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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長浜

2018年10月26日 | 滋賀県
(宮川陣屋跡)


宮川陣屋跡

 長浜市宮司町の日枝神社の脇に宮川陣屋跡を示す石碑が建てられている。宮川陣屋は、宮川藩堀田家一万三千石の陣屋で、元禄十一年(1698)の入部以来、この地を拠点としていた。現在はすっかり住宅地となっており、往時の面影はない。
 幕末の藩主は堀田正養。宮川藩は近隣の小藩と同様、彦根藩に追従して朝廷側に立ち、維新を迎えている。

(慶雲館)


慶雲館

 慶雲館は明治二十年(1887)二月、明治天皇、昭憲皇太后の御休憩処として、長浜の豪商浅見又蔵が私財を投じて建設したものである。命名は同行した伊藤博文。
 約六千平米の広大な敷地内には、地元の宮大工平山久左衛門により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、これ以降も長浜の迎賓館として活用された。門前に明治天皇長浜行在所の石碑が建つ。


明治天皇長濱行在所

(長浜鉄道スクエア)
 慶雲館の向い側が長浜鉄道スクエアである。
 我が国鉄道の黎明期において京阪神(太平洋側)と北陸(日本海側)を結ぶ交通網は、物と人を運び経済を発展させる重要な路線であり、その要所に長浜があった。明治十五年(1882)には敦賀~横浜間が開通し、その翌年、大津~長浜間を三時間半で結ぶ鉄道連絡船(第一・第二太湖丸)が就航した。長浜は鉄道の街として重要な拠点となった。


長浜鉄道スクエア

 長浜鉄道スクエアは、明治十五年(1882)に竣工した旧駅舎を利用したものである。旧駅舎は現存する日本最古の駅舎として鉄道記念物に指定されている。
 建物の前には、明治の有名人による石額が六つも並べられている。
 一つ目が旧北陸本線子不知トンネル(新潟県糸魚川市)にあったもので、鉄道院総裁等を務めた後藤新平の題字で「大亨貞」(大いに亨(とお)り貞(ただ)し)である。


萬世永頼(伊藤博文書)

 二つ目は旧北陸本線山中トンネル(福井県南条郡今庄町)の山中信号掲口にあった石額で、黒田清隆の題字「徳垂後裔」。
 その次も同じく黒田清隆の書で「功和干時」。こちらも旧北陸本線山中トンネル杉津口にあったものである。
 さらにもう一つ黒田清隆の書が続き、「與国咸休」。これも北陸本線葉原トンネル(福井県敦賀市)の敦賀口にあったものである。


徳垂後裔(黒田清隆書)

 その向い側には、旧北陸本線の柳ケ瀬トンネル東口(滋賀県伊香郡余呉町)にあった石額で、題字「萬世永頼」は伊藤博文による。「萬世永く頼む」とは、鉄道が長く世のために働いてくれることを、いつまでも頼りにするという意味である。

(梨ノ木墓地)
 長浜市三ツ矢元町23の梨ノ木墓地は広い敷地を持つ公営墓地である。そこに金沢藩士多賀賢三郎の墓がある。


加賀藩士 多賀賢三郎之墓

 多賀賢三郎は、明治二年(1869)五月、金沢藩家老本多政均暗殺の一味。事件後、七十日の閉門を申し付けられたが、その後、明治四年(1871)、石川県小属として復職。しかし、同年十一月、江州長浜で本多家の家来、芝木喜内、藤江松三郎に復仇された。

(五村別院)
 奥羽越列藩同盟に与して新政府軍に敗れた山形藩主水野忠弘が、同じ五万石をもって近江(現・滋賀県長浜市)に移封された。朝日山藩は、明治三年(1870)七月から明治四年(1871)七月の「廃藩置県」までの約一年間存在した。藩庁は当初五村別院に置かれたが、明治四年(1871)一月より朝日山(現・朝日山小学校)に移転した。
朝日山藩は廃藩置県以降、朝日山県となる。その後、長浜県、犬上県を経て滋賀県に編入された。水野家は明治二年(1869)の版籍奉還後、華族に列し明治十七年(1884)に子爵を授爵した。


五村別院


五村別院 表門

 五村別院の本堂は、享保十五年(1730)の上棟、表門は延宝二年(1674)の建立で、いずれも当時の建築様式を今に伝える貴重な建造物である。

(朝日山小学校)
 朝日山藩が陣屋を置いた場所は、今朝日山小学校となっている。陣屋跡を感じるものは何も残されていない。


朝日山小学校
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米原

2018年10月26日 | 滋賀県
(柏原宿)
 米原市には、柏原・醒井・番場という中山道にあった三つの宿場町があった。
 ところで米原は当然「まいばら」と読むものと信じ込んでいたが、高速道路のインターチェンジは「まいはら」と濁らないのが正解なのだそうである。レンタカーのカーナビの音声に教えられた。


中山道 柏原宿

 柏原宿は中山道六十番目の宿場である。江戸時代には宿駅の街並みが十三町(一・五キロメートル)にわたって続き、中山道の宿駅の中では比較的大きい方に属していた。天保十四年(1843)時点で旅籠二十二、本陣・脇本陣各一、人馬取継問屋場五が存在していた。


柏原宿


皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地

 柏原宿本陣は江戸時代を通じて南部家が本陣役を務めていた。建物は皇女和宮宿泊の際、新築されたとも言われる。文久元年(1861)十月二十日に京都を出立した和宮一行は、江戸に至るまで中山道の宿場町を二十三泊している。私は長い時間をかけてその一つひとつを訪ねて来たが、これでいよいよあと一つ(沓掛宿)となった。今年中に達成したい。

(醒井宿)


醒井宿資料館

 醒井宿は京都から見れば柏原宿の一つ手前、江戸から見れば柏原宿の次の宿場となる。和宮一行もここで小休をとっている。
 想定外だったのは、他の宿場町と違って、ここは観光客が非常に多いということである。駐車場は満杯だし、途端に気力が萎えてしまった私は、醒井資料館(かつて醒井郵便局として使用されていた擬洋風建築)の外観写真だけを撮って、そそくさと立ち去った。

(番場宿)


番場宿


番場宿道標

 番場宿は山間に位置する中山道の小規模な宿駅の一つで天保十四年(1843)当時、旅籠十軒、本陣・脇本陣各一を備えていた。現在は鉄道や国道からも離れ、非常にひっそりとしている。文久元年(1861)十月二十三日、和宮一行もここで小休をとっている。

(福田寺)
 福田寺の住職三乗院摂專(本覚)連枝と井伊直弼とは従兄弟の関係にあり、同時に仏教信仰の上では子弟の関係にあった。直弼から本覚師への書簡八十余通が残されている。また、本覚師の後室は摂政関白右大臣を歴任した二条斉敬の妹鑈子(かねこ)であり、明治天皇の皇后の従姉妹に当たる。直弼の仲人によって入輿したという。


福田寺


明治天皇長澤御小休所

 門前に「明治天皇長澤御小休所」という石碑が建てられている。
 明治十一年(1878)、明治天皇は北陸行幸の途次福田寺に立ち寄り、この時、鑈子は彦根城の保存を懇請したと伝えられる。


三乗院殿釋教寛

 本殿の裏手に寺族の墓がある。今一つ自信はないが、これが本寛の墓?


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「対馬藩士の明治維新」 桟原冨士男著 櫂歌書房

2018年10月26日 | 書評
最近、読書のペースが著しく落ちている。私の読書は大半が通退勤の車中である。この六月に新橋本社に転勤となり、始業時間が前倒しとなったため、通勤時間も三十分余り早まった。自動的に起床時間も三十分早くなり、最近は五時半起床となっている。加齢とともに睡眠時間は短くてすむようになったが、それでも朝の三十分は貴重である。電車に乗った途端に睡魔に襲われ、気が付いたら下車駅が近いという繰り返しで、なかなか読書が進まなくなってしまった。
対馬藩の維新史を知りたいと思って、書店で発見したのが本書である。ところが、対馬の歴史に入る以前に歴史の教科書に載っているような、一般的な日本史に関する記述ばかりでなかなか本題の「対馬の明治維新」が始まらない。おまけに誤字脱字だらけで、これまた極めてストレスフルであった。おかげで半~一ページ進むのがやっとで、直ぐに読むのが嫌になってしまい、だったら寝ていた方がマシじゃないか、という繰り返しで、たかだか全部で百五十ページくらの小冊子を読了するまで二か月くらいかかってしまった。対馬藩の歴史が日本史の歴史と無関係ではありえないことは理解するが、あまりに教科書的記述の割合が多すぎないか。本当に知りたい「対馬藩の明治維新」に関する記述は集約すればほんの数ページの内容であった。
愚痴とボヤキはこれくらいにして、幕末の対馬藩のことである。海峡によって隔てられているとはいえ、対馬藩の政情は隣藩である長州の影響を強く受けた。長州藩と同じように過激な尊攘派が存在しており、長州尊攘派と連携して活動を展開していた。長州藩やほかの藩と同様、保守派との壮絶な内訌も続き、多くの血が流れた。特に八一八政変以降「勝井騒動」と呼ばれる事件(勝井五八郎により尊攘派百名以上が処刑)は、極めて深刻で対馬藩における人材は一気に消耗することになった。その後、佐野金十郎、小宮延太郎ら、薩長同盟や野村望東尼救出などに活躍する人材が出たが、圧倒的にその数は少ない。ひと言でいうと残念な藩というほかない。
著者は勝井騒動で自害した桟原勇馬の子孫。その孫桟原神五郎とも血縁関係がある。そのことが本書の執筆動機となっている。桟原勇五郎は十一歳という子供でありながら殺害されている。ほかにも二歳、四歳、五歳、六歳、八歳という子供が犠牲になっている。何故、このようないたいけのない子供たちが殺されなくてはならなかったのか。本書を読むだけではそのことはよく分からない。もう少し対馬の幕末史を調べてみたい。
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美浜

2018年10月20日 | 福井県
(若狭国吉城歴史資料館)


若狭国吉城歴史資料館

 佐柿には、小浜藩主となった酒井忠勝が寛永十一年(1634)に建設した御茶屋屋敷があった。御茶屋屋敷は、藩主の領内巡見の際の休息所であった。それ以降、佐柿は、町奉行所支配の下で丹後街道の宿場町として栄えた。現在、若狭国吉城歴史資料館の建つ辺りには、小浜藩の佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)があった。享和三年(1803)に佐柿陣屋と改められた。今も石垣や池泉跡、水路跡などが残されている。建物は全て廃藩後に破却された。

(准藩士屋敷跡)


准藩士屋敷跡

 准藩士屋敷は、小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容するため、慶應二年(1866)に新築されたもので、現在辛うじて当時の石垣が残されている。
 水戸天狗党は、慶應元年(1865)、首領の武田耕雲斎以下三百五十三名は死罪となったが、遠島となった武田金次郎(武田耕雲斎の孫)以下百十名は、若年であることを理由に小浜藩に預けられて敦賀で謹慎し、翌年赦免された。小浜藩では、彼らを准藩士として扱い、佐柿に移した。慶応四年(1868)、朝廷より水戸帰藩を命じられ、佐柿を後にした。

 茨城県から始まり、栃木県、群馬県、長野県、岐阜県、そして福井県にわたって点在する天狗党関連史跡の旅はいったんこれで完了である(蠅帽子峠はまだ踏破できていないが)。ちょっとした達成感に浸った。

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今立

2018年10月20日 | 福井県
(恵迪斎跡)


恵迪斎跡

 天保九年(1838)、松平春嶽の命を受けた橋本左内が、藩内の文教の発展向上に努めた。その一環で嘉永六年(1853)、藩内で初めて福井城下外、粟田部の地に公立平民学校として恵迪斎が創立された。初代塾長は三寺三作。粟田部の地に教育の灯りを点した。明治十二年(1879)、校舎新築とともに松平春嶽の命により当地に花筐校が誕生した。昭和十二年(1937)には花筐文庫が建設され、この場所は粟田部の郷土教育文化の発祥の地として歩み続けた。

(岡太神社)


岡太神社

 岡太(おかもと)神社本殿近くに坪田孫助の碑がある。


坪田孫助翁碑

 坪田孫助は、天保七年(1836)の生まれで、幼名を駒吉のち松吉と称し、家を興すに至り孫助と名乗った。生来機敏で商才があり、その先見性は海外通商貿易の必要なことを痛感し、横浜に飛び福井羽二重の国外輸出に努力した。越前福井藩の藩財政再建の責任者由利公正は、坪田孫助の識見を高く評価して、藩保有の生糸全部の処分を一任した。その結果、期待通りの大成功を収め、莫大な利益を博したので、福井藩はこれに対して金五百両という大金をもって報いた。坪田孫助は、福井羽二重の声価を世界中に広めた功労者であり、海外通商貿易の日本人最初の先学者として郷土の誇るべき偉大な傑物であったことを讃えてこの碑が建てられた。篆額は農商務大臣榎本武揚。

(金刀比羅神社)


金刀比羅神社

 花筐神社の山頂に金刀比羅神社が鎮座している。境内から旧粟田部市街地を見下ろすことができる。
 参道に斎藤梁山、結城林詮の顕彰碑がある。


斎藤梁山寿碑

 斎藤梁山は、医師斎藤良衛を父として、天保四年(1833)に生まれ、恵迪斎創立当初よりの塾生で、三寺三作塾長が松平春嶽の命で帰藩するに当り、塾長代行を託された。塾生の信望も篤く、また教育に対する情熱は父祖伝来の医業までも捨て、郷土の子弟教育に一生を捧げた、熱血あふれる教育者であった。門弟は七百に及んだという。この寿碑は、明治三十年(1897)、門弟有志が師の還暦を祝い建立したものである。享年六十二。


恵迪斎林詮碑

 福井藩士結城林詮の顕彰碑である。結城林詮は、恵迪斎初代塾長三寺三作が安政四年(1857)、福井藩学明道館教授として帰藩した後、慶應元年(1865)、二代目塾長として恵迪斎の経営に努力した。明治三年(1870)、藩命により恵迪斎が廃止され、その後郷学所長を務め、窮理、桜鳴、愛景、花筐の各小学校教員として初代校長を務め、明治十九年(1886)まで粟田部の小学校教育に尽くした。明治三十六年(1903)、その功績を顕彰して有志の手によりこの石碑が建立された。

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武生 Ⅱ

2018年10月20日 | 福井県

(渡辺洪基生家跡)


渡辺洪基生家跡

 渡辺洪基の生誕の地は、善光寺商店街の中にあり、サロン洪悠(今一つ何の店なのかよく分からない)という店になっている。
 善光寺商店街では、渡辺洪基という地元が生んだ「無名の偉人」を、商店街をあげて顕彰している。非常に素晴らしい。

(龍泉寺)
 龍泉寺は、武生領主本多公の菩提寺であり、歴代の当主の墓が並ぶ。


龍泉寺


本多副昌墓

 本多副昌(すけまさ)は、寛政六年(1794)の生まれ。文政三年(1820)、家督を相続して府中二万石の領主となった。安政三年(1856)、隠居して家督を嫡男富恭に譲った。元治元年(1864)、没。享年七十一。


本多副元墓

 本多副元(すけもと)は弘化二年(1845)常陸国府中藩の家に生まれた。福井藩筆頭家老本多家に養子に入った。元治元年(1864)の天狗党の騒乱に際しては、鎮圧のため出兵して功があった。維新後、本多家は陪臣であったため、華族ではなく士族とされ、これを不服とした家臣や領民が本多家の家格回復を訴えて暴動に発展した(武生騒動)。この騒動では十五人の獄死者を出し、少なからぬ犠牲を友乗ったが、明治十二年(1879)、華族に列せられ、明治十七年(1884)には男爵に叙された。明治四十三年(1901)、没。


本多副恭墓

 傍らに副元の子で、本多男爵家を継いだ副恭(明治十年(1877)~昭和十九年(1944))の墓がある。


護墳之碑

 護墳之碑は、明治維新後、本多家に忠誠を誓った旧家臣らの碑。明治六年(1873)建立。


成仁碑

 明治三年(1870)の武生騒動後、本多副元は華族に昇格した。副元がこの騒動で犠牲になった藩士十五名を哀慕するために建てたのが、成仁碑である。


西南戦死碑

 明治十年(1877)、西南戦争にこの地より出征し戦死した九名の慰霊碑である。


耕雪松井翁碑

 松井耕雪は文政二年(1819)の生まれ。父は豪商松井六右衛門。代々刃物を家業とする家を継ぎ、学問を好み儒学・詩文・書画に長じ、先代来の蔵書家でもあった。教学の不振を嘆き、私財三百両を福井藩に献じて藩校立教館を設け、良師を招き経常費の一部も負担した。つとに産業開発に意を用い、長崎に使して帰ると、万延元年(1860)、府中製産役所を興し、松村友松と協力して蚊帳、打刃物の特産物の輸出に尽くした。なお横井小楠、由利公正らと殖産興業を図るなど士魂商才の傑物で、岩倉具視に経済国策を献言し、松平春嶽もその寓居を訪れて清談を楽しんだ。廃藩置県後、敦賀県権大属となった。明治十八年(1885)年六十七で没。
 

河島漣三翁之碑

 河島漣三は天保五年(1834)、美濃の倉村に生まれ、明治初年、縁あって武生に来住。手広く商業を営む傍ら、任侠の人として知られた。明治二十年(1887)頃、百名を超す芸妓連の組合設立の気運が高まると、率先してことにあたり、幾多の困難を排して組合を設立させた。組合有志が氏の徳を頌するため、明治二十五年(1892)、武生を訪れた由利公正子爵に碑文の揮毫を乞い、この碑を建立した。河島漣三は明治三十一年(1898)、六十五歳にて没。

(藤垣神社)


藤垣神社


堀江徳山碑

 藤垣神社は、初代府中城主本多伊豆守富正を祭神とする神社である。境内にある堀江徳山碑は、武生騒動で処刑された堀江徳山(米屋庄八)を顕彰するものである。
 武生騒動は、明治三年(1870)、武生を舞台に発生した暴動である。府中城主本多家は、越前福井藩の陪臣として幕府から大名格の処遇を得てきたが、明治政府が制定した華族制度では、当主の本多副元が華族でなく士族とされた。このことを不服とした旧家臣や町民が行動を起こし暴動に至り、松村友松ら豪商らが襲撃され、多くの捕縛者がでた。
 明治四年(1871)一月、投獄中の堀江徳山(米屋庄八)に騒動の発起人として、また箒屋末吉と浜屋仁三郎には火付けの犯人としてそれぞれ斬罪が言い渡され、同年二月に処刑が実行された。米屋庄八は無実であったにもかかわらず、罪を一身に背負い騒動の主謀者として処刑されたという。


厳霜烈日

 厳霜烈日碑も武生騒動関係の碑である。
明治七年(1874)十月、旧家臣として武生総合の犠牲者となった竹内團、大雲嵐渓両名の為、松本晩翠(竹内の兄)、斉藤修一郎(大雲の甥)が、本多家の庭石を貰い受け、谷口安定による「厳霜烈日」なる書を刻んだ哀悼碑を藤垣神社境内に建立した。

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武生 Ⅰ

2018年10月20日 | 福井県
 自治体名としては越前市であるが、個人的に馴染みがあるのは武生(たけふ)という昔の地名である。越前市も平成の大合併で生まれた市名で、旧武生市と旧今立町が母体となっている。だったら武生市あるいは越前府中市で良いんじゃないのと思うのは私だけだろうか。別に越前町という自治体があるから、非常に紛らわしいのである。

(養徳寺)


養徳寺

 武生は初代東京帝国大学総長渡辺洪基を生んだ街である。渡辺洪基の墓は、東京麻布の長谷寺にあるが、分骨墓が故郷の養徳寺に設けられている。


渡邉家分霊塔(渡辺洪基の墓)

 渡辺洪基は、弘化四年(1847)越前府中善光寺町(現・京町二丁目)に生まれた。父は蘭方医渡辺静庵、母蔦野の長男。幼少より賢、地元府中藩校立教館、福井済生館に学び、長じて大志を抱いて文久三年(1863)、十七歳の時、江戸に出て佐藤舜海塾、慶應義塾に学んだ。慶応三年(1867)、西洋医学所句読師並、明治二年(1869)、大学南校助教ついで中助教。翌年には外務書記官、転じて外務大録に任じられた。明治四年(1871)、二十五歳のとき、岩倉使節団に随行して渡米し、帰朝後、外務書記官、ついでオーストリア、イタリア公使館付、オーストリア臨時代理公使を歴任した。明治十五年(1882)、元老院議官。明治十八年(1885)、三十八歳のとき、東京府知事。翌年、初代帝国大学総長に就任した。明治二十年(1887)、工手学校(工学院大学の前身)設立特選管理長。明治二十三年(1890)、特命全権公使となりオーストリアに駐在。明治二十五年(1892)四月、東京府から選ばれて衆議員議員、明治三十年(1897)には貴族院議員に勅選された。この間、萬年会、地学会、工学会、国家学会、建築学会、帝国鉄道協会、両毛鉄道、中央生命保険会社、芝銀行等の会長、社長等の要職に就いた。剛毅果断、信念と行動の人で、学問、外交、政治、経済等の各分野で活躍し、郷土の発展に尽くし、日本の近代化に尽くした。明治三十四年(1901)五月、逝去、享年五十四。正三位勲一等瑞宝章。

(太子堂)
 棟札によれば、太子堂の御堂は嘉永五年(1852)に建立された。太子堂自体はそれ以前からこの地にあったらしく、この建物は三代目の建物という。御堂内には中央に聖徳太子像が安置されている。


太子堂


酒井松渓寿碑

 太子堂の境内に酒井松渓寿碑がある。明治三十二年(1899)、酒井松渓翁七十七歳を祝って門弟により建立されたものである。


(久成寺)


久成寺


山崎家之墓(山崎長海の墓)

 山崎長海は、本多家の家老。武生騒動では家臣団を代表して東京に上り、本多家の家格回復嘆願書を提出している。明治三年(1870)九月には東京にいたところを捕縛され、福井に送還されて投獄された。

(陽願寺)


陽願寺


酒井松渓墓

 酒井松渓は、江戸末期(1830年頃か)、府中田方町(現・平和町)に生まれ、久成寺の門前に住んでいた。幼名を六三郎といい、長じて俗に永楽屋と呼ばれた。幼い頃から文学を好み、書を堀井氏、特に楷書を清水松園に学び、漢学を松永氏について学んだ。三十歳のとき、家督を弟に譲り、剃髪して松渓と号した。その後、久成寺の門前に私塾を開き、子弟の教育にあたった。明治六年(1873)には池上村学校教授を務め、さらに東京に出て内務省に出仕した。明治八年(1875)、病気のため帰郷した後は子弟の教育に生涯を尽くした。彼の薫陶を受けた者は、数千に及んだといわれている。

(本保陣屋跡)
 本保陣屋は、幕府が天領に設けた陣屋の一つで、享保六年(1721)に開かれ、慶應四年(1868)に廃止されるまでの約百五十年にわたり、越前の幕府領支配の中心として存続した。東西南北それぞれ約四十間、千六百余坪の敷地に塀をめぐらし、長屋御門本陣御用場を始め、米倉附属建物、北長屋、西長屋などの建造物が建ち並び、高山陣屋と並び全国有数の陣屋であった。


本保陣屋門

 慶應三年(1867)、大政奉還を受けて、本保陣屋はその幕を閉じた。明治三年(1870)には本保県が設けられ、旧陣屋を拡張して県庁とした。しかし明治四年(1871)十一月に本保県は廃止され、明治六年(1873)頃までに全ての旧陣屋の建物は取り払われた。


(武生公会堂)


武生公会堂


建学記念碑

 現在、武生公会堂のある場所に藩政時代、藩校立教館があった。そのことを記念して公会堂の入口横に建学記念碑が建立されている。

(越前市役所)
 現・越前市役所のある場所には、かつて越前府中城があった。府中城は、文明年間(1469~1487)、越前守護職朝倉氏がこの地においた府中奉行所が始まりとされる。天正三年(1575)、織田信長の越前平定後、柴田勝家に八郡を与えて、北庄(現・福井市)を居城とし、目付役として不破光治、佐々成政、前田利家の府中三人衆を置いた。前田利家が府中城に入った。その後、前田利長、丹羽長重、木村定光らが相次いで府中城主になった。慶長六年(1601)の結城秀康の入部とともに付家老本多富正が三万九千石を与えられ、ここを居館とした。以後、藩政時代は、歴代家老本多氏がここに在城した。


越前市役所


越府城址

 明治五年(1872)城址に進脩小学校(後に武生東小学校と改称)が建てられたが、市街の発達と学童増加のため中北府町に移転し、その後、市庁舎が建設された。

(正覚寺)
 正覚寺の山門は旧府中城の表門を移築したもので、城郭の建造物の数少ない遺構である。


正覚寺


府中城表門




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三国 Ⅱ

2018年10月20日 | 福井県
(金鳳寺)
 金鳳寺は、永正年間(1504~1520)に龍雲寺二世東木長樹大和尚によって開山された曹洞宗禅寺である。現存する建物は、文政十二年(1829)、朝倉氏の後裔東郷中嶋城主十六代中嶋信晴により再々建立されたものである。三国湊を見下ろす高台を日和山と呼び、そこに立つ金鳳寺にて江戸中期に俳諧に親しむ有力商人たちが日和山吟社を結び、諸国の文人墨客とともに風雅を愛したところであった。境内に島雪斎の墓や日和山吟社由来碑などが立ち並ぶ。


金鳳寺


嶋雪斎墓


日和山吟社由来碑

(内田家)


内田本家跡

 内田家の祖は朝倉氏の家臣と伝えられ、元禄十六年(1703)に三国湊に来住。屋号を室屋(むろや)と号し、廻船業を営んで財を成し、三国湊において要職を務めた。中でも六代目惣右衛門は、天保の大飢饉に際して三国神社の造営整備事業を主唱実行した。窮民救済の功績は永く称えられた。現在、屋敷は一切残っておらず、庭にあったとされるタブノキがその面影を伝えている。

(川口御番所跡)


川口御番所跡

 川口御番所は、正保元年(1644)、町端から丸岡藩滝谷出村との地境の現在地に移転した。口留御番所ともいわれ、福井藩が三国湊に出入する貨物を監視するために置いたものである。出入の貨物には種類により銀高に口銭一分から三分を課して、三国湊の港湾機能に関わる特権を独占した。文久元年(1861)には地境の川端へ建て替えられた。

(港銭取引所跡)


港銭取引所跡

 九頭竜川河口の水深を確保するために明治十一年(1878)に始まった三国突堤工事は、厳しい怒涛に難渋を究めたが、工事費捻出のため明治十三年(1880)十二月に開港式を挙行して、以来明治二十三年(1890)まで入港する船舶から湊銭を徴収した。工事が一応の完成を見たのは、明治十八年(1885)のことであった。管理事務所が置かれた場所に石碑が建っている。

(瀧谷寺)


瀧谷寺

 瀧谷寺(たきだんじ)は、永和三年(1377)、紀州根来寺の学頭睿憲(えいけん)上人によって開かれた。中世以来、豪族堀江氏をはじめ、朝倉氏、柴田氏、福井藩、丸岡藩と歴代領主の祈願所として厚い帰依と保護を受けた。


当山四十三世道雅の墓

 開山堂の前に歴代住職の墓があり、その中に道雅の墓がある。
 道雅は、文化九年(1812)、京都で生まれた。初め洛東の智積院にいて、安政三年(1856)、三国湊の瀧谷寺の住持となった。在京のころ、梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲濱らと交わり、尊王攘夷を説き王政復古に尽くした。儒学は陽明学を排し朱子学を奉じて、孟子の影響を受けたが、日本の歴史を論じて極力尊王斥覇に椽大なる筆を振るった。清国の対英政策の失敗に鑑み、外国貿易には反対であった。自由民権論者杉田定一はこの門下に学び、感化されることが大であった。慶応元年(1865)年、五十四で没。


蓮池(雲浜遺蹟)

 瀧谷寺山門前の蓮池は、梅田雲浜ゆかりの地と呼ばれている。道雅をたずねて雲浜や梁川星巌が瀧谷寺を訪れている。別れを惜しんだ雲浜が、蓮池で杯を傾けたと伝わる。

(丸岡藩砲台跡)


丸岡藩砲台跡


砲眼

 三国湊から北に進むと自殺の名所として有名な東尋坊、さらに北上すると松島水族館がある。日本でもっとも美しい海岸線である。ことに日本海に沈む夕日ほど美しい光景はない。
 松島水族館から五百メートルほど東へ行くと、丸岡藩砲台跡がある。
 幕末、外国船が日本近海に現れると、幕府は諸藩に砲台築造を命じた。この砲台も、嘉永五年(1852)に丸岡藩が沿岸警備のために築造したものである。
 現存する砲台跡は、海に向かって五つの砲眼が開いている。構造的には、内側と側面は石を積み、外側を土砂で固めるという二重構造となっており、敵の砲撃からの防御性を高めている。丸岡藩砲術家の栗原源左衛門が設計し、築造は砲台築造奉行の原貞熈が中心となって築造した。

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三国 Ⅰ

2018年10月20日 | 福井県
(三国神社)


三国神社

 三国は、鉄道がなかった江戸時代以前、物資の輸送手段の中心が船舶であった時代、日本海を代表する湊町であった。かつては三国町という独立した自治体であったが、平成の大合併により丸岡町、春江町と合併して坂井市の一部となった。
 かつて隆盛を誇った港町の名残を、町の中を歩くとあちこちで見ることができる。


木立神社

 境内の木立神社は、松平春嶽を祭神とし、明治二十四年(1891)に創建された。春嶽は、寿像と太刀一振りと立願文(りゅうがんもん)一巻を当社に寄進している。


瑞身門


光華閣(松平茂昭書)

 三国神社は、三国の惣社。大鳥居をくぐって笏谷石の石段を上ると、明治三年(1870)創建の楼門(瑞身門)がある。掲額の三字額「光華閣」は福井藩第十七代藩主松平茂昭の書である。

(汐見公園)


福井藩吹屋跡

 汐見町一角に浅田新右衛門家(屋号平新)が吹屋(鋳物工場)を建設した。幕府の命を受けた福井藩では、海岸防備のために三国湊の対岸新保浦や河口の宿浦にお台場を設けたが、ここに設置する大砲を福井藩御用達の浅田家が請負、製造したのである。

(斯文館跡)


斯文館跡

 斯文館は、文久二年(1862)、庶民教育の振興を図るために三国湊の豪商たちが設置した私塾である。翌年には思誠館と改称した。滝谷寺の住職道雅上人が教授の任にあたり、毎月三と八の日を定日とした。当地の多賀谷(たがや)家は医業に携わり、塾の教務にも当たった。今もこの家の表札は「多賀谷」となっている。町人自らの教育に対する情熱が、のちに龍翔小学校の建設に結び付いた。

(港会所跡)


港会所跡

 江戸時代、三国湊の自治は住民自治で行われていた。明治三年(1870)には会所をこの地に移転して自治事務を執り行った。



(金清)


島雪斎の生家

 現在、呉服屋?金清のある場所が、木彫家島雪斎の生家跡である。
 島雪斎は、文政三年(1820)に生まれ、京都に出て長谷川玉峰の門人として木彫の修行に励み、法教の栄誉を得た。幕末から明治初期にかけて優れた作品を製作し、同時期に木彫で名をはせた志摩乗時一門と並んで活躍し、三国工芸の名声を高めた。明治十二年(1879)没。


(下西区民館)


三国幽民生誕地

 三国湊中心街の西側にあった西町が、寛永・正保年間(1624~1647)頃、上西町と下西町に分れた。下西地区にはオランダ人エッセルがデザインした龍翔小学校が建てられ、三国港のシンボルとして偉容を誇った(大正三年取り壊し)。
 この地域は、古くから有力商人が軒を連ね、中でも江戸後期に一代で財を成した宮越屋与兵衛(三国与兵衛、森与兵衛とも称す)は有名である。その三男に生まれた儒学者三国幽民(大学)は幕末の騒乱に関与したことでも知られる。
 下西地区の山方には職人も多く住み、精密な彫刻技術を誇った島雪斎などの名人を生んでいる。

(大野屋)


大野屋

 越前大野藩では、家老内山良休の提案を受けて、大野屋と称する産物会所(今でいう商社)を起業した。第一号店は安政二年(1855)大阪に開店。以後、全国に四十店舗を展開した。この地は三国湊で大野屋が置かれた場所である。家屋の形態は、三国独特の典型的なカグラ建てである。

(運上会所跡)


運上会所跡

 運上会所は、文久元年(1861年)に設置された役所である。

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福井 Ⅸ

2018年10月19日 | 福井県
(東山墓地公園)
 前回こども歴史文化館を訪ねた折、吉田東篁の墓について「「東山墓地公園」に移転したとされるが、その東山墓地公園がどこにあるか分からず、現在墓の行方ははっきりしない。」と記載したが、「東山墓地公園にある」とのご指摘をいただき、今回改めて東篁の墓をアタックすることにした。
 東山墓地公園は、かなり広い墓地である。東篁の墓を探し当てるのは相当な困難が予想されたが、意外とあっさり出会うことができた。公園内はいくつか区分があるが、「東光寺墓地」を探すと良い。


吉田東篁の墓

 東篁の墓を移転して保存しようという姿勢は評価できるが、実態としては無縁墓地に近い。吉田家の墓石の三分の一程度は倒壊しており、その上東篁の墓のほか数基は表面が剥落して文字を読み取れない状況である。先人の遺蹟の保存にはもう少し注意を払って欲しいものである。


吉田東篁の墓?

(福井市グリフィス記念館)
 平成二十七年(2015)十月、福井市内中央町三丁目にグリフィス記念館が開設された。グリフィス記念館は、ウィリアム・エリオット・グリフィスの功績や福井ゆかりの偉人などを紹介する施設。特徴的な和洋折衷の建物は、町の人たちが「異人館」と呼んで親しんだグリフィスの居宅を復元したものである。


グリフィス記念館


グリフィス記念館内部

 私がグリフィス記念館を訪問したのは午後五時を過ぎていたので、拝観は諦めていたが、開館時間は午前十時から午後七時まで。余裕で見学ができた。しかも入館無料は嬉しい。
 グリフィスが福井藩に招かれて来日したのは明治四年(1871)のことである。以後、十一カ月という短い滞在期間中、福井の科学教育の礎を築き、多くの教え子を育てた。
 グリフィスと福井との縁は、来日前、福井藩士日下部太郎との出会いに始まる。ラトガーズ大学に在学していた日下部太郎たち日本人留学生に語学を教えたのが契機となっている。日下部太郎は、基礎的語学力すら覚束ない状況にも関わらず。首席での卒業という信じがたい快挙を成し遂げようとしていた。しかし、その代償として結核に襲われ、二十六歳という若さで客死した。グリフィスは日下部太郎の葬儀にも参列している。
 グリフィス記念館に堕涙碑が移設されている。昭和二年(1933)に再来日したグリフィスが日下部太郎の記念碑建立を熱望し、これを受けて昭和五十一年(1976)になって実現されたものである。長らく福井市立図書館にあったが、グリフィス記念館開設に合わせて移設されている。

(菖蒲谷)
 福井二日目の最初の訪問地は、福井市市街地から遠く離れた菖蒲谷の杉田定一の生誕地、墓所である。


杉田定一翁顕彰碑

 杉田定一は、嘉永四年(1851)、波寄町の大庄屋、杉田仙十郎の長男に生まれた。杉田家は越前地方でも有数の大地主であり、代々社会のために尽くした篤志家でもあった。定一は、幼年時代に三国滝谷寺の住職道雅に、儒教、詩文、書道を学んだ。維新後、上京して新聞社に入社し、自由民権を主張し、同志とともに国会開設の運動に挺身した。第一回総選挙に当選し、以後十回連続当選を果たし、その後は北海道長官や伊藤博文内閣における幹事長などを務めた。明治三十九年(1906)、衆議員議長、明治四十四年(1911)、勅選貴族院議員を歴任。その間、農民のための地租改正に尽くし、郷土の織物工業の発展にも尽力した。また、明治三十三年(1900)から約十年を費やして、九頭竜、足羽、日野の河川改修築堤工事を完工し、越前平野における洪水を一掃した。昭和四年(1929)、七十七歳で没。
 顕彰碑の裏手が杉田定一の屋敷跡である。杉田家は江戸時代には大庄屋を務め、宅地、田畑など八十三ヘクタールを持つ大農家でもあった。明治五年(1872)頃には酒造業も営み、酒造十数棟を備えた。仙十郎と定一は、農民救済と国家や郷土発展のために全財産を使い果たしたといわれる。


杉田鶉山生誕地 屋敷跡


杉田仙十郎翁之碑

 杉田仙十郎は、定一の父。文政三年(1820)の生まれ。父祖伝来の大庄屋として盛名高く、安政四年(1857)、五月村のために学校を興したことが、百姓の分に過ぎるとして福井藩の忌諱に触れ、役儀を免じられ蟄居を命じられた。配下の二十七ヵ村の庄屋・長百姓連名で彼の清廉なる徳行を訴えて嘆願したが、赦されなかった。仙十郎は、救世済民の志厚く、好学で「常山紀談」「論語」を愛読した。明治元年(1868)、藩主松平茂昭が来宅すると、言を極めて失政を質した。長男定一とともに九頭竜川の改修、国会開設、地租改正などに渾身の力を尽くした。明治二十六年(1893)、年七十四で没。「この父ありてこの子あり」という言葉が相応しい父子である。

 杉田家屋敷跡を通り過ぎて、小高い丘を上って行くと、そこに杉田家の墓所がある。正面に定一の墓、その墓の背後に、杉田家の墓、その中央に仙十郎の墓がある。


鶉山杉田定一墓(頭山満書)
鶉山(じゅんざん)は定一の号


杉田家墓所

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