幕末も押し迫った慶應三年(1867)の十一月、のちに「ええじゃないか」と呼ばれた集団的乱舞が各地で発生したことは良く知られている。本書は昭和四十八年(1973)に初版が刊行され、その八年後に再版されたものを底本として、凡そ五十年の歳月を経て再々刊されたものである。このことは、「ええじゃないか」をここまで掘り下げた研究としては、本書に肩を並べるものがこの五十年出現しなかったということを意味しているのかもしれない。
「ええじゃないか」の歴史的意義については、「民衆が体制崩壊に一定の役割を果たした」と積極的に評価するものと、「維新史上のナンセンス」と消極的にしか評価しないものと、今なお二分されている。
消極的な評価が大勢を占める中、「幕府の人民支配を一か月近く麻痺させた」(井上清)、「この運動の基底には「封建的共同体」からの解放感が強く打ち出されている」(津田秀夫)といった積極的評価も現れている。
私もこれまであまり「ええじゃないか」を意識することはなかったが、本書を読み終わっても、積極的に評価すべきなのか、消極的評価で良いのか、判断がつきかねている。
「ええじゃないか」の地理的な広がりについて本書で初めて知ることができた。「ええじゃないか」の発生は、慶応三年(1867)八月、名古屋でお札が降ったのが最初といわれている(ほかに横浜説、駿河説三河説もあり)。これがたちまち四方に伝播し、九月に大津・駿府、十月には京都・松本、十一月には大阪、西宮、東海道一帯、横浜、伊勢、淡路、阿波、讃岐、会津へと波及した。ただし、関東、奥羽、北陸、あるいは中国、九州では見られない。
慶應三年(1867)という年は、天明以来の飢饉が相つぎ、開国の影響を受けて米価を中心とした物価は高騰し、民衆の生活は極度に苦しかった。幕府や武士に対する不信感が最高潮に達した時期であった。民衆の不安や不満が「ええじゃないか」に集約されたという側面は確かにあったであろう。
政治的にはどうだろう。福地桜痴は「京都方の人々が人心を騒擾せしむるために施したる計略」と観察している。岩倉具視の伝記では「具視が挙動もこの喧騒のためにおおはれて、自然と人目に触るることを免れた」と伝えている。あるいは土佐の大江卓は自ら札を作ってそれを降らせたと証言を残している。当時陸援隊に属していた田中光顕も「この踊りにまぎれて大阪から堺に脱出することができた」と回顧している。「ええじゃないか」が討幕派の動きを幕府側の目から隠したのは事実かもしれない。しかしながら、意図的なものとは言い難いし、政治的に大きな役割を果たしたとするには無理がある。
慶應三年(1867)の「ええじゃないか」の先駆け的運動となったのが、「おかげ参り」である。江戸で伊勢への群参が見られたのは、寛永十五年(1638)を皮切りにほぼ六十年周期だったという。その記憶が消え去らないうちに次の「おかげ参り」が起こったのである。「ええじゃないか」もその延長線上に位置づけることができよう。大正四年(1915)にやや小型の「ええじゃないか」踊りが京都で発生したというのも、その流れを意識したものかもしれない。しかし、その後は「ええじゃないか」やおかげ踊りに類するような集団的狂騒・乱舞といった現象は見られなくなってしまった。
日本人は毎年開かれる地域の祭りなどで、日頃の鬱憤を晴らす術を身に付けたのかもしれない。だとしたら、コロナを理由に地域の行事を延期するのもええ加減にしないと、何時かどこかで「ええじゃないか」が復活することになるかもしれない。