(清水卯三郎生誕の地)
清水卯三郎生誕の地
羽生市の商店街の中ほどに「清水卯三郎生誕の地」がある。当地は、卯三郎の実家である造り酒屋の跡である。
清水卯三郎は、文政十年(1829)に、清水弥右衛門誓一の三男としてこの地に生まれた。母は、根岸友山の妹、お貞。二十一歳のとき上京し、文久三年(1863)の薩英戦争では通訳として薩摩とイギリス間の交渉に奔走した。また、慶応三年(1867)に開かれたパリ万国博覧会では、商人出身としては唯一人使節団に参加した。帰国後は、浅草に瑞穂屋商店を開き、西洋物品の輸入業を営んだ。明治八年(1875)、日本では初めてアメリカより歯科器材を輸入し、関連する医書を翻訳出版するなど、我が国の近代歯科医学の発展に寄与した。
(羽生市商工会)
清水卯三郎像
商店街の中にある羽生市商工会の前に、平成十九年(2007)に清水卯三郎の功績を顕彰するため胸像が建てられた。
(正光寺)
かつて清水卯三郎の墓を探して、千歳烏山の乗満寺の墓地を日暮れまで歩き回ったことがあるが、平成十年(1998)に清水家の菩提寺である羽生の正光寺に改葬されていた。今回羽生を訪問して、ようやく清水卯三郎の墓と対面できた。
正光寺
志みづ うさぶろう の はか
清水卯三郎は、国民への知識の普及を図るために、漢字を廃し全面的に平仮名書きによる表記をすべきと主張する「かな書き論者」であった。珍しいかな書きの墓碑は、卯三郎本人による自筆である。
墓史
清水家墓地
正光寺の広い墓地内に、卯三郎の実家清水家の墓地がある。卯三郎の祖父、清水誓信は利根川氾濫後の復旧や備前堀の改修といった地域の治水事業など、酒造業で成した財を惜しげなく社会事業に注いだ。天保三年(1832)に五十五歳で病没。墓碑は、子の誓一(卯三郎の父)が天保五年(1834)に建てたものである。
本譽仁誓信士 操譽貞照信女
(清水誓信の墓)

清水卯三郎生誕の地
羽生市の商店街の中ほどに「清水卯三郎生誕の地」がある。当地は、卯三郎の実家である造り酒屋の跡である。
清水卯三郎は、文政十年(1829)に、清水弥右衛門誓一の三男としてこの地に生まれた。母は、根岸友山の妹、お貞。二十一歳のとき上京し、文久三年(1863)の薩英戦争では通訳として薩摩とイギリス間の交渉に奔走した。また、慶応三年(1867)に開かれたパリ万国博覧会では、商人出身としては唯一人使節団に参加した。帰国後は、浅草に瑞穂屋商店を開き、西洋物品の輸入業を営んだ。明治八年(1875)、日本では初めてアメリカより歯科器材を輸入し、関連する医書を翻訳出版するなど、我が国の近代歯科医学の発展に寄与した。
(羽生市商工会)

清水卯三郎像
商店街の中にある羽生市商工会の前に、平成十九年(2007)に清水卯三郎の功績を顕彰するため胸像が建てられた。
(正光寺)
かつて清水卯三郎の墓を探して、千歳烏山の乗満寺の墓地を日暮れまで歩き回ったことがあるが、平成十年(1998)に清水家の菩提寺である羽生の正光寺に改葬されていた。今回羽生を訪問して、ようやく清水卯三郎の墓と対面できた。

正光寺

志みづ うさぶろう の はか
清水卯三郎は、国民への知識の普及を図るために、漢字を廃し全面的に平仮名書きによる表記をすべきと主張する「かな書き論者」であった。珍しいかな書きの墓碑は、卯三郎本人による自筆である。

墓史

清水家墓地
正光寺の広い墓地内に、卯三郎の実家清水家の墓地がある。卯三郎の祖父、清水誓信は利根川氾濫後の復旧や備前堀の改修といった地域の治水事業など、酒造業で成した財を惜しげなく社会事業に注いだ。天保三年(1832)に五十五歳で病没。墓碑は、子の誓一(卯三郎の父)が天保五年(1834)に建てたものである。

本譽仁誓信士 操譽貞照信女
(清水誓信の墓)