史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「会津戦争全史」 星亮一著 講談社選書メチエ

2009年08月11日 | 書評
 このたび会津周辺の史跡を訪問するに当たり、改めて会津戦争をおさらいする意味でこの本を読むことにした。会津戦争の経緯については、よくまとめられている。これ一冊を熟読すれば、会津戦争の全体像がほぼ理解できるだろう。
これまで星亮一氏の著作は何冊か読んでいたので、一瞬同じ本をまた買ってしまったかと自分の本棚を確認してしまった。それほど星亮一氏の主張は首尾一貫しているとも言えるが、新しい発見はあまりなかったのも事実である。
 ただ一箇所気になったのは、この記述である。
――― こうしてできた薩長藩閥政権が歩んだ道は、武力によるアジアへの侵攻だった。東西連合政権であったならば、明治以降の日本は他の民族にもっと配慮したハト派の政治が行われたに違いない
 残念ながら、この本にはその根拠は示されていない。その意味で消化不良感が残る。できればどうしてそう言えるのか、論拠を示してほしいと思うのである。

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白河

2009年08月08日 | 福島県
(白河城)
 白河は東北の玄関口である。白河を巡って奥羽越同盟軍と薩長を中心とした新政府軍が激戦を繰り広げた。


白河城

 白河城は、別に小峰城ともいう。平成三年(1991)に戊辰戦争で焼失した御三階櫓が再建され、周囲は城山公園として整備されている。
 寛政の改革を遂行した松平定信の居城としても知られる白河城は、戊辰戦争の前年に城主阿部氏が棚倉に移封され、領主のいない空き城となっていた。奥羽越列藩同盟が成立すると、会津藩、仙台藩は直ちに白河城に守備兵を送った。
 白河を巡る慶応四年(1868)閏四月二十四日からの第一次白河戦争において、奥羽越同盟軍は快勝を収めた。会津藩、仙台藩連合軍は、白河城奪還を目論む薩長新政府軍を迎撃するため、白河南郊の白坂まで出向いた。先鋒は新選組の斎藤一こと山口次郎である。新政府軍は戦死十六、負傷五十一を出して那須方面に敗走した。兵力において劣るにもかかわらず、単純に正面突破を図ったためであった。
 緒戦の敗退を受けて、新政府軍司令官の伊地知正治は綿密に地形の調査を実施し、作戦を練った。会津藩軍は、白河城を囲む東の雷神山、南の稲荷山、西の立石山、それぞれに砲台を置いて守りを固めた。これに対して伊地知正治は、攻撃隊を右翼、中央、左翼に三分し、本道からの正面攻撃と見せかけて、両翼から挟撃する作戦を考案した。
雷神山と立石山の砲台は、敵の襲来を予期していなかったかの如く、守備が手薄であった。堅牢だったはずの稲荷山も、薩長軍の猛攻を受けてもろくも崩れた。奥羽越列藩同盟にとって生命線というべき白河攻防戦は、新政府軍の圧勝に終わった。この五月一日の戦争において、会津、仙台、棚倉などの同盟軍二千五百のうち戦死者は七百。これに対して新政府軍は七百人のうち戦死者はわずかに十二人という鮮やかな勝利であった。

(鎮護神山)


戊辰薩藩戦死者墓

 白河城の東に梅林園があり、そこへ向かう道の傍らに鎮護神山がある。石段を上ったところに戊辰薩摩藩戦死者墓がある。白河方面での薩摩藩戦死者二十九名を合葬したものである。

(松並)


長州大垣藩戦死六名墓

 松並付近において、稲荷山を守る同盟軍と新政府軍主力が激突した。四月二十四日の戦闘で犠牲となった長州および大垣藩の戦死者は六名。薩摩藩の戦死者七名と合わせた十三名の首は、白河城の大手門前に晒されたという。松並には、長州藩と大垣藩の戦死者六名を葬った墓がある。
 明治九年(1876)には明治天皇が、明治四十一年(1908)には東宮嘉仁親王が、この地を訪れ供養をした(当時はまだ薩摩藩戦死者七名もこの地に葬られていた)。長州大垣藩戦死六名墓の前には、そのことを示す行啓記念碑も建っている。


戦死墓

 五月一日の戦闘では、同盟軍は多くの犠牲者を出した。稲荷山には山口次郎(斎藤一)の新選組、会津藩朱雀一番寄合隊中隊頭一柳四郎左衛門、仙台藩義集隊頭今泉伝之助ら、同盟軍の主力を駐屯させていたが、突然、目の前に敵兵が現れ大砲、小銃を乱射してきたことに動揺した。このとき山麓にいた会津藩副総督の横山主税は、兵を励まして稲荷山を登ろうとして銃弾に斃れた。激しい銃撃のために遺体を収容することができず、従者が首を切断して退いたという。
 横山主税は、このとき二十一歳。前年には徳川昭武に従ってパリ万博に、藩の留学生として随行した英才であった。松並には、会津藩の墓域もあり、銷魂碑には五月一日の戦闘で命を落とした、横山主税以下三百四名の名前が刻まれている。


会津藩銷魂碑


田辺軍次君之墓

 征討軍右翼隊は、白坂村の庄屋大平八郎を道案内に、間道を進み雷神山攻略に成功した。この功により大平八郎は戦後一万石の庄屋に任じられた。八郎を恨んだ会津藩士田辺軍次(横山主税の従者)は、明治三年(1870)八月、大平八郎を打ち果たし、自らも切腹して命を絶った。二十一歳であった。
 「田辺軍次君之墓」と刻んだ大き目の墓標の前に、「操刀容儀居士」という戒名が刻まれた小さな墓石がある。こちらが本墓と思われる。

(稲荷山)


稲荷山神社


西郷頼母歌碑

 戊辰戦争を通じて最激戦地の一つとなった稲荷山は、現在児童公園となっているが、平成十八年(2006)十一月、この地に会津軍総督西郷頼母の歌碑が建てられた。

西郷頼母は、朝敵会津の将という負い目を生涯背負い、一族自刃という悲痛の想いから逃れることもできず、主君容保が京都守護職に任じられたときには一人辞退を主張した不忠者として、戊辰戦争の戦火が迫ったときには藩論に逆らって非戦恭順を主張した腰抜けとして、最後は敗戦の責任を追って切腹すべきところを生き永らえている臆病者として、世間の厳しい非難を浴びながら明治を生き抜いた。

歌碑には頼母の心情を吐露した歌が刻まれる。冷酷な世間の批評に晒されながら生きた西郷頼母翁の「身を隠すことのできるかたつむりが羨ましい」という感慨を託した歌である。

 うらやまし角をかくしつ又のへつ
 心のままに身をもかくしつ

西郷頼母については、会津から見た幕末史研究家である星亮一氏は「性格的に狭量で、人望が」(『会津落城』中公新書)ないと辛辣である。加えて、白河の敗戦の責任は「敵状を十分に調べず、ただ漫然と白河城で待ち受けた会津藩上級指揮官の無能さにあった」(『会津戦争全史』講談社選書メチエ)と痛烈に批判している。確かに戦争の経緯を見れば、総督西郷頼母はどう批判されても弁明の余地もないだろう。同時に西郷頼母の悲痛な心のうちは、本人以外誰も理解できないようにも思う。

(龍興寺)


龍興寺

 龍興寺は深閑とした森に囲まれている。五月一日の第二次白河戦争は、新政府軍の圧勝に終わった。重傷を負った会津藩軍事奉行海老名衛門は龍興寺まで逃れたが、もはやこれまでと観念し、この地で割腹して果てた。五十二歳であった。


海老名衛門碑

 海老名衛門碑の傍らには、同盟軍(東軍)の戦死者を弔った戦死塚が建っている。白河には至るところにこの手の慰霊碑が残されている。


戦死塚

(常宣寺)


常宣寺

 龍興寺と同じく向新蔵にある常宣寺は、一見して古い墓石が多い墓地を持つ。


南無阿弥陀仏碑(左)
会津藩戊辰戦死十二士之墓(中)
笹沼金六墓・三坂喜代之助墓(右)

 山門を通って直ぐ左に折れると、会津藩戊辰戦死十二士之墓を中心にして四つの墓石が並ぶ。向って左は「南無阿弥陀仏」と刻んだ慰霊碑である。五月一日の激戦後、捕えられた東軍将兵は翌日近くを流れる谷津田川河原で処刑された。彼らの霊を祀ったものである。かつては常宣寺に近い新橋のほとりにあったが、この地に移された。同じく「南無阿弥陀仏」と書かれた慰霊碑が馬町に建てられている。

 中央が会津藩戊辰戦死十二士之墓である。また、右手の墓の主は、笹沼金六、三坂喜代之助いずれも会津藩士である。


明治戊辰 戦死塚

 墓地をさらに本堂側に行くと、ここにも東軍戦死者を葬った戦死塚がある。そこから近い場所に棚倉藩家老阿部内膳の墓がある。
 阿部内膳正煕は、誠心隊(別に十六ささげ隊とも)隊長として白河桜町口に出征したが、白河北郊の金勝寺にて敵弾に当たって戦死した。“十六ささげ”とは、豆の一種でサヤの中の豆が十六あることから名付けられた、この地方の特産である。誠心隊が精鋭十六人から成ったためこのように呼ばれていた。「仙台烏に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と謳われ、仙台の細谷十太夫とともに西軍に恐れられた。阿部内膳は、槍や弓矢を手に、甲冑に身を固め戦場に臨んだという。


阿部内膳正煕之墓

(萬持寺)


萬持寺

 萬持寺にある藝州藩士加藤善三郎は、厳密にいうと、戊辰戦争の戦死者ではない。彼が萬持寺の本堂内で壮烈な切腹を遂げたのは、会津戦争も終結した明治元年(1868)十一月三日のことであった。
 そのとき、西軍はそれぞれの国への帰途にあった。白河付近まできたとき、西軍の物資輸送を担当していた蒜生村農民真弓作左衛門が、加藤善三郎に斬殺される事件が起きた。加藤が自分の荷物を運ぶように指示したが真弓作左衛門がそれを無視して逃げ出したのを咎めて、背後から斬り殺したのである。一説には加藤の高圧的な命令に、真弓作左衛門が反発したためとも言われる。加藤は直ちに捕えられ、軍律を正すために切腹を命じられた。二十五歳だったという。
 辞世

 莞爾と笑い散りゆく桜花


藝藩 加藤善三郎光義之墓

(関川寺)
 常宣寺から谷津田川を隔てた向かい側の愛宕町に関川寺がある。赤穂浪士中村勘介の妻の墓などがある古刹である。


関川寺


棚倉藩小池理八 戦死霊供養塔

 関川寺の本堂前左手に棚倉藩士小池理八の供養塔が建てられている。小池理八は白河城東方の桜町口の守備に就いていたが、足に重傷を負い、割腹して果てた。

 関川寺には、やはり白河戦争で戦死した仙台藩士石川大之進の墓がある。墓石によると、十月二十七日没となっている。
 石川の墓は、極めて分かりにくい場所にある。本堂裏の墓地入口付近、南側の道路を見下ろしている。


仙藩石川大之進源春幸之墓


戦死供養塔

 この付近も五月一日の戦闘では激戦地となった。敗走する中で戦死した東軍兵を弔う戦死供養塔が、妙閑寺門前に建っている。白河観光協会の説明によると、市内に点在する供養塔の中でももっとも小さなものらしい。私が訪れたとき、周囲の草花に埋もれて、頭だけが見えている状態であった。

(皇徳寺)
 白河市街地にも戊辰戦争関連の墓のある寺院が集中している。大工町の皇徳寺もその一つである。


皇徳寺

 皇徳寺の戦死人供養塔は、明治二年(1869)中町大庄屋桑名清兵衛が、手代町、大工町周辺に骸をさらしていた東軍戦死者十一名を合葬した際に建立されたものである。


戦死人供養塔

 戦死人供養塔の横に、新選組隊士菊池央の墓がある。菊池央は、弘化四年(1847)弘前津軽に生まれる。慶応四年(1868)四月二十五日の第一次白河戦争にて戦死した。二十二歳であった。墓の正面には戒名、左側面に「弘前 菊池央五郎」と刻まれている。


誠忠院義勇英劒居士(菊池央の墓)


竹本亀吉之墓(中)
安之助墓(左)

 菊池央の墓の横にも墓が並べられているが、詳細は分からない。


羅漢山人墓(中)と小原庄助の墓(右手のとっくり状の墓)

 同じ皇徳寺墓地に民謡「会津磐梯山」で有名な小原庄助の墓がある。
 民謡「会津磐梯山」をよく存じ上げないが、小原庄助さんは朝寝、朝酒、朝風呂が好きな好々爺というイメージが強い。小原庄助の正体は、会津塗り師の久五郎だという。久五郎は、谷文晁の高弟絵師羅漢山人のもとに絵付けを習いに来て、安政五年(1858)、この地で没した。墓石は、猪口と徳利を重ねた形をしている。戒名は「米汁呑了信士」。辞世は「朝によし昼になほよし晩によし 飯前飯後その間もよし」。余程の酒好きだったようである。

(永蔵寺)


永蔵寺

 本町の永蔵寺本堂近くにも東軍兵士の戦死供養塔がある。


戦死供養塔

(長寿院)


長寿院

 永蔵寺から国道294号線(旧奥州街道)をはさんで向かい側に長寿院がある。白河には珍しい西軍(新政府軍)方の墓地がある。
 境内に入って右手には西軍兵士の忠魂碑、左手には慶応戊辰殉国者墳墓がある。長寿院には、薩摩藩二十九、長州藩三十、土佐十八、大垣十三、館林七、佐土原十九、計百十六の墓があったが、うち薩摩藩士の墓は、白河城東側の鎮護神山に改葬されたため、現在ここに残されている墓は八十七基ということになる。


忠魂碑


長州藩士の墓


土佐藩士の墓
慶応戊辰殉国者墳墓

(円明寺橋)
 五月一日の戦闘で捕虜となった何十人もの同盟軍兵士は、円明寺橋の上で次々と首を斬られた。首も胴体も谷津田川に投げ捨てられ、川は血に染まった。


円明寺橋


南無阿弥陀仏碑

 円明寺橋のたもとの無阿弥陀仏と刻んだ石塔は、円明寺橋で処刑された将兵、領民の霊を祀ったものである。

(丹羽長重公廟)
 円明寺橋を南に渡り、突き当りを右に折れたところが丹羽長重の廟堂への入り口である。丹羽長重は、織田信長の家臣丹羽長秀の嫡子である。寛永四年(1627)、初代白河藩主に任じられた。長重は、白河城の改修、町割りの整備に尽力し、城下町白河の基礎を築いたといわれる。


丹羽長重公廟


二本松藩士慶応戊辰役戦死之霊

 丹羽家は、二代光重のとき二本松に転封となった。丹羽長重公廟の前には、第一次から第七次に至る白河戦争で戦死した二本松藩関係者二十三名の慰霊塔が建立されている。
 白河攻防戦は、五月一日に行われた二回目の戦闘で事実上決着がついたが、同盟軍はその後も再三にわたって白河奪還を試みた。奥羽越列藩同盟にとって、いかに白河が重要な拠点であったかうかがい知れる。しかし、遂に取り戻すことができないまま、会津での決戦を迎えるのであった。

第一次 四月二十四日
第二次 五月一日
第三次 五月二十六日
第四次 六月十二日
第五次 六月二十九日
第六次 七月一日
第七次 七月十五日

(聯芳寺)


聯芳寺

 白河城から阿武隈川を北に渡った向寺地区の奥州街道沿いに聯芳寺がある。聯芳寺の駐車場の片隅に明治二十一年(1888)に建立された福島藩十四人碑がある。福島藩は六月十二日の第四次攻撃に初めて参戦したが、六反山(向寺の西)で孤立し、池田邦知以下十四名もの犠牲者を出した。


福島藩十四人碑

(女石)


仙台藩士戊辰戦没之碑

 更に国道294号線を北上して国道4号線との交差点が女石である。奥州街道と会津街道の分岐点に当たる。その手前に百五十余人の仙台藩士を葬った供養塔と仙台藩士戊辰戦没之碑がある。戦死供養塔は明治二年(1869)に地元有志が建てたもの。仙台藩士戊辰戦没之碑の方は、明治二十三年(1890)に建てられたものである。


戦死供養塔

 さて、この日の白河史跡探訪の旅は、これで時間切れとなった。三時間という限られた時間であったが、予定したスポットはほぼ踏破できた。効率よく回ることができた理由は、供養塔や小さな墓碑に至るまで、白河市の教育委員会や観光協会やが、こまめに説明の駒札を立てているお陰である。自治体によって史跡に対する取り組みには随分と差があるが、白河市の姿勢には感心した。おかげであと一~二回あれば、白河の戊辰戦争関係の史跡を一巡できる目途はついた。充実感を胸に白河をあとにすることができた。

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福島

2009年08月08日 | 福島県
(福島県庁)
いよいよ福島県である。
これまで、福島県を通過する機会は幾度もあったが、ここに足を踏み入れることは敢えて敬遠してきた。高い山に登るにはそれなりの準備と覚悟が必要である。福島県の史跡に着手するにはなかなか踏ん切りがつかなかった。これまで会津戦争にかかわる書籍などにも目を通し、自分なりにイメージは固まったという自負はある。憧れの地である会津若松に関しては、頭の中の地図についていえば、そこに住んでいる人に負けない程度になっているだろう。とはいうものの、会津戦争は無用の戦争だったのではないか、薩長と会津どちらに正義があったのか、といった重いテーマについては、結局、確固たる答えを見出せていない。この高い山を登りきるには、相当な時間がかかるだろう。重いテーマについては、山を登りながら考えることにしよう。

今回、仙台に出張に行く機会があったので、その途上、白河と福島で新幹線を降りて史跡を回ることにした。その朝は4時半に起床。五時には電車に乗って、大宮発六時四十分過ぎのやまびこで新白河に向かう。白河で許された時間は三時間。更に北上して福島では一時間。駅前の交番の横に無料で自転車を貸し出している。係りの老人の動作が遅く、多少いらいらしたが、奪うようにして自転車に飛び乗ると、一目散に第一目的地である福島稲荷神社へ向かった。厚い雲が空を覆い、何時雨が降ってもおかしくない空模様であったが、上着を着用しているとさすがに暑くて汗が止まらない。


福島城址

現在、福島県庁のある辺りが福島城跡である。阿武隈川と荒川を天然の要害とした平城で、間違いなく明治維新まで存続していたが、今となってはそこに城郭があったことを伺い知ることはできない。県庁前の植え込みに「福島城址」という石碑があるが、どこにも城跡といった気配がない。県庁東の紅葉山公園は庭園の跡らしく、辛うじて往時の雰囲気を残している。福島城は、十八世紀初頭より板倉氏の居城となり、明治維新まで続いた。福島藩も奥羽越列藩同盟に加盟し新政府軍と戦ったが、明治元年(1868)七月二十九日、二本松城が陥落すると、戦意を喪失した藩主板倉勝尚は、藩士領民を置いて米沢藩に逃亡した。城は新政府軍に引き渡され、板倉氏も二千石を減封された上、三河に転封された。ここに福島藩は消滅することになった。


福島城本丸跡

(福島稲荷神社)


福島稲荷神社

福島は、会津戦争の前夜、長州藩の世良修蔵が捕らえられた地である。会津藩は新政府軍との対決姿勢を明確にしていたが、仙台藩を筆頭とした奥羽の諸藩は、何とか戦争を回避すべく仲介役を買ってでた。しかし、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵は、仙台藩、米沢藩からの嘆願をにべもなく拒絶した。朝廷の権威を借りた倣岸不遜な世良の態度は、東北諸藩の反感を買っていたが、ここにきて堪忍袋の緒が切れた。仙台・福島両藩士は、慶応四年(1868)閏四月二十日未明、福島の旅籠金沢屋に世良修蔵を襲い捕縛した。世良は即日、阿武隈川河原で首を撥ねられた。これを契機に、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍との対決は不可避となったのである。

世良は東北の人たちから憎まれ、後世からも会津戦争を引き起こした張本人のように言われている。しかし、そもそも世良修蔵に嘆願書を受け入れる裁量も与えられておらず、会津討伐は薩長軍の規定方針だったという説もある。真相は歴史の闇の中であるが、彼もまた歴史の犠牲者なのかもしれない。


長藩世良修蔵霊神碑

福島稲荷神社の一角に、世良修蔵の慰霊碑が建てられている。場所は境内ではなく、北東の一角である。この日の天候のせいもあるかもしれないが、日の当たらない薄暗い空間であった。

(長楽寺)


長楽寺

次の目的地は長楽寺である。自転車だと、稲荷神社からものの数分もかからない。山門を入って右手に、ニつの石塔がある。

一つは、目明し浅草屋宇一郎の墓である。目明しというのは奉行所などの治安維持部隊の末端を担った非公式の役職である。博徒ややくざ者が多く、浅草屋宇一郎もその類であろう(と、勝手に推測)。浅草屋宇一郎は、仙台藩士、福島藩士と、手下とともに世良修蔵襲撃捕縛に参加した。


仙台藩烏天狗組之碑

 仙台藩烏天狗組とは、細谷十太夫の率いる衝鋒隊の別称である。衝鋒隊は、黒装束に身を包み、夜襲奇襲を得意としたため、このように呼ばれることになった。しかし、何故衝鋒隊の碑が、福島の長楽寺にあるのか良く分からない。


浅草屋宇一郎之碑

さらにその横には、瓜生岩子の像がある。日本全国に人物像は多いが、そのほとんどは男性である。女性の像は、嵐山の村岡像と高知県のお龍と君枝像、淡路島のお登勢像くらいしか、私の膨大な取材記録にも見当たらない(多分)。

瓜生岩子は、文政十二年(1829)、喜多方の裕福な商家に生まれたが、父の病死から生家は没落した。十七歳のとき、結婚して一男三女をもうけたが、三十三歳のとき夫と死別。戊辰戦争の戦火が会津に及ぶと、敵味方の別なく救助看護したという。維新後、戦乱により教育を受けられない会津藩の子弟のために幼年学校を設立するなど、本格的な慈善事業に関わり始め、明治四年(1871)には上京して養護施設の経営を学び、帰郷して貧民孤児のために福島救育所を開設した。その後も貧民救済を目的とした組織をいくつも立ち上げ、晩年、その業績を讃えられ女性として初めて紫綬褒章を受けた。明治三十年(1897)、死去。六十九歳。


瓜生岩子之像

(宝林寺)


宝林寺

福島市内最後の訪問地は、宝林寺である。この時点で残り時間はニ十分。ここから駅まで折り返し、切符を買って新幹線に飛び乗ることを考えると、道を迷うことは許されない。宝林寺の墓地の行き当たりには、長州藩士の墓がある。このうち向かって左の墓の主は、世良修蔵に従って福島に滞在していたところを、仙台藩士、福島藩士に襲われ、斬首された野村十郎である。

予定とおり仙台行きの「やまびこ」に飛び乗り、午後の出張に間に合った。実はヘロヘロであった。


長藩 野村十良墓(左)
長藩 中村少次郎墓(中)
紀州 山口忠右衛門安正(右)

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石岡 Ⅱ

2009年08月05日 | 茨城県
(華園寺)
 元治元年(1864)七月、筑波山を降りた天狗党本隊は、石岡まで進出する。藤田小四郎は照光寺、田中愿蔵は華園寺に分宿したという。


華園寺

(照光寺)


照光寺

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「ザ・タイムズにみる幕末維新」 皆村武一著 中公新書

2009年08月02日 | 書評
 「ザ・タイムズ」にみる―――と言いながら、タイムズだけでなく、広く海外から幕末の日本がどのように見られていたかを解明した好著である。本書は七章から成るが、各章で著者の独自の視点が光る。
 第一~二章では、ペリー来航の五十年以上前の十八世紀末から、英・米・露各国の船が日本に相継いで来航し、通商や開港、食糧の供給、漂流民の受け渡しなどを申し入れしていたことを明らかにする。ペリー来航は決して寝耳に水のできごとではなく、半世紀も前からその予兆があった。それまでの訪問者との違いは、ペリーは大砲を備えた蒸気船でやってきたということにある。幕府はその都度、問題を先送りにしてきた。リスク管理の甘さが自らの衰亡を招いたというべきであろう。
 第三~四章では、薩英戦争をイギリス側から考察する。帝国主義の雄であるイギリスでは、欧米先進国とアジア、ラテン・アメリカ諸国相手では、露骨に条約の内容を変えていた。日本を含めた後進国に対しては、当然のごとく、いわゆる不平等条約を押しつけていたのである。薩英戦争についても、アヘン戦争やセポイの反乱を戦ってきたイギリスにしてみれば、リチャードソン殺害事件を口実に薩摩藩をたたくのは、当然の行為のようにも思える。ところが、実はイギリス議会においてクーパー提督が鹿児島の街を焼き尽くしたことに対して非難の声が上がっていた。今、日本では二大政党による政権交代の論議が喧しいが、議会政治の先輩であるイギリスでは、今から百五十年以上も前から保守党と自由党という二大政党が成立して、政権を担っていたのである(それをいうなら、我が国においても二十世紀初頭に立憲政友会と立憲民政党とが交互に政権を担った時代があったことを忘れてはならないが)。
 第五章では、時代を遡ってマルコ・ポーロ以降、ヨーロッパに日本がどのように紹介されていたかを検証する。有名なマルコ・ポーロの「東方見聞録」は、実は中国人からのまた聞きで、間違いだらけだったという指摘は面白い。しかも、その間違った日本像が長らくヨーロッパの人たちには信じられていた。要するに元禄時代の日本を旅したドイツ人ケンペルや幕末のシーボルトまで、日本という国はベールに包まれていたのである。インドや中国、インドシナ半島、太平洋諸島でもヨーロッパと何らかの接点を持っていたというのに、日本が“発見”されたのは随分と遅れたというのは、全く不思議としかいいようがない。
 第六~七章では、ほかに先駆けて近代工業化を進め、他藩をリードして倒幕維新を成し遂げた薩摩藩が、気がつけばもっとも近代化に遅れをとってしまった。その背景を解き明かす。現在、鹿児島県は全国でも一位二位を争う低所得県となってしまった。自ら招いた結果といってしまえばそれまでだが、維新を成し遂げた雄藩の姿としてはあまりに寂しい。

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水戸 水戸城周辺

2009年08月01日 | 茨城県
(吉田松陰水戸留学の地)


吉田松陰水戸留学の地碑

 水戸駅前から延びる黄門通りと呼ばれる大通りから一筋北に入ったビルの前に「吉田松陰水戸留学の地碑」が置かれている。
 松陰が水戸を訪れたのは嘉永四年(1851)十二月十九日から翌年一月二十日にかけての間である。松陰はこの地にあった永井政介宅に滞在しながら、会沢正志斎や水戸藩の有志らと交わった。碑には松陰が水戸を去るにあたって、永井政介の長子芳之介に与えた漢詩が刻まれている。松陰独特の肩をいからせたような字がそのまま刻まれている。

(徳川慶喜公像)


徳川慶喜公像

 みずほ銀行水戸支店の前に徳川慶喜の像がある。台座を含めても背の丈に満たないような小さな銅像であるが、よく見ると子供である。銅像の慶喜は子供時代のものらしい。

(神應寺)


神應寺

 大工町の交差点を南側に渡ると右手に神應寺の門が見える。入口は狭いが、その先に神應寺の広い境内が広がる。本堂裏の墓地入口に、水藩殉難志士弔魂碑と慷慨壮烈碑が建てられている。


水藩殉難志士弔魂碑(左)と慷慨壮烈(昌木晴雄殉難)碑

 昌木晴雄は結城藩の出身である。本名は杉山崇仙といい、代々結城須賀神社の神官をつとめていた。杉の国字である椙の字を分解して「昌木」を名乗った。昌木晴雄は、天狗党の挙兵に参加したが、天狗党の騒乱が水戸藩内訌戦の様相を呈して来ると、ほかの他藩出身者とともに離脱して、横浜夷人街の襲撃に向かった。その途上、小川(現小美玉市)で捕縛され、水戸の吉田刑場で刑死した。

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水戸 城西

2009年08月01日 | 茨城県
(祇園寺)


祇園寺

 八幡町の祇園寺は、徳川光圀(黄門)が元禄五年(1692)に開設したという曹洞宗の寺院である。
 墓地の入口に水戸戊辰殉難慰霊碑が立っているが、これは幕末に殉難した諸生党の鎮魂碑である。そばにある由来を読むと、水戸諸生党に関係する石碑は、千葉県八日市場(匝瑳市)、新潟県西山町にもあるらしい。


水戸戊辰殉難慰霊碑

 諸生党は、幕末天狗党と激しい抗争を繰りひろげた。その惨劇の極致が敦賀での大虐殺である(353人が処刑)。会津戦争と並ぶ幕末史に残る悲劇である。天狗党の最期に目が行きがちであるが、戊辰戦争がはじまると諸生党に対する征討令が発せられ、天狗党残党らは親の仇とばかりに諸生党討滅に取り掛かった。諸生党は水戸を脱し、一時北越や会津を転戦したが、ここでの戦闘が新政府軍の勝利に終わると、再び水戸に戻って水戸城を攻撃した。さらに転戦を続けたが、終に下総八日市場で壊滅した。


市川三左衛門の墓

 諸生党の首領である市川三左衛門は、文化十三年(1816)に水戸藩士市川三左衛門弘教の息子として生まれ、天保十四年(1843)、家督を継いだ。歩兵頭を皮きりに小姓頭、用人、新番頭、書院番頭と藩の要職を歴任した。安政六年(1859)、安政の大獄それに続く密勅の返納問題を巡って内訌が激化すると、大寄合頭として改革派の鎮圧に努めた。やがて家老に昇進すると、佐幕派諸生党の首領として天狗党と激しく対立した。天狗党を駆逐して藩政の実権を握るが、戊辰戦争で形勢が逆転する。市川三左衛門は同志とともに会津に走ったが、間もなく水戸に戻って弘道館に拠り水戸城を攻撃したが、結局は敗れて下総八日市場まで敗走して、そこで壊滅した。三左衛門は江戸まで逃れて潜伏したが、明治二年(1868)四月、水戸の捕吏に捕縛されて、水戸に連行された。生き晒しの上、水戸城外長岡原で逆磔の刑に処された。五十四歳であった。


朝比奈弥太郎の墓

 朝比奈弥太郎は、市川三左衛門と並ぶ諸生党の首領である。代々弥太郎を襲名しており、文政元年(1818)に家督を継いで嘉永六年(1853)まで藩の重職にあったのは、父朝比奈泰然である。父の死後、家督を継いだのは次男泰尚である。市川三左衛門とともに天狗党を弾圧し、一時藩政の実権を握ったが、明治二年(1868)、水戸を追われて、下総八日市場の戦闘で養子(兄の遺児)泰彙とともに討ち死にした。


贈正五位木村権之衛門墓

 木村権之衛門(ごんのえもん)は、文政七年(1824)の生まれ。戊午の密勅降下以来、有志の間を奔走した。安政の大獄が始まると、高橋多一郎と出府し薩摩藩らと挙兵除奸を計画した。万延元年(1860)正月、再び出府して有村次左衛門ら会合し、出兵の盟約を結んだ。大老襲撃後の三月二十六日、上阪したが、薩摩側の事情が一変し、捕吏の探索を避けて四国に逃れた。その後、東下して老中安藤信正要撃を企てたが、捕吏が迫ったため仙台から袋田へ潜伏した。文久二年(1862)帰藩し、許されて弘道館勤務となったが、翌年三月、四十歳にて病死した。

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水戸 城東

2009年08月01日 | 茨城県
(神勢館五町矢場跡)


神勢館五町矢場跡

 神勢館は、徳川斉昭の命により嘉永六年(1853)開かれた製砲所兼射的場である。
 元治元年(1864)八月、宍戸藩主松平頼徳率いる大発勢は、那珂川を遡って神勢館に入った。頼徳は水戸城入城のため使者を送ったが拒絶された。水戸城側の市川三左衛門らは、ただちに神勢館に向けて砲撃を始めた。大発勢も反撃を開始し、戦闘は三日間に及んだ。神勢館は全焼し、大発勢は那珂湊方面に撤退することになった。矢場(大砲の標的)は取り壊しを逃れて昭和まで残っていたが、度重なる那珂川の氾濫のため堤防を造ることになり、姿を消した。

(赤沼牢屋敷跡)


赤沼牢屋敷跡


霊魂碑

 水戸領内には、牢獄がいくつか置かれた。赤沼牢もその一つである。揚屋、大牢、新牢、つめ牢の四棟から成り、幕末には藩内抗争の結果、多くの士がこの地で処刑された。
 天狗党の乱が敦賀で終焉を迎えると、諸生党首領の市川三左衛門は、天狗党の家族の処刑を命じた。妻とき(四十八歳)、子桃丸(九歳)、金吉(三歳)。長男彦衛門の子三郎(十二歳)、金四郎(十歳)、熊五郎(八歳)は、いずれも死罪。耕雲斎の娘や妾、彦衛門の妻などは永牢に処された。三歳の金吉は、獄吏の膝下に組み敷かれて刺殺されたという。彼らの首は、市中を引き回しの上、吉田原で晒されたという。あまりに過酷な処分に、天狗党残党の恨みと怒りは地下深く鬱積し、これが明治を迎えたとき、極端な報復措置へと繋がったのである。

(銷魂橋)


銷魂橋(たまげばし)高札場跡

 本町一丁目の備前堀にかかる銷魂橋は、水戸街道の起点であり、水戸城への出入口に当たる。水戸を離れる人がこの場で別れを惜しんだことから、徳川光圀が銷魂橋と名付けたという。
 元治元年(1864)八月、松平頼徳の大発勢が水戸城に迫ると、水戸城側の諸生党は銷魂橋付近に大砲を据えて、大発勢をに向けて砲撃した。


銷魂橋

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水戸 城南

2009年08月01日 | 茨城県
(薬王院)


薬王院 本堂

水戸南郊の薬王院は、平安初期の開基と伝えられる名刹である。本堂は享録二年(1529)に再建されたもので、その後修理改造は加えられているが、当時の用材が遺っている貴重な文化財である。元治元年(1864)八月、水戸城に迫った松平頼徳は、薬王院に入って水戸城内の諸生党からの使者と応接していた。まだ、交渉が続いているというのに、銷魂橋付近に陣取る諸生党側から発砲があり、このままでは戦闘は避けられない状況となる。頼徳らは薬王院で議論を重ねた。諸生党の不遜な態度に怒りが満ちたが、戦争になるのを避けたい頼徳の意向を受けて、大発勢はいったん塩崎の長福寺まで退くことになった。

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水戸 塩崎町

2009年08月01日 | 茨城県
(長福寺)


長福寺

 東水戸道路の水戸大洗ICを降りて、大洗方面に国道51号線を少し走ると、長福寺の大きな看板が目に入る。長福寺は高台にあり、大軍を駐屯させるには絶好のロケーションにあるといえる。
 水戸城入城に失敗した松平頼徳率いる大発勢は、那珂湊に向かう途中で塩ヶ崎村の長福寺に入った。ここでも諸生党から砲撃を受けた大発勢は、涸沼川を渡河して磯浜の海防陣屋に入り、願入寺にこもる諸生党に対し反撃に出た。


幕府追討軍隊士の墓

 そのほぼ一ヶ月後、今度は幕府の天狗党追討軍(目付高木宮内)八百名が長福寺に駐屯した。潮来勢約三百が島田の香取明神に入ったという情報を受けて、すぐさま出兵し激しい戦闘となった。長福寺門前にはそのとき戦死した幕府追討軍隊士の四名の墓がある。

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