史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「走狗」 伊東潤著 中公文庫

2020年07月25日 | 書評

「走狗」とは文字通りの意味としては「走り回る犬」ということになる。この小説の主人公である川路利良(としなが、のちにとしよし)の前半生は、休むことなく走り回る忙しないものであった。

川路は禁門の変で敵将来嶋又兵衛を狙撃したことでも知られるが、本書でもそのエピソードが語られる。西郷隆盛に見いだされた川路は、言わば連絡掛として奔走した。

鳥羽伏見の戦争では、死地に投じられても戦功をあげ、上野戦争、東北に転戦。磐城では敵弾が陰嚢を貫いたが、睾丸(いわゆる金玉)は無事であった。戦場にあっても金玉袋が縮まっていなかったからだとされ、川路の豪胆さを物語るエピソードとして、本小説でも紹介されている。

維新後、邏卒総長に就任してフランスに留学。帰国して警察制度の改革を提言し、我が国警察制度の確立に尽くした。「日本警察の父」と称される所以である。

辞書によれば「走狗」とは狩猟に使われる犬から転じて「手先」というどちらかというと好ましからざる意味に使われる。本書では明治六年の政変までは西郷の走狗として、それ以降は大久保の走狗として描かれる。

川路は外城士という武士としては最下層の出身でありながら、次々と武功を立てて出世し、遂に大警視(今でいう警視総監)にまで昇りつめる。本来、川路を主人公に小説を描けば、痛快な出世物語になるはずだが、この作品は一貫して陰々たる読後感である。

西南戦争勃発の原因の一つとされるのが、川路が放った東京獅子である。彼らは内偵というレベルではなく、挑発という使命を負わされていた。客観的に見て卑劣な手段という批判は避けられないだろう。川路が守ろうとした薩閥は、これを契機に分裂し弱体化してしまう。

さらに追い打ちをかけるように黒田清隆が泥酔の上、夫人を斬殺するというスキャンダラスな事件が起こる。これを隠蔽したとされた大久保利通が暗殺され、川路はあたかも主を失った犬のように苦悩を深めることになる。

この時持ち上がったのが藤田組贋札事件である。乾坤一擲、長州閥を蹴落とす最大のチャンスと見た川路は、この事件で長州閥の大物を摘発することに俄然注力した。しかし、落ち目の川路にもはや勝ち目はなかった。

スパイとして利用していた元新選組の斉藤一から「走狗」と面罵され「あんたのような男と真剣で戦ったことを、今は後悔しているよ」と侮蔑されるシーンは衝撃的である。自分の犬からも見放された川路には一時海外に逃亡するしか手が残されていなかった。

ほとぼりを冷ますためにパリを目指す川路に罠が仕掛けられるという筋立ては、もちろん伊東潤氏の創作であるが、川路がどんどん落ちていく様を描いて見事である。これまで伊東潤氏の小説を何冊か読んだが、個人的には本作が最高傑作だと思う。読み終わった後、しばらく興奮して寝付けませんでした。

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「幕末の志士 渋沢栄一」 安藤優一郎著 MdN新書

2020年07月25日 | 書評

来年の大河ドラマを見越して、渋沢栄一関連本が書店に並ぶようになってきた。毎度のことだが、ブームに乗っかった書籍は玉石混淆であり、慎重に選ばなければならない。

どうしてこの本を手に取ったかというと、幕末の渋沢栄一に焦点を当てた本だからである。明治に入って、実業家として大成した渋沢は、「我が国資本主義の父」と称されるほどの偉人となったが、若き渋沢は御多分に漏れず、尊攘の志士であった。それも相当な過激派であった。

少人数で高崎城を奪い、それを拠点に横浜で攘夷を実行する ――― つまり外国人を斬りまくろう ――― という無謀極まりない計画を立てていた。晩年の姿からは想像もつかない跳ねっ返りだったのである。この暴挙には、八王子出身の剣士真田範之助も関わっていた。

渋沢の面白さは、これ以上ない過激な攘夷志士だったにもかかわらず、突如として政権中枢である一橋家の家来となったところにある。慶喜の右腕と称された平岡円四郎は、人材を集めることに熱心だったといわれるが、その眼鏡に叶ったのである。実は平岡円四郎に渋沢栄一と従弟の喜作(のちの成一郎)を紹介したのが、川村恵十郎(正平)であった。

川村恵十郎は、甲州街道小仏関所の関所番の家に生まれた。二十俵、二十人扶持という少禄の幕臣(御家人)であったが、平岡の伝手で一橋家の家臣となった。慶喜の活動を支える一人として活躍するが、農民や浪士であっても有為の人材は召し抱えるべきだという考えの持ち主であり、両渋沢の採用を積極的に進めたという。本書によれば、二人が川村の知遇を得たのは、韮山代官江川太郎左衛門の下で手代を務める柏木総蔵(忠俊)の紹介であったとされる。

渋沢栄一の前半生には、真田範之助と川村恵十郎という二人の八王子出身者が密接に関わっている。ひょっとしたら本書に二人のことが詳しく述べられているのではないか、という淡い期待を抱いて本書を選んだのである。

残念ながら川村恵十郎はほんの少し登場するが、真田範之助は名前すら出てこなかった。その点では期待外れであったが、やはり渋沢栄一の人生は面白い。豪農の家に生まれながら、尊王攘夷思想に染まり過激攘夷運動に身を投じたかと思うと、一橋家の家来となり、当主が将軍となったことで幕臣に転じる。さらにフランス留学に赴く昭武に従って海外渡航のチャンスを得る。単純な攘夷を捨てて、西洋文明を知る貴重な知識人へと脱皮した。帰国して当人は駿府藩士として生きていくつもりだったが、期せずして新政府への出仕を求められ、大蔵省のキーマンとして活躍する。しかし、それも束の間、官を辞して今度は実業家として歩みだす。これほど身分や肩書が変わった人物はほかに見当たらない。しかも、その都度渋沢は成長を見せるのである。大河ドラマの格好の題材であろう。

どうやら私が「面白い」と感じるものと世間一般の評価は違っているようなので、一人私がはしゃいでいても何の保証にもならないが、来年の大河ドラマには期待したい。

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「ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた」 青山通著 新潮文庫

2020年07月25日 | 書評

緊急事態宣言が解除されて以降、在宅勤務と出社が半々という日常が続いている。ある日出社してデスクに向かっていると、経理部のM君が「読んでみてください」と渡してくれたのがこの本である。M君は、私がウルトラマンとクラシック音楽が好きなことをよく知っていて、「この本はウエムラにぴったり」と思ったのだろう。彼の思惑通り、一ページ目をめくった瞬間、本書に没頭してわずか一日で読み終えてしまった。

因みにM君はウルトラセブン派であるが、私は断然ウルトラマンが大好きである。本書でもウルトラQからウルトラセブンに至る経緯が触れられているが、ウルトラマンは「悪い怪獣をやっつける」という勧善懲悪的色彩が強く、これは子供にも分かり易かった。日々「何か面白いことはないか」ということしか考えていなかった私にはちょうど良い娯楽であった。

これに対しウルトラセブンには、「宇宙人との共存」という深遠なテーマが一貫して流れており、時に思索的・教育的であり、大人にも深く考えさせられる内容となっている。そもそも単純な人間である私には難しかった。ウルトラセブン派であるM君は、確かに私よりずっと思索的であり、知性的である。

本書を読み始めてすぐに直感したのが、著者は間違いなく私と同世代であるということである。巻末の解説によれば、筆者青山通氏は、昭和三十五年(1960)生まれというから、やはり私と同級生である。ウルトラマンやウルトラセブンをリアルタイムで視たという原体験や、小遣いではLPレコードをとても買えなかったので音楽は専らFM放送を録音して聴いた(今や死語となってしまった「エアチェック」をしていた)ことなど同世代ならではの共通体験が語られている。

ウルトラセブンの最終回で、モロボシ・ダンが「僕は人間じゃないんだよ。M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」と正体を明かすシーンは、子供心にもいずれこの時が来るという予感はあったものの、「ついに言っちゃった」という衝撃が走った。この時、鳴り響いたのがシューマンのピアノ協奏曲イ短調OP.54の冒頭部分である。

今ならこれはシューマンのピアノ協奏曲だと易々と言い当てることができるが、当時の私は何の音楽だという疑問も持たずに通り過ぎてしまった。当時七歳の著者青山氏はその衝撃をひきずり、後年偶然あの音楽の正体を知ることになる。なけなしのお小遣いで買ったLPレコードから流れた音楽は、ウルトラセブン最終回で流れたものとは別物であった。ここからウルトラセブンで使われた「本物の」シューマンのピアノ協奏曲を探し求める旅が始まる。

これがカラヤン指揮リパッティの演奏だという事実に行き着いた時、筆者は中学三年生になっていた。ここでまた筆者は「なぜウルトラセブンの最終回にカラヤン/リパッティ盤が選ばれたのか」という疑問を持つ。この疑問に答えられるのは、ウルトラセブンの音楽を担当した冬木透氏しかいないだろう。

それを問い質すことのできる夢のような僥倖が、2012年になって実現した。「答え」は本書を一読していただくとして、話の最後に冬木氏はカラヤン/リパッティ盤を取り出し、聞かせてくれた。編集者木村元氏は「冬木氏の自宅でリパッティ/カラヤンによるシューマンのピアノ協奏曲を聴いたとき、感きわまった青山さんは、第一楽章の初めから最後までずっと号泣していた」と明かしている。筆者がウルトラセブン最終回と出会って四十五年もの歳月が経っていた。

この情熱と執念は、「幕末軍艦咸臨丸」(中公文庫)の著者文倉平次郎がサンフランシスコの墓地で咸臨丸水夫の三つ目の墓を発見した情熱にも通じるものがある。現地の図書館で咸臨丸の水夫が現地で亡くなったのは三人だったという事実を知った文倉平次郎は、残るもう一つの墓を探し出すために、墓所の事務所で下働きまでして、ある日、遂に土に埋まった源蔵の墓を掘り返した。

人間の情熱は、それを持ち続けることでの何ものかを実現することができる、ということを本書でも再確認した。

本書はもちろん物語としても楽しむことができるが、クラシック音楽入門書としても面白い読み物となっている。シューマンのピアノ協奏曲、指揮者カラヤン、ピアニスト・リパッティという切り口でこれだけ楽しめる。クラシック音楽の奥深さを再確認することがでるだろう。筆者がいうように、カラヤンは若い頃の演奏の方が情熱迸り、溌剌としている。

筆者のスタンダードがカラヤン/リパッティの1948年の古い録音であり、比較対象となる演奏者もクララ・ハスキル、アルトゥール・ルービンシュタイン、ワルター・ギーゼキング、ウイルヘルム・ケンプと、いずれも音楽史に名前を連ねる巨匠ばかりである。現在も存命中のピアニストで本書に紹介されているのは、ポリーニ、アルゲリッチ、ツィンマーマンくらいである。

本書に触発されて、久しぶりにシューマンのピアノ協奏曲と向き合ってみることにした。といっても、私のCDコレクションの中には本書でも紹介されているアバド/ポリーニ盤しか見当らず、しかも探しているうちに同じCDが二枚あることが発覚した。ほかにもあったような気がするのであるが、結局この一枚しか探しきれなかった。

しからば…ということで、長年撮り溜めたエアチェックのライブラリーからリストアップしてみた。これも全て網羅しているわけではないが、約三十組(すべてライブ録音)が見つかった。さすがに名曲だけあって、古今東西の名演奏家が挑んでいるではないか。

指揮者 ピアノ オーケストラ 演奏日
リッカルド・シャイー ラドゥ・ルプー ベルリン放送交響楽団 1983年5月27日
 ウィーン芸術週間
ヘルベルト・フォン・カラヤン クリスティアン・ツィンマーマン ウィーン・フィル 1984年8月28日
 ザルツブルク音楽祭
ベルンハルト・クレー アリシア・デ・ラローチャ ベルリン・フィル 1985年1月25日
 ベルリン・フィルハーモニー
ズデネク・マカール ブリジット・アンジェレル ベルリン・フィル 1985年5月4日
 ベルリン・フィルハーモニー
ネヴィル・マリナー マレイ・ペライア シュトゥットガルト放送交響楽団 1986年1月30日
 シュトゥットガルト・ベートーヴェンホール
コリン・デイヴィス マレイ・ペライア バイエルン放送交響楽団 1987年1月16日
 フィルハーモニーガスダイク
クラウディオ・アバド マレイ・ペライア ウィーン・フィル 1993年8月22日
 ウィーン祝祭大劇場
セルジュ・チェリビダッケ マルタ・アルゲリッチ フランス国立放送管弦楽団 1974年5月19日
 シャンゼリゼ劇場
パーヴォ・ヤルヴィ ダン・タイソン パリ管弦楽団 2011年11月19日
 NHK音楽祭
ロジャー・ノリントン ラーニャ・シルマー カメラータ・ザルツブルク 2005年8月2日
ウォルフガンク・サヴァリッシュ レイフ・オヴェ・アンスネス バイエルン放送交響楽団 2007年5月
 ミュンヘン・ヘラクレスザール
クルト・マズア ラグナ・シルマー フランス国立管弦楽団  
シャルル・デュトワ マルタ・アルゲリッチ ベルリン・ドイツ交響楽団  
マリス・ヤンソンス レイフ・オヴェ・アンスネス ベルリン・フィル 2002年12月19日
 ベルリン・フィルハーモニー
秋山和慶 コルネリア・ヘルマン 大阪センチュリー交響楽団 2006年6月7日
 ザ・シンフォニーホール
ウォルフガンク・サヴァリッシュ 園田高弘 NHK交響楽団 2002年10月26日
 NHKホール
ローター・ツァグロゼク ゲルハルト・オピッツ NHK交響楽団 2006年12月1日
 NHKホール
アンドリュー・リットン イモジェン・クーパー NHK交響楽団 2008年10月4日
 NHKホール
ネヴィル・マリナー アンディ・シーララ NHK交響楽団 2010年9月25日
 NHKホール
高関健 野原みどり 東京フィルハーモニー交響楽団 2008年7月29日
 新宿文化センター
円光寺雅彦 北村朋幹 東京フィルハーモニー交響楽団 2011年6月8日 裾野市民文化センター
クルト・マズア ネルソン・フレイレ フランス国立管弦楽団 2004年6月18日
ボヤン・スジッチ アレクサンドル・パブロヴィッチ セルビア放送交響楽団演奏会 2015年10月1日
セルビア・ベオグラード コララッツ・ホール
デーヴィッド・ジンマン レイフ・オヴェ・アンスネス NHK交響楽団 2016.11.19 NHKホール
ヘルベルト・フォン・カラヤン マウリツイオ・ポリーニ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1974年8月15日
ザルツブルク音楽祭
パーヴォ・ヤルヴィ  カティア・ブニアティシヴィリ NHK交響楽団 2016年2月17日
サントリーホール
ウォルフガング・サヴァリッシュ イェフム・ブロンフマン NHK交響楽団 1998年11月11日
東京・サントリーホール
リッカルド・ムーティ ダヴィッド・フレイ フランス国立管弦楽団 2016年3月24日
フランス・パリ・メゾン・ドゥ・ラ・ラジオ
クリストフ・エッシェンバッハ クリストファー・パーク ローザンヌ室内管弦楽団 2018年9月11日
スイス・ローザンヌ サル・メトロポール

絶対的に「これがベスト」と呼べるようなものはないが、演奏家によって個性が現れている。非常に情緒的・感傷的な演奏もあれば、強直で男性的な演奏もある。個人的には感情に流されず、剛毅なポリーニの演奏(1974年ザルツブルク音楽祭)に惹かれる。因みに第一楽章の演奏時間は14分37秒で、比較的高速の演奏となっている。この頃のポリーニは、テクニックもスゴイが、気迫も漲っている。最も脂が乗っていた時期ではないだろうか。ベルリン・フィル木管パートの名人芸も聴きどころである。

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「戊辰物語」 東京日日新聞社会部編 岩波文庫

2020年07月25日 | 書評

本書は「戊辰ものがたり」「五十年前」「維新前夜」の三部から構成されるが、いずれも戊辰戦争や西南戦争から五~六十年を経た大正十五年(1926)、あるいは昭和三年(1928)に新聞紙上に連載されたものである。全て「古老からの聞き書き」から成っている。この時代には、まだ維新の動乱を実体験した人々が健在だったのである。

今から五十年前といえば、私が住んでいた兵庫県西宮市(私の活動範囲は、西宮北口から門戸厄神当りまで)は、田園が広がる自然豊かな場所で用水路が縦横に流れ、蛙やザリガニ、蛇やら亀やらが獲り放題で、遊び相手には事欠かなかった。

当時私は小学校の高学年であった。水槽に飼っていた蛙が深夜に逃げ出しうち中が大騒ぎになったことや学校からおしっこを我慢して帰宅したが、力尽きて家の前で漏らしたのを同級生の女の子に見られてしまったことは鮮明に覚えているが、当時の記憶というのは脳内にほとんど残っていない。

ついでにいうと、私は江夏がオールスター戦で九連続三振を奪ったという歴史的場面に立ち会った(昭和四十六年七月 於・西宮球場)。ただし、その時私は選手からサインをもらうことにばかり気をとられ、試合経過は全く知らず、従って歴史の証言らしきものは何一つできないのである。

我が身を振り返ってみても五十年前の記憶というのは極めて曖昧なものである。

本書で五十年前の昔を語っているのは、高村光雲とか金子堅太郎という著名人や伊藤博邦(博文の養子)、山岡松子(鉄舟の長女)、近藤勇五郎(勇の娘たま子の夫)といった関係者もいるが、無名の市井人の証言がダントツに面白い。

「初代かっぽれ梅坊主」なる人物の証言を紹介したい。かっぽれというのは、俗謡に合わせておどる滑稽な踊りでお座敷芸の一つである。当時人気を呼んだかっぽれは、有栖川宮や閑院宮、西園寺公からも声がかかったという。

黒田清隆にも気に入られ、「月のうちに一度や二度」は座敷に呼ばれたという。黒田は酒乱で有名な人物である。酔うと「俺の腕の上でかっぽれをやれ」と注文をつけたという。梅坊主によれば「何か御気に触ると「たたっ斬る」というし、ご機嫌だと子供のように可愛がる。いや、ごわいが良い殿様でした」と語る。黒田はのちに酔いにまかせて夫人を斬殺している。「たたっ斬る」と言われた方にとっては洒落にならない迫力だったであろう。

これは明治十年(1877)前後の証言と思われるが、興味深いのは庶民にとって当時の政府高官は「殿様」だったということである。維新から十年も経ち、封建領主の存在は過去のものになっていたはずだが、彼らにとって政府高官は殿様と同じだったのであろう。因みに黒田は武士出身ではあるが、家禄四石という末端階級であり、とても殿様と呼べるような出自ではない。

本書にはこのような興味深い証言がぎっしりと詰まっているが、恐らく人の記憶というのは史料的な価値としては高くない。しかし、巻末の解説「『戊辰物語』のおもしろさ」で佐藤忠男氏(映画評論家)がいうように「民衆史、世相史、社会史、生活史とでも呼ぶべき未開拓の歴史分野に分け入って行く手掛かりになるようなことがいっぱい含まれている」というのは間違いない。このコメントにまったく同感である。

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「江戸東京の幕末・維新・開化を歩く」 黒田涼著 光文社知恵の森文庫

2020年07月25日 | 書評

緊急事態宣言が発信されて二か月が経った。さぞかし読書が進んでいるだろうと思われるかもしれないが、これまで読書に充てていた通勤時間がなくなって、読書のペースはむしろ低下気味である。

本書は緊急事態宣言直前に書店で入手したものである。

「はじめに」に筆者の見解が書かれている。筆者は、明治維新の舞台は「江戸・東京で起きた」とする。確かにペリー率いる艦隊は江戸を目指してやってきた。全国の志士たちは江戸に集まって盛んに情報を交換した。桜田門外の変も、上野戦争も全て江戸で起きたことである。

私は全国の史跡を回ってきて、明治維新は普く全国で起きたと実感している。「江戸・東京で起きた」と断言されてしまうと若干抵抗もあるが、私の過去のデータベースを見ると、東京都下の史跡が圧倒的に多い。ざっと計算すると全体の概ね17%となっている。この数字は京都の三倍に近い。もちろん私自身が東京に住んでいるという要因は大きいが、東京都下に史跡が集中していることは紛れもない事実である。

本書は、良く知られた都内の史跡のみならず、マニアックなスポットも紹介している。タイトルが「幕末・維新・開化を歩く」となっているように、維新後、明治政府の開化に則って進められた文化・教育・医学・宗教関係の史跡まで網羅しているのが特徴である。

東京都下の史跡はかなり回ったと自負しているが、まだ知らない史跡があることを本書で教えられた。「ステイホーム」が解除されたら、また都下の史跡を訪ね歩いてみたい。

 

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信濃町 Ⅲ

2020年07月18日 | 東京都

(習成館)

 

習成館

 

 剣道場「習成館」は、明治十二年(1879)、旗本出身の柴田衛守が創設したもので、現在都内では最古の剣道場といわれている(新宿区信濃町11‐12)。

 柴田衛守は、幕末鞍馬流の免許皆伝を得た剣客で、維新後は駿府に移り、明治六年(1873)頃、東京に出た。西南戦争にも陸軍看護長として出陣した。明治十二年(1879)、四谷警察署の撃剣世話掛となり、四谷箪笥町に道場を開いたが、この道場は流行らず、その後は四谷の地で幾度か道場を開いては潰すことを繰り返したという。明治十九年(1886)、四谷左門町に新たな道場を開いた際に勝海舟により習成館の名付けてもらった。戦前までは海舟揮毫の「習成館」の文字が道場に掲げられていたそうだが、残念ながら戦災で焼失してしまった。習成館が現在地に移ったのは大正七年(1918)のことで、現在も柴田家によって鞍馬流剣術が引き継がれている(「勝海舟関係写真集」(出版舎 風狂童子)より)。

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千駄ヶ谷 Ⅲ

2020年07月18日 | 東京都

(沖田総司終焉の地)

 

伝 沖田総司逝去の地

 

 久しぶりに沖田総司終焉の地を訪ねると、平成二十六年(2014)に新宿区が設置した説明板が置かれていた。たまに史跡を訪ねて現況を確認することも必要だと痛感した。

 

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新宿 Ⅴ

2020年07月18日 | 東京都

(新宿御苑つづき)

 

戦前の温室の遺構

 

 広大な新宿御苑内を隈なく見渡しても、明治時代の農作物試験場の名残を見つけることは難しい。唯一、温室の入り口近くに、戦前の温室の遺構が保存展示されている。現在の温室建設時に発掘されたものである。

 初期の温室は、明治二十六年(1893)から大正三年(1914)にかけて建てられ、皇室御用の園芸試験場としての役割を担った。

 

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四ツ谷 Ⅷ

2020年07月18日 | 東京都

(鈴新)

 

菊輪葵紋瓦

 

 荒木町10-28のとんかつ屋鈴新(すずしん)の店先に「紋瓦」が置かれている。この紋瓦は、高須藩松平家の菩提寺である行基寺の屋根に使われていた松平家ゆかりの菊輪葵紋瓦である。

 とんかつ屋鈴新では、煮かつ丼、かけかつ丼、ソースかつ丼を「かつ丼三兄弟」と名付けて売り出しているが、これはひょっとして高須四兄弟とかけているのだろうか。一度、この店のかつ丼を食べてみたい。

 

(荒木公園)

 

荒木公園

 

 金丸稲荷神社や鈴新の裏手にある荒木公園に「美濃国高須藩主松平摂津森上屋敷跡について」という新宿区の建てた説明板が設置されている(新宿区荒木町10)。おそらく以前来たときにはなかったので、最近建てられたのであろう。

 

美濃国高須藩主松平摂津森上屋敷跡について

 

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築地 Ⅲ

2020年07月11日 | 東京都

(市場橋公園)

 築地の国立がん研究センターの北側の小さな公園(市場橋公園)に東京盲唖学校発祥の地、日本点字制定の地と記した石碑が置かれている(中央区築地4‐15‐2)

 古川正雄、津田仙、中村正直、岸田吟香にイギリス人宣教師ヘンリー・フォールズらが集まって聾唖者のための学校設立が議論され、のちには前島密、小松彰、杉浦譲、山尾庸三らが加わり、設立準備が進められた。明治十二年(1879)十二月には、この地に校舎が落成し、翌年より授業がはじめられた。この頃、西欧を視察すると、主要都市では必ずといって良いほど、聾唖者や盲人のための施設を見学しており、欧米列強に文明国と認められるためには不可欠の施設だと認識されていたのであろう。その後、様々な変遷を経て、筑波大学付属視覚特別支援学校、ならびに聴覚特別支援学校へと発展している。

 

東京盲唖学校発祥の地

日本点字制定の地

 

(コンワビル)

 築地1‐12‐22のコンワビルの敷地の片隅に「活字発祥の碑」がある。

 明治六年(1873)、平野冨二がもと神田和泉町に建てた長崎新塾出張活版製造所をこの場所に移し、後に株式会社東京築地活版製造所と改称した。我が国の印刷文化の源泉となったことを記念した石碑である。

 

活字發祥の碑

 

(三菱東京UFJ銀行築地支店)

 

桂川甫周屋敷跡

 

 三菱東京UFJ銀行築地支店(中央区築地1‐10)の前に蘭学者桂川甫周の屋敷跡を示す説明板が建てられている。

 桂川甫周は、初代桂川甫筑(1661~1747)が六代将軍家宣に仕えて以来、代々幕府の奥医師を務める家に生まれた。この場所には、甫筑が正徳元年(1711)に拝領して以降、幕末まで桂川家の屋敷があった。四代甫周は、なを国瑞(くにあきら)といい、桂川家歴代の中でも特に広く知られている。杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、若くして「解体新書」の翻訳事業にも参加した。寛政六年(1794)には幕府医学館教授となった。西洋事情にも造詣が深く、安永元年(1772)からは、江戸に参府したオランダ商館長一行と毎回対談するなど、海外知識を広めた。ロシア使節ラクスマン送還してきた漂民大黒屋光太夫らを尋問し「漂民御覧之記」「北槎聞略」などを著わした。文化六年(1809)没。

 なお、幕末活躍した甫周(蘭和辞書「ヅーフ・ハルマ」をもとに「和蘭字彙」を刊行したことで知られる)は、桂川家七代目に当たる。七代目甫周もこの屋敷で生まれている。

 

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