(多磨霊園つづき)
春が近づくにつれて花粉が飛散するようになってきた。本来であれば、重度の花粉症患者は外出を控えるべきかもしれないが、この日は雲一つない好天で、一日部屋にこもっているのは余りにもったいない。久しぶりに多磨霊園を訪ねることにした。
千秋君順之助之墓
千秋順之助は文化十二年(1814)、加賀藩士の子に生まれた。諱は藤範、藤篤。雅号は顧堂、有磯、黄薇庵など。秀才の誉れ高く、藩校明倫堂を出て、江戸昌平黌に学び舎長となった。弘化二年(1845)帰藩。明倫堂助教、世子前田慶寧の侍読を兼ねた。その所論は尊王の大義に基づき、よく時務の得失を論じたが、ついには幕府の衰運を洞察し、藩の進退を明らかに決するよう主張した。著書「治之議」は、我が国における解放論の先駆をなすものとして高く評価されており、識見が凡庸でなかったことを示している。禁門の変には慶寧の側近にあって参謀を務めたが、ともに帰藩するや小松で逮捕され、元治元年(1864)十月、自刃を命じられた。年五十一。【22区1種101側】
正四位勲三等男爵森岡昌純之墓
森岡昌純は、天保四年(1834)の薩摩藩士の家に生まれた。文久二年(1862)四月の寺田屋事件の際には、鎮撫使の一人として派遣されている。維新後は、長崎県大参事、兵庫県令などを歴任した。明治十七年(1884)、共同運輸会社社長に就任。翌年、同社が三菱と合併して日本郵船が発足するとその初代社長に就いた。明治二十三年(1890)、貴族院議員。明治三十一年(1898)、六十五歳にて死去。【22区1種37側5番】
橋口家之墓(橋口壮介の墓)
橋口壮介は、天保十二年(1841)の生まれ。幼少時から気骨人に優れ、文武二道を修めて特に薬丸流に秀で、造士館の教導となった。勤王の志厚く、安政以来、幕府の朝廷に対する態度を憤慨し、有志とともにこの矯正の意見を抱いていた。文久二年(1862)正月、同志柴山愛次郎とともに江戸詰めを命じられ、途中九州各地の志士と会合して、島津久光の出府を機として全国の志士を糾合して東西に兵を挙げることを協議した。京都に立ち寄って田中河内介、清河八郎らと謀議を重ね、二月江戸に入って在藩の有馬新七らは絶えずこれと連絡して機の熟するのを待った。しかし、同志が少なく、ことの成就しがたいことを察し、江戸藩邸を脱して大阪に至り、中之島魚屋大平方に合宿して、久光の上洛を待った。文久二年(1862)四月二十三日、有馬らと寺田屋に結集したところを久光の送った鎮撫使に斬られ、翌日藩邸で自刃した。年二十二。
橋口次郎件兼寛墓(橋口吉之丞の墓)
橋口吉之丞は、壮介の実弟。兄とともに寺田屋に居合わせ、有馬新七を鎮撫使道島五郎兵衛とともに串刺しにしたといわれる。明治元年(1868)十二月、「事故により」切腹を命じられた。二十五歳。
色々調べてみたが、いずれも「事故により」としか記載がなく、切腹に至った詳しい事情が分からない。【22区1種5側】
故陸軍大佐従五位交野瑜墓
交野瑜(さとる)は、天保六年(1835)の生まれ。維新前は片野十郎といい奇兵隊軍監として四境戦争で活躍した。戊辰戦争では東北戦線に出征。明治三年(1870)、陸軍大佐に任じられたが、同年十一月、病を得て三十八歳で没した。【12区2種9側】
詩人 森春濤先生墓
森春濤(しゅんとう)は文政二年(1819)の生まれ。父は医師森儀兵衛。はじめ家業の医学を修業させられた、それを好まず、鷲津益斎の門に入り詩を学んだ。嘉永三年(1850)、江戸に出て大沼枕山、藤本鉄石らと交わり、安政三年(1856)、京都に出て梁川星巌の門に入って詩法を学び、漢詩をもって知られた。文久三年(1863)、名古屋に移り、桑三軒吟社を開いた。その門下から丹羽花南(賢)、田中不二麿、永坂石埭が出ている。明治七年(1874)、東京下谷摩利支天横町に住み、茉莉吟社を興し、巌谷一六、日下部鳴鶴、成島柳北らと親しんだ。翌八年には詩文雑誌「新文詩」を発刊した。子森槐南は宮内大臣秘書官、式部官を歴任したほか、明治の漢詩人として知られた。明治二十二年(1889)、年七十一で没。【14区1種3側3番】
伊庭家之墓(伊庭貞剛の墓)
伊庭貞剛は、弘化四年(1847)一月に近江国蒲生郡西宿(現・滋賀県近江八幡市)に生まれ、文久元年(1861)、十五歳のときに八幡町児島一郎の道場に通って剣を学び、二十一歳で免許皆伝を許されている。文久三年(1863)、尊王家西川吉輔の門に入った。明治元年(1868)二十二歳のとき、西川吉輔に招かれて上京し、京都御所警備隊士となった。さらに明治七年(1874)、北海道函館裁判所に勤務、明治十年(1877)には大阪上等裁判所に判事として転任したが、明治政府の方針に期待を持てず裁判所を辞した。明治十二年(1879)、大阪住友にいた叔父廣瀬宰平の薦めにより住友家に入社し、明治十三年(1880)には大阪本店支配人となった。
明治二十七年(1894)、煙害問題解決のため、別子銅山支配人として新居浜に赴任。製錬所を沖合の四阪島に移転する計画を進める一方、荒廃した別子銅山周辺の山々に一大植林計画を立てて実行に移し、着任五年目の明治三十二年(1899)、製錬所の移転や植林に目途をつけて新居浜を離れた。明治三十三年(1900)、住友家総理事に就任したが、五十八歳にして全ての職を辞して石山の活機園に隠退した。大正十五年(1926)十月、八十歳の生涯を閉じた。【25区1種2側】
浮田家之墓(浮田和民の墓)
浮田和民(かずたみ)は安政六年(1860)、熊本藩士の家に生まれた。浮田家は、宇喜多秀家の末裔ともいわれる。石光真清、真臣兄弟は従兄弟である。いわゆる熊本バンドの一人。熊本洋学校でキリスト教に入信し、後に同志社に移って新島襄の薫陶を受けた。同志社では政治学、国家学、憲法などを講義した。明治三十年(1897)、東京専門学校(現・早稲田大学)に転じ、早稲田政治学の基礎を築いたといわれる。大隈重信のブレーンとしても高く評され、坪内逍遥は「早稲田の至宝」と呼んだ。昭和二十一年(1946)、没。行年八十五。【4区1種25側】
内田氏墓(内田萬次郎の墓)
内田萬次郎は、安政元年(1854)の生まれ。兄の量太郎は伝習士官隊頭取として箱館に戦うが、明治二年(1869)五月、千代ヶ岱にて負傷し、湯川病院にて死亡した。萬次郎も、父とともに衝鋒隊に属して梁田や箱館にて奮戦した。戦後は、大蔵省印刷局印刷局技師として奉職。大正十四年(1925)没。七十一歳。【3区1種1側16番】
舟橋家之墓(舟橋聖一の墓)
作家舟橋聖一の墓である。明治三十七年(1904)東京の生まれ。東京帝国大学国文科を卒業。昭和九年(1834)、「ダイヴィング」を発表。戦時下、「悉皆屋康吉」を書き継ぎ芸術的抵抗を示した。第二次大戦後は、「雪夫人絵図」(1948年)、長編時代小説「花の生涯」(1953年)などを発表。著作の多くが映画、芝居、テレビドラマ化された。ほかに「ある女の遠景」「好きな女の胸飾り」など多数。傍らの墓誌によれば、法名は「文篤院殿青海秀聖居士」行年七十一。【3区2種6側3番】
吉松家之墓(吉松萬弥の墓)
吉松萬弥は天保九年(1838)の生まれ。維新後は司法省に出仕して裁判所等に勤務した。海軍大将吉松茂太郎は長男。【2区1種4側20号】
土井家之墓(土井利恒の墓)
土井利恒は、嘉永元年(1848)、利忠の三男として生まれた。文久二年(1862)、家督を継いで第八代大野藩主となった。元治元年(1864)、天狗党の藩領通過時、利恒は江戸にあったが、藩では民家を焼き払うなど民衆の怒りを買った。戊辰戦争では新政府に恭順し、箱館に藩兵を送った。版籍奉還により藩知事となったが、明治四年(1871)の廃藩置県により免官。明治二十六年(1893)没。【1区1種2側8番】
田嶋家之墓(田嶋応親の墓)
田嶋応親(まさちか)は、嘉永四年(1851)、旗本の家に生まれた。講武所にて砲術を学び、後に幕府伝習隊の砲兵隊に属した。戊辰戦争では榎本武揚らとともに蝦夷に渡り、フランス軍事顧問団の通訳を務めた。戦後、兵部省に出仕。砲兵大佐まで上ったが、健康問題を理由に辞職。昭和九年(1934)、八十四歳にて死去。【8区2種30側10番】