史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

仙北

2012年05月27日 | 秋田県
(角館武家屋敷)
この季節、秋田県下の桜はどこもとても美しい。全国的にも有名で「みちのくの小京都」と呼ばれる角館の桜も満開であった。
史跡訪問に桜は不要である。大混雑は史跡巡りの効率を落とすだけである。当初、角館は早朝、混雑前に踏破してしまう計画であったが、予定外に夕刻に角館に入ることになった。
角館は、確かに大変な賑わいであった。混雑といっても、東京周辺の行楽地とはわけが違う。渋滞で車列が動かなくなったり、人が多すぎて前に進めないといった現象は起きていなかった。私は混雑を警戒して自動車を報身寺の駐車場に置いて、徒歩で街を探索したが、それほどのものではなかった。
因みに同じゴールデン・ウィークに、千葉の船橋まで潮干狩りに行ったところ、開場前というのに既に駐車場は満杯で、数キロ進むのに一時間かかるほどの大渋滞に巻き込まれた。首都圏ではこれくらい普通なのである。


角館武家屋敷

あまり「観光パンフレット」的な写真は撮った試しがないが、せっかくなので一枚。私の拙い写真技術では、角館の桜の美しさは表現できない。やはり現地に足を運んで、実際に見ていただくしかない。

(常光院)


常光院


官軍(大村藩・平戸藩戦死者)墓地


官軍 大村藩 浜田謹吾重俊墓


少年鼓手の碑

秋田における戊辰戦争は、無名戦士の物語である。北越戦争における河井継之助や朝日山で戦死した時山長八、西郷隆盛の次弟吉二郎のような戦死者もいない。唯一の“スター”といえるのが、大村藩の浜田謹吾である。といっても彼は「明治維新人名辞典」に掲載されるような偉人ではない。
浜田謹吾は、大村藩の鼓手である。九月十六日の刈和野の戦闘で戦死。わずかに十五歳であった。亡くなった浜田少年の襟元から、母が送った和歌が見つかり、人々の涙を誘った。常光院の墓地には、浜田謹吾ほか大村藩や平戸藩の戦死者墓が並ぶ。一番奥の正面には、「少年鼓手の碑」が置かれている。

ふた葉より 手くれ水くれ 待つ花は
君がためにぞ 咲けよ このとき

(報身寺)


報身寺


官軍 秋田 陶貞蔵源光貞之墓

陶貞蔵は、秋田藩の軍監。八月二十八日、大威徳山において戦死。岩瀬川原にも同人の墓がある。

(宇津巻天神)


宇津巻天神

天神山の宇津巻天神の境内に浜田謹吾少年の像が建立されたのは、昭和六十二年(1987)のことである。


浜田謹吾銅像

市内の混雑は覚悟していたが、宇津巻天神の境内まで地元の若者が花見をしていたのには、困惑した。確かに桜は綺麗だったが、何もここで飲まなくてもという気がする。考えてみれば市内の名所は観光客に占領されており、地元の方がゆっくり花見のできる数少ないスポットなのかもしれない。
浜田謹吾銅像の周りにも酔っ払った若者が座りこんでおり、思うように写真を撮らせてもらえなかった。

(百穂苑)


百穂苑(ひゃくすいえん)

大村藩の宿となった藩医師宅は、今も料理屋百穂苑として営業している。百穂苑にあった「大村藩大筒方御宿所」という看板が機縁となって、大村市と角館町は姉妹都市の関係を結んでいる。

(大威徳山)


大威徳山

新政府軍は玉川沿いの大威徳山(標高百七十九㍍)山頂に大砲を据えて対岸の同盟軍を砲撃した。大威徳山は、採石のために半分を削られ山容を変えつつある。

(岩瀬川原)


岩瀬川原戊辰戦争顕彰之碑

角館周辺では、国見村と岩瀬川原と生保内口の戦闘が激戦として伝えられる。
秋田藩は刈和野に陣を置いて雄物川を防塁線とした。角館隊は岩瀬川原に陣を構えて、玉川を防塁線とした。下流の落合、下延、上流の下川原、広久内の地に九州諸藩の精鋭を配置し、渡岸を試みる同盟軍との攻防戦を繰り返した。九月二十八日、二十九日の二日にわたる激戦の末、敵兵の上陸を許さず、遂に秋田における戊辰戦争は終焉を迎えた。この戦いで同盟軍は数百名という死傷者を出したが、新政府軍も多くの犠牲を出した。


戦死者墓

この墓地には、角館隊三名、長州藩士一名が葬られている。かつては川原に墓石が散在していたようだが、現在は一カ所にまとめられている。

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大仙 太田

2012年05月20日 | 秋田県
(竹村庫之丞戦死の地)


竹村庫之丞戦死の地

太田町の角館街道沿いに一本の桜が立っており、その根元に大仙市の建てた「戊辰戦争の史跡 (竹村庫之丞戦死の地)」という標柱がある。


竹村庫之丞宗信墓

慶應四年(1868)八月二十三日から翌日にかけて、この付近でも仙台藩と秋田藩および九州諸藩との間に激戦が交わされた。国見村の戦いと称される。
中仙から進軍していた角館隊は、国見方面における銃声を聞いて、応援にかけつけようとしたところで敵と遭遇した。後方から攻められ窮地に陥ったとき、角館軍監竹村庫之丞は危急を友軍に告げるため戦線を離れて国見原を走った。そのとき仙台藩軍に囲まれ、腹部貫通銃創を受けた。それでも屈せず、なおも太刀を抜いて近寄る敵兵を倒したと伝えられる。
庫之丞の壮烈な最期を賞嘆した村人が戦死地に小さな墓を建てて、そのそばに桜を植えた。

(霊仙寺)


霊仙寺

霊仙寺には仙台藩士八名の合葬墓がある。
いずれも慶應四年(1868)八月の国見村から六郷での戦死者である。


仙台藩八名墓

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大仙 中仙

2012年05月20日 | 秋田県
(一ノ坪墓地)


山田友蔵墓

山田友蔵は八幡村で戦死した秋田藩夫卒。墓石が傾いて、今にも倒れそうである。

(長土呂墓地)


仙台藩慰霊碑

大曲で戦死した仙台藩士二名(安田鉄之助と三太)の慰霊碑である。

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大仙 神宮寺

2012年05月20日 | 秋田県
(神宮寺嶽)


神宮寺嶽

角間川での激戦に敗れた秋田藩は、玉川を越えて神宮寺まで撤退した。このとき同盟軍は大曲にまで進出し、酒井玄蕃率いる庄内藩軍は、対岸の、お椀を逆さまにしたような神宮寺嶽(標高二百八十一㍍)にも陣地を築いた。
庄内藩の酒井玄蕃は、「鬼玄蕃」と呼ばれて、新政府軍に恐れられた。酒井玄蕃が刈和野を攻略すると、秋田藩は早くも神宮寺を放棄して角館に退いた。刈和野と神宮寺は、JRの駅でいえば一駅の間。直線距離にして十㎞も離れていないが、あまりの臆病に総督府の沢為量副総督は激怒したと伝えられる。

(宝蔵寺)


宝蔵寺

宝蔵寺には、新政府軍側の戦死者の墓がある。葬られているのは、秋田、長崎、平戸、新庄出身者十二名で、主として近くの姫神山系一帯で戦死した者である。


秋田藩士・長州藩主・薩摩藩士・長崎振遠隊士の墓


官軍 伊集院某の墓

少し離れた墓地にも官軍兵士の墓がある。表面が摩耗して良く読み取りづらいが、「伊集院」という姓からすると、薩摩藩か佐土原藩の出身者かもしれない。

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大仙 楢岡

2012年05月20日 | 秋田県
(南翁寺)


南翁寺


新庄藩士・長崎振遠隊士墓

新庄藩士五名と長崎振遠隊士三名の墓である。いずれも楢岡や刈和野などでの戦死者である。

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大仙 土川

2012年05月20日 | 秋田県
(円満寺)


円満寺


官軍 秋田 小木田敬吉

小木田敬吉は、秋田藩の夫卒。椿台における戦闘で戦死した。

(半道寺西野墓地)


小松助左衛門墓

JA土川の西側に墓地が広がっている。切り株がたくさんあるので、以前は杉林の中に墓地があったのかもしれない。その中に小松助左衛門、同姓永三郎の墓がある。小松助左衛門は角間川で戦死。


小松永三郎墓

小松永三郎は境村で戦死。

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大仙 刈和野

2012年05月20日 | 秋田県
(願龍寺)


願龍寺

慶應四年(1868)九月十五日、刈和野奪還のために秋田藩は刈和野へ向けて進軍した。長崎の大村藩、平戸藩も友軍として加わっていた。そのとき刈和野は一関藩が守衛していた。両軍、刀で斬り合う激戦の末、秋田藩は刈和野奪還に成功した。
ところが、同日の夕刻、峰吉川に前進していた庄内軍が引き返して、さらに神宮寺から仙台藩、松山藩(山形)が北上し、再び銃撃戦が始まった。この戦闘は夜通し続いた。十六日の夜明けを迎え、庄内軍は銃撃をやめ、刀を抜いて突撃を開始した。秋田藩はこの突撃を防ぎ切れず、角館に撤退した。


梅津源三郎墓


奥田多助墓


長浜忠七郎墓

願龍寺には、秋田藩の梅津源三郎、奥田多助、長浜忠七郎という三名の墓がある。梅津は角間川、奥田は刈和野、長浜は境にて戦死。

(本念寺)


本念寺


福岡藩、平戸藩士の墓

福岡藩、平戸藩出身者の墓である。いずれも九月十五日から翌十六日にかけての刈和野での戦闘での犠牲者である。

(普洞院)


普洞院


三宅重右衛門墓


松田重助墓

三宅重右衛門は、秋田藩。刈和野にて戦死。
松田重助は長崎振遠隊所属。楢崎にて戦死。


秋田藩 夫卒信田長作墓

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大仙 角間川

2012年05月20日 | 秋田県
(角間川町親水公園)


角間川町川港親水公園


戊辰役鎮魂碑

角間川は、雄物川と横手川の合流地点にあり、屈指の要港であった。横手を陥落させた同盟軍は、八月十三日に角間川を占領した。この戦闘は激しい市街戦となり、秋田軍は三十名を越える戦死者を出した。秋田県内での戦いでは一日でもっとも多くの戦死者を出すことになった。
角間川親水公園のある場所には、慶應四年(1868)八月十三日の角間川における戦いで戦死した新政府軍十名の墓があったが、昭和二十二年(1947)の洪水で水没してしまったため、後に慰霊碑が建立された。鎮魂碑には戦死者十名の名前が刻まれている。

(覚善寺)


覚善寺

覚善寺の場所が分からなくて、角間川の交番で確認した。場所はその交番からすぐ近くであった。
覚善寺には、角間川における戦闘で戦死した三名の秋田藩の若者の合葬墓がある。


渋川謙之進直正之墓 享年二十六歳
山縣此作頼親之墓 享年二十四歳
田所要蔵直忠之墓 享年二十二歳

(浄蓮寺)


浄蓮寺


官軍 鎌田勘三郎墓


新庄藩 美濃本藤三郎墓

鎌田勘三郎は秋田藩、美濃本藤三郎は新庄藩の出身。いずれも八月十三日の角間川において戦死。

(藤木)


秋田 夫卒 高橋喜八郎之墓

藤木の高橋家の墓地内に、藤木出身の高橋喜八郎の墓がある。

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大仙 大曲

2012年05月20日 | 秋田県
(大川寺)


大川寺


戊辰役戦死官軍碑

秋田藩、新庄藩士らの墓。官軍墓地とある。

(八幡神社)


八幡神社


島津新八郎戦死記念碑

慶應四年(1868)八月二十三日、花館の薩摩軍宿所を庄内藩のゲリラ部隊が襲撃。この時、二十四名の薩摩藩士が戦死した。隊長島津新八郎も戦死するほどの惨憺たる被害であった。

(長福寺)


長福寺


戊辰役舊薩藩戦死者墓趾
従二位男爵日高壮之丞題


薩摩藩墓地

薩摩藩の戊辰戦死者は、激戦地に合葬墓が設けられ、ほとんどそこに集約されているため、別に残っているのは珍しい。薩摩藩は花館に指令部を置いていたが、そこを庄内藩に奇襲され二十四名もの戦死者を出した。

(満友寺)


満友寺

内小友の満友寺は、戊辰戦争で山門を除いて全焼した。再建されたのは明治三十六年(1903)である。

(船通寺)


船通寺


庄内藩阿部千万太の墓

庄内藩の阿部千万太は、追分付近を探索中に捕らわれ、長州藩隊長桂太郎(のちに首相)に訊問されたが、少しも臆せず、庄内藩の立場を滔々と述べた。桂太郎はその様子に感嘆し逃そうとしたが、間もなく起きた戦乱の中で斬首された。

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大仙 協和

2012年05月20日 | 秋田県
(小種戊辰公園)
秋田県内の史跡を回ってみて実感したのだが、秋田県の市は一つ一つが妙に広い。まるで御釈迦様の手のひらのようである。大仙市などその最たるもので、行けども行けども市域が広がっている。これは平成の市町村合併の結果である。大仙市は、平成十七年(2005)に七町村が合併して誕生したものである。
振り返れば「この道はさっきも走ったような」という場面が何回もあった。事前に史跡探訪のコースや順番をよく考えておけば、もう少し効率的に短時間で回ることができたのではないかという悔いも残る。大仙市のようなだだっ広い市は、いくつかのブロックに分けて回るのが賢明であろう。

車窓から見える風景もだいたい同じようなものである。遠くに山があり、周囲には広大な田畑が延々と続く。居眠り運転したくなるような風景の連続であるが、それに彩を添えているのが桜や水仙である。ちょうどゴールデン・ウィークは、花の盛りであった。行く先で「さくら祭り」が開かれており、思わぬ混雑に遭遇するのは辟易したが、車窓の花々を十分堪能した。
桜はどこも同じかもしれないが、北国の桜の方が、待ちわびた春を謳歌しているように見えるのは気のせいだろうか。


戊辰役戦没者慰霊碑

大仙市の最初の訪問地は、小種戊辰公園である。慶應四年(1868)九月八日、この付近で激しい戦闘が展開された。
庄内藩四百は、朝霧の立ち込める中、秋田藩の後背を衝くため渡河作戦を敢行した。秋田藩も防戦に努めたが、装備に勝る庄内藩に押され遂には敗走した。中でも福部羅に布陣していた梅津千代吉隊は決死の槍隊を結成して敵中を突破し、四十七名(更に数日後には戦傷のために数名が秋田で死亡)という甚大な被害をこうむった。彼らが埋葬された場所を、地元の老人会が戊辰公園と命名して整備したのである。慰霊碑の裏側には、付近で戦死した秋田藩軍五十八名の名前が刻まれている。

(萬松寺)


萬松寺

萬松寺本堂前に見事なしだれ桜がある。伝承によれば、戊辰戦争で境内のしだれ桜も焼失したが、その後株あとから三本の萌木があり、それを生育させたのが現在のしだれ桜という。つまりこの桜は樹齢百四十年ということである。

同盟軍の進攻を防ぐため、新政府軍は秋田城下から南方三十㎞の境村に境、上淀川戦線を構築した。境村には秋田藩のほか、薩摩、佐土原、島原、小倉、筑前、長州、因幡、新庄の各藩兵が集結した。慶応四年(1868)九月十五日午前、新政府軍を攻略した。大混乱の末、境村は昼過ぎまでに焼け野原と化した。同日午後には新政府軍の援軍が到着し、これにより同盟軍は上淀川村まで後退し、ここで小康状態となった。しかし、その日の夜になって庄内軍は夜を徹して撤退。翌十六日には新政府軍による掃討戦が行われた。これが秋田における最後の戦闘となった。
この戦闘で両軍は百十一名もの戦死者を出した。内訳は以下のとおりである。

秋田藩 二十二名
薩摩藩   二名
佐土原藩   八名
福岡藩   四名
長州藩   九名
鳥取藩   六名
新庄藩   四名
庄内藩 五十六名

萬松寺は死体仮安置所となり、のちに秋田市内全良寺の官修墓地に改葬された。庄内藩の戦死者の遺体はどうなったか、今となっては不明である。


戊辰戦役無縁慰霊碑
(完全にピンボケです)


佐土原藩士慰霊碑

平成四年(1992)宮崎県佐土原町から墓参団が来町し、萬松寺で合同慰霊祭が営まれた。

(徳昌寺)


徳昌寺


官軍 鳥取藩 杉本文右衛門之墓

鳥取藩の杉本文右衛門の墓である。杉本は、九月十五日の境村における戦死者の一人である。

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