史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

丹波

2019年12月14日 | 兵庫県

(進修小学校)

 

                       

進修小学校

 

 

學田之碑

 

 丹波市春日の進修小学校は、その前身が明治六年(1873)に設立され、明治二十年(1888)に進修小学校と改名された。どの子も学校に行けるようにと百人を超える村人が田畑や金を寄付して授業料を無料にした。そのことを記念して明治二十九年(1896)に學田之碑が建立された。撰文は重野安繹(漢学者・歴史家)、篆額は西園寺公望。

 

(西光寺)

 手元の「史跡リスト」によれば、丹波市氷上町の西光寺には生野の変に参加した片山九市(変名・木村愛之助)の墓があるとなっている。しかし、自分でこのリストを作成しておきながら、この情報の出元が分からず真偽を確かめることができない。半信半疑のまま西光寺を訪ねた。西光寺は一見したところ寺院というより公民館のような雰囲気で、近くに墓も見当たらない。少し離れた山裾に墓地を発見したが、「足立家」と「安田家」ばかりで、片山家の墓は一つも見つけられなかった。完全に空振りでした。

 

 

西光寺

 

 

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篠山 Ⅱ

2019年12月14日 | 兵庫県

(上板井)

 

                       

伊能忠敬笹山領測量の道④

 

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて北野新村から京都街道を測量して宮田村に入り、国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上して、丹後の成相寺に向かう巡礼道の街道筋にあたる板井村、左に川内多々奴比神社、小坂村まで測量し、二月朔日、国料村で杭を打ち込んで佐仲峠につなげた。京都街道に戻って笹山城下に向かった。

 

(追入)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑤

 

 篠山市の誓願寺門前で加賀尾会長と落ち合い、最初に向かったのが追入(おいれ)の石碑である。

 道すがら十二もの石碑を建てたご苦労を伺った。石碑を一つ建てるだけでも大変なことだが、まず古い絵図から場所を特定し、土地の持ち主と交渉する手間まで、気の遠くなるような作業である。土地には国有地、市有地、私有地があって、国有地に建てるのは絶望的に難しいらしい。私有地の場合は、土地の持ち主が快諾してくれれば比較的話は早い。追入の石碑も私有地であったが、隣接する土地の持ち主が了解してくれたためこの場所に建てることができたという。追入は丹波から峠を越えて笹山に入ったときに最初に出会う宿場である。

 伊能忠敬測量隊が栢原から金ヶ坂峠まで測量して追入村に入ったのは、文化十一年(1814)二月三日。昼食後、ここから二月朔日、国領村で杭を打ち込んだ追入峠まで測量。同村にて止宿して夜は展開観測。

 翌日は早朝百三十一人の労役村民を従えて出発。神田神社、北野新村に入り、大阪・京都街道の分岐点に杭を打ち込んだ。引き続き大阪街道を南下して測量。止宿は北野新村。夜は天体観測。

 

(大沢)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑥

 

 大沢一丁目のガソリン・スタンドの北側の空き地の一画にこの石碑が建てられている。

 伊能忠敬測量隊が大沢に至ったのは、文化十一年(1814)二月四日のこと。百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から大阪街道を南下し、一ノ瀬川に架けられた仮橋二十一間を渡り、古佐村に入った。

 一ノ瀬川の向こうに丹波少将屋敷跡を認めた。味間村の皆川を渡り、新村の立場、大沢村に入り、大阪・笹山街道の分岐点に杭を打ち込み、その日の測量を終えた。同所で昼食後、測量することなく北野新村まで引き帰り止宿した。夜は天体観測。

 

(今田)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑦

 

 今田(こんだ)小学校の正門西側に石碑がある。文化八年(1811)三月八日、伊能忠敬測量隊は上鴨川から笹山領に入り、青山下野守木津村、立杭村を測量して昼食をとった。

 文化十一年(1814)二月七日、早朝より百三十一人の労役村民を従えて、古市の清水寺街道の杭から測量を開始し、不来坂峠、小野原村、市原村枝今田、木津川の土橋六間を渡り、市原村の宿舎まで測量した。それより播州との国境を越えて清水寺まで測量した。その夜は天体観測。

 

(草野)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑧

 

 武庫川にかかる草野大橋西詰北側に石碑がある。加賀尾会長によると、この石碑の位置は実際に伊能忠敬一行が通った場所からかなり離れているらしいが、あまりに往来から離れているため、JR草野駅に近いこの場所に石碑を建てることになったそうである。

 笹山城下から大沢村を測量した伊能忠敬測量隊十名が犬飼村に入ったのは文化十一年(1804)二月六日。昼食後、大阪街道を測量し南下、右に二村神社、古市の街道分岐点に杭を打ち込んで止宿。翌七日は杭の地点から清水寺街道を播州との境まで測量した。八日は同じ杭から大阪街道を測量し、日出坂峠を越え藍本に止宿した。

 

(宇土)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑨

 

 この石碑は宇土観音に向かう途中に建てられている。

 伊能忠敬測量隊十名が宇土村に入ったのは文化十一年(1814)二月六日。笹山城下から百三十一名の労役村民を従え、渡瀬をわたり、東吹村、城山の西裾を通過した。槇ヶ峰の北裾に沿って杉村を測り、前々日に北野新村から測量して打ち込んだ大沢村の大阪・笹山街道の分岐点の杭につなげた。測量は毎日百三十一人がその役に当たり、岩崎組では六日は五十一人、七日は三十人が出役している。

 

(糯ヶ坪)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑩

 

 糯ヶ坪(もちがつぼ)の八上小学校の向かい側、高城会館の前に石碑が建てられている。文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊一行は、大芋川の京橋二十間を渡り、京都街道に沿って池上村、八上下村、八上内村立場、八上上村、右に高城山古城跡、波多野右衛門太夫秀治の居城を経て、八上新村に向かった。当日の測量には、八上組から五十一人が協力し、うち二十一人が梵天持ち、小多田組からは四十人が出役した。

 

(日置)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑪

 

 文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊十名は、早朝より百三十一人の労役村民を従えて笹山城下二階町から京都街道を八上新村まで測量。大庄屋波部六兵衛宅で昼食をとった。五十宮八幡宮、磯宮寺まで測量し参拝。境内では足利尊氏立願による名樹の裸框を見聞。ここから街道筋を六本柳、波々伯部八ヶ村鎮守の祇園社・祇園寺と京都街道を測量し、飛曾山坂を越えた。

 

(福住)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑫

 

 篠山に入って最初に訪ねたのが福住である。福住は昔の街道上の街で、今も伝統的建造物保存地区に指定されており、風情ある昔の建物が軒を並べている。

 伊能忠敬が福住を訪れたのは文化十一年(1814)二月十一日のこと。測量隊十名は、早朝より百三十一人もの労役村民従えて城下二階町を出発、京都街道を測量した。飛曾山坂を越え、小野奥谷村、安田村、福住村駅場測定所前に杭を打ち止め、八つ時頃同村に到着し、本陣庄屋山田嘉右衛門宅に宿泊した。翌日も同じく百三十一人を従えて出発し、川原村、亀山領安口村、西野々村、岩坂峠郡界を測量して上天引村へ向かった。

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篠山 Ⅰ

2019年12月14日 | 兵庫県

(篠山城)

 

                       

史跡 篠山城跡

 

 篠山はもの凄い観光客で賑わっていた。篠山と聞いてもデカンショ祭りと黒枝豆くらいしか思いつかないが、聞けば最近はテレビ等で取り上げられ、人気の観光スポットになっているらしい。

 三連休初日のこの日は、市内の駐車場は満杯で、辛うじて篠山城三の丸跡に設けられた駐車場に自動車を停めることができた。

 

 

篠山城外堀

 

 篠山城は慶長十四年(1609)に徳川家康が豊臣方の拠点である大阪城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために山陰道の要衝であったこの地に築いた城である。城の縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎が行った。当時「笹山」と呼ばれた丘陵を利用し、堀を二重に巡らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。天守閣は築かれず、二の丸には大書院などの御殿が建てられた。江戸時代を通じて譜代大名の四家が藩主として次々と移ってきた。

 

 

御殿跡

 

 復元再建された大書院の裏手では御殿跡の部屋の配置が分かるように整備されている。

 

 

大書院

 

(王地山公園)

 

 

王地山公園

 

 

孤松臺

 

 王地山は高台で眺めがよく、松の木が一本生えていたことから、「弧松台」と呼ばれた。西園寺公望が山陰道鎮撫の際に篠山に滞陣したことから篠山町長が西園寺に揮毫を依頼してこの石碑が建立された。

 

(北新町)

 今回の篠山の旅の眼玉は、市内十二か所に建てられた伊能忠敬の足跡を記念する石碑を踏破することにあった。場所を知るために「伊能忠敬篠山領探索の会」の作成した「伊能忠敬笹山領測量の道めぐり」と題したパンフレットを入手しなくてはならない。そこで探索の会会長加賀尾啓一様(81歳)のお宅に電話して、パンフレットを取り寄せた。加賀尾会長はメールを持っておられないので、まずFAXでご自宅にこちらの住所等をご連絡しなくてはならない。当方は自宅にFAXがないので、駅前のコンビニから送ることになった。すると直ぐにパンフレットを郵送していただいた。これで概ね石碑の場所は分かったが、ご親切にも加賀尾会長が当日現地をご案内いただけるとのこと。せっかくなのでお言葉に甘えることにした。

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道①

 

 会長との約束は午後であったが、思いのほか亀岡の史跡探訪が順調にいき、篠山に入ったのは午前十時半くらいであった。あまりに早過ぎたので、約束の時間まで自力で石碑を回ることにした。京都側から篠山に入ると、⑫番目の福住から昇順に回ることになる。

 伊能忠敬は全国を測量して歩いたので、その足跡に石碑を建てようとすれば、無数にその候補地がある。しかし、実際にその場所に石碑が建てられているのはそれほど多くはない。私の知っている限り、篠山市の十二か所が最高で、次いで広島県神石高原町の四か所といったところであろう。

 

 石碑①は丹波篠山市立青山歴史村の駐車場の前に建てられている。文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊十名は、百三十一人の労役村民を従えて、笹山市中の西町、西町口木戸番所、魚屋町、二階町、右大手門、青山下野守居城まで測量。同町内測所前に杭を打ち込んで止宿。翌六日は早朝より東岡屋村に向けて出発、十日午後、笹山城下二階町に到着。止宿。夜は晴れたため天体観測。十一日は早朝より、五日に打ち込んだ杭より始め、呉服町、立町、河原町、京口門番所、大芋川の京橋二十間を渡った。

 

(西岡屋)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道②

 

 西岡屋の石碑は、権現山の南側に建てられている。この場所から南側に昔の街道が伸びていたらしいが、今となっては自動車一台も通れないほどの細い道で、これが街道とは思えない。加賀尾会長以下伊能忠敬笹山領探索の会の皆さんは、伊能忠敬が残した絵図をもとに、彼らが測量を行いながら歩いた道を特定し、中にはその作業の過程で明らかになった昔の街道もあったそうである。加賀尾会長によれば、測量隊の足跡をたどって歩くこと二回、その作業を通じて正確な位置を特定したのである。皆さんの努力にまったく頭が下がる。

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は百三十一人の労役村民を従えて宮田村の分岐点の杭から京都街道を測量し、有居、西岡屋、東岡屋村に入り、清水寺街道の分岐点に杭を打ち込んだ。翌六日、測量隊は早朝より百三十一人を従えて笹山を出発、前日東岡屋村に打ち込んだ分岐点の杭から清水寺街道の測量を始めた。渡瀬河原広く、その川幅約三十間を渡り、東吹村に入った。

 

(西谷)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道③

 

 八幡神社の西、美しい溜池の前に石碑がある。

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から京都街道の測量を始め、木之部村字西木之部、字東木之部、宮田村に入った。国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上し、佐仲峠まで測量して、その後宮田村まで測量することなく戻った。大庄屋久下弥太夫宅で昼食後、分岐点の杭から京都街道に入り、西谷村、大野村、坂本村、川北村を測量し、笹山城下に向かった。

 

 

溜池

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佐用

2019年05月25日 | 兵庫県
(常光寺)


常光寺


伊能忠敬宿泊之地

 伊能忠敬測量隊がこの地を訪ねたのは、文化十年(1817)十二月二十三日のことであった。伊能忠敬は幕府の命を受け、1800年からの十六年間、全国の沿岸部を測量し、「大日本沿海輿地全図」の作成にあたった。

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山崎 Ⅱ

2019年05月25日 | 兵庫県
(光泉寺)


光泉寺

 光泉寺本堂前には、「伊能忠敬日本地図製図の地」と記された碑が建てられている。「天文方御巡回覚日記」によれば、伊能忠敬測量隊が山崎を訪れたのは、文化十年(1813)のこと。一行は山崎近傍を測量し光泉寺本堂で製図を行い、地元の役人、人夫も測量に協力したと伝わる。


伊能忠敬日本地図製図の地

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たつの

2019年05月25日 | 兵庫県
(龍野城)


龍野城隅櫓

 龍野城は、今から五百年ほど前に鶏籠山の山頂に築かれた。初代城主は赤松村秀。以後、赤松氏が四代続いたが、天正五年(1577)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播州征伐時にその軍門に下った。その後、慶長初年に山頂にあった天守が破却されたといわれる。江戸時代に入ると、現在地に平山城として築かれたが、万治元年(1658)、京極高和の丸亀移転に際して再び破却され、その後十四年間は天領となった。寛文十二年(1672)、幕命により信州飯田から脇坂安政が五万三千石で移封され、龍野城を再建した。時代は既に太平の世であり、また外様大名として幕府の嫌忌に触れることを恐れ、御殿式の築城となった。
 現在の本丸御殿は、昭和五十四年(1979)に再建されたものであるが、再建にあたって当時を偲ぶ貴重な資料や現在残っている数点の古図に基づき検証されたものである。


本丸御殿


家老門

 龍野城隅櫓のそばに家老脇坂家の屋敷の門が残されている。龍野県庁、揖東揖西郡役所の門として使用され、現在に至っている。

(武家屋敷資料館)
 武家屋敷資料館の敷地は、鉄砲師や鍛冶職として仕えていた芝辻平左衛門家の屋敷があった。建物のうち、江戸時代から継承されてきた主屋は、明治と昭和に二階の居室や水回りなどの改造が施されて、ごく最近まで住宅として使用されてきた。


武家屋敷資料館

(龍野公園)
 龍野神社の周辺は整備されて公園となっている。桜や紅葉が植樹され、季節になるとたくさんの人で賑わうらしい。


龍野公園


矢野静蘆紀恩碑

 矢野静蘆(せいろ)は、文化十三年(1816)、藩儒の家に生まれた。名は真亮、通称は真吾と称した。江戸に遊学して、詩を梁川星巌、文を大槻盤渓に学んだ。帰藩して藩校敬楽(けいごう)館の教授となった。維新後は、私塾遊焉塾(通称・矢野塾)を開き、地域教育に尽くした。明治二十八年(1895)、長男皆山(本名・温)が早逝したので、矢野勘治を養嗣子に迎えた(矢野勘治は、一高寮歌などの作詞で知られる歌人)。明治三十三年(1900)、静蘆は八十五歳で没。この石碑は、静蘆、皆山の薫陶を受けた門弟が明治三十年(1897)に建てたものである。


国木田專八・久保田猛二奉納の玉垣

 この親柱は、明治の文豪国木田独歩の父專八と異母兄久保田猛二が奉納したものである。專八は、龍野藩の軍艦指図役支配会計方で、銚子沖で難破した神龍丸の事後処理のために銚子に滞在中、二度目の妻まんとの間にもうけたのが独歩である。


聚遠亭

 聚遠亭は、安政年間龍野藩主脇坂安宅が京都所司代の職にあって御所が炎上した際、その復興に功績があったので、孝明天皇から賜った茶室が、心字池上に浮堂として移築されている。残念なことに私が訪れた時、休館中であったため、茶室や心字池などを見ることはできなかった。

(旧脇坂屋敷)
 幕末の頃、江戸上屋敷に居住していた脇坂氏が、明治になって龍野に帰還した際に居住した家屋で、昭和二十八年(1953)頃まで住んでいた。たつの市では、敷地の一部に植栽を施し、敷地内に回遊路を設けて公園化している。


旧脇坂屋敷

(小宅寺)
 小宅寺は龍野藩主脇坂家の菩提寺である。広い墓所の一番奥まった場所に脇坂家の墓所があり、そこに幕末、老中を務めた脇坂安宅(やすおり)とその嗣子脇坂安斐(やすあや)の墓がある。


小宅寺


従四位脇坂安宅墓

 脇坂安宅は、文化六年(1809)の生まれ。父は龍野藩主脇坂安董。天保十年(1839)従五位下淡路守に叙任され襲封。天保十四年(1843)には幕府奏者番、弘化二年(1845)、寺社奉行を兼ねた。嘉永四年(1851)、京都所司代となり、従四位下侍従に叙任された。幕府から重用される一方で、尊王の志が篤く、安政元年(1854)の禁裏炎上の際には、率先して天皇の避難を護衛し、皇居の造営には工費を増やして規模を拡張した。幕府に訴えて皇室の賄料を増額した。安政四年(1857)には老中に転じ、中務大輔と称し、外国事務を担当したが、万延元年(1860)十一月、辞任。文久二年(1862)、致仕して、封を養嗣子安斐に譲ったが、同年再び老中に任じられ、外国事務を担った。いくばくもなく病のため辞職。同年十一月、井伊直弼の横死について、台聴を欺いたとの老中在職中の罪を問われて、謹慎を命じられた。明治七年(1874)六十六歳にて没。


正五位子爵脇坂安斐墓

 脇坂安斐は天保十年(1839)の生まれ。父は津藩主藤堂高猷(四男)。安政五年(1858)、従五位下淡路守に叙され、文久二年(1862)、襲封した。元治元年(1864)、第一次長州征伐のため広島まで出陣したが、長州藩の処分に関し、慶應元年(1865)三月、藩主父子を江戸に召致することは困難であることを幕府に上書し、ついで長州再征の不可を老中板倉勝静に建白した。慶應三年(1867)十一月、諸侯会同の朝命により入京した。明治二年(1869)、版籍奉還により龍野藩知事に任じられ、明治四年(1871)、廃藩により免じられた。明治四十一年(1908)、年七十にて没。


正三位勲二等柴原和(やわら)墓

 本堂の裏には柴原和の墓と顕彰碑が建てられている。
 柴原和は龍野藩士。天保三年(1832)の生まれ。若くして江戸・京阪に出、大槻磐渓、安井息軒、梁川星巌らに学んだ。安政六年(1859)から諸国を歴遊。一時脱藩して森田節斎の塾頭を務めたが、帰藩して藩学の助教となり、元治元年(1864)頃から主に京師にあって周旋し、藩の方向を誤らせなかった。明治二年(1869)、待詔院出仕以降、甲府県大参事、岩鼻県大参事、宮谷県権知事を経て、明治四年(1871)には木更津県権令となり、明治六年(1873)には印旛県権令を兼ね、同年両県合併により千葉県令となった。地方民会の創設、教育・警察・地租改正などの面で治績をあげ、明治八年(1875)、地方官会議幹事を勤め、日本三県令の一人と称された。明治十二年(1879)には元老院議官に任じられ、明治二十一年(1888)山形県知事、のち香川県知事に転じ、明治二十七年(1894)には貴族院議員となった。明治三十八年(1905)、年七十四にて病没。


柴原君彰徳碑

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姫路 網干

2019年05月25日 | 兵庫県
(船渡八幡神社)
 船渡八幡神社の道を隔てて北側に加藤家の屋敷があり、その前に擷秀碑(けっしゅうひ=加藤邦太郎の彰功碑)が建てられている。


船渡八幡神社

 加藤家は代々天領の蔵元であった。維新後、加藤邦太郎は、戸長や県会議員、初代網干町長などを歴任した。赤松則良の依頼を受けて勝海舟が題字を揮毫している。


加藤家


擷秀碑(加藤邦太郎彰功碑)

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姫路 天満

2019年05月25日 | 兵庫県
(天満墓地)
 天満墓地に西南戦争の戦死者三木浅五郎の墓がある。墓地の中央付近に「南無阿弥陀佛」の石塔があり、その足元に墓石が置かれている。


西南役戦死 歩兵三木浅五郎

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姫路 広畑

2019年05月25日 | 兵庫県
(広畑天満宮)
 作家司馬遼太郎は、姫路市の広辺りの出身で、その関係で広畑天満宮の境内には、司馬遼太郎の文学碑が建てられている。建碑は平成十五年(2003)。


広畑天満宮


司馬遼太郎文学碑

 碑には司馬遼太郎の「歴史と小説」の一節が刻まれている。

――― 祖父惣八は、播州人である。
兵庫県姫路市の浜寄りの郊外の広(ひろ)という村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生まれた。戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城したということであるが、身分はわからない。
司馬遼太郎

 幕末、旧来の小祠を改め、現本殿の改築を行った際に、司馬遼太郎(本名福田定一)の祖父福田惣八が寄進をしており、本殿の裏側、向かって左から二十二本目の玉垣にその名前がある。


大阪 福田惣八

 さらに時代が下って昭和六十年(1985)、社務所を改築した際に、尊父福田是定がやはり篤志を寄進しており、文学碑の側の玉垣にその名前を確認できる。


東大阪 福田是定

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姫路 Ⅳ

2019年05月18日 | 兵庫県
(雲松寺)
 これも吉松智輝様から情報となるが、姫路市内の雲松寺に河合寸翁の書斎であった竹楼が移築されているという。吉松様の情報によれば、竹楼は中庭にあり、竹でできた八角形の建物という。残念ながら、寺の方は留守でこの日実物を見ることはできなかったが、場所は確認できたので、次の機会に再チャレンジすることにしたい。


雲松寺

(名古山霊園)
 名古山霊園は、姫路城から北へ1キロメートルの丘陵にある墓地公園で、市内の複数の寺院の墓地もこの場所に集められている。人間国宝にして姫路市名誉市民である落語家桂米朝の墓があることでも知られる。
先日、寺町の正明寺に江坂元之助の墓を訪ねたが、見つけられなかった。名古山霊園に正明寺の墓地が集約されているという情報を得たので、確信はなかったが、江坂元之助の墓を求めて、名古山霊園を歩いてみることにした。


名古山霊園 陸軍墓地

 霊園のほぼ中央に陸軍墓地がある。この墓地には、戊辰戦争以来、西南の役、日清日露戦役、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦に至る戦争において戦没した英霊および自衛隊公務殉職者の御霊十一万一千五百柱が眠る。一角には英霊の墓石をピラミッド状に積み上げた塔が二基あり、古いものでは明治初年の戦死者、病死者のものを見出すことができる(私の見た限り、戊辰戦争殉難者のものは発見できなかった)。


陸軍墓地

 それまでは快晴だったのに、名古山霊園を歩き始めた頃、雨が本降りとなった。正明寺墓地は、陸軍墓地のちょうど下の斜面となる。雨の中を江坂元之助の墓を探して歩き回ったが、遂に見つけることはできなかった。雨でなければ、もう少し根気強く歩くことができただろうが、ちょっと気力が続かなかった。ここも再訪する必要がある。

(慈恩寺)


慈恩寺

 慈恩寺に勤王の志士萩原虎六の墓があるという情報を得た。慈恩寺墓地は、さして広くないので、直ぐに見つかるだろうと思ったが、二回、三回と歩いてみたが、見つけられなかった。

 萩原虎六は姫路藩士。天保十二年(1841)の生まれ。樫原流槍術の奥義を極め、砲術・柔術にも練達していた。同藩の武井守正と兄弟の契を結び、尊攘運動に従事した。文久二年(1862)、藩主酒井忠績に随従して上洛。時に国老松平孫三郎の専横を除こうとして果たせず、翌文久三年(1863)再び河合総兵衛と上洛して諸藩の志士と交わり、親兵として禁闕の護衛に当たった。正親町公董が勅使として長州に下向するのに随従を命じられ、帰京の際、八月十八日の政変に遭遇した。七卿の西下に随従することを請うたが、諭されて大阪より帰された。元治元年(1864)夏、国に帰され、佐幕派のために禁固され、千種家家臣賀川肇、処士家里松嶹殺害の嫌疑で自刃を命じられた。年二十四。

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