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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「誰も知らない 江戸の奇才」 河合敦著 サンエイ新書

2020年04月25日 | 書評

「誰も知らない」かどうかは別として、本書で紹介されているのは、以下の十三人である。田中久重、武田斐三郎、佐竹義宣、銭屋五兵衛、調所広郷、西川如見、佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎、河田小龍、牧庵鞭牛、白井亨、江馬細香。私個人は西川如見、牧庵鞭牛のことは本書で初めて知ったが、「誰も知らない」とはちょっと言い過ぎという気がしないではない。
中浜万次郎からの聞き書きをもとに「漂巽紀畧」を著わした河田小龍は、坂本龍馬にも大きな影響を与えたといわれる。本書によれば、龍馬は「人材を造ることは君に任せる。私は船を得ることに専念する」と小龍に告げたという。その数年後、龍馬は蒸気船を手に入れ、小龍は約束に従って、近藤長次郎や長岡謙吉、新宮馬之助といった優秀な門弟を龍馬のもとに送った。
吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党が政治を牛耳るようになると、小龍は政治と距離を置き、製塩業に乗り出す。これも船を手に入れようという龍馬を助けるためだという。
龍馬と小龍の間にこのような約束が交わされ、両者がその約束に従って行動し、小龍が龍馬を支援し続けたとすれば、これは美談であるが、本当だろうか。何か著者の脚色が加えられているような気がしてならない。
難道を開削することに生涯を捧げた牧庵鞭牛や十七世紀初頭に世界地理を紹介して江戸の人びとの世界認識を変えたといわれる西川如見の話も面白かったが、疑って申し訳ないが最後まで「ほんまかいな」という気がしてならなかった。

 

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「神と仏の明治維新」 古川順弘著 洋泉社

2020年04月25日 | 書評

一年ほど前に文春新書「仏教抹殺」(鵜飼秀徳著)を読んだところだが、同じ「廃仏毀釈」をテーマにした本である。内容はほぼ「仏教抹殺」と同様であったが、本書では個別の神社・寺院で何が起きたかをより詳細に・具体的に紹介しているのが特徴である。
奈良の名刹興福寺にも廃仏毀釈の波が押し寄せた。藤原氏の氏寺興福寺と氏神春日社は「一体」となっていたという。明治三年(1870)には、興福寺の伽藍や仏像は縁の深い西大寺と唐招提寺に託されることになった。仏器、仏具は売却されて地金となり、仏像は薪となるなどして寺宝の散逸が続いた。明治五年(1872)には教部省から廃寺の指令が下り、諸堂、塔頭、子院はことごとく破壊され、わずかな堂塔が残るのみとなってしまった。この時、五重塔は二十五円(現在価値にして百万円程度)で売却され、買主は金具を得ることでこれを現金化しようとしたが、解体に多額の金がかかることが分かったので、火を着けて燃やしてしまおうとしたらしい。類焼を恐れた近隣住民からの抗議で沙汰止みとなり、おかげで辛うじて五重塔は残った。
興福寺は、もともと春日大社があったということは、明治政府が命じた神仏分離は、そもそも成されていたのである。にもかかわらず、興福寺の僧侶たちは慌てて還俗して春日社の神官になろうとした。その結果、由緒ある寺院が放棄されることになり、廃仏毀釈に繋がった。内務省から興福寺再興の許可が出たのは、明治十四年(1881)のことで、境内は大幅に縮小され、多くの堂宇は今もなお失われたままである。現在、令和五年(2023)完成を目標に、大規模な伽藍復元・整備事業が行われているそうである。
本書で興味深かったのは、廃仏毀釈とは直接的な関係はないように見えるが、「浦上四番崩れ」と呼ばれる明治のキリスト教弾圧である。
平成三十年(2018)に世界遺産に登録された大浦天主堂は、居留地在住のフランス人のための礼拝堂であった。ところが、浦上村の住人の中には、家康が発した大禁教令から二百五十年が経っていたが、弾圧と監視の目をかいくぐって密かにキリシタンの信仰を守り続けていた者がいたのである。その数は七百戸に及んだ。彼らは、フランス人神父に次々と信仰を告白した。
慶應三年(1867)、彼らは檀那寺との断絶を宣言したが、これに対し長崎奉行所は村を探索して、キリシタン六十八人を捕縛して投獄した。この迫害を、浦上では江戸時代を通じて四回目にあたることから「浦上四番崩れ」という。
幕府は瓦解したが、キリシタンは引き続き禁教のままであった。浦上キリシタンは転宗を拒否したため、全信徒は諸藩に配流されることになった。南は鹿児島、北は北陸、郡山に至る二十の各藩に移送された。その数は三千三百八十名という。そこでは重労働が課され、洗脳教育が施され、あるいは拷問を受けて棄教を強要された。
外国からの抗議もあって新政府がキリシタン禁制の高札を撤去したのは明治六年(1873)二月二十四日のことであった。各地に配流されていたキリシタンは帰村を許された。この間、殉教者六百人を出している。
筆者は「あとがき」で「明治政府による神仏分離は成功したといえるのか」と問う。「神仏分離政策によって生まれた「新宗教」としての神道の延長線上にある、現在の神社神道への評価如何にて変わることになるだろう」と明言を避けているが、私には神社神道が宗教として確立しているようにはとても思えない。明治の神仏分離政策は、無駄な犠牲と文化財の散失を生じただけで、失策だったとしか思えないのである。

 

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久喜 栗橋

2020年04月18日 | 埼玉県

(栗橋関所跡)

 

栗橋関所址

 

 江戸幕府は、交通統制と治安維持のため、主要な街道が国境や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲に出女」を取り締まった。栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡しに設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれた。関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、寛永元年(1624)に番士四人が置かれた。以後、明治二年(1869)の関所廃止まで約二百五十年間続いた。この「栗橋関所址」碑は、大正十三年(1924)に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、旧堤上に建碑された。書は徳川家達。

 度重なる堤防工事で、この碑も移動を繰り返してきた。現在の場所には、利根川堤防強化対策事業に伴い、平成二十九年(2017)八月に仮移転したものである。

 

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浅川 Ⅱ

2020年04月18日 | 福島県

(永昌寺つづき)

 

畠山源三郎の墓

 

 畠山源三郎の墓石は、山門を入って左手の無縁墓石の中にある。

 畠山源三郎は仙台藩士。慶應四年(1868)七月十六日、岩代浅川にて戦死。

 

 

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棚倉 Ⅱ

2020年04月18日 | 福島県

(長久寺)

 

長久寺

 

本立院道全日忠信士(本橋久兵衛の墓)

 

 長久寺の墓地に棚倉藩本橋久兵衛の墓がある。

 本橋久兵衛は銃卒。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

 竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、長久寺にはやはり棚倉藩から出陣し、白河にて戦死した奥原三吉の墓もあるはずだが、墓地を四~五周見て回ったが発見できず。

 

(蓮生寺)

 

蓮生寺

 

植村半蔵の墓

 

 植村半蔵は棚倉藩士。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

(降福寺)

 慶応四年(1868)五月六日に奥羽二十五藩と越後六藩から成る奥羽越列藩同盟が成立する。当時、棚倉藩は白河合戦中の後方基地の役割があった。隆福寺では、奥羽越列藩同盟軍各藩隊長の軍議が開かれ、棚倉落城の六月二十四日まで続いたとされる。

 

 隆福寺には墓地らしい空間がなく、境内の片隅に無縁となった墓石が積み上げられているのみである。その中に太田友治と権田東左衛門という二人の棚倉藩士の墓石がある。

 

降福寺

 

太源院儀道了忠居士(太田友治の墓)

 

 太田友治は副軍目付。慶應四年(1868)五月二十六日、白河合戦坂にて戦死。

 

権田東左衛門の墓

 

 権田東左衛門は銃士小隊長。慶應四年(1868)六月十二日、白河にて戦死。

 

(蓮台寺)

 隆福寺に隣り合う蓮台寺は、本堂の手前まで民家が建てられており、墓地らしい墓地は見当たらず、参道脇に古い墓石が並べられているのみである。その中に武川(たけかわ)子之吉の墓石がある。

 

蓮台寺

 

力戦院武勇軍功居士(武川子之吉の墓)

 

 棚倉藩武川子之吉は銃卒。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。

 

(常隆寺)

 

常隆寺

 

髙刃院忠顯義勇居士(本多九右衛門の墓)

 

 常隆寺の無縁墓石の最前列に本多九右衛門の墓が置かれている。

 本多九右衛門は、棚倉藩銃卒小隊長。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。

 

奥原三吉墓

 

 常隆寺墓地を歩いていて偶然奥原三吉の墓を発見した。平成三十年(2018)十月吉日に長久寺から移設されたことが傍らの石板に刻まれている。

 奥原三吉は、棚倉藩銃士。慶應四年(1868)五月二十八日、白河合戦坂にて戦死。

 

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白河 東 Ⅱ

2020年04月11日 | 福島県

(釜子陣屋跡)

 

釜子陣屋跡

 

 越後高田藩の釜子陣屋跡である。釜子陣屋は、文化六年(1809)から明治維新前までの約六十年間存続した。

 慶応四年(1868)の戊辰戦争時、陣屋の奉行は吉田茂右衛門であった。会津藩への援軍を八木傳五郎が三十人ほどを率いて出兵した。陣屋は西軍の攻撃を受ける前に、奉行自ら火を放ち、建造物、藩士の住宅等一切が焼失した。そのため陣屋に関する書物等は極端に少ない。

 

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白河 Ⅳ

2020年04月11日 | 福島県

(妙徳寺)

 妙徳寺には、市川方静の墓がある。

 市川方静(ほうせい)は、白河藩士の子として天保五年(1834)に生まれた。通称は運八郎。不求庵と号した。天文学や数理学を学び、測量術を習得した。明治には、師範学校の算術教授となったが、研究のため辞し、明治十九年(1886)には自らの測量器「方静儀」が工部省に採用された。私塾では多くの弟子を教え、外務大臣を務めた後藤新平もその一人であった。諸芸にも通じ、特に和歌は毎週歌会を催したという。明治二十年(1887)には、国家事業として行われた白河での皆既日食観測に地元学者として協力した。明治三十六年(1903)七十歳にて没。

 

妙徳寺

 

徳潤院釋意裕居士 潤法院釋妙誠大姉

(市川方静の墓)

 

(妙関寺)

 

妙関寺

 

内儀家之墓(内儀茂助の墓)

 

 妙関寺には棚倉藩士内儀(ないぎ)茂助の墓がある。

 内儀茂助は、弾薬方。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。墓石側面には、「義則院勇猛日立信士」という法名とともに「内儀茂助明鄰」という名前が刻まれている。

 

(白河第三小学校)

 白河第三小学校の道路を挟んで東側に戊辰役戦死之碑が建てられている。この日は、大正元年(1911)に白河町の四名が発起人となり、有志の賛助を得て建立した碑で、蛇石・文殊山、桜町付近に仮埋葬されていた東軍側(奥羽越列藩同盟軍)の戦死者十二名を合葬したものである。

 

戊辰役戦死之碑

 

(米山越)

 

仙臺 斎藤善次衛門戦死供養

 

 激戦地となった稲荷山に近い米山越の八雲神社の近くに古い墓石のみがある墓地があり、その中に戦死した仙台藩士の供養塔がある。中央には「斉藤善次右衛門」の名前が刻まれている。

 斎藤善次右衛門は、陸前桃生郡前谷地村の富豪。しばしば仙台藩に軍費を献上。戊辰役仙台藩軍に加わり、慶応四年(1868)五月一日、白河にて戦死。四十二歳。

下段に三名の名前が刻まれているが、摩耗が激しく読み取れない。竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、三名は桜井伊勢松、本田三十郎、山口七三郎。いずれも斉藤善次右衛門の家来で、五月二日に白河で戦死したとなっている。

 

(大村温泉)

 

戦死数名埋葬塔

 

 大村温泉の大村旅館の片隅に、戊辰戦争における同盟軍の戦死者供養塔がある。これも摩耗が激しくほぼ一文字も読めない。

 

(搦目)

搦目のバス停のそばに「廿三夜碑」があり、その背後に「戊辰戦死之碑」と「戦死数名埋葬塔」という二つの東軍戦死者を慰霊する碑がある。

 

戊辰戦死之碑

 

戦死数名埋葬塔

 

(双石)

 

戦死霊魂供養

 

 双石(くらべいし)の県道11号線沿いにある戦死者供養塔である。

 

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白河 Ⅲ

2020年04月11日 | 福島県

(専念寺)

 白河を訪ねるのは実に七年振り、三回目となる。戊辰戦争の激戦地であり、これだけ歩いてもまだ新しい関連史跡と出会うことができる。

 この日、最初の訪問地は専念寺である。墓地に戊辰殉難者会津藩の渋井小次郎の墓がある。

 

専念寺

 

渋井家之墓(渋井小次郎墓)

 

 渋井小次郎は、小太郎の弟。墓石によれば、小太郎は明治二十二年(1889)、三十八歳にて死亡したとなっている。小次郎は、遊撃三宅隊嚮導。慶應四年(1868)、八月十四日(十六日とも)、越後赤谷にて戦死。十六歳。墓誌によれば、七月一日没。十七歳。白虎隊士となっている。

 

(大統寺)

 

大統寺

 

當寺玉鳳賢邦哲長〇〇禅師(賢邦の墓)

 

 賢邦は大統寺住職。薩摩出身ということもあり、戊辰戦争の際、両軍の間に立って斡旋した。西軍参謀の使となって棚倉藩に恭順を勧めたとも伝えられている。明治二十二(1889)、五月十四日没

 

(脇本陣柳屋跡)

 白河本町の脇本陣柳屋は、柳下源蔵が経営していた。慶應四年(1868)の戊辰戦争では、白河口の戦闘に参戦した斉藤一隊長率いる新選組百七名が宿泊し、五月一日の激戦にもここから出陣した。

 

脇本陣柳屋跡

 

明治天皇白河行在所附御膳水

 

 明治十四年(1881)、明治天皇の東北巡幸の際に往路は休憩所、復路は天皇の宿泊所となり、玉座と呼ばれる書院や御膳水跡(つるべ井戸)などが今に伝えられている。

 

柳屋旅館跡

 

 この蔵は、柳屋旅館で使用されていたもので、明治天皇の行在所である。内部には違い棚や書院などを備えた床の間と座敷があり、玉座と呼ばれている。

 

(旅館久下田屋)

 旅館久下田屋のホームページによると、「吉田松陰逗留の宿」と謳っている。確かに嘉永五年(1852)、松陰は宮部鼎蔵とともに一月二十五日から二十七日まで白河に滞在しているが、どこに宿泊していたかはよく分からない。

 

旅館久下田屋

 

(小峰寺)

 小峰寺を入ると、本堂の前に赤い頭巾をかぶった六体の地蔵が置かれている。竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、この中の一つが住職善澄和尚を表しているそうである。善澄は、城下に戦火が迫るのを早鐘を打って町民に知らせたため、会津藩のために銃撃されたという。

 

小峰寺

 

善澄墓?

 

戦死供養碑

 

 戦死供養碑は、やはり白河における戦死者を供養するもの。

 

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本宮 Ⅲ

2020年04月11日 | 福島県

(石雲寺)

 

石雲寺

 

 石雲寺の墓地を歩いていて転倒してしまった。正確にいうと、墓地の縁石に足をひっかけて一瞬宙を飛んだあと、上半身から地面にたたきつけられた。首から下げていたカメラが無事だったのは幸運であったが、その代わり両手両膝を擦りむくケガを負ってしまった。

 

小田井蔵太一成之碑

 

 小田井蔵太は、天保元年(1830)、江戸の生まれ。幼くして父を失い、母にともわれ二本松鈴石(現・二本松市)に移り住んだ。長じて江戸にでて幕臣・川窪駿河守の学僕となる。   斎藤弥九郎について剣術を修めた。嘉永六年(1853)、幕臣に取り立てられ、安政二年(1855)、箱館奉行堀織部正に従って北辺警備に派遣された。慶應四年(1868)、彰義隊に加盟し、副隊長に推挙された。上野戦争後、残党を率いて東北に下り、会津藩を助けて戦った。明治四年(1871)、水戸県大参事に任ぜられたが、間もなく帰農。安達太良山開発などに従事した。明治二十二年(1889)、死去。五十九歳。

 

糠沢直之允の墓

 

 糠沢家は本宮有数の商家で郷士であったが、直之允は幼少のころから不幸が続き、苦難のうちに成長し、二十六歳の時、志を立て仙台で薬種商の見習いとなった。後に二本松で薬種商を開き、元治元年(1864)、本宮に帰り、糠沢家を再興した。直之允は和歌を好み、仙台において藩の侍医錦織即休(千柳亭綾彦)について学び、綾尚と称した。明治九年(1876)六月十七日、明治天皇本宮通過の際、雷神清水の歌などを奉献し、有名になった。

 

 大君のわきて仕うる真清水の

 そこを思へばたふとかりけり

 

 また、公共に尽くし、明治十一年(1878)、第一回県会議員に選ばれ、各種の名誉職も勤め、地域社会の発展にも尽くした。明治四十二年(1909)、死去。七十九歳。

 

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府中 Ⅵ

2020年04月11日 | 東京都

(多磨霊園つづき)

 春が近づくにつれて花粉が飛散するようになってきた。本来であれば、重度の花粉症患者は外出を控えるべきかもしれないが、この日は雲一つない好天で、一日部屋にこもっているのは余りにもったいない。久しぶりに多磨霊園を訪ねることにした。

 

千秋君順之助之墓

 

 千秋順之助は文化十二年(1814)、加賀藩士の子に生まれた。諱は藤範、藤篤。雅号は顧堂、有磯、黄薇庵など。秀才の誉れ高く、藩校明倫堂を出て、江戸昌平黌に学び舎長となった。弘化二年(1845)帰藩。明倫堂助教、世子前田慶寧の侍読を兼ねた。その所論は尊王の大義に基づき、よく時務の得失を論じたが、ついには幕府の衰運を洞察し、藩の進退を明らかに決するよう主張した。著書「治之議」は、我が国における解放論の先駆をなすものとして高く評価されており、識見が凡庸でなかったことを示している。禁門の変には慶寧の側近にあって参謀を務めたが、ともに帰藩するや小松で逮捕され、元治元年(1864)十月、自刃を命じられた。年五十一。【22区1種101側】

 

正四位勲三等男爵森岡昌純之墓

 

 森岡昌純は、天保四年(1834)の薩摩藩士の家に生まれた。文久二年(1862)四月の寺田屋事件の際には、鎮撫使の一人として派遣されている。維新後は、長崎県大参事、兵庫県令などを歴任した。明治十七年(1884)、共同運輸会社社長に就任。翌年、同社が三菱と合併して日本郵船が発足するとその初代社長に就いた。明治二十三年(1890)、貴族院議員。明治三十一年(1898)、六十五歳にて死去。【22区1種37側5番】

 

橋口家之墓(橋口壮介の墓)

 

 橋口壮介は、天保十二年(1841)の生まれ。幼少時から気骨人に優れ、文武二道を修めて特に薬丸流に秀で、造士館の教導となった。勤王の志厚く、安政以来、幕府の朝廷に対する態度を憤慨し、有志とともにこの矯正の意見を抱いていた。文久二年(1862)正月、同志柴山愛次郎とともに江戸詰めを命じられ、途中九州各地の志士と会合して、島津久光の出府を機として全国の志士を糾合して東西に兵を挙げることを協議した。京都に立ち寄って田中河内介、清河八郎らと謀議を重ね、二月江戸に入って在藩の有馬新七らは絶えずこれと連絡して機の熟するのを待った。しかし、同志が少なく、ことの成就しがたいことを察し、江戸藩邸を脱して大阪に至り、中之島魚屋大平方に合宿して、久光の上洛を待った。文久二年(1862)四月二十三日、有馬らと寺田屋に結集したところを久光の送った鎮撫使に斬られ、翌日藩邸で自刃した。年二十二。

 

橋口次郎件兼寛墓(橋口吉之丞の墓)

 

 橋口吉之丞は、壮介の実弟。兄とともに寺田屋に居合わせ、有馬新七を鎮撫使道島五郎兵衛とともに串刺しにしたといわれる。明治元年(1868)十二月、「事故により」切腹を命じられた。二十五歳。

 色々調べてみたが、いずれも「事故により」としか記載がなく、切腹に至った詳しい事情が分からない。【22区1種5側】

 

故陸軍大佐従五位交野瑜墓

 

 交野瑜(さとる)は、天保六年(1835)の生まれ。維新前は片野十郎といい奇兵隊軍監として四境戦争で活躍した。戊辰戦争では東北戦線に出征。明治三年(1870)、陸軍大佐に任じられたが、同年十一月、病を得て三十八歳で没した。【12区2種9側】

 

詩人 森春濤先生墓

 

 森春濤(しゅんとう)は文政二年(1819)の生まれ。父は医師森儀兵衛。はじめ家業の医学を修業させられた、それを好まず、鷲津益斎の門に入り詩を学んだ。嘉永三年(1850)、江戸に出て大沼枕山、藤本鉄石らと交わり、安政三年(1856)、京都に出て梁川星巌の門に入って詩法を学び、漢詩をもって知られた。文久三年(1863)、名古屋に移り、桑三軒吟社を開いた。その門下から丹羽花南(賢)、田中不二麿、永坂石埭が出ている。明治七年(1874)、東京下谷摩利支天横町に住み、茉莉吟社を興し、巌谷一六、日下部鳴鶴、成島柳北らと親しんだ。翌八年には詩文雑誌「新文詩」を発刊した。子森槐南は宮内大臣秘書官、式部官を歴任したほか、明治の漢詩人として知られた。明治二十二年(1889)、年七十一で没。【14区1種3側3番】

 

伊庭家之墓(伊庭貞剛の墓)

 

 伊庭貞剛は、弘化四年(1847)一月に近江国蒲生郡西宿(現・滋賀県近江八幡市)に生まれ、文久元年(1861)、十五歳のときに八幡町児島一郎の道場に通って剣を学び、二十一歳で免許皆伝を許されている。文久三年(1863)、尊王家西川吉輔の門に入った。明治元年(1868)二十二歳のとき、西川吉輔に招かれて上京し、京都御所警備隊士となった。さらに明治七年(1874)、北海道函館裁判所に勤務、明治十年(1877)には大阪上等裁判所に判事として転任したが、明治政府の方針に期待を持てず裁判所を辞した。明治十二年(1879)、大阪住友にいた叔父廣瀬宰平の薦めにより住友家に入社し、明治十三年(1880)には大阪本店支配人となった。

 明治二十七年(1894)、煙害問題解決のため、別子銅山支配人として新居浜に赴任。製錬所を沖合の四阪島に移転する計画を進める一方、荒廃した別子銅山周辺の山々に一大植林計画を立てて実行に移し、着任五年目の明治三十二年(1899)、製錬所の移転や植林に目途をつけて新居浜を離れた。明治三十三年(1900)、住友家総理事に就任したが、五十八歳にして全ての職を辞して石山の活機園に隠退した。大正十五年(1926)十月、八十歳の生涯を閉じた。【25区1種2側】

 

浮田家之墓(浮田和民の墓)

 

 浮田和民(かずたみ)は安政六年(1860)、熊本藩士の家に生まれた。浮田家は、宇喜多秀家の末裔ともいわれる。石光真清、真臣兄弟は従兄弟である。いわゆる熊本バンドの一人。熊本洋学校でキリスト教に入信し、後に同志社に移って新島襄の薫陶を受けた。同志社では政治学、国家学、憲法などを講義した。明治三十年(1897)、東京専門学校(現・早稲田大学)に転じ、早稲田政治学の基礎を築いたといわれる。大隈重信のブレーンとしても高く評され、坪内逍遥は「早稲田の至宝」と呼んだ。昭和二十一年(1946)、没。行年八十五。【4区1種25側】

 

内田氏墓(内田萬次郎の墓)

 

 内田萬次郎は、安政元年(1854)の生まれ。兄の量太郎は伝習士官隊頭取として箱館に戦うが、明治二年(1869)五月、千代ヶ岱にて負傷し、湯川病院にて死亡した。萬次郎も、父とともに衝鋒隊に属して梁田や箱館にて奮戦した。戦後は、大蔵省印刷局印刷局技師として奉職。大正十四年(1925)没。七十一歳。【3区1種1側16番】

 

舟橋家之墓(舟橋聖一の墓)

 

 作家舟橋聖一の墓である。明治三十七年(1904)東京の生まれ。東京帝国大学国文科を卒業。昭和九年(1834)、「ダイヴィング」を発表。戦時下、「悉皆屋康吉」を書き継ぎ芸術的抵抗を示した。第二次大戦後は、「雪夫人絵図」(1948年)、長編時代小説「花の生涯」(1953年)などを発表。著作の多くが映画、芝居、テレビドラマ化された。ほかに「ある女の遠景」「好きな女の胸飾り」など多数。傍らの墓誌によれば、法名は「文篤院殿青海秀聖居士」行年七十一。【3区2種6側3番】

 

吉松家之墓(吉松萬弥の墓)

 

 吉松萬弥は天保九年(1838)の生まれ。維新後は司法省に出仕して裁判所等に勤務した。海軍大将吉松茂太郎は長男。【2区1種4側20号】

 

土井家之墓(土井利恒の墓)

 

 土井利恒は、嘉永元年(1848)、利忠の三男として生まれた。文久二年(1862)、家督を継いで第八代大野藩主となった。元治元年(1864)、天狗党の藩領通過時、利恒は江戸にあったが、藩では民家を焼き払うなど民衆の怒りを買った。戊辰戦争では新政府に恭順し、箱館に藩兵を送った。版籍奉還により藩知事となったが、明治四年(1871)の廃藩置県により免官。明治二十六年(1893)没。【1区1種2側8番】

 

田嶋家之墓(田嶋応親の墓)

 

 田嶋応親(まさちか)は、嘉永四年(1851)、旗本の家に生まれた。講武所にて砲術を学び、後に幕府伝習隊の砲兵隊に属した。戊辰戦争では榎本武揚らとともに蝦夷に渡り、フランス軍事顧問団の通訳を務めた。戦後、兵部省に出仕。砲兵大佐まで上ったが、健康問題を理由に辞職。昭和九年(1934)、八十四歳にて死去。【8区2種30側10番】

 

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