭髪や小刀を埋めて、墓を建てたと伝えられる。

(栗原)


弾痕のある墓石

 栗原の弾痕のある墓石を訪ねたのは二回目である。前回は二年半前のことになるが、散々この付近を歩き回って行き着くことはできなかった。今回は、入口にこのような看板が建てられていて、お蔭で迷うことなく出会うことができた。


弾痕のある墓石

 この辺りも戊辰戦争で激戦が交わされた場所である。旧幕軍は正兵(伝習隊)と奇兵(猟師鉄砲隊)が連携をとり、策略を用いて新政府軍(土佐藩兵)を攻めた。ことに山上から狙い撃ちしてくる猟師鉄砲隊には悩まされたという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さくら

2014年10月11日 | 栃木県
(押上)


戦死二人祭の碑

 慶応四年(1868)四月、負傷して道に迷った二人の幕兵は、押上村にて村人に殺害された。その後、この地域では洪水や疫病(コレラ)が相次ぎ、村人たちは二人の怨霊と恐れ、中には碑に斬り付ける者もいた。それから百年以上が経過し、いつしかこの惨事も忘れられ、古碑も路傍に消滅しかかっていた。近在の有志一同はこのことを深く憂えて、その由来を刻み、幕兵二人の鎮魂慰霊と成した。
 辺り一面には水田が広がりばかりで、何の目印もない。この小さな石碑を見つけ出すのは至難である。

(光院)


光院

 さくら市喜連川の光院は、恵心僧都を開基とし、最初は興国寺と称していたが、元和二年(1616)に、喜連川氏初代の喜連川国朝の養母光院が現在地に移したことから寺名を改めた。本堂裏に広大な墓地が拡がるが、二基同家墓所の中に喜連川偽謀事件の首謀者が葬られている。


賢徳院碩雲大光居士
集功院智皎良順居士
實性院勇道自顯居士
(二階堂貞明父子の墓)

 喜連川藩は、足利尊氏の次男基氏の流れを汲む名族で、石高は一万石に満たない(実高五千石という)極小藩ながら、家格は十万石並という扱いを受けた。
 慶応四年(1868)七月十五日、家老二階堂貞明は、喜連川藩が会津藩に内通していると新政府に讒訴した。藩主喜連川縄氏は、二階堂貞明、貞則父子を断罪し、同年八月十三日、首謀者三名が斬刑に処された。
 処刑された二階堂貞明(号は量山)は、先代熙氏に仕えて藩政改革に取り組んだ元家老である。熙氏が亡くなり、縄氏が家督を継ぐと、失脚した。讒訴の背景には、藩内の派閥争いがあったのであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮 Ⅴ

2014年10月11日 | 栃木県
(明星院)


明星院

 白沢町の明星院の本堂横に江面家墓地があり、その中に石で囲われた官修墓地がある。
 江面常吉は、軍夫。明治元年(1868)九月八日、会津飯寺大川中にて戦死。二十三歳。


江面常吉墓

(上駒生)
 駒生町の交差点の角に、官修墓地が置かれている。被葬者は、矢古宇徳蔵。やはり軍夫で、明治元年(1868)九月十四日、会津若松河原町門内にて戦死。


矢古宇徳蔵の墓

(八幡山墓地)
 八幡山墓地に、児島強介の墓がある。児島強介は、宇都宮寺町手塚家の長女操子の婿となったため、手塚家の墓地内に墓標が建立されている。


處士強介墓

 水戸に出入りして藤田東湖と茅根伊予之介に師事し、尊攘の志を練った。十九歳のとき、江戸に出て国学を学び、武術を金子武四郎に従い、いよいよ志気卓絶。県信緝、菊池教中、大橋訥菴に師事する頃から、国事を憂えて多くの志士と交わるようになった。坂下門外の変に先立ち、文久元年(1861)の冬、訥菴の指令を受けて宇都宮を代表し、水戸藩の平山兵介とともに一切の準備に当たったが、実行する時期に来て病に罹って郷里に戻った。のちに捕えられて江戸の獄に投ぜられ、二十六歳で獄死した。
 護送の途次、石橋宿にて自ら墓標である「處士強介墓」の文字を書き残した。

(能延寺)


能延寺

 宮町の能延寺の墓地は二か所に別れており、官修墓地があるのは、本堂とは道路を挟んだ反対側の方である。
 三基の小さな墓が並んでいる。向って右の墓石には、「彦藩 雨宮良之助之墓」とある。彦根藩徒士雨宮良之助信義の墓で、慶応四年(1868)四月十六日、小山にて戦死。二十六歳。
 中央の墓は、同じく彦根藩の高木次郎の墓。墓には「彦藩 高木釟次郎之墓」と刻まれている。高木次郎は、徒士。渡辺九郎右衛門隊。同じく慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。三十六歳。
 左手の墓は、「矢島佐吉之墓」。矢島佐吉は、渡辺九郎右衛門隊。慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。二十二歳。


彦藩 雨宮良之助之墓
高木釟次郎之墓
矢島佐吉の墓

(おしどり塚公園)
 一番町一丁目の市街地の中にあるおしどり塚公園に、児島強介誕生地の石碑が建てられている。


勤皇志士 贈従五位 児島強介誕生の地

 児島強介がこの地に生まれたのは、天保八年(1837)のこと。文才に優れ、詩歌を能くし、熱血の勤皇歌人としても知られた。

(北山霊園)
 歴史読本臨時増刊「幕末維新人物総覧」(昭和五十一年)によれば、越後高田藩側用人川上直本の墓が宇都宮市岩本町の北山霊園にあるというので、行ってみた。北山霊園は、北山古墳群の麓に開かれた市営の霊園である。高い場所に上ると、田園風景と新幹線を見下ろすことができる。
 想定以上に広い墓地で、手がかりもなく特定の墓を探し当てることはほぼ不可能であった。早々にギブアップ。


北山霊園

(光音寺)


光音寺

 光音寺には、安塚の戦闘における戦死者を葬った墓がある。被葬者不明。風化が進んでおり、表面の文字は読み取れない。


戊辰戦死者墓

(幕田南原墓地)
 幕田の南原墓地にも官修墓地がある。葬られているのは、ともに宇都宮藩の軍夫、増山熊吉と荒川兵吉である。


増山熊吉墓(右)
荒川兵吉墓(左)

 増山熊吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津火玉峠にて負傷。十月二十六日死亡。荒川平吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津飯寺村にて負傷。十月七日死亡。二十三歳。

(光音寺墓地)


福富安宗神霊

 幕田の光音寺墓地には、福富姓の墓所が複数あるが、その中の一つに軍夫福富清蔵(諱・安宗)の墓がある。福富清蔵は、慶応四年(1868)九月二日、会津本郷村にて戦死。二十五歳。
 雨も降ってきたので、一日目の史跡訪問はここまで。この日は宇都宮駅前のビジネスホテルに宿をとった。宇都宮といえば、餃子である。有名な餃子の店には、長い行列ができていた。もちろん、「食べるために行列に並ばない」ことをポリシーとしている私は、ガラガラのラーメン屋に入って簡単に夕食を済ませた。

(下川岸墓地)


菊池粂蔵之墓

 二日目も早朝五時にホテルを出て、最初の訪問地が下川岸墓地(石井町)である。
 菊池粂蔵は軍夫。慶応四年(1868)九月四日、会津(九月一日火玉峠とも)にて戦死。十七歳(二十七歳説もあり)。

 今回の史跡訪問では随分「軍夫」の墓を訪ねることになった。軍夫とは、戦闘地域にて食糧や武器弾薬を運搬する従軍人夫のことをいう。軍夫は、旧幕軍、新政府軍の双方から徴発された。五月に奥羽越列藩同盟が成立し、戦局が白河口に移行すると、特に新政府軍は大量の兵士派遣を必要とした。そのため下野国内からは、多くの農民から軍夫が徴発されることになった。この一月間で徴発された軍夫は二千人に近いといわれる。軍夫の中には、戦病死するものも少なくなかった。宇都宮市内だけで軍夫の墓は、十四五基あるといわれる。さらに、異郷で戦没し、そのまま他国で葬られた例もある。軍夫の墓に出会うたびに、彼らの悲哀を感じる。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真岡 Ⅱ

2014年10月04日 | 栃木県
(東郷陣屋跡)


二宮先生遺跡 東郷陣屋趾

 東郷(ひがしごう)陣屋は、寛政十一年(1799)の建造である。嘉永元年(1848)、東郷支配山内総左衛門が兼任で真岡支配となり、真岡陣屋に移った時、代わりに二宮金次郎が東郷陣屋に入った。二宮金次郎は、山内氏に信頼され、荒地起返、用水整備、道路改修などに力を尽くした。
 慶応四年(1868)、官軍の焼き討ちにより、廃陣となった。現在は、陣屋があったことを示す石碑があるのみで、その背後には空虚な空間が広がっている。

(円林寺)


円林寺

 円林寺には、幕末の真岡代官山内源七郎とその配下の墓がある、本堂のすぐ脇である。


故代官山内源七郎之墓

 真岡代官山内源七郎の墓の前には、山内代官とともに斬刑に処された松野栽右衛門、三澤昇四郎、平田儀助(以上、真岡代官下役)の墓がある。


松野栽右衛門墓(右)
三澤昇四郎墓(左)


平田儀助墓

 真岡代官山内源七郎は、四月四日、世直し一揆がおきたことに驚いて逃亡した。宇都宮在陣の新政府軍香川敬三に支配権の維持を訴え出て、四月二十日、新政府配下の一員として真岡に帰陣した。帰陣後の山内は、能吏として働いていた。
 慶応四年(1868)五月三日、下総古河に下総野鎮撫府が開設され、鎮撫方に佐賀藩主鍋島直大が任命された。その半月後の五月十七日、真岡の代官所が鎮撫府配下の佐賀藩士島団右衛門(のちの義勇)率いる土佐藩兵により襲撃され、代官山内源七郎ほか四名の手付手代が討ち取られ、陣屋は焼き払われた。代官は三日間獄門となり高札場で晒された。罪状は、賊への手助けが理由であった(本当に山内代官が内通していたかどうかは不明)。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする