史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

仙台 Ⅱ

2010年01月30日 | 宮城県
(日浄寺)


日浄寺


坂時秀之墓
(坂英力の墓)

 日浄寺は、JR仙山線の北仙台駅から徒歩五分ほどである。墓地の入口に近いところに坂(さか)家の墓域がある。坂時秀という名前の刻まれた墓石が、坂英力のものである。
 坂英力は、二十五歳で出仕し、藩の祭祀奉行、小姓頭を歴任した。元治元年(1864)以降、佐幕派の中枢として京都、江戸で活躍するようになった。奥羽越列藩同盟が結成されると、外交、軍事を担当した。会津藩寛典の嘆願書を携えて江戸に上ったが、上野戦争の混乱により目的を果たせなかった。最期まで抗戦を主張したため、戦後、藩の宿老但木土佐とともに東京に移送され斬罪。三十七歳であった。墓の前には、坂英力の辞世を刻んだ述懐碑が建てられている。

うきくもを 払ひかねたる 秋風の
今は我か身に しみぞ残れる
國のため捨つる命のかいあらば
身はよこしまの罪の朽つとも
危うきを見捨てぬ道の今ここに
ありて踏みゆく身こそ安けれ


仙臺藩国老坂英力君碑

 日浄寺本堂前には、坂英力の顕彰碑も建っている。

(飯沼貞吉終焉の地)


蘇生白虎隊士 飯沼貞吉終焉之地碑

 錦町光禅寺通りのアパートの一角に、ひっそりと飯沼貞吉終焉之地碑が建てられている。自刃した白虎隊士のうちただ一人生き残った飯沼貞吉は、電信技師として日本各地を転々としたが、最後の勤務地が仙台であった。貞吉は退職後も仙台に住み続け、昭和六年(1931)この地で没した。七十七歳であった。飯沼家は、平成三年(1991)までこの場所で光禅寺通幼稚園を経営していたという。

(東北大学金属材料研究所本多記念館)
 この日は、東北大学で仕事があった。片平キャンパスを訪れたところ、北門付近の金属材料研究所本多記念館の前に乃木将軍遺愛の松と書かれた石碑と、立派な松が立っているのを発見した。
 乃木希典は、日清戦争の直後の明治二十八年(1895)、第二師団長に任じられ仙台に赴任した。明治三十年(1897)、台湾総督として転出するまでの数年間をこの地で過ごした。昭和十一年(1936)、東北大学が金属材料研究所を拡張するために周辺の土地を買収した際、乃木希典の旧家も含まれており、その庭に松があったのを、現在地(金属材料研究所本多記念館前)に移植したものである。


乃木将軍遺愛の松

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「坂本龍馬を英雄にした男 大久保一翁」 古川愛哲著 講談社+α新書

2010年01月30日 | 書評
大久保一翁は、幕府の中枢にありながら、勝海舟とともに薩長両藩や尊攘派志士からも高い支持を受けた特異な幕臣であった。薩摩藩の小松帯刀は、
「一翁を老中にしなければ政治にならない」
といい、更に
「一翁と海舟が老中になれば、長州問題でも何も天下は鎮まる」
とまで断言した。
著者は、大久保一翁のことを「剛直」「無私」といった言葉で評するが、その一翁の面目が躍如としたのが、大開国論の主張であろう。慶喜による大政奉還の実に五年も前のことである。一翁の先見性、時代を見る目の鋭さに改めて驚くほかはない。
一翁が大開国論に至った一つの契機が、一橋慶喜の将軍後見職就任であった。慶喜を政治の表舞台に立たせることは、薩摩藩にとって斉彬以来の悲願であった。このとき大久保利通は
「数十年の苦心焦慮せき事、今更夢のようなる心持。皇国の大慶言語に尽くし難き次第なり」
と感慨を日記に記している。
薩摩藩が感慨に浸っている頃、一翁は勅使の待遇の改善を主張する。これに対し慶喜は、勅命で改正するのは面白くないと一蹴した。このとき一翁は、慶喜の本質を見抜いたのであろう。慶喜は、表面では尊皇を主張しながら、実質は幕権強化主義者であった。このことは時間の経過とともに誰もが認識することになるが、この時点で敏感に感じ取っていたのは一翁一人だったかもしれない。
朝廷を蔑ろにしようという慶喜の真意を知った一翁が、徳川家が朝敵となるのを回避するために思い至った思想が「大開国論」であった。
一翁の主張は、「飽くまで朝廷が攘夷を断行せよというのであれば、大政奉還するべきである。徳川家は駿遠三の一大名に身を引き、諸侯による公議会に諮って政事を行うべき。」
というものである。
当時としては突飛な発想であったが、国内に騒乱を引き起こすことなく、徳川家を朝敵の汚名から守るためには、この方法しかなかった。文久二年(1862)の段階では、一翁の主張は相手にされず、不快に感じた慶喜によって左遷の憂き目にあっただけであったが、一翁の思想の正しさは、その後の歴史が実証している。
本書のタイトルは、「坂本龍馬を英雄にした男」となっている。確かに、坂本龍馬の大政奉還論も船中八策も、大久保一翁の主張の焼き直しでしかない。一翁無くして坂本龍馬の活躍はあり得なかったというのは、著者のいうとおりと思う。しかし、一翁の偉大さを語るのに、何も龍馬の名前を本のタイトルにまで引っ張り出す必要もあるまい。龍馬ブームに便乗しようという出版社の意図かもしれないが、一過性のブームに振り回されるのではなく、大久保一翁という人物の大きさを広く知ってもらいたいと思う。

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「幕末動乱」 浅田勁著 神奈川新聞社

2010年01月16日 | 書評
このところ、「幕末維新埼玉人物列伝」(さきたま出版社)、「徳川慶喜と幕臣たち」(静岡新聞社)、「西南戦争外史」(みやざき文庫)と、続けて地方出版社の本を読むことになった。いずれも手抜きのない力作ばかりであった。大手出版社が乱造している大河ドラマ便乗本よりずっと読み応えがある。この本も神奈川新聞社が出した地方本の一つであるが、やはり充実した内容である。
――― 幕末の動乱が、すべてこの三浦半島からはじまった
と、司馬遼太郎先生がいうように、幕末史を語るとき神奈川県を避けてとおることはできない。浦賀、久里浜、三浦、横須賀、横浜…いずれも幕末に歴史が交錯する場所となった。
この本では、神奈川県各地をキーにして幕末史を俯瞰する。この本で初めて三浦の海防陣屋や来福寺、横須賀のおりょう終焉の地、ペリー提督の言葉レリーフの存在を知った。まだまだ神奈川県域は奥が深そうである。

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浦賀 Ⅲ

2010年01月15日 | 神奈川県
(能満寺)
 再度浦賀を訪れて会津藩士と川越藩士の墓と対面できた。


会津藩士と川越藩士の墓

(鴨居三昧堂)


三昧堂(さめど) 会津藩士の墓

 バスを腰越で降りて、観音崎の方向に少し歩くと、山の中腹に「会津藩士の墓」がある。ここには会津藩士およびその家族、合わせて二十三名が静かに眠る。
 腰越のバス停辺りには、当時、会津藩が陣屋を置き、家老を常駐させていたという。この地に駐留する会津藩士は、ある者は単身赴任、ある者は家族を帯同していた。藩では、子弟のために藩校養正館を開き、約四十名の生徒がいたと記録されている。

(東林寺)


東林寺

 東林寺には、浦賀奉行としてペリー来航時に最初に折衝に当たった中島三郎助の墓がある。
 中島三郎助は、文政三年(1820)の生まれ、父の跡を襲って下田奉行与力となり、のちに浦賀奉行に属した。嘉永六年(1853)、ペリー艦隊が初めて浦賀に来航したときに、小舟で軍艦に乗り付け談判した。安政二年(1855)、長崎に派遣されて海軍伝習所に学んだ。文久二年(1862)、地方掛吟味役、元治元年(1864)、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役等を歴任した。戊辰戦争では、榎本武揚艦隊と合流し、箱館戦争を戦った。明治二年(1869)五月十五日、千代ヶ岡台場にて二子とともに戦死した。享年四十九。文武に優れ、木鶏という俳号も持っていた。


中島三郎助墓(右)
中島英次郎墓(左)

 三郎助に隣り合って建てられているのが、次男英次郎(ふさじろう)の墓である。父と同じく千代ヶ岡砲台戦にて戦死。十九歳であった。

 長男中島恒太郎の墓は、三郎助の墓に向かい合って建てられている。やはり千代ヶ岡台場にて戦死。二十二歳。


中島恒太郎墓


忠魂碑

 本堂前の忠魂碑は、陸軍大将大山巌の書。

(東叶神社)
 東林寺の前の道をさらに南に歩くと、海外沿いにある大きな鳥居に出会う。応神天皇を祭神とする東叶神社である。神社の裏山を明神山というが、その山頂に奥宮があり、その左手に「勝海舟断食之跡」碑が建っている。
 実は、初めて浦賀を訪問した十年くらい前のこと、勝海舟断食之跡碑があることは分かっていたが、体力、気力が尽きてしまい諦めたことがある。以来、十年越しでようやくここを訪れることができた。明神山は標高五十㍍。息を切らせて約二百五十段の石段を上りきると自然林に覆われた山頂に到達する。


東叶神社


勝海舟断食之跡碑

 安政七年(1859)、咸臨丸で太平洋横断を前にした勝海舟は、ここで水垢離をしたあと、断食し座禅を組んで航海の安全を祈願したという。

浦賀城趾

 明神山は、北条氏康が房総里見氏の進攻に備えて、三崎城の出城として築いた浦賀城の跡地である。嘉永六年(1853)、来航したペリー艦隊の四隻の黒船は、この沖合左手辺りに停泊した。

(浦賀ドック)


浦賀ドック

 嘉永六年(1853)幕府が近代的造船所を浦賀に開設した。翌安政元年(1854)には、我が国最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造された。明治二十四年(1891)、中島三郎助の二十三回忌に当たり、箱館戦争の同志であった荒井郁之助が三郎助のためにこの地に造船所を作ることを提唱し、榎本武揚らの協力を得て、明治三十年(1897)、浦賀船渠が設立された。現在、住友重機械㈱の浦賀造船所に引き継がれているが、残念ながら勝手に中に入ることはできないので、塀越しに写真を撮るのが精一杯であった。

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金沢八景

2010年01月15日 | 神奈川県
(六浦藩陣屋跡)


六浦藩陣屋跡

 京急金沢八景駅を降りて、南西のガードをくぐって反対側に出た辺りが、旧武州金沢藩(または六浦藩)の陣屋跡に相当する。付近は住宅が密集し見る影もないが、遺構として陣屋入口の石段が残っている。
 武州金沢藩は、横浜市域における唯一の大名家であった。藩主米倉氏は甲斐武田氏の一族で、武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた。徳川幕府成立後は足柄上郡や大住郡堀山下村に小さな所領を与えられていたが、米倉昌尹のとき将軍綱吉の信任を得、元禄九年(1696)一万石を与えられ晴れて譜代大名に列した。四代藩主米倉忠仰(ただすけ)のとき、それまでの下野皆川から六浦へ陣屋を移し、以後、廃藩置県まで存続することになる。
 幕末の藩主は米倉昌言。幕末期には、長州戦争にも従軍し、沿岸の警備や横須賀造船所の警護を命じられた。その影響もあって時勢にも敏感であったが、戊辰戦争では藩論が定まらず、対処に苦しみながらも最終的には勤王に傾き、新政府に恭順した。

(野島公園)


旧伊藤博文金沢別邸

 野島公園内に、伊藤博文が明治三十一年(1898)に建てた別邸が復元再建されている。かつて金沢周辺には、東京近郊の海浜別荘地として伊藤博文初め、松方正義、井上馨らが別荘を設けていた。その後、大磯、葉山などにその地位を譲るが、伊藤博文別邸は数少ない遺構として当時の姿を伝えている。老朽化が著しかったため、一旦解体された後、平成二十一年(2009)に竣工した。外観は当時のまま茅葺寄棟屋根の建物であるが、中に入るとそのまま住んでも良いくらいである。ボランティアの女性が館内を案内してくれる。一生懸命解説してくれるのは有り難いが、西大井の本邸跡、明治記念館、大磯と小田原の滄浪閣、山口県大和町の生家跡、萩市の旧宅跡まで巡ってきた史跡訪問家を満足させる話は聞けなかった。


伊藤博文漢詩金屏風

 広い客間には、伊藤博文が自筆した漢文を記した金屏風(複製)が置かれている。

(明治憲法起草の地)


憲法草創之處碑

 野島公園と金沢八景駅の間の州崎町に「憲法草創之處碑」がある。書は伯爵金子堅太郎。
 この碑は、伊藤博文の金沢別邸前にあったがこの地に移設されたものである。
 明治二十年(1887)、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らは、この石碑のある場所から百㍍ほど金沢八景駅寄りにあった料亭東屋にて、明治憲法の草案を起草した。伊藤博文は夏島にあった別荘からここまで通ったという。ところが、ある夜、東屋の伊東巳代治の部屋に盗賊が入り、機密書類が盗まれるという事件が発生した。そのため、作業は伊藤の夏島の別荘に移って続けられることになった。


明治憲法起草の地

 旅館東屋のあった場所にも、横浜国際観光協会と横浜市教育委員会の建てた説明板が添えられている。

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「幕末の外交官 森山栄之助」 江越弘人著 弦書房

2010年01月10日 | 書評
吉村昭の小説「黒船」「海の祭礼」のあとに書かれたもので、随所に吉村作品への反論が見られる。たとえば、堀達之助が投獄された事件については、森山栄之助が関与した証拠はないと控えめながら弁護している。
著者が本書で本当に訴えたかったことは、海外列強の植民地となる危機を、当時の指導者(阿部正弘、堀田正睦、安藤信正)や外交官(川路聖膜、永井尚志、井上清直、岩瀬忠震、水野忠徳、堀利煕そして森山栄之助ら)の必死の努力によって乗り越えたことをもっと評価すべきということであろう。
後世、悪評の高い「治外法権」と「関税自主権」についても、当時もし外国人を日本人が裁いて、外国人を牢舎へ収容するようなことがあれば、穢れた夷狄を神州に招じ入れたと非難轟々となるだけで、外国人を日本人が裁かないということは当時の日本の常識だったという。関税については、一律5%という植民地並の屈辱的関税が課されたのは、長州藩による外国船砲撃事件とそれが誘因となった四カ国連合艦隊との、いわゆる馬関戦争の結果、莫大な賠償金に替えて関税を引き下げられた結果だという。著者はいう。
――― 後日、明治政府が関税自主権の回復に躍起となったのは、そもそも攘夷派であった彼らが、ことごとに日本を不利な立場に追い込んでいったもので、いわば、自分たちで火を付けておいて自分たちで火を消しているようなものであった。
 ――― 今こそ、幕府のしたこと、明治政府のしたことなど、冷静に公平な眼で探っていかなければならない。
攘夷派や明治新政府にも言い分があるかもしれないが、著者の主張には十分説得力がある。少なくとも幕末の幕府外交団の努力はもっと評価されて然るべきであろう。

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匝瑳

2010年01月09日 | 千葉県
(脱走塚)
 この日は、中央線から総武線経由、千葉で総武本線に乗り換えて八日市場(匝瑳市)まで出掛けてきた。旅行時間は片道三時間以上。成東を過ぎた辺りから、車窓には田圃が広がるだけの単調な風景が続く。


脱走塚

 八日市場駅からはバスに乗ろうという腹積りだった。ところが、当地の循環バスは土日祝日運休だということが現地に行ってから分かったため、仕方なく歩くことにした。順当にいけば二十分ほどで目的地に行き着くはずだったのが、途中で道に迷ったので脱走塚まで倍以上時間を要した。
 脱走塚には、匝瑳市民病院を目指して行けばよい。病院から徒歩五分くらいの場所である。

 明治元年(1868)十月三日、水戸城を追われた諸生党一行九十余は、銚子、飯岡を経て八日市場の福善寺に入った。諸生党を追って天狗党が八日市場に入り、福善寺に火を放った。同六日、諸生党と天狗党はこの地で激突し(松山戦争)、諸生党は壊滅した。戦死した三十名は首を奪われ、残された首の無い死体は村人たちによって埋葬され、脱走塚と呼ばれるようになった。
 写真中央は吊英魂碑、右手の祠の中には「戦死二十五人墓」と刻まれた墓石が収められている。

(福善寺)


福善寺

 八日市場駅から北に真っ直ぐ行ったところに、諸生党が籠った福善寺がある。

 安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、そして天狗党の騒乱に至る水戸藩の内紛は、年を経るに従ってエスカレートしていった。その終着点がここ八日市場の脱走塚である。長年にわたる血で血を洗う抗争は、ここで終止符を打ったのである。明治政府が戊辰戦争で勝利を収めた余勢をかって、最期は天狗勢が勝利を得たが、これを真の勝利と呼べるだろうか。維新を迎えたとき、水戸藩の人材は払底し、ほとんど人材を新政府に送り込むことはできなかった。水戸藩の抗争は、テロと戦争の応酬は勝者を生まないという教訓を我々に伝えている。
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「西南戦争外史」 飯干憶著 みやざき文庫

2010年01月04日 | 書評
会社の後輩が休暇をとって宮崎県日向にイカ釣り旅行にいった際に、土産に買ってきてくれたのがこの本である。書店の店頭に平積みになっていたというが、なかなかよく調べられており、西南戦争マニアを唸らせる内容となっている。
著者は兵庫県生まれで大阪の在住ながら、過去に宮崎県に勤務していた経験が長く、本書の要点は、宮崎県における西南戦争の被害の実態を明らかにすることにある。西南戦争といえば、田原坂の激戦や熊本攻城戦が想起されるが、西郷軍が人吉に後退して以降、あまり知られていないが宮崎県各地が戦場となった。「この戦いの全期間を通じ、直接戦場となった場所と期間は、熊本よりも鹿児島よりも、宮崎(日向)が一番長く、戦いの熾烈さも熊本、鹿児島の比ではなかった」という指摘は極めて正確である。このため日向の人々は、多数の戦死者を出し、家を焼かれ、さらには西郷札の発行により終戦後まで経済は混乱を来たした。著者によれば、宮崎県の悲劇は、遡れば西南戦争の前年に鹿児島県に併合されていたことが大きかった。このため宮崎各地で若者が西郷軍に徴発され、反対派は捕えられて処刑・投獄されることになったというのである。
著者は、徹頭徹尾西郷隆盛に批判的である。
――― 政府や大久保、川路の動向を知らなかったのであろうか。(中略)西郷は世間知らずか、世捨て人だったという外はない。
――― 西郷は江戸無血開城のような腹芸はできたが、戦いの権謀術数に欠けていた。
――― かれの戊辰戦争の勝利は、勝海舟が語っていたように、「時の勢い」であった。
――― 西郷が小倉処平の献策を受け入れて、小倉城を攻めていれば、熊本籠城戦は回避されていたであろう。西郷の戦略のなさがあらためて思われる。
――― 本来なら、決起の趣旨が果たせず、多くの死傷者を出した西郷は、敗戦を認め、ここで(熊本での敗戦後)自刃して西南戦争を終わらすべきだった。
――― 接する者に限りない愛情をそそいだのは同郷人に対してであり、異郷人には冷淡だった。
――― 西郷札を作った原因は、西郷の戦略不足と経済音痴にあった。
――― 「兵力に差はない。勝ちは目の前にある」と書状を書いた。戦いの現状を知ってか知らずか、この書状は極めて無責任というべきもので、総帥たる者がするべきことではなかった。
今でも、特に鹿児島県では西郷は神のように崇められ、西郷を批判することはタブーとなっている。著者がここまで遠慮なく西郷を批判できたのも、宮崎県という被害者の視点に立てたことが大きいのかもしれない。私も著者の西郷批判には全面的に同意である。
著者は返す刀で、西郷の実弟、西郷従道を責める。
――― 従道の傍観と怠慢が、西郷を誤らせ、西南戦争で多くの士族が死傷し、何の関係もない多くの庶民が苦しみ、西郷は不体裁な死を遂げた、といっても過言ではあるまい。
というが、この批評は従道には酷かもしれない。明治十年(1877)一月、私学校党による火薬庫襲撃事件が起きた後、海軍中将川村純義が鹿児島に派遣されている。川村は、西郷との直接会談を求めたが、結局、取り巻きの反対があって実現しなかった。川村に代わって、従道や大山巌がその任にあっても、結果は同じだったのではないか。
この本を非常に面白く読んだが、一点だけ(どうでもよいことながら)誤りがあったので指摘しておきたい。本書三十八頁に
――― 西郷の下野が知れると、薩摩出身の桐野利秋・篠原国幹両陸軍少将をはじめ、別府晋介・辺見十郎太・河野主一郎・永山弥一郎・中島健彦らが、官を辞して、西郷の後を追った。
とあるが、永山弥一郎は明治六年の政変後、西郷が下野し近衛の将校が大挙してそれに従ったとき、彼らと行動をともにしていない。永山弥一郎は、明治八年(1875)、明治政府が千島樺太交換条約を締結したことに憤激して官を辞したのである。

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西尾

2010年01月03日 | 愛知県
謹賀新年

(西尾市歴史公園)
 この年末年始は、大阪の親戚と一緒に過ごすことになり、中間点ということで愛知県蒲郡市の西浦温泉に集合した。今回、逗留するまで西浦温泉の存在すら知らなかったが、ホテルから夕陽も日の出も拝むことができるという絶好のロケーションにあり、予想以上に素晴らしいところであった。

 家族をホテルに送り届けてから、夕食まで時間があったので、この隙に西尾を訪ねることにした。
 西尾は、大給松平家六万石の領地で、三河においては吉田藩(豊橋)に並ぶ雄藩であった。明和元年(1764)、大給松平家が入封以来、五代に渡って藩主となったが、歴代藩主はいずれも奏者番、寺社奉行、大阪城代、京都所司代など要職を歴任し、幕閣で重きを成した。中でも四代藩主松平乗全(のりやす)は、ペリー来航当時、老中として難局に当たったことで知られる。

 西尾城は、廃藩置県後、天守閣以下の建物が破却されたが、平成八年(1996)に本丸丑寅櫓と鍮石門が再建され、西尾市歴史公園として整備された。


西尾城本丸丑寅櫓


西尾城二ノ丸鍮石門

(盛巌寺)


盛巌寺

 市内の盛巌寺は、大給松平氏の菩提寺である。本堂南側には、松平乗全の墓がある。


源恭院殿観徳謙翁大居士
(松平乗全の墓)

 四代西尾藩主(大給松平家宗家九代)松平乗全は天保十一年(1840)に家督を継ぐと、同年奏者番に任じられ、弘化元年(1844)大阪城代、更に翌弘化二年(1845)には老中に就任した。対外問題では開国和親を主張、将軍継嗣問題では紀州慶福派だったため、水戸の斉昭と対立し、安政二年(1855)老中を免職となった。安政五年(1858)井伊直弼の推挙により再度老中となったが、桜田門外の変により井伊が死亡すると直後に辞職した。文久元年(1861)には東禅寺のイギリス人宿所警固に藩士を派遣。文久二年(1862)老中勤役中の不取締役を咎められ、一万石減石の上、隠居を命じられた。西尾藩主としては、藩校修道館や医学校済生館などを創設。藩士を江川坦庵のもとに派遣して藩の軍政改革を進めた。明治三年(1870)七十七歳にて死去。

 八王子の自宅から蒲郡まで、ノン・ストップで三時間半。早朝五時に家を出て、一切渋滞には遭遇せず、九時前には到着した。帰路は、帰省ラッシュに巻き込まれ、正午過ぎに現地を出発して、帰り着いたのは九時半を過ぎていた。途中の食事の時間を割り引いても往路の倍以上の時間を要した。「高速道路千円」のためかもしれないが、日本人は我慢強い。

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三浦

2010年01月03日 | 神奈川県
(南下浦市民センター)


南下浦市民センター

 京急三浦海岸駅を降りてすぐの地点に、南下浦市民センターという施設がある。しばらく近所を歩き回った末、交番で教えてもらってようやく行き着くことができた。
 南下浦市民センターは、かつて海防陣屋があった。敷地内には海防陣屋跡の石碑があるほか、入口には冠木門、武家屋敷塀が再現されている。この近所には陣屋川とか、御殿山といった地名も残されている。


海防陣屋跡

 弘化四年(1847)、異国船に備えて三浦半島の警備を命じられた彦根藩主井伊直弼が、海防の拠点としてここに陣屋を設けた。井伊直弼は、九か所の台場を構築して警備を強化した。
 嘉永六年(1853)、長州藩に交替し、五年に渡り警備に当たった。その中には桂小五郎や伊藤俊輔(博文)もいたという。
 司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」では、長州藩の陣地探索のために竜馬がここを訪れ、海防陣屋の庭で長州藩士と剣術試合を行う様子が描かれている。竜馬が三浦半島を訪れたという史実はなく、桂小五郎との対決も司馬先生の創作ということである。

 安政五年(1858)に海防陣屋の任務は熊本藩に引き継がれるが、長州藩が善政を敷いたため、三浦、鎌倉両郡の名主、村役人から留任の嘆願書が出されたという。
 その後、海防陣屋は、文久三年(1863)からは佐倉藩、慶応三年(1867)には幕府の直轄となり、明治新政府に引き継がれた。

(来福寺)


来福寺


長州藩士の墓

 来福寺は、鎌倉時代の武将和田義盛の菩提寺で、鎌倉に創建されたものがのちに当地に移されたものという。来福寺の墓地には、海防陣屋の勤務に任じられ、在勤中に亡くなった彦根藩士三名と長州藩士十名の墓がある。広い墓地を捜しまわった結果、長州藩士の墓を見つけることができた。

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