史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

平戸

2015年07月18日 | 長崎県
(亀岡城跡)
 平戸は、思わずそこに住んでいる人たちに嫉妬したくなるほど、「別天地」と呼ぶのが相応しい美しい街であった。ことに平戸大橋辺りから眺める平戸城は、抜群である。これを見るだけでも、はるばるこの地を訪れる価値がある。


亀岡城跡

 松浦家二十六代鎮信は、慶長四年(1599)、亀岡に日の岳城を築いた。しかし、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家は、徳川家康から疑いの目で見られたため、鎮信は疑いを晴らすため日の岳城を焼却し、平戸六万一千七百石を守った。以来、藩主は約九十年間を御館で過ごすが、元禄十七年(1704)、三十代藩主棟(たかし)の時、平戸城(亀岡城)の再築を開始し、約十五年の歳月を費やして享保三年(1718)に完成した。平戸城は明治六年(1873)廃城となるが、昭和三十七年(1962)平戸市により復元されている。


亀岡城(平戸大橋から)

 亀岡城址に沖禎介像、それに沖禎介・横川省三顕彰碑が建てられている。
 沖禎介、横川省三ともに明治期の諜報活動家で、明治三十七年(1904)、日露戦争開戦前夜、ロシアにおける諜報活動、ことに輸送路破壊活動に携わり、ロシア軍に捕らわれて、ハルピンで処刑された。沖禎介は平戸出身。横川省三は、盛岡出身であった。


沖禎介像


愛国の士 沖禎介 横川省三顕彰碑


中山愛子像

 亀岡神社社務所前に中山愛子の像が建てられている。
 中山愛子は、明治天皇(祐宮)の生母中山慶子(よしこ)の母で、平戸第三十四代藩主松浦清(静山)の第十一女。慶子が懐妊すると、中山家では産所を建てて準備し、皇子誕生後は、慶子の父中山忠能が養育掛(里親)に任じられ、祐宮が四歳で御所に移るまで忠能、愛子と生母慶子の手元で育てられた。生母慶子の躾は相当厳しかったといわれる。


亀岡城天守からの眺望

 亀岡城天守からの眺めも最高である。

 城内の展示も興味深い。吉田松陰の入門書(複製)は、萩藩における吉田家の山鹿流に対する来歴を説き、今回入門するにあたり、「執事(山鹿万介高紹)の門下に遊び、大いに本源を究め」たいと意思を述べたものである。


吉田松陰入門書

(積徳堂跡)


積徳堂跡


積徳堂

 積徳堂は、山鹿素行が浅草田原町に開いた道場を、その孫高道が延享二年(1745)にこの地に移したものである。第二十九代平戸藩主松浦鎮信(天祥)は、江戸において山鹿素行と深く交わり、自らも門弟となって山鹿軍学を修めた、その縁で素行の弟の平馬(義行)、孫の高道が平戸藩士となり、山鹿の学統を平戸に伝えることになった。以来、明治維新に至るまでの約百二十年間、積徳堂は平戸藩における学問、兵学の中心道場であった。山鹿素行関係の資料は山鹿文庫と呼ばれる。
 萩藩の山鹿流軍学師範の家吉田家の当主となった吉田松陰は、嘉永三年(1850)、二十一歳の時平戸に遊学した。平戸では山鹿万介の門下に学び、滞在五十日のほとんどは藩臣葉山左内(鎧軒)に従学して、八十冊を越える書物を読み、そのほとんどを筆写している。中でも左内から借りた陽明学の書「伝習録」は、その後の松陰の思想形成に大きな影響を及ぼしたとされる。

(紙屋跡)
 吉田松陰が平戸滞在時に宿泊したという紙屋の跡は、現在工事中であった。近所の売店のオジサンに聞いても、観光案内所の女性に確認しても
「工事中で、小さな石碑だけが残されている」
という返事であったが、私だけに見えないのか、最後まで「小さな石碑」を確認することはできなかった。


紙屋跡

 松陰が平戸を訪れたのは、松陰が「西遊日記」に書き残したところによれば、嘉永三年(1850)九月十四日のことである。
――― 直チニ葉山左内先生ノ宅ニ至リ、拝謁シ、ソノ命ニ依リテ紙屋ト云フニ宿ス。
 松陰は葉山左内から借りた書物を遅くまでかかって筆写した。松陰は平戸滞在中、左内から書物を借りては、紙屋でひらすら筆写している。


(松浦史料博物館)


松浦史料博物館


松浦史料博物館

 松浦史料博物館は、亀岡城が破却された約百年間、藩主の御館として利用された居館跡である。石垣と階段は当時のままである。

(田助港)
 田助港は、承応二年(1650)、四代平戸藩主松浦鎮信(天祥)が、平戸港の副港として整備した港である。長崎出島のオランダ人も江戸に向かう途中、田助港に寄港したという。十八世紀に入ると、平戸藩では捕鯨や鮪漁、鰤漁が盛んになり、田助港も繁栄を迎えた。
 田助港入口にある小島はハゲ島と呼ばれる。西郷隆盛や高杉晋作らは、釣りと称して島に渡り、倒幕の話をしたと伝えられる。


田助港

(永山邸)


明石屋

永山邸はもと廻船問屋「明石屋」で、明治三十六年(1903)の火災で焼失したが、翌年には焼失前そのままに再建されたという。当時、田助の青年多々良孝平は、各地の維新の志士たちを迎え入れ、特に長州の高杉晋作とは親交も深く、国の将来について大いに語り合ったという。永山家の家伝では「当時、多々良孝平の屋敷であった「角屋」(永山邸の向かい、現在郵便局のある一帯)が表向きの志士たちの会合の場所で、明石屋が密談の場所、緊急時の隠れ家として使用されていた。隠し部屋や緊急避難用の脱出口があった。西郷隆盛、高杉晋作、桂小五郎らのほか、名前を伏せた坂本龍馬かこの家の二階で密議をした」と言い伝えられている。

(浜尾神社)


浜尾神社


維新之英傑會合之地

 田助港浜尾神社境内に、維新の英傑会合の地碑が建てられている。もともと永山邸(多々良孝平氏宅)前にあったが、移設されたものである。
 碑文によれば、文久慶應年間、各藩の王政復古の志を抱いた勤王の士が当地にも来往するようになった。薩摩の西郷、長州の高杉、桂、肥前の大隈らの英傑がこの地で会合して密かに謀議を持ったという。
 ただし、西郷と高杉、桂、大隈らがこの地で会合を持ったという記録は文献では確認できず、当地における言い伝えの域を出ない。身を隠して集まるとすれば、あり得そうな場所柄ではあるが…。

 これで今回の長崎県下の史跡の旅は終了。翌日からは佐賀県の史跡を訪ね歩く。
 長崎県といえば、対馬も一度訪ねたい場所である。いずれ対馬にも足を伸ばしてみたい。

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佐世保

2015年07月18日 | 長崎県
(楠本端山旧宅跡)
 ゴールデンウィークに長崎に行ってきたと話すと、必ず「ハウステンボスに行ったのか?」と質問をうける。何も当然混雑が予想される観光地に好きこのんで身を投じるほどヒマではない。道路が渋滞するので、できることならハウステンボスの近くを通ることも避けたかったが、楠本端山旧宅を訪ねるには、ハウステンボスへ通じる国道205号を使わざるを得ず、案の定、この道は渋滞気味であった(東京周辺の渋滞を想えば、大騒ぎするほどのものではなかったが…)。


楠本端山旧宅跡

 楠本端山と碩水兄弟は、幕末平戸藩士の家に生まれた儒学者である。端山と碩水の旧宅は、父忠次右衛門(養斎)が、天保三年(1832)に建てたもので、門を入ると三カ所に玄関があり、右から来客用、家族用、使用人用に分れ、部屋には二間続きの座敷が二組もある。さらに儒教の祠堂を備えるなど、江戸時代後期の平戸藩士の家に儒教の祠堂を合わせ持った貴重な建物である。


鳳鳴書院

 楠本端山は、弟の碩水および門人の近藤義郷、浜本必強、多数の同志とともに明治十五年(1881)、私塾として鳳鳴書院を設立した。もともと鳳鳴書院は、この場所から五百メートルほど北側にあった。端山と碩水は講師となり、監督に近藤、学長に浜本、寮長には書生中から二名が選ばれて運営に当たった。端山らが鳳鳴書院を開設したのは、人材や道徳の教育が目的であった。ここで学ぶ者は、遠く東北地方にまで及び、常に数十人が学び、最終的に鳳鳴書院が輩出した人材は千人を越えたという。そのために「針州の僻地に一大学府出現の観あり」と記録が残るほどであった。現在の建物は昭和五十年(1975)に復元されたものである。

(楠本家墓地土墳群)


楠本家墓地土墳群


端山先生楠本伯子之墓

 端山旧宅を訪ねると、一人の老婦人が掃除をされていた。老婦人に楠本家の墓地の場所を聞いて直ちに向かった。楠本家墓地は、旧宅跡からそう遠くないバス通り沿いにある。
 兄端山は、少年の頃、藩校維新館で学び、のち江戸に留学した。帰藩後は藩校維新館の教授を務め、その後、明治十四年(1881)、針尾葉山で私塾鳳鳴書院を開いた。明治十六年(1883)、端山没後は弟の碩水が引き継ぎ、明治三十年(1897)に閉鎖するまで学問を教授した。
 旧宅の東に楠本家の墓地がある。端山の墓を含む七基が土墳を持つ儒教様式の墓である。特に端山の墓は土墳の前に儒教式墓碑を置き、周囲には斎垣(いがき)を巡らせ、前面には中国風石門と石燈籠を置く典型的な儒教墓となっている。端山は生前、大橋訥庵に儒教墓について教えを乞うており、その教えに従って墓を建てたと考えられる。


楠本碩水先生之墓(右)

(小松屋跡)


藤津屋本館(小松屋跡)

 早岐(はいき)宿は、古くから交通、流通の要衝であった。平戸藩政下にあっては、大村藩領と接する南の関門として重要な位置を占めた。藩主が長崎勤番や参勤交代の折、利用した平戸往還の宿場町として栄えた。現在、本陣跡は産婦人科となっているが、往時をしのぶ門が残されている。
 本陣跡から遠くない場所に、旅宿小松屋跡(現・藤津屋本館)がある。吉田松陰二十一歳の時、平戸に向かう途上、ここに宿泊している。


早岐宿御本陣跡

(江迎中央公園)


吉田松陰腰掛石

 江迎(えむかい)も平戸街道に位置する宿場町である。


江迎郷旧街道驛址

 江迎中央公園に、吉田松陰が腰をかけて休憩したと伝えられる腰掛石がある。
 松陰は嘉永三年(1850)、平戸の葉山鎧軒、山鹿高紹を慕って平戸まで来た。佐世保を経て、平戸に向かう途中、江迎に一泊している。この石のことは松陰の日記にも記されている。当時は困難な徒歩旅行で、やっとのことで庄屋の家に泊めてもらうことになったが、家の中に入る前にクタクタに疲れた身体をしばしこの石に腰掛けて休めたといわれる。

 この日の宿泊は佐世保であった。佐世保は軍港として栄え、今では人口二十五万人を越える、長崎県北部最大の都市となっている。街が妙に活気にあふれていることが少々驚きであった。

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島原

2015年07月18日 | 長崎県
(旧島原藩薬園跡)


史跡 旧島原藩薬園跡

 この薬園跡は、島原藩主松平家の命により、シーボルトの門人、賀来佐一郎、藩臣飯島義角らによって、弘化三年(1846)から嘉永年間にかけて、島原城内から移転造園された薬草園である。薬園を囲む石垣、薬園方詰所跡、薬圃石垣などの遺構がよく残されている。昭和四十九年(1974)から四次にわたる発掘調査により石垣遺構や薬園方詰所跡を含む居住区を中心に復元整備された。今も薬草が栽培されている。


薬園跡から眉山を臨む

 賀来佐一郎(佐之)は、豊前国出身で、シーボルトに学んだ名医で、島原藩に招かれて藩医となり、医学校である済衆館の教授をつとめ、種痘の普及に努めた。当時としては珍しく人体解剖を実施して、解剖絵図を残すなど、多彩な活躍をみせた。

(島原城跡)
 現在、島原城が建つ辺りは、森岳といい、その昔、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍蔵寺隆信軍を撃破した場所である。この地に五条(現・奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築いた。元和四年(1816)に着工し、四~七年の歳月をかけて完成。同時に島原城下町も整備されたという。


島原城天守閣

 層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は四キロメートルにわたって矢狭間をもつ練塀で囲んだ。四万石の大名には過分な城郭である。以来、松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と四氏十九代の居城となった。寛永十四年(1637)の島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、寛政四年(1792)の島原大変(大地震とともに眉山が崩壊したことによる土砂災害と津波災害。死者は一万五千人と記録される)にも耐えた。維新後廃城となったが、昭和三十九年(1964)天守閣が復元され、その後も巽櫓が再建されるなど、次第に往時の姿を取り戻しつつある。

 幕末の島原藩主は松平忠和。将軍慶喜の弟ということもあって、藩論は初め佐幕であったが、下級士族の不平が、大和天誅組や水戸天狗党の反乱への参加となって現れた。また、尊王派「激烈組」による中老松坂正綱襲撃事件も起きた。しかし、強硬派の動向は藩内に浸透せず、大勢は穏健派にあり、倒幕活動は十分に展開しなかった。


最後の藩主松平忠和の書

 松平忠和は水戸藩主斉昭(烈公)の子で、慶喜の弟である。尊王倒幕に急速に傾きつつある情勢下、島原藩では幕藩体制維持を藩是として文久二年(1862)、忠和を藩主に迎えた。二度にわたる長州征伐にも出兵。藩兵は小倉城攻防に参戦したり、軍勢を豊後高田に待機させたりと、幕府側に同調的であった。慶応三年(1867)、慶喜が大政奉還を表明したとき、藩主は病床にあり「城内では大吟味。昼夜相詰めて…色々評論に相及び…」という有様であった。ようやく家老板倉勝直が上京して、朝廷に忠誠を近い、藩兵百五十九名が大砲二門を率いて戊辰戦争に参加した。島原藩兵は、明治元年(1868)十二月まで東北を転戦し、四名の戦死者を出した。


日蓮上人像(喝! 北村西望作)

 城内には、郷土出身の彫塑家で、長崎の平和記念像で有名な北村西望記念館(巽櫓)がある。

(武家屋敷跡)
 武家屋敷の入口付近に宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷があった。幕末の当主宮川度右衛門守興は、種子島流荻野派の砲術師範として多くの弟子を育てた。嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士吉田松陰が兵学の研鑽の旅の途中、ここを訪れた。松陰は「西遊日記」にで次のとおり記録している。
――― 宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成スヿ(こと)ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル。
 (訳・宮川がいうには、直発砲でなければ功を成すことはない。だから近頃はカノン砲を造っている)


吉田松陰来訪の地

 島原の武家屋敷は、土塀と石垣に囲まれた屋敷が整然と並び、道の中央を清流が流れる。この用水道は、寛文九年(1669)に設営され、飲料としても利用された。江戸時代、この一帯には鉄砲組の下級武士の住まいがあったため、鉄砲町と呼ばれた。


武家屋敷跡

(保里川家)
 保里川家は島原城下を南北に貫く島原街道に面して建っている。かつて旅籠として営業していて、島原を訪れた吉田松陰も宿泊したという。


保里川家

(鯉の泳ぐまち)


鯉の泳ぐまち

 島原は古くから湧き水が有名で、特に新町一帯は湧き水が豊富で、町内の清流に鯉を放流し、て観光客を集めている。

(稽古館跡)


藩校稽古館跡

 城から少し離れた下の丁の住宅街の一角が藩校稽古館跡である。稽古館は、第七代島原藩主松平忠馮(ただより)によって、寛政四年(1792)眉山の大崩落によって地震と津波の大惨禍の直後ではあったが、学術振興のために寛政五年(1793)に開かれた藩校である。開校に当たり藩主は「自今、士族卒の男子齢八歳より入校、学に就くべし。業に奉仕する者は勤務の余暇登校し、会読講義を聴講すべし。」と布令を出している。次の八代忠候(ただよし)は、天保五年(1834)、敷地を五百六十坪、建物を百四十七坪に拡張し、江戸から碩学川北温山を招いて、大いに内容の充実に努めた。これが刺戟となって、藩内の各地には百六十七カ所の寺子屋ができ、これら寺子屋の指導も果たしつつ、廃藩置県まで子弟の教育に寄与した。

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五島

2015年07月18日 | 長崎県
(福江城跡)


福江城(石田城)跡

 嘉永二年(1849)、異国船の襲来に備えて、築城の許可が降りて、以来十五年の歳月と約二万両の資金を投じて、文久三年(1863)に福江城(別名石田城)が完成した。城内の面積五万二千八百㎡、外堀、内堀と本丸、二の丸などを備えた本格的城郭であった。築城当時は、三方を海で囲まれた海城であった。我が国でも比較的新しい城であったが、明治五年(1872)解体された。現在、残っているのは石垣と五島氏庭園程度であるが、石垣だけでも一見の価値はあろう。残念ながら、私が訪れたとき、五島氏庭園は長期閉鎖して改修工事中であった。

(五島高校)
 五島高校の正門は、福江城の中仕切門をそのまま活かしたものである。


五島高校正門

(武家屋敷)
 福江城の北側に武家屋敷通りがある。寛永十一年(1634)、第二十二代五島藩主五島盛利が、各地に散在していた五島藩士百七十余家を当地に集約し、城下町を形成した。これを「福江直し」という。
 現在もこの土地特有の石垣が道の両側に連なる。さすがに住居は建て替えられているが、石垣は当時のままである。上部に「こぼれ石」と呼ばれる丸い小石を半円形に積み重ね、その両側をかまぼこ型の石で止めている。泥棒がこの石垣を乗り越えようとすると、小石が崩れて転落するという仕掛けらしい。


武家屋敷ふるさと館

 武家屋敷通りの一角にふるさと館があり、城下町の歴史などを紹介している。レンタサイクルなどの貸し出しもある。

(常灯鼻)


常灯鼻

 常灯鼻(じょうとうばな)は、福江城を築いた五島盛成(もりあきら)が、城の北東から吹き寄せる大波を防ぎ、築城工事を容易にするために築かせたものと言われる。防波堤としての役割のほか、灯台としての役目も持っていた。弘化三年(1846)に完成し、さらに丸木地区からの導流堤(防波堤)も二年後に完成し、これによって福江川港は多くの船が安全に停泊できるようになった。海が茶色く濁っているのは、川が運んできた土砂によるものである。

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新上五島

2015年07月18日 | 長崎県
(江ノ浜郷共同墓地)
 初日の好天とうってかわって、二日目は朝から雨であった。長崎から五島へ渡る高速船「ぺがさす」は最高時速八十キロメートル、福江港まで一時間半程度で結ぶ。前線の影響で船は大きく揺れた。酔い止めを飲んでいなければ、寸分も持たなかっただろう。青白い顔をしてトイレに駆け込む乗客が続出した。
 隣に座った老夫人は新潟から団体旅行参加者であった。過去には東海道日本橋から京都三条、琵琶湖一周を果たした健脚の持ち主であった。私より一回り以上もお年を召しているが、世の中には元気な人がいるものである。長崎の坂を二~三回上り降りしただけでゼェゼェしている我が身が情けない。
 奈良尾から龍馬ゆかりの江ノ浜郷まで三十七キロメートル。レンタカーで一時間弱の距離である。途中、信号でほとんど止まることもない。雨以外は大きなストレスなく江ノ浜郷に行き着いた。


ワイルウェフ号遭難の碑

 ワイルウェフ号遭難の碑は、共同墓地内にある。風化を防ぐために屋根のついたコンクリート製の小屋の中に納められている。墓碑には、ワイルウェフ号とともに海の藻屑と消えた乗組員の名前が刻まれる。中央の細江徳太郎という名前が池内蔵太の変名である。

 池内蔵太は、天保十二年(1841)、土佐城下小高坂村の生まれ。性明敏にして沈着知勇の人と言われる。文久元年(1861)、江戸に出て安井息軒に学び、諸藩の志士と交わり、武市瑞山、大石弥太郎、河野敏鎌らと共に主唱して土佐勤王党の結成に尽力した。ひとまず帰国後、文久三年(1863)、藩命により江戸、さらに大阪に至ったが、保守的藩論に飽き足らず、同年脱藩して長州に赴き、五月十日の長州藩の外国艦船砲撃に遊撃隊参謀として参加した。八月の天誅組の挙兵には洋銃隊長として参加し、五条代官所を襲い、九月二十四日鷲家口の敗戦ののち潜行して大阪・京都に赴き、十月、三田尻に遁れた。元治元年(1864)禁門の変に忠勇隊に属して参加したが、再び長州に敗走した。長州にあって海軍の必要性を説いていたが、のち坂本龍馬の長崎亀山社中に入り、慶応二年(1866)ワイルウェフ号の乗組士官となった。しかし、同年五月二日、ユニオン号に曳航されて長崎を出帆し、鹿児島に向かう途中、五島塩屋崎で嵐に遭い、ワイルウェフ号は沈没し、船と運命をともにした。年二十六。

 池内蔵太は、慶応元年(1865)二月十四日、下関市街で真木菊四郎(久留米藩脱藩)が暗殺され、その犯人という噂を立てられた。暗殺の理由は、真木が父・真木和泉の遺志を継いで、薩摩藩との和解に奔走したからだという。菊四郎の叔父真木直人(外記)は池の命を狙った。この頃、桂小五郎ら長州藩首脳部は薩摩との提携を模索し始めた時期であり、池の立場は危うくなった。これを知った龍馬は、池を下関から連れ出し、亀山社中の同志に加えた。池が細江徳太郎という変名を用いていた背景には、こうした事情があったのであろう。

(龍馬ゆかりの地広場)


祈りの龍馬像

 海に面した場所に龍馬ゆかりの広場が作られている。海に向かって手を合わせる龍馬像は、「祈りの龍馬像」と呼ばれている。
 慶応二年(1866)五月二日、この沖合の潮合崎にてワイルウェフ号が遭難し、乗組員十六名のうち十二名が命を落としている。この中には船将高泉十兵衛(鳥取藩士黒木小太郎)や池内蔵太らが含まれている。
 この時龍馬は、伏見寺田屋で受けた傷を治療するために鹿児島に滞在中であったが、即座に亀山社中の仲間を連れて当地を訪れ、自ら碑文を書き、同志の霊を弔うために資金を添えて建碑を依頼した。


「龍馬ゆかりの地」碑

 写真を撮ったら、すぐさま踵を返して奈良尾に戻る。十二時過ぎに奈良尾に到着したため、早々にレンタカーを返却し、福江まで往復の乗船券を購入した。計画外であったが、午後は福江の街を歩くことになった。

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大村 Ⅲ

2015年07月18日 | 長崎県
(長岡半太郎屋敷跡)


長岡半太郎屋敷跡

 久原二丁目の住宅街の中に長岡半太郎の屋敷跡碑がある。
 長岡半太郎は、明治から昭和にかけて活躍した世界的物理学者である。昭和六年(1931)、大阪帝国大学開設とともに初代総長に就任し、理学部を設立し、のちにノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎らの素粒子グループを育成したことで知られる。
 長岡半太郎の父治三郎は、大村藩の「三十七士」の一人である。彼らの密議の場所として、この屋敷が使われたため、今も門前の「長岡半太郎生誕之地碑」には、「三十七士会盟之跡」とやや小さい字で記されている。
 長岡治三郎は、明治四年(1871)には、藩主大村純熙とともに岩倉具視の欧米使節団に参加した。

(長崎医療センター)


長与専斎の旧宅

 長崎医療センターの敷地内に長与専斎の旧宅が保存されている。
 長与専斎は、種痘で有名な藩医長与俊達の孫で、天保九年(1838)に大村片町で生まれた。父・中庵も蘭学を学んだ医者であったが、専斎が四歳のときに亡くなったため、専斎は祖父俊達によって育てられ、祖父の影響で医学を志すようになった。藩校五教館で学んだ後、安政元年(1854)、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、同六年(1859)、長崎のポンペの医学伝習所などで体系的に西洋医学を勉強した。その後、長崎医学校(長崎大学医学部の前身)の学頭となり医学教育の確立のために力を注いだ。
 明治四年(1871)、欧米の医事制度を視察した後、文部省の医務局初代局長となり、その後、東京医学校の校長も兼務した。医務局は内務省衛生局と変わり、専斎はその初代局長にもなった。「衛生」という用語は、この時専斎によって作られたことは有名で、近代医療制度の基礎を築いた人物として日本の近代化に大いに貢献した。その後、貴族院議員となり、男爵を授けられ、宮中顧問官となった。明治三十五年(1902)、六十五歳にて逝去。

 この旧宅は、天保初年(1830年前後)、祖父俊達が建てたもので、「宜雨宜晴亭(ぎうぎせいてい)」と呼ばれ、当時は片町の海岸沿いにあった。専斎は幼少の頃、この家で育った。昭和三十三年(1958)、現在地に移築されたもので、専斎の号をとって「松香館」と呼ばれている。


長与専斎旧宅


長与専斎先生

 旧宅横に置かれている長与専斎の胸像は、昭和三十一年(1956)、長与専斎先生顕彰胸像建設会により大村市民病院内に建立されたが、大村市民病院の建て替え等を機に当地に移設されることになった。ここには長男長与称吉の胸像も置かれている。

(吹上墓地)


飯山松林先生墓

 松林飯山(廉之助)は天保十年(1839)、医者松林杏哲の長男に生まれた。嘉永五年、藩主大村純熙に従って江戸に上り、安積艮斎に学び、安政四年、十九歳で昌平黌の詩文掛となる。万延元年(1860)より松本奎堂らと双松岡塾を開いて尊王攘夷を鼓吹した。幕府の圧迫により閉鎖して国に帰った。文久三年(1863)正月、藩命により京阪の間を奔走して天下の形勢を洞察して帰り、五教館教授に擢んでられ、また特旨をもって政務に参与せしめられた。これよりますます勤王の大義を唱えて藩の士気を鼓舞し、岩崎弥太郎、竹添進一郎(のちの中国公使)など全国から来り学ぶ者多かったが、一方同士三十七士と義盟を結んで佐幕派を排斥し、ついにその凶刃に斃れた。年二十九。明治十年(1877)、旧藩主は碑を京都東山に建てこれを祀った。

(松林飯山遭難の碑)


松林飯山遭難の碑

 慶応三年(1867)正月三日、城中の謡初め式に参列し、夜九時頃帰宅途中、この石碑のある付近で刺客に襲われ、わずか二十九歳の若さで倒れた。飯山の暗殺事件を機に下手人とされた多くの佐幕派が取り締まられ、藩論は勤王に統一され、大村藩は倒幕に大いに活躍することになった。この碑は、昭和七年(1932)に建立されたものである。

(本経寺)


本経寺

 本経寺は歴代大村家の菩提寺である。本堂左手の墓地に、藩主一族の墓七十三基が並ぶ。初代藩主喜前(よしあき)から十一代藩主純顕(すみあき)までの歴代藩主および筆頭家老松浦家の墓が整然と並ぶ様は壮観である。これまで各所の大名墓を訪ねてきたが、これほどの規模を誇る墓所は、本経寺が唯一無二ではないか。


大村家墓碑群


長井家累世之墓(長井兵庫の墓)

 墓地には、長井兵庫の墓がある。長井兵庫は、慶應三年(1867)、松林飯山(廉之助)の暗殺事件(大村騒動という)に関与した嫌疑で処刑された。大村騒動は、二万七千石の小藩が、藩の命運をかけて保守慎重派を一掃し、倒幕に踏み込む契機となった事件であるが、処刑された関係者には苦い事件となった。この墓碑は、息子岩雄が建てたもので、本経寺の過去帳には戒名が「諦観院實相日等居士」とある。この戒名には「真実を明らかにする」との意味が込められており、藩の命運に殉じた人々の想いが伝わってくる。


松林飯山碑

 本経寺門前の駐車場に松林飯山碑が建てられている。飯山自身の書簡の字を拡大して彫ったもので「斃れて復起つ」と記されている。昭和十一年(1922)、飯山七十年祭に飯山会にて建立されたもの。

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大村 Ⅱ

2015年07月18日 | 長崎県
(五教館御成門)


五教館御成門

 五教館は大村藩が設立した藩校である。その起源は四代藩主大村純長が寛文十年(1670)に、大村城内に創設した藩校集義館に溯る。その特徴は、武士の子弟だけでなく、広く一般にも聴講を許した点にあった。元禄七年(1694)には静寿園と改められ、桜田(現・大村公園桜田の堀附近)に移された後、学寮としての五教館と武芸場としての治振軒とが整備された。五教館の名称は、「孟子」の教えにある「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あらしむ」との、対人関係において守るべき五つの秩序を教育の基本としたことから名付けられたものである。その後、入学者が増加し、従来の施設では対応できなくなったので、天保二年(1831)、現在の大村小学校の地に移転した。明治六年(1873)、廃校となった。


五教館之跡

 御成門は、通称「黒門」と呼ばれ、藩主が来校した時の専用門として使用された。現在、大村小学校の入学式と卒業式の時だけこの門が開かれ、生徒が通ることになっているという。


石井筆子胸像

 五教館御成門の横に石井筆子の胸像が置かれている。石井筆子は、大村藩士渡辺清の娘で、若くしてフランス留学を経験し、津田梅子らと華族女学校の外国語教師を務めた。子供が知的障害児だったことから、その福祉と教育に生涯を捧げた。昭和十九年(1944)没。

(大村護国神社)


大村護国神社

 円融寺は、江戸時代初期の承応元年(1652)、四代藩主大村純長によって、三代将軍徳川家光以下歴代将軍の位牌を祀るために創建された寺である。順長は幕府の勘定奉行伊丹勝長の四男で、先代純信の養子となった。しかし、幕府の正式の許可が下りる前に純信が亡くなり、藩の存続が危ぶまれたが、三代将軍家光の裁可で跡目相続が許されたため、その恩義に報いるためにこの寺が建てられた。円融寺は明治維新後に廃寺となり、戊辰戦争の戦死者を祭るための旌忠瑩(せいちゅうえい)が建てられ、のち招魂社と改称し、ついで護国神社と改められて今日に至っている。境内には戊辰戦争の戦死者の墓碑のほか、維新で活躍した大村藩の三十七士の石碑が残されている。


三十七士顕彰碑

 幕末の大村藩では、渡辺清、昇兄弟、針尾九左衛門、松林飯山、長岡治三郎、楠本正隆らを中心として勤王の動きがあった。彼らは同志で血盟を結び、密かに会合を重ね、諸藩の志士と交わり、時の藩主大村純熙に幾多の建言を行うなど、その活躍は目覚ましいものであった。この同志がのちに三十七士と呼ばれ、幕末の大村藩を率いた集団となった。慶応三年(1867)、中心人物の一人であった松林飯山が暗殺された事件を契機に佐幕派の多くが処刑され、藩論が勤王倒幕に統一されることになった。護国神社にある三十七士の碑は、三十七士の功績を讃えるために、三十七士の死没の順に並べて建てられたものである。明治三十六年(1903)に建設が始まり、大正六年(1917)に三十七基が完成した。


松林廉之助漸神霊


浜田謹吾墓


戊辰戦役記念碑

 戊辰戦争で明治新政府側に立って参戦した大村藩は、とりわけ東北地方での奥羽越列藩同盟軍との戦いで活躍し、激戦となった刈和野の戦いでは多くの戦死者を出した。円融寺跡地には戦没者二十三基の墓碑が立っており、彼らの遺髪が納められたといわれている。この中には少年鼓手として従軍し、十五歳の若さで戦死した浜田謹吾の墓もある。


旧円融寺庭園

 護国神社の一番奥の斜面には、円融寺の石庭が残されている。巨石を多く使用し、三尊方式による石組は桃山時代の様式を色濃く残したものである。

(旧楠本正隆屋敷跡)


旧楠本正隆屋敷跡

 この屋敷は楠本正隆によって明治三年(1870)に建てられたもので、寄棟造り、桟瓦葺き、平屋建て一部二階の母屋と、渡り廊下で結ばれた別棟の離れからできている。建物の様式から近世武家住宅の系譜をひくもので、建物だけでなく石垣、庭園などを含めた屋敷地の全体がほぼそのまま残っており、旧大村藩内に残る武家屋敷の遺構としては、最も形式の整ったもの一つである。


楠本正隆肖像画

 楠本正隆は、長崎府判事、新潟県令、東京府知事、元老院副議長を務めた後、明治二十三年(1890)七月一日に行われた第一回衆議院議員総選挙に、東京麹町区から出馬して当選した。その後、同副議長を経て、明治二十六年(1893)十二月に第三代衆議員議長となり、引き続いて第五代まで議長を務めた。この肖像画は議長を務めたことを称えて描かれたものである。


楠本正隆の書


楠本正隆生誕之邸

 駐車場横には、壁面にはめ込まれるように楠本正隆記念碑が置かれている。この記念碑は、衆議員議長、男爵楠本正隆を顕彰するため、明治三十七年(1904)八月、貴族院議員伯爵大村純雄らによって、現・東京芝公園に建てられたものである。高さ六メートル三十六センチ、幅二メートル七十二センチという巨大な石碑であったが、その後、まっ二つに折れてしまったため、大村市が東京都より譲り受け、現在地に展示したものである。


楠本正隆記念碑
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大村 Ⅰ

2015年07月18日 | 長崎県
(渡辺清誕生地)
 長崎へ空路で入ると、飛行機が着陸するのは大村市に所在する長崎空港である。空港は海上に造られている。
 長崎市内に入る前に大村の史跡を訪ねる。大村は古い歴史を持つ街で、幕末に関する史跡も数多い。事前に大村市観光協会に、主な史跡の場所は確認して情報を得ておいたので、快調に史跡を回ることができた。

 最初の訪問地が、玖島二丁目にある渡辺清・昇兄弟の誕生地である。残念ながら生家跡を思わせるものは何もない。


渡辺清誕生地

 渡辺清は、天保六年(1835)、大村城下に生まれた。つとに尊攘の説を奉じ、文久三年(1863)九月、大村藩勤王三十七士による義盟に加わり、国事に奔走。慶応三年(1867)、松林廉之助が佐幕派によって倒されると、藩主大村純熙に勧めて佐幕党二十七人を梟首した。同年、藩の二男以下の子弟をもって新成組を結成しその隊長に就き、明治元年(1868)、鳥羽伏見の戦争が起こるや、伏見・桑名に戦って功を立てた。ついで東征軍監・東征大総督参謀として偉功を立て、賞典禄四百五十石を下賜された。維新後は民部省権判事、民部権大丞兼三陸磐城両羽按察使判官として東北地方の民政に当たり、明治四年(1871)厳原県藩知事、大蔵大丞を経て、明治七年(1874)、福岡県令、明治十四年(1881)、元老院議官、明治二十一年(1888)、福島県知事に任じられ、貴族院議員に選ばれた。明治三十七年(1904)、七十歳にて没。
 渡辺昇は、清の実弟。天保九年(1838)に生まれた。江戸に出て安井息軒の門に入り、また剣を斎藤弥九郎の塾に学び、のち桂小五郎に代わりその塾頭となった。つとに尊皇攘夷の志を抱き、桂小五郎ら志士と交わり時事を談じた。文久三年(1863)の大村藩三十七士の義盟に参加。その領袖として活躍し、藩論を一定して薩長と志を通じ、その間を往来していく王政復古の大業を翼賛した。明治元年(1868)四月、長崎裁判所出仕以来、太政官権弁事兼刑法官権判事・待詔局主事・中弁・弾正大忠・盛岡県権知事・大阪府権知事を歴任。明治十年(1877)、大阪府知事、明治十三年(1880)、元老院議官を経て、明治十七年(1884)、会計検査院長となった。大正二年(1913)、七十六歳にて没。

(浜田家墓所)
 久原一丁目の浜田家墓所には、戊辰戦争で戦死した浜田謹吾やその父濱田彌兵衛らの墓がある。濱田家の先祖は、寛永五年(1618)、御朱印船長として台湾に赴き、貿易を妨害したオランダ総督と戦って勇名を馳せた濱田彌兵衛重武である。


濱田謹吾重俊神霊

 濱田謹吾の墓である。大村市内には二か所濱田謹吾の墓があるが、そのうちの一つ。個人手には角館の墓も既に掃苔済みなので、これで三つ目ということになる。
 濱田謹吾は大村隊の鼓手として秋田に出陣し、刈和野の戦いで戦死した。十五歳の少年の遺体の軍服から、母がおくった歌が発見され、涙を誘ったという。


濱田彌兵衛重義 同人妻チカ子 墓

 濱田謹吾の父、彌兵衛は三十七士の一人。妻チカ子は、戊辰戦争で出征する息子謹吾に歌を贈ったことで知られる。この縁で大村市と角館市は姉妹都市として締結している。

 ふた葉より 手くれ水くれ 持つ花は
 君がためにぞ 咲けやこのとき

(大村公園)
 玖島城(大村城)は、大村藩二万七千石の居城である。玖島城は、慶長四年(1599)に造られ、その後慶長十九年(1614)に大改修を行い、この時、虎口門、台所門、搦手門の三つの入口の形が定まった。本丸敷地の内、西半分には大村神社が建立されており、稲荷神社のある東半分には藩主の居館があった。現在、建造物は破却されて、一帯は公園として整備が進んでいる。特に桜と菖蒲が有名である。


玖島城板敷櫓

 城郭らしいものとしては、板敷櫓が再建されて、美しい姿を見せている。


新蔵波止跡

 玖島城は海に面した城である。海岸には新蔵波止跡が残されている。貞享三年(1686)、幕府が官米三千石を筑前から運んで預けた時、二棟の新蔵を建て、この波止場を築いた。それ以降も藩船などの発着に利用された。


浜田謹吾像

 玖島城内に浜田謹吾の銅像が建つ。全く同じ型の像が、秋田県の角館宇津巻天神にもある。


戊辰戦役記念碑

 大村藩は戊辰戦役に当たり、京都で禁裏守護にあたり、その後大津に進出、東海道征討軍先鋒として江戸に進軍した。江戸では上野の彰義隊討伐にも参加した。慶応四年(1868)六月、奥羽の賊軍討伐令が下ると大村藩東征軍総督土屋善右衛門以下百十八名は、藩地からの応援隊総司令大村弥門以下百十名を加えて一隊を成し、会津戦争で戦功があった。また北伐軍である吾往隊は、久保田藩領を転戦し殊勲があった。この間、戦死者二十二名、戦傷者五十七名の犠牲を出している。戦後、勲功により三万石の賞典禄を下賜された。これは薩長土に継ぐものである。


斉藤歓之助の碑

 斉藤歓之助は、幕末江戸の三大道場の一つ練兵館を主宰する神道無念流斉藤弥九郎の三男として、天保三年(1832)、江戸で生まれた。歓之助は、嘉永七年(1854)、大村藩主純熙に招かれて、剣術師範役となった。厳しい稽古から「鬼歓」と仇名されるほどで、得意の突きは天下無双と恐れられた。幕末において、大村藩では一刀流、新陰流などが採用されていたが、実戦に強い剣術を採用することになり、神道無念流の歓之助が招かれることになったという。以後、藩内では神道無念流への入門が相継ぎ、歓之助の門弟は千人以上に達したといわれる。上小路の屋敷にあった道場は微神堂と称され、ここで学んだ者が数多く戊辰戦争で活躍したといわれる。歓之助は、若くして病気を患い、廃藩置県後、東京に移住し、明治三十一年(1898)、六十六歳で亡くなった。玖島城址のこの石碑は、柴江運八郎らの門弟が師の功績を顕彰して建立したものである。

(大村神社)
 本丸跡の大村神社は、藩祖大村遠江守直澄以来歴代の神霊を奉祀したもの。現在地に社殿が遷座したのは明治十七年(1884)のことである。社殿と並んで、最後の藩主大村純熙の銅像が立つ。


大村神社


大村純煕像

 大村純熙は肥前大村藩の最後の藩主。大村藩の藩是は必ずしも固定せず、他藩の例に漏れず、勤王派と佐幕派が争っていたが、藩主純熙自身は一貫して勤王派であった。慶應三年(1867)に至ってようやく藩内の佐幕勢力を一掃し、鳥羽伏見の戦いにも藩兵を出兵させた。大村藩兵は大津警護、桑名征討に加わり、更に江戸に進んで彰義隊、振武隊掃討に参加した。明治十五年(1882)五十三歳で死去。


御居間跡

 稲荷神社横の御居間跡の碑は明治初期に、濱田謹吾の父、弥兵衛重義が建立したものである。

(斎藤道場跡)


斉藤道場跡

 上小路の武家屋敷の手前に斉藤道場跡の標柱が建てられている。この自宅内に道場を設け、微神堂と称した。

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長崎 浦上

2015年07月11日 | 長崎県
(新坂本国際墓地)
 新坂本国際墓地にグラバーと倉場富三郎父子が眠る。


グラバーの墓

 グラバーは、明治四十四年(1911)、東京麻布の自邸で死去した。遺体は荼毘に付された後、長崎で葬儀が行われた。この墓碑が完成したのは、翌年八月のことであった。ここにはグラバーの遺骨のみならず、明治三十二年(1899)に大平寺に葬られた妻・ツルも分骨して合葬されている。
 隣の倉場家の墓には昭和十八年(1943)に死去した、グラバーの息子倉場富三郎の妻と、昭和二十年(1945)第二次世界大戦終戦直後に自死した倉場富三郎が埋葬されている。


倉場家之墓

(聖徳寺)


聖徳寺

 聖徳寺には、オランダ通詞楢林家の墓所があるというので、訪問した。楢林家の墓は簡単に見つかったが、どれが楢林鎮山のものか、どれが宗建のものか見当がつかず。後で調べたところ、オランダ通詞の本家と医家の分家があるらしく、宗建の墓は分家の墓所にあるのかもしれない。
 今回の長崎旅行では、まったく時間的余裕がなかったので、楢林宗建の墓以外にも高島秋帆の墓、二宮又兵衛の墓、それに大浦国際墓地のイカルス号事件の犠牲者の墓など、回り切れなかった墓がある。次回、長崎を訪れるのは何時になるか分からないが、その時には必ず…


楢林家墓地

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長崎 稲佐山

2015年07月11日 | 長崎県
(稲佐山)





 稲佐山は幕末に関連した史跡というわけではないが、神戸・函館に並ぶ夜景の名所である。今回の長崎旅行では、外せないスポットの一つであった。稲佐山における夜景の写真を撮るためだけに、三脚を持参したのである。
 この時期、山頂の駐車場は夜間閉鎖されてしまうので、山頂まで徒歩で十五分程度かかる手前の駐車場にレンタカーを預けることになる。山頂に着いたのは、午後六時過ぎであり、まだ日没まで時間があった。
 三脚にカメラをセットして、あとはひたすら日が沈むのを待つ。この日の日没は午後七時前後である。日が沈んだから直ぐに夜景が出現するというわけではなく、見頃を迎えるのは七時二十分過ぎである。八時にはレンタカーを返却しなければならないので、あまりゆっくりはしていられない。ギリギリまで待って撮影したのが、冒頭の夜景写真である。確かに大変見事な夜景であった。しかし、この写真は結果的に三脚を使わずに撮影したものである。わざわざ東京から重たい三脚を持参したが、結果的には無駄であった。

(悟真寺)


悟真寺

 悟真寺は、唐人墓地がある関係もあって、朱塗りの中華風の山門が目印である。


外国人墓地(中国人墓地)

 長崎にはグラバーの墓のある坂本国際墓地や大浦国際墓地など、外国人墓地が複数存在しているが、中でも最も古い歴史を持つのが、悟真寺の外国人墓地である。最初にここに外国人が葬られたのは、慶長七年(1602)、唐人墓が作られたことまで遡る。さらに在職中に死亡した出島オランダ商館員の墓が設けられ、開国後はロシア人、ポルトガル人、アメリカ人、イギリス人、ロシア人も葬られることになった。合わせて千体以上がここに眠っているという。
 個別に調べれば、きっとユニークな履歴を持った人物の墓があると思うが、今回は時間もなく、単に訪ねたというにとどまった。

(三菱重工長崎造船所)


長崎製鉄所跡

 安政二年(1855)海軍伝習所が開設されると、蒸気船の修理を行う施設も必要となった。そこで安政四年(1857)、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、機関士官ハルデス以下の指導のもと整備が進められた。敷地内には鍛冶場、鋳物場、工作場などの諸施設が建てられ、工作機関類の動力には蒸気機関が用いられた。万延元年(1860)に上棟式が行われ、その時、長崎製鉄所と改称された。文久元年(1861)落成。維新後は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治二十年(1887)、三菱社に払い下げられ、翌年、三菱造船所(現・三菱重工㈱長崎造船所の前身)と改称された。

(四郎ヶ島砲台跡)


四郎ヶ島砲台跡

 今は半島となっているが、神ノ島とその沖合にある四郎ヶ島はその名のとおり島であった。そこに砲台が築かれたのは嘉永四年(1851)というから、ペリー来航以前のことになる。当時、神ノ島、四郎ヶ島とも佐賀藩領であり、ここに砲台を築いたのも佐賀藩の手によるものであった。現在、砲台跡を偲ばせる石垣を見ることができる。

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