史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「啓発録」 橋本左内著 致知出版社

2016年07月30日 | 書評
橋本左内は、いうまでもなく幕末の越前藩が生んだ秀才である。我が母校の校歌にも
――― ふもとに眠る橋本
と謳われる、その人である。できるだけ公正中立に歴史を見たいというのが私のスタンスであるが、こと橋本左内という人については距離感が難しい。
「啓発録」は橋本左内が十五歳のときに著した書である。これを読むと幾度も驚嘆させられる。
まず冒頭に「稚心を去れ」と主張する。わずか十五歳の少年がいうことだろうか。稚心とは子供っぽい心、母に甘える心のことを意味している。余程、自制心とか自律心の強い人間でなければ吐けない言葉であろう。現代ではむしろ大人になっても稚心を持っていることを賛美するような風潮があるが、それとは真逆の発想である。私自身のことを振り返ってみても、どう見ても稚心だらけである。要するに自制とか自律が足らない。左内には「そんなことじゃ大事は成せない」と叱責されそうだが、確かに大事は成していない。
さらに驚かされるのは、「友を択べ」と声高に主張していることである。左内は「啓発録」を周囲に発信している。つまり自分は友を択ぶということを周りに宣言しているのである。左内にとって退路を断つという意味があるのかもしれないが、周囲の人たちにしてみれば、「友には益友と損友があって、益友を選び出さなくてはならない」などと宣言されると、「こいつは自分のことをどう思っているのだろう」と疑心暗鬼になってしまうだろう。自分だけでなく周りをも追い込むような発言である。
本書には、学監に就任した左内が藩校明道館の改革を上申した「学制に関する意見文書」も収録している。当時の明道館の状態がどういうものだったのか良く承知はしていないが、これを読むとボロカスである。これだけ辛辣な意見を投げつければ、当然反発や風当りも強かったことだろう。
左内はいう。
――― 英雄を育てるには英雄の器量を知り、聖者や賢者を育てるなら、聖者や賢者の器量を知っていなければそれは不可能。凡庸であるのに、英雄や賢者の素質がある人間を見抜き、その人物がそうなるように育てることなど当然ながらできるわけがない。

私も仕事柄社員教育なども担当しているが、核心を突いているだけあって教育担当者には耳が痛い発言もある。教壇に立つ立場の人は、自らを戒めるためにも、一度読んでおいた方が良いだろう。
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「ペリー来航」 西川武臣著 中公新書

2016年07月30日 | 書評
嘉永六年(1853)のペリー来航は、さまざまな衝撃を日本に及ぼした。ペリーの意図は、商船や捕鯨船の石炭や水の供給基地が確保できれば、まずはそれで良しというところだったのであろうが、これをきっかけに幕末の動乱が起こり、その十五年後には幕府が倒れ、明治新政府が樹立した。ペリーも自分の行為がここまでの影響を及ぼすとは思っていなかったであろう。明治政府が追求した富国強兵も、煎じ詰めればペリー来航の余波だったのかもしれない。内政的には、ペリー来航をきっかけとして、国防や攘夷に関する議論が沸騰し、幕閣や大名だけでなく、いわゆる志士と呼ばれる草莽までもが政治に口を出すようになった。これもペリー来航の衝撃波である。
またペリーが締結した和親条約を受けて、ハリスが初代駐日領事として来日し、日本も開国に動き出す。我が国が世界の舞台に引きずり出されたのも、ペリー来航が契機であった。これ以降、日本は世界の動きと無縁ではなくなった。
ペリーが艦隊を率いて浦賀沖に集結すると、幕府はむやみに近づくなというお触れを出したが、そんなことで大衆の好奇心は抑えられるものではなかった。連日、大勢の見物客が押しかけ、黒船や外国人などの姿を伝える瓦版が発行された。彼らが取り上げたのは、アメリカ人が何を食べたとか、お土産として持参した品々の紹介とか、今でいえば、三流の週刊誌のようなものもあった。中には、アメリカという国の成り立ちとか国際情勢を説いた高尚な情報誌もあったようだが、そういうものもひっくるめて、当時の日本人の関心の高さを示すものであろう。どこから情報を得たのか非常に正確な情報もあれば、ペリーが持参した蒸気機関車に中国人が乗って酒盛りしていたり、トンチンカンなニュースも混在している。娯楽の少ない時代にあって、未知の国からの訪問客というだけで人々の好奇心をかき立てたのであろう。日本人に西洋の工業の優位性を気付かせたのも、ペリー来航の衝撃の一例であった。

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名古屋 Ⅳ

2016年07月30日 | 愛知県
(名古屋東照宮)
 名古屋東照宮は、元和五年(1619)尾張藩祖義直が、名古屋城の三の丸に創建し、明治九年(1876)、現在地に移された。江戸期、この場所には藩校明倫堂があった。駐車場の前に明倫堂趾碑が建てられている。


名古屋東照宮


明倫堂趾

 明倫堂は尾張藩第九代藩主徳川宗睦(むねちか)が、藩士の子弟の教育のために開いた藩校である。天明三年(1783)、細井平洲を初代総裁に迎えて開校した。平洲は在職九年、明倫堂を中心に広く各地で教えを説き、武士をはじめ農民・町人の別なく講義に列することを許した。明治四年(1871)、廃藩置県とともに明倫堂も廃校となった。

(柳河春三出生地)


柳河春三出生地

 東照宮から南、京町通りに面したビルの前に柳河春三(しゅんさん)出生地の駒札が建てられている。
 柳河春三は、幕末の洋学者。天保三年(1832)この地で生まれた。旧名は西村良三といい、尾張藩に仕えたが、安政三年(1856)、脱藩して江戸に出、柳河春三と改名した。語学に堪能で、西洋の制度、文物、学問をさまざまな書物に著した。なかでも我が国に初めて洋式算数を紹介した「洋算用法」、写真の原理を説いた「写真鏡図説」の出版や、日本における新聞・雑誌の創始となる「西洋雑誌」「中外新聞」の発行にも関与した。明治三年(1870)、三十九歳の若さで没した。

(愛知県産業貿易館西館)


仮医学校跡
 名古屋市内には、現代の名古屋大学医学部に通じる医学史に関わる史跡が点在している。名古屋市教育委員会が説明板を設置しているので、その跡を追うことにしたい。
 まずは愛知県産業貿易館西館の仮医学校跡である。明治四年(1871)、西洋医学の進歩を図るため、伊藤圭介らによって、元名古屋藩評定所跡に仮病院が設置された。また病院付属の仮医学校も、元名古屋藩町方役所跡であった、この隣接地に併設された。これによって庶民の疾病、治療と合わせて、医学生を教育する制度が整えられた。しかし、明治五年(1872)、学制発布により廃校となった。その後、医学講習所等を経て、現在の名古屋大学医学部へと発展した。

(愛知県産業貿易館本館)
 愛知県産業貿易館西館と道をはさんで東側に本館がある。両方とも平日の昼間というのに、シャッターが降りて人気がない。


仮病院跡

 明治四年(1871)に設置された仮病院跡である。医学校も併設され、県下唯一の医療機関として人々の生活に大いに貢献したが、廃藩置県により閉院となった。明治六年(1873)五月、西本願寺名古屋別院に復興し、明治十年(1877)に天王崎に公立医学所として新築・移転するまで医療活動を続けた。

(名城小学校)
 名城小学校の地は伊藤圭介の出生地で、正門内には伊藤圭介の胸像が置かれている。


名城小学校


伊藤圭介出生地

 伊藤圭介は、蘭方医にして植物学者。享和三年(1803)に生まれ、少年の頃から父兄や水谷豊文に就いて医術や本草学を学んだ。文政十年(1827)には長崎のシーボルトのもとで西洋植物学を研究し、「泰西本草名疏」を著した。明治十四年(1881)、東京大学教授に任じられて、植物学を講じ、明治二十一年(1888)には我が国初の理學博士となった。九十九歳の長寿を保ち、明治三十四年(1901)、世を去った。


伊藤圭介像

(トーエネック)
 名城小学校から愛知医学校跡であるトーエネック本社のある栄一丁目まで歩くと三十分ほど。炎天下の移動は厳しかったが、地下鉄の駅でいえば、一区間に過ぎない。敷地の南西角に教育委員会の説明板が建てられている。


愛知医学校跡

 明治七年(1874)に西本願寺別院に仮病院付属施設として設置された医学講習場は、公立医学所と改称された。明治十年(1877)、この地に移り、翌十一年、公立医学校と改称され、同時に病院から独立した。明治十四年(1881)には愛知医学校と改称され、後藤新平が愛知病院長兼愛知医学校校長に任じられた。その後も改称を重ねたが、昭和十四年(1939)、名古屋帝国大学医学部、戦後名古屋大学医学部へと発展した。

(落合ビル)


後藤新平宅跡

 後藤新平は、安政四年(1857)、岩手県水沢市に生まれた。福島県須賀川医学校卒業後、招かれて名古屋に移り、明治十三年(1880)に愛知県病院長兼医学校長となり、明治十六年(1883)、内務省に転じるまでこの地に住んでいた。明治十五年(1882)、自由党総裁板垣退助が刺客に襲われた時、この場所から人力車で駆け付け、応急手当を施したといわれる。のち内務大臣、伯爵となり政界で活躍した。

(本願寺名古屋別院)


本願寺名古屋別院

 ここまで来ると地下大須観音駅が近い。本願寺名古屋別院の建物は、築地本願寺を彷彿とさせるデザインである。
 この場所は、葛飾北斎が文化十四年(1817)に大達磨の画を描いたことで知られ(戦災のために消失)、また明治七年(1874)に医学講習所が設置された場所でもある。


医学講習場跡

 医学講習所は、公立医学講習場、公立医学所と改称された。ここでの医学教育は、当初アメリカ人教師が登壇し、講義は英語、教科書も英語の原書で行われた。

(平和霊園 つづき)
 清水の次郎長の最初の妻の墓を訪ねて、三たび平和霊園を訪ねた。とても暑い日で、地下鉄東山公園から歩いて、ここにたどり着いたときには汗が滝のように流れ落ちた。
 次郎長は生涯三回結婚したが、妻の名前はいずれも「お蝶」であった。余程、最初の妻への愛情が深かったということだろうか。
 かつて私の上司は飼い犬の名前を常に「ゴン」と決めていたが、次郎長のネーミングは何となくそれを想起させる。


妙法 信解妙諦信女(お蝶の墓)

 安政五年(1858)の暮れ、次郎長は妻と子分の大政と相撲常を連れた旅の途次、名古屋巾下の侠客長兵衛の家に止宿していたが、この時お蝶は重い病にかかり、看護の甲斐なく息を引き取った。次郎長は妙蓮寺内に墓を建立した。お蝶の墓は、今も平和霊園の妙蓮寺墓地内にある。ちょうど成瀬正肥の墓がある白林寺墓地の向かい側辺りである。

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豊橋

2016年07月30日 | 愛知県
(吉田城)


吉田城 鉄櫓(くろがねやぐら)

 吉田城の歴史は、永正二年(1505)まで遡る。築城は牧野古白により、当時は今橋城と呼ばれた。その後、吉田城を改名されたが、戦国時代には、この城を巡って今川、武田、松平らにより激しい争奪戦が繰り広げられた。永禄八年(1565)、徳川家康が攻略すると、配下の酒井忠次を吉田城に置いた。天正十八年(1590)、家康が関東に移封されると、池田照政が入城し、城郭や城下町を整備し、ほぼ原形が完成した。江戸時代に入ると、松平氏、水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏など九家二十二代の譜代大名が城主となった。江戸後期の藩主は大河内松平氏である。
 幕末の藩主大河内信古は、間部詮勝の実子で、寺社奉行や大阪城代などの幕府要職を務めた。鳥羽伏見の戦争の後、城内の大評定の末、藩是を勤王に改めた。藩籍奉還後は藩知事となった。


中村道太碑

 中村道太は、天保七年(1836)、吉田藩士の家に生まれた。版籍奉還の際、藩を代表して政府の受取使と折衝した。豊橋に、朝倉屋積金、第八国立銀行、好問社学習所などを設立或は経営し、初代渥美郡長を務めた。さらに丸善社長、正金銀行初代頭取、明治生命発起人、東京米商会所頭取などとして活躍した。また福沢諭吉の慶応義塾大学運営にも協力した。大正十年(1921)、八十六歳にて没した。

(吉田宿)


東海道 吉田宿


吉田宿本陣跡

 豊橋は、東海道が通じる交通の要衝でもあった。吉田宿は本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠六十五軒を備えた大きな宿場町であった。

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若松河田

2016年07月23日 | 東京都
(統計資料館)
 痛風の薬が切れてしまったので、通院のため半日休暇をもらった。せっかくなので、この機会に統計資料館を訪うことにした。統計資料館は週末閉館しているので、サラリーマンが見学しようと思えば、休みを取得するしかない。
最寄駅は地下鉄大江戸線若松河田駅となる。総務省の敷地内に統計資料館がある。入口で身分証明書の提示を求められ、受付で住所氏名、来訪目的などを提出すると、ようやくゲートを通過して統計資料館に足を踏み入れることができる。入場は無料。統計資料館にも受付があって、ここでも名前や職業を記入させられる。


統計資料館

 統計資料館は、明治四年(1871)以来、百二十年を記念して平成三年(1991)の統計の日(十月十八日)に開設された施設である。統計に関する貴重な文献や昔の国勢調査の史料、古い集計機器、様々な統計データのグラフなどが展示されている。滅多に来客がないせいか、資料のコピーとか、パンフレットの類などたくさんお土産をもらってしまった。


杉亨二胸像

 資料館の入口に杉亨二の胸像が置かれている。これは長崎市の長崎公園に設置されているものの複製である。
 杉亨二は、文政十一年(1828)、長崎の生まれ。幼少の頃、両親と死別し、祖父杉敬輔に育てられた。長崎で緒方洪庵、村田徹斎らに経書を学び、徹斎の江戸勤番に従って出府し、杉田成卿の門に入って、蘭学を修めた。この間。勝海舟を知り、勝の推挙により阿部正弘の侍講となり、万延元年(1860)、蕃書調所教授手伝、元治元年(1864)には同教授方並に進んだ。この時、西洋に統計学のあることを知った。徳川家の駿河移封に従って、駿府に移住し、府中奉行中台信太郎を説いて、府内において我が国初の統計調査を行った。明治二年(1869)、沼津兵学校二等教授となり、フランス語を教授した。明治三年(1870)、民部省十二等出仕。翌年には太政官大主記に任じられ統計業務に従事した。明治十二年(1879)には山梨県一円で国勢調査を実施した。初代統計局長に就いたほか、明六社社員として幾多の学術論文を発表したほか、法学博士、正五位勲二等に叙された。晩年失明し、大正六年(1917)、九十歳の高齢で没した。

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青山霊園 補遺 Ⅶ

2016年07月23日 | 東京都
(青山霊園 つづき)


愛山山路彌吉墓(山路愛山の墓)

山路愛山は史論家、ジャーナリスト。元治元年(1864)、幕府天文方の子として江戸に生まれ、維新後一家は静岡に無禄移住。貧窮の中で小学校助教、静岡家県警察本署雇となり家計を支える一方、独学で漢学や英学を修めた。明治十九年(1886)、キリスト教に入信し、明治二十二年(1889)、上京して東洋英和学校に学んだ。徳富蘇峰の平民主義に共鳴して民友社に入り、「国民之友」「国民新聞」に多くの史論や評論を発表した。「荻生徂徠」「足利尊氏」「勝海舟」等を著し、「防長回天史」編纂にも従事した。晩年は「日本人民史」執筆に心血を注いだが、大正六年(1917)未完のまま世を去った。1種イ12号7側


瀧村家之墓(滝村小太郎の墓)

滝村小太郎は、幕末には奥右筆。維新後は静岡に移住して家扶を務め、廃藩後も徳川家達に近侍して、その子家正の教育係も担当した。実弟斧吉は、養子に入って岡田家を継いだが、箱館戦争で戦死した。勝海舟の伝記編纂に取り組み、「海舟伝稿」全二十六冊を執筆した。2種イ3号17側

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東中野 Ⅲ

2016年07月23日 | 東京都
(保善寺)


保善寺


疋田正善之墓

 疋田正善は、六百石の旗本疋田兵庫の子で、小姓組、奥詰銃隊などに属した。旧名亀之助、瓢吾とも称した。維新後は徳川家とともに静岡に移住し、宮ヶ崎御住居三等家従として藩主徳川家達に近侍した。のち上京して東京府十一等出仕。勝海舟の二女孝子と結婚した。俳句をよくし、一蕉園杉雨という俳号を持っている。明治二十六年(1893)、五十二歳で没。
 正善の墓に向い合うように、夫人孝子の墓が建てられている。


疋田孝子墓


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古淵

2016年07月23日 | 神奈川県
(龍像寺)
 JR古淵駅から徒歩十三分。龍像寺は、厚木の広沢寺の末寺である。縁起によれば、暦応年間(1338~1341)、この地の地頭淵辺義博が大蛇を退治し、三体に分散した蛇体をおのおの葬って、それぞれ龍頭寺、龍像寺、龍尾寺とした。その後、三寺とも荒廃したが、弘治二年(1556)、巨海(こかい)和尚によって龍蔵寺のみが再興されたという。境内には、この地の地頭であった旗本岡野一族の墓がある。



龍像寺

 岡野家初代板部岡融成は初め小田原北条氏に仕えたが、北条氏滅亡後は岡野と姓を改め、豊臣、徳川両氏に仕えた。二男房次の子英明が淵野辺村の地頭となり、寛文三年(1663)、淵野辺村は本家貞明、分家友明に分知され、幕末まで続いた。


龍渓院殿相山恩國大居士
(八代岡野孫一郎の墓)


哲睿院殿節巌忠大居士(岡野哲之助の墓)

「勝海舟と江戸東京」(樋口雄彦著 吉川弘文館)によれば、旗本岡野家は、妻の実家(厳密には養家)であり、勝海舟が住む邸宅の地主でもあり、海舟とは浅からぬ縁があった。岡野孫一郎は吉原通いをやめられず、海舟の父小吉によって隠居を余儀なくされ、わずか十四歳の息子(同名の孫一郎)に家督を譲ったが、子母澤寛の小説「父子鷹」では、親子そろってのダメ旗本として描かれているという。
 哲之助(一説には十四歳で家督を継いだのは哲之助ともいわれる)が文久二年(1862)に没した後は、妻の弟の平次郎が継いで維新を迎えた。平次郎は、海舟の日記にもたびたび登場し、金銭や鉄砲のことで手を煩わせていたようである。明治十三年(1880)十二月三日、海舟の日記に「岡野病死」とあり、海舟は彼の病院費用などを後々まで払い続けた記録が残っている。
 平次郎は維新後、駿遠に移住したらしく、菩提寺である龍像寺には墓は残されていない。

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本駒込 Ⅴ

2016年07月22日 | 東京都
(蓮光寺)


贈正三位最上徳内之墓

 「勝海舟と江戸東京(人をあるく)」(樋口雄彦著 吉川弘文館)によれば、蓮光寺に幕臣山口直毅(泉処)の墓があるというので、再度蓮光寺墓地を歩いた。墓地に山口姓の墓石は二つあったが、直毅の墓は確定できなかった。その代わりというわけではないが、最上徳内の墓を紹介しておく。
 最上徳内は、出羽国村山郡楯岡村の百姓の家に生まれた。天明元年(1781)、江戸に出て、本多利明らに天文・測量を学んだ。天明五年(1785)、幕府の蝦夷地踏査隊の竿取りとなったのを皮切りに、幕臣として初めて択捉、得撫に渡るなど、文化四年(1807)まで六度にわたり蝦夷地の踏査にあたった。幕吏青島俊蔵の罪に連座して投獄されたが、のち赦され箱館奉行支配調役に進んだ。蝦夷地に渡ること九回。徳内による踏査報告は、幕府の北方政策の決定に重要な役割を果たし、アイヌの社会、風俗を具体的に記しており、非常に貴重な資料となっている。大きな墓標のほかに、透明なケースに囲われた小さな古い墓石も置かれている。

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巣鴨 Ⅴ

2016年07月22日 | 東京都
(染井霊園)


巌本善治(左) 若松賤子夫妻の墓

 巌本善治は、旧幕臣の出身。中村正直の同人社や津田仙の学農社に学び、木村熊二から受洗。「女学雑誌」を創刊し、女子教育の振興や廃娼運動などに力を注いだほか、明治十八年(1885)に木村が設立した明治女学校の取締役に就き、後に校長の任を引き継いだ。勝海舟との親交が厚く、聞き書きを「海舟余話」「海舟座談」としてまとめた。【1種イ4号13側】


長華院殿鴨北日成居士(宮本小一墓)

 宮本小一(1836~1916)は、維新前、神奈川奉行支配組頭勤方を務めた。維新後は元老院議官、貴族院議員など。【1種イ3号16側】


高村氏 先祖代々之墓
(高村光雲・光太郎・智恵子の墓)

 高村光雲、光太郎とその妻智恵子の墓である。
 高村光雲は、嘉永五年(1852)、江戸に生まれた。従来の木彫に洋風彫刻の写実性を導入した。代表作に「楠木正成像」「西郷隆盛像」がある。昭和九年(1934)没。
光太郎は光雲の長男。彫刻家として活躍するが、むしろ彼の名声を高めたのは詩人としての活動であろう。中でも「智恵子抄」は光太郎の名を不動のものにした。昭和三十一年(1956)死去。

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