南洲墓地に墓碑数749基。2023柱の将士が眠る。
中央に西郷隆盛、その両側に桐野利秋と篠原国幹、更に別府晋介、辺見十郎太、淵部群平(高照)、池上四郎らの墓がずらりと並ぶ。
少し離れて大山綱良県令の墓。生前、西郷と久光党である大山県令の仲はどうもしっくりいってなかったと言われるが、両者の墓の距離がそれを物語っている。
そのほか、薩軍に合流しようとして果たせず遂に壊滅した福岡隊の墓などもある。
南州墓地には西南戦争戦没者碑がある。実に6750名の名がそこに刻まれている。戦争の傷の深さが実感できる。
南州墓地・西郷隆盛の墓
南洲墓地には数多くの墓石が並ぶが、その中から西郷隆盛の墓を囲むようにして並ぶ、薩軍幹部の墓を紹介しよう。
桐埜利秋墓
桐野利秋は天保九年(1838)の生まれで明治十年(1877)の西南戦争の時点で四十歳であった。はじめ中村半次郎と称し、明治以降本姓に戻して桐野利秋と改めた。吉野実方の微禄の家に生まれ、豪邁にして胆略があり武芸にも長じた。文久二年(1862)の島津久光上京に従って入京し、中川宮付守衛となり、元治元年(1864)禁門の変での活躍を西郷に認められた。戊辰戦争では、小頭見習として鳥羽伏見に戦い、ついで東海道先鋒として江戸に入った。会津征討軍軍監として会津若松城受け取りの大任を果たし、賞典禄二百石を賜った。明治後、近衛兵の大隊長に就いて、陸軍少将に任じられた。明治五年(1872)には熊本鎮台司令長官。翌年、陸軍裁判長に転じた。西郷隆盛が征韓論論争に敗れると、官を辞して帰郷し私学校の幹部となった。西南戦争では四番隊大隊長として実質的に薩軍の総指揮をとったが、最後は城山で戦死した。
篠原国幹墓
天保七年(1836)鹿児島城下に生まれる。少年の頃から藩校造士館に学んで頭角を表した。また剣を示現派薬丸半左衛門(東郷弥十郎)に学んだ。文久二年(1862)の寺田屋事変では現場に居合わせたが、国に送還されて謹慎を命ぜられた。翌年の薩英戦争でも活躍し、戊辰戦争では鳥羽伏見、継いで上野黒門口の戦闘に参加した。会津戦争では母成峠を破って若松城下に迫った。その功で戦後、賞典禄八百石を賜った。明治四年(1871)近衛兵大隊長として上京し、明治五年(1872)には陸軍少将に任じられた。明治六年の政変により、西郷隆盛に従って鹿児島に帰り、桐野利秋、村田新八らと私学校を設立して、子弟の養成、開墾植林に尽くした。西南戦争では一番隊大隊長として従軍し、熊本城の強襲を主張するも容れられず、自らは高瀬方面にて戦った。明治十年(1877)三月四日、吉次峠の攻防戦にて陣頭指揮を振るっているところを敵弾に当たって戦死した。
村田新八墓
天保七年(1836)鹿児島城下高見馬場に生まれた。幼時に村田家に養子となり、その姓を名乗った。幼少のときから西郷隆盛に兄事し、文久二年(1862)西郷が久光の怒りに触れて遠島処分を受けた時、やはり喜界ヶ島に流された。明治元年(1868)の戊辰戦争で奥羽に出征して功があった。明治四年(1871)宮内大丞に任じられ、岩倉使節団の一行に加わって欧米を巡回して明治七年(1874)帰国した。西郷が下野したことを知ると、西郷に従って鹿児島に帰った。私学校の創立に与り、砲隊学校の監督に就いた。西南戦争では二番大隊長。木留の本陣から田原、吉次、植木方面の諸隊を指揮して善戦したが、人吉に退いたのちは宮崎方面に撤退した。都城が陥落すると佐土原、高鍋、美々津、延岡と転戦し、遂には鹿児島に戻って西郷とともに城山で戦死した。
永山盛弘(弥一郎)墓
永山弥一郎。諱は盛弘。天保九年(1838)城下上荒田町に生まれる。はじめは茶坊主として勤め、文久二年(1862)の寺田屋事件にも参加していたが、年少だったことから罪を許された。戊辰戦争では川村純義のもとで小銃四番隊監軍として従軍し、特に白河城攻略に功があった。明治四年(1871)陸軍少佐に任じられ、ついで開拓使三等出仕を命じられて北海道に赴いた。のち陸軍中佐で屯田兵の長となった。明治八年(1875)千島樺太交換条約に反対して職を辞し、帰郷した。西南戦争では三番大隊長。政府が衝背軍を日奈久に上陸させたことを知ると、一隊を率いて御船に出軍したが敗戦。永山弥一郎は民家を買い取って、それに火を放って自刃して果てた。四十歳であった。
池上貞固(四郎)墓
背後(左)は高城七之丞墓
池上(いけのうえ)四郎は、天保十三年(1842)城下樋ノ口町に生まれ。諱は貞固。鳥羽伏見の戦いに従軍し、ついで東海道先鋒総督府の本営付として転戦したが、白河口の攻防戦で負傷した。明治四年(1871)御親兵四大隊の一部を率いて上京し、近衛陸軍少佐に任じられた。明治五年(1872)征韓問題が浮上すると、外務省十等出仕を命じられ、西郷隆盛の命を受けて満州地方を視察した。明治六年の政変を受けて鹿児島に戻り、私学校の創立に力を尽くした。西南戦争では五番大隊長。戦争の後半は本営にあって軍議に参与した。最後まで西郷に従って鹿児島に帰り、城山で戦死した。年三十六。
渕辺高照墓
渕辺群平(高照)は、鹿児島市高麗町に生まれた。近衛少佐。当初は陸軍本営付護衛隊長。西南戦争勃発後の明治十年(1877)三月に帰鹿し、辺見十郎太、別府晋介らと新たに兵を募って千五百を集め、九番隊を編成した。これを率いて八代奪回を目指したが、失敗に終わった。六月以降は鵬翼隊大隊長となり、陣頭指揮を振るったが戦死。三十八歳であった。
邊見十郎太墓
辺見十郎太は、嘉永二年(1849)鹿児島城下上荒田町の生まれ。戊辰戦争では、薩摩藩二番小隊長として東北方面の戦争に従軍。明治四年(1871)上京して近衛陸軍大尉。明治六年(1873)征韓論争が決裂すると西郷隆盛に従って鹿児島に帰った。明治八年(1875)、宮之城区長となって私学校運営に尽くした。西南戦争では薩軍三番大隊一番小隊長として奮戦した。薩軍の兵力不足に直面して、別府晋介らと一旦帰郷して兵を募り、八代の官軍と交戦した。薩軍の編成変えのあと、雷撃隊大隊長として大口方面、ついで後踊、岩川、末吉と転戦した。九月、城山にて戦死。二十九歳であった。
別府景長(晋介)墓
別府晋介は弘化四年(1847)吉野村実方に生まれた。諱は景長。桐野利秋の従弟にあたる。戊辰戦争では薩軍分隊長として奥羽に転戦。明治四年(1871)には近衛陸軍大尉としてついで少佐に進んだ。明治五年(1872)西郷隆盛の密命を受けて朝鮮半島の情勢を視察して帰朝復命した。明治六年の政変後は鹿児島に帰郷して加治木ほか四郷の区長となって私学校運営に尽くした。西南戦争では二個大隊(加治木、国分、帖佐、重富、山田、溝部各郷出身者)を組織して、その連合大隊長。辺見十郎太らと鹿児島に帰って壮丁を募り、それをもって八代の政府軍を攻撃したが、重傷を負って人吉に退いた。その後、振武隊、行進隊を率いて薩隅日を転戦した。九月、鹿児島に帰り、西郷隆盛の介錯をしたあと、岩崎谷にて自刃。年三十一。
桂久武墓
桂久武は、天保元年(1830)に鹿児島城下日置屋敷に薩摩藩家老の家に生まれた。西郷隆盛の父、吉兵衛が日置家の書役をしていた関係で、西郷隆盛と親交が深かった。安政四年(1857)詰衆となり、ついで造士館演武館掛に任じ、文久二年(1862)大島警衛の命を奉じて藩士二十名を従えて大島に渡り、大島銅山経営掛を兼ねた。更に大目付、家老加判役と累進を重ねた。慶応三年(1867)討幕挙兵を決意した大久保利通から藩地に藩兵の派遣を要求があると、門閥保守派の反対を押し切って出兵を実行した。明治後は薩摩藩参政として藩政改革に当たり、明治三年(1870)には西郷とともに薩摩藩権大参事に挙げられた。翌年、都城県参事、明治六年(1873)には豊岡権令に任じられたが病を理由にほどなく辞した。西南戦争が起きると、西郷の要請に応じて大小荷駄隊長として兵站を担当した。城山にて戦死。年四十八。
山野田一輔墓
山野田一輔は鹿児島市西田に生まれた。近衛陸軍大尉、薩軍中隊長。城山総攻撃の前夜、河野主一郎と相談して軍使として川村純義参軍のもとに赴き、挙兵の主旨を説明した。このとき西郷隆盛の助命を乞うたといわれる。山野田は薩軍に戻り、城山で戦死。三十四歳であった。なお弟山野田政治も田原坂で戦死している。
大山綱良墓
文政八年(1825)に城下高麗町に生まれ、十歳のとき藩の御数寄屋御茶道に仕えた。剣を示現流薬丸半左衛門に学んだ。西郷、大久保らと精忠組を結成し重きを成した。文久二年(1862)の寺田屋事件では、久光の命を受けて鎮撫に当たった。薩英戦争でも活躍。慶応二年(1866)には太宰府にいた三条実美ら五卿の警護に当たった。鳥羽伏見に出征し、奥羽鎮撫総督府参謀として奥羽各地を転戦し、その功により賞典禄八百石を賜っている。明治四年(1871)鹿児島県大参事。明治七年(1874)には県令となった。私学校ができると県官をその幹部に登用するなど、私学校と強く結びついた。西南戦争が起きると、官金を軍資に供用するなど、全面的に薩軍に積極的に協力し、その罪によって官位を奪われ、九月三十日、長崎において斬に処された。五十三歳であった。
岩村縣令紀念碑
岩村通俊は、天保十一年(1840)、岩村英俊の長男として土佐宿毛に生まれる。次男は林有造、三男に岩村精一郎高俊がいる。林有造は西南戦争に呼応して叛乱を起こそうとして囚われ、岩村高俊は暴発寸前の佐賀に乗り込んで佐賀の乱を誘発した。三兄弟は思想も行動パターンもそれぞれ個性的であった。長男通俊は、岡田以蔵に剣を学び、武市瑞山に師事して勤王の志を磨いた。戊辰戦争には軍監として従軍し、越後を転戦した。維新後は北海道の開拓に従事したあと佐賀県権令、継いで山口裁判所長とのときには萩の乱を処置した。明治十年(1877)五月には西南戦争最中の鹿児島に県令として赴任。戦後の回復にも心を砕いた。通俊は、西郷隆盛以下、戦死者の遺体を丁重に埋葬し、自ら墓碑を書いたというが、市民の共感を得るためにも薩軍に同情的立場を取ったのであろう。その後元老院議官、会計検査院長、沖縄県令、北海道長官を経て、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員を歴任し、男爵を授けられた。大正四年(1915)七十六歳にて死去。
南州墓地に隣接して市立西郷南州顕彰館がある。入場料100円であるが、なかなか充実している。上野彦馬が撮影したと言う西南戦争の写真(207枚もあるという)の展示が見物。
市立南州顕彰館
西郷さんの顕彰館であるから、西郷さんのことを悪く言うはずは無いが、ちょっと誉め過ぎという気がしないでもない。
西郷隆盛坐像
南洲顕彰館を入ると西郷隆盛と菅実秀の座像が出迎えてくれる。武の西郷公園にある像の原型となったものである。
南州墓地 勝海舟の歌碑
ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが
なすがまにまに 果てし 君かな