史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「石狩川」 本庄陸男著 新日本出版社

2014年07月26日 | 書評
今春、北海道の当別を旅したことを機に、「石狩川」を読んでみようと思いたった。「石狩川」は、戦前の昭和十四年(1839)上梓された、本庄陸男の代表作である。中古本を取り寄せたが、私が手にしたのは、平成二十三年(2011)に再刊された単行本である。
戦前の小説だからか、或は本庄陸男という作家の文体なのか分からないが、正直に言って甚だ読みにくい小説であった。現代の小説と比べると、物語の展開が遅く、情景描写が綿密である。印象としては、この時代の北海道を反映したものか、終始沈鬱である。段落が変わることなく場面が変わっていたり、登場人物の発言が誰の発言か読み取りにくい箇所もあったりして、読み通すのに一か月以上を要した。
本書の主人公は、仙台藩支藩岩出山藩の元家老阿賀妻謙である。吾妻謙という実在の人物をモデルにしている。また、小説に登場する藩主伊達邦夷も、実在の人物としては伊達邦直がモデルである。
明治維新は、「革命」であったのか無かったのか。この点については、かねてより議論のあるところであるが、封建的支配層が大きな環境変化にさらされるところとなったのは間違いない。特に戊辰戦争において敗者となった諸藩には過酷な戦後が待っていた。岩出山藩もその例外ではない。一万四千六百四十石だったものが、朝敵の汚名を着せられ、藩主邦直は六十五石の扶持米に減額されてしまった。家臣団は、丸裸にされて放り出されたに等しい。
まだ封建制の遺風が残るこの時期、巻末の解説で津上忠氏(劇作家、演出家)が「開拓地の領有は、旧幕藩体制が新政府の政権下に変わっての『転封』であるという意識がその底流にある」と指摘しているように、彼らの意識は旧幕時代から完全に切り替わっていないのであろう。その典型が藩主との主従関係であった。
やはりこの時代の藩主と家臣の関係は、現代から想像もつかないくらい濃厚だった。北海道の未開の処女地に挑むには、藩主がその中心に鎮座することが必須であった。藩主の存在が彼らの最後の拠り所であった。
本庄陸男は、これを初編として、続けて移住士族の昭和に至る過程を描く構想を持っていたという。移住士族の困難は、本来これからというべきである。しかし、「石狩川」脱稿後、わずか二か月後に三十四歳の若さで急逝してしまった。彼の構想とおり大河小説が完成していれば、歴史に残る大作となったであろう。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西郷『征韓論』の真相」 川道麟太郎著 勉誠出版

2014年07月26日 | 書評
副題に「歴史家の虚構をだたす」とあるように、なかなか挑戦的で刺激的な本である。
著者、川道麟太郎氏は元関西大学工学部教授で、専攻は建築論・建築計画学なのだそうで、つまり歴史学は専門外である。過去に近代建築史に関する論文を著したことがあるそうなので、まったくの素人というわけではないだろうが、史料の読解において並み居る歴史家に比べて遜色は感じられない。
昨今、小保方さんの事件以来、日本の科学論文の信用が失墜しているが、科学論文のプロから見れば、歴史家の論文はさらに程度が低いものなのだろうか。著者はいう。「これらの批判がかなり以前からあるにもかかわらず、多くの歴史家が最近でもなお、それらを無視して、従来説に追随しているのはまことに理解しがたい。一般に、科学と称される学問分野では、そういった既往説無視・無批判の論文を投稿しても、審査機関のあるものでは受理さえされないのではないか(P.85)」
著者は、(私でも名前を存じ上げている)名の知れた歴史家の論文を紹介しながら、その虚構や矛盾、検証の不十分さを次から次へと暴いてみせる。著者は「歴史学者が言うことも、歴史書や史料集がすることも、どこもかしこもずいぶんとでたらめだ。これではとうてい、歴史家が史料にもとづいて正当な歴史を伝えるといったことは無理であろう(P.172)」と断罪する。部外者にここまで虚仮(コケ)にされては、歴史家の先生方も黙っているわけにはいくまい。是非、反論を聞いてみたいものである。
たとえば「今日の日本近代史学を代表する学者であり、この分野の『第一人者』とも『碩学』とも称される坂野」潤治についても、「坂野の自説の引き付けてする解釈の特徴がよく表れている(P.133)」と容赦なく批判する。私もこれまで坂野氏の著作を読んだことがあるが、著者の指摘に思い当たる節もある。
西郷隆盛の「征韓論」に関しては長く論争が続いていて、今もって決着したわけではない。著者は古今の征韓論に関わるあらゆる論文にあたり、検証と批判を繰り返す。その長い論争において、昭和五十三年(1978)に毛利敏彦氏が発表した論説=西郷は平和的に使節に立ち、日朝間の国交を回復しようとしていたとする「交渉説」は、画期的なものであった。今でも中公新書「明治六年政変」で読むことができる。著者は、この「交渉説」にも疑問を呈する。
毛利氏の主張に真っ向から対立するのが「征韓説」である。著者は、同時代の誰も(たとえば西郷の心情をもっとも理解していたと主張する勝海舟でさえ)明治六年(1873)の段階で西郷の征韓姿勢を疑っていないことを指摘する。その一方で西郷が真に朝鮮出兵を企図していたならば、戦術面、軍事面についての準備とか意見が何ら見られない不自然さについても言及する。西郷が本気で武力制圧を目論んでいたとは到底思えないのである。最終的に著者の行き着いた結論は「死処説」である。少なくとも著者が目を通したどの史料とも矛盾なく、落着したのが「死処説」なのである。「死処説」は決して著者の新説ではなくて、これまでも主張した先人がおられるようである。しかしながら、これまであまり支持を得てきたものとは言えない。今のところ、私も著者のいう「真相」に納得しているが、一方で朝鮮との交渉の可能性も視野にあったのではないか、という思いもある。
というのも、著者が指摘するように、西郷自身が「是非〔九月〕廿日までには出帆のつもり」としていた明治六年(1873)九月下旬の時点で、渡韓準備は何ら進んでいない。陸軍や海軍と調整した形跡もないし、随員を選抜した気配もない。まるでご近所に御挨拶するように訪韓するだけで、朝鮮は思惑通り西郷を暴殺してくれるものだろうか。西郷にとって最悪のシナリオは、殺されるでもなく、交渉の席に着くでもなく、韓国政府に全く無視されることであろう。本当に暴殺してもらいたいのであれば、もう少し挑発的な挙に出てもよさそうなものであるが、あまりに何の策も無さ過ぎる。西郷は確かに殺されることを切望しながらも、心の片隅では交渉に持ち込み、あわよくば朝鮮を開国させることも考えていたのではないか。
結局のところ、個人の心事に関わることについて、西郷の遺書でも発見されない限り(あるいはタイムマシーンにでも乗って西郷さんを訪ねてインタビューでもしてこない限り)簡単に論争が決着することはないだろう。
征韓論争に興味がない人には面白くないかもしれないが、個人的には久しぶりに知的刺激にあふれた本であった。推薦五つ星である。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水道橋 Ⅲ

2014年07月19日 | 東京都
(伝通院)


処静院跡

 平成二十六年(2014)三月、伝通院の前(厳密にいうと、山門から二百メートルほど西側)に、文京区教育委員会により「浪士組結成の地 処静院跡」と記した説明板が建てられた。処静院は、伝通院塔頭の一つで、正確な位置はこの場所よりさらに西側である。山岡鉄舟と懇意であった処静院住職琳瑞が、結成の主旨に賛同し、本院を提供したといわれる。

 杉浦重剛は、滋賀県大津市膳所の出身。幼名は謙次郎、号は梅窓、天台道士といった。明治三年(1870)、東京大学南校に入学し、明治九年(1876)イギリスに留学した。明治十八年(1885)、東京英語学校(のちの日本学園)開設に関与した。後年、国外院学監、皇典講究所幹事長、東亜同文書院長などを務め、大正三年(1914)には東宮御学問所御用掛となる。明治・大正期の教育家、評論家として重きを成した。大正十三年(1924)死去。


杉浦重剛之墓


祥道琳瑞大和上(細谷琳瑞の墓)

今回の伝通院訪問の主目的は、細谷琳瑞の墓を訪ねることにあった。琳瑞の墓は、伝通院歴代住職の墓の近くにあり、暮石には「祥道琳瑞大和上」と刻まれている。
 琳瑞は安政四年(1857)に処静院の住職となった。水戸の徳川斉昭、藤田東湖と国事を論じ、尊攘派の指導的立場にあったと目されていたが、一方で井伊大老に対し、公武合体を勧告するという中道穏健派であった。文久三年(1863)、暗殺された清河八郎の首級を隠し持っていた山岡鉄舟から依頼され、伝通院に葬り、墓碑を建立した。高橋泥舟とも交流があり、慶応三年(1867)十月十八日、泥舟宅からの帰途、小石川三百間坂にて刺客に襲われ死亡した。三十八歳。

(真珠院)


真珠院


愿恭院殿勇蓮社(水野忠誠の墓)

 伝通院の西に真珠院がある。戦前まで水野家(信州松本藩主、のちに沼津藩主)の歴代藩主およびその関係者の墓五十五基がある墓域があったが、関東大震災さらに戦災によって荒廃するに任せたままであった。昭和三十年(1955)、瑩域を整理した。この時、水野家歴代藩主の墓についても可能な限り復元再建したという。平成十六年(2004)五月、水野家歴代瑩域が新たに完成し、現在の姿となった。
 水野家第十四代水野忠誠(ただのぶ)は、文久二年(1862)に家督を相続し、イギリス公使館東禅寺の警備を担任されるなど重用された。慶応二年(1866)には長州再征のため将軍供奉を命じられた。同年七月には老中に任じられ、再征軍の先鋒総督に従って広島に出陣したが、将軍家茂死去に伴う撤兵作業中に病に罹り九月急死した。三十三歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒込 Ⅲ

2014年07月19日 | 東京都
(吉祥寺)


可堂桃井先生之墓

 吉祥寺の墓地を尋ねること、三度目にしてようやく桃井可堂の墓を探し当てることができた。特段、ややこしい場所にあるわけではなく、経堂前の顕彰碑群の目の前にある。
 桃井可堂は、享和三年(1803)、武蔵国榛沢郡阿賀野村に生まれた。通称は儀八。幼時、血洗島の渋沢仁山に師事し、文政七年、江戸東条一堂の門に入り、清河八郎、那珂梧楼らと「堂門の三傑」と称された。のち備前庭瀬藩の儒臣に取り立てられたが、藤田東湖に共鳴し、書を大原重徳に送って時務を策したが用いられなかった。文久三年(1863)、藩を辞して郷里に戻り、中瀬村で塾を開いた。門下から小田熊太郎、金井国之丞(ともに元治元年の天狗党挙兵に参加)を生んだ。自らも水戸志士とともに尊攘の兵を挙げようとして露見。自首して江戸福江藩邸に幽閉され、元治元年(1864)七月、同所で没した。六十二歳であった。


正三位勲一等男爵佐藤進墓

 佐藤進は、佐倉順天堂に入り、佐藤尚中の養嗣子となって順天堂を継いだ人である。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。維新後はドイツに留学し、明治七年(1874)、日本人として初めて医学士の学位を取得して帰国した。明治十年(1877)の西南戦争では大阪に出張して陸軍臨時病院長を務めた。大正十年(1921)没。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本駒込 Ⅲ

2014年07月19日 | 東京都
(高林寺)


忠内次郎三之墓

 高林寺の墓地を歩くのも久しぶりである。今回は、幕臣忠内次郎三の墓が目的である。
 忠内次郎三は、心形刀流を伊庭軍兵衛秀業に学ぶ。伊庭八郎とも交流があった。講武所剣術教授方をつとめ、元治元年(1864)および慶応元年(1865)には家茂に従って上洛した。戊辰戦争では、榎本武揚艦隊の蟠龍にて箱館に渡り、陸軍奉行添役に任じられた。明治二年(1869)四月、江良町付近の戦闘にて戦死した。三十一歳。
 忠内家の墓域にある、白っぽい石柱状の墓碑がその墓である。

(蓮光寺)
 高林寺北側に隣接する蓮光寺(文京区向丘2‐38‐3)には、大垣藩主戸田氏共や大垣藩士佐竹五郎の墓がある。


蓮光寺


慶徳院殿(戸田氏共の墓)

 戸田氏共(うじたか)は第十一代大垣藩主。慶応元年(1865)十一月の長州再征では藩兵を率いて藝州に出陣した。鳥羽伏見の戦いでも幕軍に加って敗走した。その後、新政府に恭順して北関東各地を転戦した。戦後、その功により三万石の永世禄を賜った。昭和十一年(1936)、八十三歳にて死去。


大垣藩士 佐竹五良義著

 大垣藩士佐竹五郎の墓である。江戸で兵学を学び、藩兵学師範をつとめた。洋式兵学の研究のため、江川太郎左衛門、佐久間象山の門に出入した。慶応四年(1868)の戊辰戦争では軍事奉行として東北を転戦したが、会津戦争で右足貫通銃創を負い、横浜に後送されたが、出血多量のため、明治元年(1868)十月、死亡。四十六歳。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岐阜 Ⅲ

2014年07月13日 | 岐阜県
(加納宿)
 JR岐阜駅南口を出ると、市がやっているレンタサイクルがある。一回百円と非常に安い。今回訪問する加納宿や加納城跡は、歩いても行ける距離であるが、百円くらいであれば自転車を使っても損はない。


中山道加納宿本陣跡
皇女和宮御仮泊所跡

 JRの線路に並行して走る道路が旧中山道である。文久元年(1861)十月二十六日、江戸に向かう和宮は、当地で宿泊した。京都を出て四日目であった。本陣跡は、民家となっているが、その前に本陣跡を示す石碑と、和宮の歌碑が建てられている。


遠ざかる都としれば旅衣
一夜の宿も立うかりけり(和宮歌碑)

 加納宿跡には、本陣跡碑のほか、二つの脇本陣跡、東西の番所跡や高札場跡や問屋跡などが特定されており、それぞれ碑が建てられている。


中山道加納宿当分本陣跡
明治天皇御小休所跡

 当分本陣というのは、聞きなれない用語であるが、本陣・脇本陣が混みあったため臨時的に本陣を増やして対応したものらしい。加納宿以外にもそのような当分本陣はあったと推定されるが、加納宿においては臨時的だったはずの当分本陣が、長期的に利用されていた形跡がある。維新後、明治天皇の行幸の際に、小休所として利用されたらしい。

(加納城跡)


加納城跡

 加納城は、岐阜城落城の翌年、岐阜城の館邸を移して修築されたもので、本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪、南曲輪を備えた本格的な城郭であった。ただし、現在は広大な公園と化した本丸のほか、石垣や土塁をわずかに残しているのみである。
 歴代の加納城主は、奥平氏、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と譜代が務めた。永井氏が加納城に入城したのは宝暦五年(1755)のことで、以来明治維新まで続いた。永井尚志とは縁戚関係にある。
 幕末の藩主は永井尚服(なおこと)。幕末には寺社奉行や若年寄、会計奉行などの要職を歴任した。鳥羽伏見における戦争直後は、旧幕府を支持していたが、加納に戻ると、東山道先鋒総督府に対して、恭順を申し入れた。維新後、加納藩知事に就いたが、廃藩置県により免職。明治十八年(1885)、五十三歳にて死去。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

垂井

2014年07月13日 | 岐阜県
(垂井宿)
 垂井宿は中山道五十七番目の宿場町で、有り難いことに今も昔の風情を残している。商店街の軒先には、昔の屋号を書いた板が下げられており、昔の光景を想像しながら歩くのも楽しい。垂井宿の本陣を務めた栗田家は、酒造業を営み、玄関や門、上段の間を備える広大な建物を有していた。


中山道垂井宿本陣跡


旅籠 亀丸屋

 亀丸屋(西村家)は、二百年前から旅籠を営み、今なお当時の建物を使って旅館を営業している。この建物は、安永六年(1777)に建てられたものである。

(菁莪記念館)


菁莪記念館

 JR垂井駅を降りると、駅前に観光案内所があり、そこでレンタサイクルを調達する。合わせて岩手地区にある菁莪記念館への道順を確認すると、大きな地図を渡してくれる。菁莪記念館へはほぼ一本道で、自転車で十五分から二十分の距離である。行きは逆風と緩やかな上り坂になっているため、なかなか進まなかったが、帰りはストレスなく戻ってくることができた。

 菁莪記念館というのは、天保年間に竹中重明が開いた藩校で、維新後も菁莪学校として継続した。現在、内部は竹中氏や神田孝平に関する資料が展示されている。入館無料。


莪記念館の展示


赤報隊顕彰碑

 この日、菁莪記念館を訪ねた最大の目的は駐車場に建立されている赤報隊顕彰碑を見ることにあった。
 赤報隊は東海道軍の先鋒として、公卿綾小路俊実を擁して年貢半減を掲げて進軍した。慶応四年(1868)正月十八日、赤報隊百五十は竹中氏の本拠岩手の地に進入した。陣屋を守る家老児玉周左衛門は、前主竹中重明(維新後、黄山)を謹慎させるとともに、家臣の妄動を抑え、幕府の陸軍奉行を務めた竹中重固の罪の軽減を願い出た。児玉周左衛門は、赤報隊に大砲、小銃、軍資金を献じ、さらに赤報隊に家臣十数名を参加させた。赤報隊は岩手を出立して中山道を進んだが、同月二十五日、朝廷より帰京命令が下され、三隊のうち二隊は名古屋から桑名を経て京都に戻った。この時点で事実上、赤報隊は解隊した。新政府では帰京した隊士を一時拘置投獄したが、のちに別隊に編入させ東北戦線に送り込んでいる。相樂総三は帰京命令を聞かずに東山道碓氷峠占拠を目標に、隊名も官軍先鋒嚮導隊と改めて、さらに信州に向けて軍を進めた。下諏訪にて捕縛、処刑された。岩手より派遣された家臣らからも、東北の戦場あるいは信州の地で戦死者を出している。

(岩手公民館)


神田孝平顕彰碑


若き日の神田孝平肖像写真
(莪記念館)

 菁莪記念館に隣接する岩手公民館の前に神田孝平(たかひら)の顕彰碑が建てられている。
 神田孝平は、天保元年(1830)、岩手村の生まれ。父は竹中家家臣神田孟明である。文久二年(1862)、幕府の蕃書調所教授に抜擢された。維新後は、新政府から一等訳官として招聘され、のちに兵庫県令、元老院議官、貴族院議員として活躍した。明六社の一員として、明六雑誌に啓蒙的論文を発表した。その興味と知識は、数学、法律、経済学、天文学、考古学等に及び、この時代を代表する博学の知識人であった。明治三十一年(1898)、死去。

(神田孝平先生邸宅跡)
 JR垂井駅から自転車で菁莪記念館を目指すと、その途中に神田孝平の邸宅跡を示す駒札が建てられている。その場所は変哲もない民家となっており、神田孝平の邸宅が残っているわけではないが、こういう説明が付されているだけでも有り難いことである。


神田孝平先生邸宅跡

 神田柳渓は、神田孝平の叔父にあたる。神田孝平の邸宅跡から近い場所に柳渓の邸宅跡がある。柳渓の生まれは寛政五年(1793)。内科を小石元瑞、産科を奥劣斎、薬学を飯沼慾斎に学んだ。医を業とする傍ら、詩人として頼山陽、梁川星巖、江馬細香らと交わり、美濃漢詩壇の重鎮であった。嘉永四年(1851)没。息男春渓も山本亡洋(本草学者)、伊東玄朴(蘭医)に学び、将来を嘱望されたが、若くして世を去った。


神田柳渓先生邸宅跡

(竹中氏陣屋跡)
 この陣屋は、軍師として有名な竹中半兵衛重治の子、重門が築いたもので、石垣や堀など、陣屋というより城郭と呼んでもおかしくない規模のものである。
 竹中氏は旗本として徳川家に仕え、陣屋も幕末まで続いた。しかし、幕末の当主、竹中重固は幕府の陸軍奉行に登用され、鳥羽伏見でも指揮官として参戦し、さらに箱館まで転戦したため、のちに陣屋は没収。所領六千石も三百石まで減封された。


竹中氏陣屋跡櫓門

 ちょうどNHKの大河ドラマで「黒田官兵衛」を放映中で、恐らく竹中半兵衛もそれに登場しているのであろう。垂井町では、竹中半兵衛の所縁の史跡のPRを熱心にやっていた。もちろん、私の垂井訪問の目的は竹中半兵衛ではなくて、赤報隊と神田孝平、あとは強いて言えば竹中重固なので、竹中氏陣屋跡は写真撮影のみで通過。


竹中半兵衛重治公之像

 陣屋櫓門前に竹中半兵衛の像が置かれている。

(禅幢寺)
 陣屋から五百メートルほど北に禅幢寺がある。竹中氏の菩提寺であり、竹中半兵衛重治以下、歴代藩主の墓がある。ただし、重固の墓はここにはなく、東京の泉岳寺に葬られている。


禅幢寺


竹中半兵衛の墓


米良院殿黄山淳光大居士(竹中黄山重明の墓)

 竹中重明は、文久元年(1861)に隠居して家督を重固に譲った。因みに重固は実子ではなく、分家の出身である。岩手に戻って、郷里の子弟の教育の必要性を感じ、藩校菁莪堂を開いた。黄山は維新後名乗った号である。明治二十四年(1891)、死去。


長原武墓

 長原武は、文政六年(1823)、竹中太郎五郎の三男として岩手に生まれ、漢学を神田柳渓に、武道を国井義睦(化月坊)について修めた。山鹿流兵学の始祖山鹿素行の流れを汲む、山鹿素水の塾に入り、安積艮斎、古賀茶渓、佐久間象山、山鹿素水のもとで学んだ。同門に吉田松陰、斎藤新太郎、小林虎三郎らがおり、なかでも吉田松陰とは素水塾を離れたあとも交友を持った。一子長原孝太郎は、長原武の絵の才能を引き継ぎ、多くの作品を残している。明治元年(1868)七月、没。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三井寺 Ⅲ

2014年07月13日 | 滋賀県
(円満院)
 円満院は、天台宗系の門跡寺院である。明治十一年(1878)十月、明治天皇の北陸東海巡幸の際、行幸のあった場所で、門前に石碑が建っている。当時、円満院の宸殿は滋賀県庁舎として使用されていた。


明治天皇別所行幸所

(法明院)


法明院

 今回の大津訪問目的は、法明院の町田久成の墓を訪れることにあった。三井寺の寺務所で尋ねたところ、「東海自然歩道が近道」と教えていただいたので、大津歴史博物館辺りで東海自然歩道の入口を探したが見つからず、結局諦めて一旦別所駅まで下りて、消防署の横の東の道を真っ直ぐ上ると突き当りに法明院がある。森閑とした墓地に日本美術研究家のフェノロサやその友人ビゲローの墓があることで有名である。


フェノロサの墓


ビゲロー墓碑

 米国人アーネスト・フェノロサは、もともと政治・経済・哲学が専門で、東京大学の講師として明治十一年(1878)、来日した。美術にも造詣が深く、弟子の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、日本美術の発掘、文化財保護に貢献した。明治二十三年(1890)にボストン美術館東洋部長として帰国後も日本美術の紹介に努めた。明治四十一年(1908)逝去。遺言に従い、火葬ののち日本に送られ、当寺院の墓地に埋葬された。


本實成院権大僧正久成大和上墓
(町田久成の墓)

 東京上野の国立博物館初代館長を務めた町田久成は、明治二十二年(1889)、大津園城寺で剃髪した。法名を久成(きゅうせい)といった。久成は大僧都になり、園城寺塔頭光浄院住職となった。久成は明治三十年(1897)、東京上野で逝去するが、遺言により法明院に葬られた。フェノロサの墓の近くである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

油小路 Ⅱ

2014年07月11日 | 京都府
(ハトヤ瑞鳳閣)


此付近 新選組最後の洛中屋敷跡

 京都駅の近く、ハトヤ瑞鳳閣というホテルの前に最近「新選組最後の洛中屋敷跡」という石碑が建立された(下京区西洞院通塩小路角)。
 慶応三年(1867)六月、新選組は「七条堀川下る」に新しい屋敷を構え、入居した。正確な場所は特定できていないが、「此付近」であることは確実のようである。同年十二月の王政復古、それに続く鳥羽伏見の戦争により、新選組は京都を離れることになる。従って、新選組がこの地に本拠を置いたのは、半年余りのことであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霊山・高台寺 Ⅳ

2014年07月11日 | 京都府
(霊山護国神社)


戸原卯橘継明霊

 福岡藩招魂場に、秋月藩(福岡藩の支藩)出身の戸原卯橘(うきつ)の墓がある。戸原卯橘は、天保六年(1835)の生まれ。二十歳のとき熊本の儒者木下業広(韡村)の門に入り、また江戸に出て塩谷世弘(宕陰)に学んだ。秋月藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二年(1862)久光が上京するや、海賀と平野國臣(福岡藩)に報じ、東西声息を通じようとしたが、このため嫌疑を受けて国元で幽閉された。翌年六月、許されて、八月脱藩して長州に走り七卿に謁した。そこで中山忠光の大和挙兵を聞き、これに応ずるために平野とともに但馬に赴き、生野で兵を挙げた。しかし、利あらず長州藩の河上彌市(南八郎と変名)らとともに妙見山にて自刃した。年二十九。


太田六右衛門雅義墓


明暗寺徒素行墓

 太田六右衛門は但馬国朝来郡竹田町の庄屋出身。幼少の頃から書を好み、武技を嗜んだ。天保七年(1836)、朝来を襲った飢饉では米庫を開いて賑恤し、人望があった。のち会沢正志斎の「新論」を読んで感ずるところあり、子弟を集めて大義を説き、家産を傾けて四方の志士と交わった。文久三年(1863)の生野の挙兵に加わり、澤宜嘉の密書を携えて出石藩に使いしたが、その途次、養父郡米地村で鎮圧出兵の出石藩兵に捕えられて投獄され、元治元年(1864)京都に送られ六角獄舎に投じられた。のち獄死。年四十三。

 太田六右衛門の墓の近くにある「明暗寺徒素行墓」とあるのは、本多素行のものである。
 本多素行(小太郎)は、文政三年(1820)、膳所藩の出身。天下を周遊するため自ら科を犯して永の暇を賜り、京都の明暗寺に入って虚無僧となった。以後、但馬国養父郡明暗寺の出張所に起居し、四方の志士と交わった。文久三年(1863)の生野挙兵では、大和挙兵の破陣を受け、自重を澤宜嘉に説いたが容れられず。僧形に扮して遁れたが、福崎で姫路藩兵に捕らわれ、京都六角獄舎で斬られた。年四十五。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする