以下は「書評」ではなく、先日(平成二十六年十月二十一日)、受講した講演の所感である。
先日、新宿歴史博物館が開催する歴史講座「高須四兄弟~幕末維新を生き抜いた大名家の兄弟~」に申し込んだところ、「定員六十名のところ、合計百六十名という大変多くの皆様からお申込みがあり、抽選の結果、残念ながら貴意に添えない結果となりました。」と返信があり、要するに敢え無く落選した。世の中にこれほど幕末史に興味を持つ人がいることが少し驚きであった。
その直後、新聞の関東版の記事で、今回の講演のことを知った。さすがに高須四兄弟と比べれば、赤松小三郎の知名度は低い。こちらは簡単に予約できた。
この日は早々に仕事を切り上げ会場である文京シビックセンターに駆け付けた。五分ほど遅刻してしまったが、ちょうど講演が始まったところであった。
一言でいうと、この講演には大いに落胆した。そもそも「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたのか」と題しておきながら、肝心の赤松小三郎の暗殺に触れたのはほんのわずかであった。「赤松小三郎は薩摩藩の軍事顧問を担当しており、薩摩藩の軍事機密を知ってしまった故に暗殺された」というのがこの講演の核心であるが、本当に赤松小三郎は薩摩藩の軍事機密を知っていたのかという点について、この講演では触れられることはなかった。赤松小三郎が薩摩藩の軍事機密を握っていたがために暗殺されたという説は、ウキペディアにも記載されている説で、取り立てて目新しいものではない。そう主張するのであれば、もう少しその根拠にまで踏み込んでもらいたかったと思うのである。
まず鏡川先生は、孝明天皇の崩御に始まる慶應二年末から鳥羽伏見戦争に至る幕末史を概観されたが、桜田門外の変や錦の御旗にまで話が飛んで、なかなか本題に入らない。開演から一時間が経とうという頃、ついに聴講者の一人が手を挙げ「私は赤松小三郎について話を聞きに来た」と発言し、ようやく本題に入ることになった。
その中で鏡川先生は「私は西郷隆盛が大嫌い」「テロリスト西郷」などと発言された。嫌いな人物の事績は全て「悪」という歴史の見方は歪んでいる。西郷隆盛が討幕のためにあらゆる権謀術数を駆使したことは否定しない。恐らくその全容が明らかになれば、世間に流布している人格者西郷隆盛のイメージは随分と違ったものになるだろう。それほどアクドイことにも手を染めたことはあっただろうし、非情・冷酷といえるような手だても取ったであろう。綺麗ごとだけでは討幕といった事業を成し遂げることなどできなかったと私は思う。
因みに私としては、西郷隆盛はどちらかというと「好き」な方であるが、私の「好き」という意味は単なる好悪を言っているのではなくて、「もっと知りたい」と思う対象か否かというだけである。好悪で判断すると、歴史を見る目が曇ってしまうような気がしてならない。
西郷が月照と錦江湾に入水したのは、錦江湾の水温を計算して、月照だけを死に至らせるための暗殺であるというのは、珍説・奇説としては面白いが、多くの聴衆を前に影響力のある先生が発言する類のものではないだろう。
西郷が写真を残さなかったのは、暗殺を恐れてのことだという説も同様である。西郷以外にも写真を残さなかった人物は大勢いる。その全員が同様に暗殺を恐れていたというのであればこの説も説得力があるが、あまりに主観的・直感的に過ぎないか。
孝明天皇の暗殺説については、今やアカデミーの世界では否定されているが、鏡川先生は「孝明天皇を暗殺したのは岩倉具視。毒を盛ったのではなく、天然痘ウィルスを食事に混ぜたのであろう。」と自説を述べている。しかし、幕末の医療水準で、天然痘ウィルスを採取してそれを食べ物に混入させることが可能だったのか(それが可能であれば、ほかにもこの手の毒殺が使われていそうなものだが…)。これは居酒屋の与太話でなく、有料の講演である。大勢の聴衆を前に話をするのであれば、それなりに根拠を検証した上で披露してもらいたいものである。さもなければ、これは故人に対する冒涜ではないか。
最後は「明治維新は、薩長によるインチキ政権」と星亮一ばりの主張まで出現し、辟易してしまった。私は薩長政権を手放しに礼賛するものではないし、旧幕府や会津藩の言い分も理解しているつもりであるが、それにしても感情的で偏った発言には違和感を覚える。講演の途中で挙手をして脱線続きの講話に抗議したあの男性は、講演の内容に耐えられなかったのか(はたまた何か用事があったのか)途中で退席されてしまった。
ここまで筆の勢いに任せて不平不満を書き連ねてきたが、決してそればかりで終わったわけではない。私は京都の金戒光明寺と上田の月窓寺の赤松小三郎の墓に詣でているし、京都東洞院の暗殺場所も訪れたことがある。従って赤松小三郎という名前は決して知らなかったわけではないが、その事績については詳細を承知していなかった。一般にはあまり著名ではない赤松小三郎について、長野県の上田高校の同窓生が中心となり赤松小三郎研究会なるものを設立し、小三郎の研究に努めているという。この日の講演会では赤松小三郎が松平春嶽に宛てた「政体改革意見書」のコピーが配られた。小三郎はこの中で議会制度の導入や学校の開設、税制改革、貨幣制度、海陸軍の兵備、畜産の奨励など、先進的な意見を具申している。これが坂本龍馬の「船中八策」の一か月前のことである。こうした埋もれた幕末の人物の功績を掘り起し、世に知らしめるという地道な活動をされている団体が存在しているということに大変感銘を受けた。この日の講演会にも、研究会の方がたくさん出席されており、大いに熱意を感じることができたのは収穫であった。
先日、新宿歴史博物館が開催する歴史講座「高須四兄弟~幕末維新を生き抜いた大名家の兄弟~」に申し込んだところ、「定員六十名のところ、合計百六十名という大変多くの皆様からお申込みがあり、抽選の結果、残念ながら貴意に添えない結果となりました。」と返信があり、要するに敢え無く落選した。世の中にこれほど幕末史に興味を持つ人がいることが少し驚きであった。
その直後、新聞の関東版の記事で、今回の講演のことを知った。さすがに高須四兄弟と比べれば、赤松小三郎の知名度は低い。こちらは簡単に予約できた。
この日は早々に仕事を切り上げ会場である文京シビックセンターに駆け付けた。五分ほど遅刻してしまったが、ちょうど講演が始まったところであった。
一言でいうと、この講演には大いに落胆した。そもそも「赤松小三郎はなぜ薩摩藩の刺客に暗殺されたのか」と題しておきながら、肝心の赤松小三郎の暗殺に触れたのはほんのわずかであった。「赤松小三郎は薩摩藩の軍事顧問を担当しており、薩摩藩の軍事機密を知ってしまった故に暗殺された」というのがこの講演の核心であるが、本当に赤松小三郎は薩摩藩の軍事機密を知っていたのかという点について、この講演では触れられることはなかった。赤松小三郎が薩摩藩の軍事機密を握っていたがために暗殺されたという説は、ウキペディアにも記載されている説で、取り立てて目新しいものではない。そう主張するのであれば、もう少しその根拠にまで踏み込んでもらいたかったと思うのである。
まず鏡川先生は、孝明天皇の崩御に始まる慶應二年末から鳥羽伏見戦争に至る幕末史を概観されたが、桜田門外の変や錦の御旗にまで話が飛んで、なかなか本題に入らない。開演から一時間が経とうという頃、ついに聴講者の一人が手を挙げ「私は赤松小三郎について話を聞きに来た」と発言し、ようやく本題に入ることになった。
その中で鏡川先生は「私は西郷隆盛が大嫌い」「テロリスト西郷」などと発言された。嫌いな人物の事績は全て「悪」という歴史の見方は歪んでいる。西郷隆盛が討幕のためにあらゆる権謀術数を駆使したことは否定しない。恐らくその全容が明らかになれば、世間に流布している人格者西郷隆盛のイメージは随分と違ったものになるだろう。それほどアクドイことにも手を染めたことはあっただろうし、非情・冷酷といえるような手だても取ったであろう。綺麗ごとだけでは討幕といった事業を成し遂げることなどできなかったと私は思う。
因みに私としては、西郷隆盛はどちらかというと「好き」な方であるが、私の「好き」という意味は単なる好悪を言っているのではなくて、「もっと知りたい」と思う対象か否かというだけである。好悪で判断すると、歴史を見る目が曇ってしまうような気がしてならない。
西郷が月照と錦江湾に入水したのは、錦江湾の水温を計算して、月照だけを死に至らせるための暗殺であるというのは、珍説・奇説としては面白いが、多くの聴衆を前に影響力のある先生が発言する類のものではないだろう。
西郷が写真を残さなかったのは、暗殺を恐れてのことだという説も同様である。西郷以外にも写真を残さなかった人物は大勢いる。その全員が同様に暗殺を恐れていたというのであればこの説も説得力があるが、あまりに主観的・直感的に過ぎないか。
孝明天皇の暗殺説については、今やアカデミーの世界では否定されているが、鏡川先生は「孝明天皇を暗殺したのは岩倉具視。毒を盛ったのではなく、天然痘ウィルスを食事に混ぜたのであろう。」と自説を述べている。しかし、幕末の医療水準で、天然痘ウィルスを採取してそれを食べ物に混入させることが可能だったのか(それが可能であれば、ほかにもこの手の毒殺が使われていそうなものだが…)。これは居酒屋の与太話でなく、有料の講演である。大勢の聴衆を前に話をするのであれば、それなりに根拠を検証した上で披露してもらいたいものである。さもなければ、これは故人に対する冒涜ではないか。
最後は「明治維新は、薩長によるインチキ政権」と星亮一ばりの主張まで出現し、辟易してしまった。私は薩長政権を手放しに礼賛するものではないし、旧幕府や会津藩の言い分も理解しているつもりであるが、それにしても感情的で偏った発言には違和感を覚える。講演の途中で挙手をして脱線続きの講話に抗議したあの男性は、講演の内容に耐えられなかったのか(はたまた何か用事があったのか)途中で退席されてしまった。
ここまで筆の勢いに任せて不平不満を書き連ねてきたが、決してそればかりで終わったわけではない。私は京都の金戒光明寺と上田の月窓寺の赤松小三郎の墓に詣でているし、京都東洞院の暗殺場所も訪れたことがある。従って赤松小三郎という名前は決して知らなかったわけではないが、その事績については詳細を承知していなかった。一般にはあまり著名ではない赤松小三郎について、長野県の上田高校の同窓生が中心となり赤松小三郎研究会なるものを設立し、小三郎の研究に努めているという。この日の講演会では赤松小三郎が松平春嶽に宛てた「政体改革意見書」のコピーが配られた。小三郎はこの中で議会制度の導入や学校の開設、税制改革、貨幣制度、海陸軍の兵備、畜産の奨励など、先進的な意見を具申している。これが坂本龍馬の「船中八策」の一か月前のことである。こうした埋もれた幕末の人物の功績を掘り起し、世に知らしめるという地道な活動をされている団体が存在しているということに大変感銘を受けた。この日の講演会にも、研究会の方がたくさん出席されており、大いに熱意を感じることができたのは収穫であった。