今年は大政奉還から百五十年というメモリアルイヤーである。「そうか、あれから百五十年か」と感慨に浸っているのは、少なくとも私の身の周りでは私だけであるし、世間もそのことで騒いでいる様子はない。大政奉還の関連史跡といえば、京都の二条城くらいのもので、空間的な広がりが少ないことが今一つ盛り上がらない原因だろうか。
せっかくなので、大政奉還の主役である徳川慶喜の本を一冊。「一会桑政権」という概念を確立した家近良樹先生渾身の慶喜伝である。必ずしも「一会桑」は一枚岩ではなく、次第に溝ができ、大政奉還の直後には「会桑」は帰藩するところまで亀裂が深まった。ところが、それを止めたのが他ならぬ慶喜であった。慶喜にとって、「会桑」の軍事力が必要だったのである。しかし、それが慶喜の命取りとなる。新政府のしかるべきポスト(議定職)への就任が決定的となっていた慶喜は、寸前で退場を余儀なくされる。
我々は歴史の結果を知っているものだから、どうしても結果から歴史を見てしまいがちである。我々の先入観を家近先生は次々と覆してくれる。本書は、心地よい意外性の連続である。
たとえば、文久三年(1863)禁門の変前夜の慶喜は、長州藩に対して「寛大」な姿勢だったという。慶喜は禁門の変では先頭にたって長州藩に対決し、その後も長州藩に対して強硬な姿勢を取り続けたため、どうしても最初から反長州的だったように思いがちであるが、彼は「長州側を手厚く遇し、理を尽くして、京都からの退兵と朝命を待つことを粘り強く説得」することを主張したというのである。
時期は少し下って慶応二年(1866)七月二十日、将軍家茂が大阪城で病死すると、しばらく将軍空位期が続いた。我々はこの後慶喜が十五代将軍に就くことを知っているので、「すんなり決まったものと思いがち」であるが、実はこの時、慶喜のほかに田安亀之助(のちの家達)、尾張藩主徳川義宜(よしのり)、紀州藩主松平茂承、前津山藩主松平斉民らが候補に挙がっていたという。ほかにも前尾張藩主徳川慶勝、茂徳、あるいは水戸藩主徳川慶篤らの名前も取り沙汰された。驚いたことに、慶喜の実家である水戸藩の関係者は、慶喜ではなく、尾張藩主や紀州藩主、津山藩主らを推していたというのである。背景には天狗党に代表される藩内の攘夷派と対立していた藩主や藩重役らは、本圀寺詰めの水戸藩士を重用する慶喜を心よく思っていなかったことがある。
大政奉還において、ちょうどその日(慶応三年(1867)十月十四日)、薩長両藩に対して討幕の密勅が下されたが、大政奉還により無力化したと従来よりいわれている。たとえば日本史リブレット「徳川慶喜」(松尾正人著 山川出版社)には「大政奉還は、朝廷内でひそかに進められていた討幕派の画策を後退させる意義をもった」「大政奉還は、まさに討幕派の足もとをすくったことになる」と解説されている。
しかし、大政奉還と討幕の密勅が同じ日に重なったという、あまりに劇的な展開に、慶喜は討幕派の動きを察知して、それを封じるために先手を打ったような印象があるが、果たしてどうだろうか。本書によれば、この時期の慶喜がもっとも恐れていたのは「内乱」の発生だったとするが、これは必ずしも薩長の討幕運動ではなく、「攘夷主義者の浮浪の徒や諸藩士および本圀寺に滞留している水戸藩士らによる」奸計であった。大政奉還により討幕の密勅を封じたのは、単に偶然の所産と考えた方が自然なのかもしれない。
著者の慶喜評は的確である。「周到な準備期間を経て決断をしない。関係者を時間をかけて説得し、その上で決断を発表することをしない。そのために衝撃も反発も大きくなる。」慶喜の独断専行は大政奉還の場面に限らず、何度も繰り返して出現するのである。そのため周囲は振り回され、想定外の離反を産むことにも多がった。
慶喜の個性は幕末史に様々な波乱を招いた。改めて慶喜の存在感を確認することができた。この人がいなければ、幕末史はどうなっていたのだろう。
せっかくなので、大政奉還の主役である徳川慶喜の本を一冊。「一会桑政権」という概念を確立した家近良樹先生渾身の慶喜伝である。必ずしも「一会桑」は一枚岩ではなく、次第に溝ができ、大政奉還の直後には「会桑」は帰藩するところまで亀裂が深まった。ところが、それを止めたのが他ならぬ慶喜であった。慶喜にとって、「会桑」の軍事力が必要だったのである。しかし、それが慶喜の命取りとなる。新政府のしかるべきポスト(議定職)への就任が決定的となっていた慶喜は、寸前で退場を余儀なくされる。
我々は歴史の結果を知っているものだから、どうしても結果から歴史を見てしまいがちである。我々の先入観を家近先生は次々と覆してくれる。本書は、心地よい意外性の連続である。
たとえば、文久三年(1863)禁門の変前夜の慶喜は、長州藩に対して「寛大」な姿勢だったという。慶喜は禁門の変では先頭にたって長州藩に対決し、その後も長州藩に対して強硬な姿勢を取り続けたため、どうしても最初から反長州的だったように思いがちであるが、彼は「長州側を手厚く遇し、理を尽くして、京都からの退兵と朝命を待つことを粘り強く説得」することを主張したというのである。
時期は少し下って慶応二年(1866)七月二十日、将軍家茂が大阪城で病死すると、しばらく将軍空位期が続いた。我々はこの後慶喜が十五代将軍に就くことを知っているので、「すんなり決まったものと思いがち」であるが、実はこの時、慶喜のほかに田安亀之助(のちの家達)、尾張藩主徳川義宜(よしのり)、紀州藩主松平茂承、前津山藩主松平斉民らが候補に挙がっていたという。ほかにも前尾張藩主徳川慶勝、茂徳、あるいは水戸藩主徳川慶篤らの名前も取り沙汰された。驚いたことに、慶喜の実家である水戸藩の関係者は、慶喜ではなく、尾張藩主や紀州藩主、津山藩主らを推していたというのである。背景には天狗党に代表される藩内の攘夷派と対立していた藩主や藩重役らは、本圀寺詰めの水戸藩士を重用する慶喜を心よく思っていなかったことがある。
大政奉還において、ちょうどその日(慶応三年(1867)十月十四日)、薩長両藩に対して討幕の密勅が下されたが、大政奉還により無力化したと従来よりいわれている。たとえば日本史リブレット「徳川慶喜」(松尾正人著 山川出版社)には「大政奉還は、朝廷内でひそかに進められていた討幕派の画策を後退させる意義をもった」「大政奉還は、まさに討幕派の足もとをすくったことになる」と解説されている。
しかし、大政奉還と討幕の密勅が同じ日に重なったという、あまりに劇的な展開に、慶喜は討幕派の動きを察知して、それを封じるために先手を打ったような印象があるが、果たしてどうだろうか。本書によれば、この時期の慶喜がもっとも恐れていたのは「内乱」の発生だったとするが、これは必ずしも薩長の討幕運動ではなく、「攘夷主義者の浮浪の徒や諸藩士および本圀寺に滞留している水戸藩士らによる」奸計であった。大政奉還により討幕の密勅を封じたのは、単に偶然の所産と考えた方が自然なのかもしれない。
著者の慶喜評は的確である。「周到な準備期間を経て決断をしない。関係者を時間をかけて説得し、その上で決断を発表することをしない。そのために衝撃も反発も大きくなる。」慶喜の独断専行は大政奉還の場面に限らず、何度も繰り返して出現するのである。そのため周囲は振り回され、想定外の離反を産むことにも多がった。
慶喜の個性は幕末史に様々な波乱を招いた。改めて慶喜の存在感を確認することができた。この人がいなければ、幕末史はどうなっていたのだろう。