(盛岡駅)
Inazo Nitobe
盛岡駅を下りて東口に出ると、新渡戸稲造の胸像がある。新渡戸稲造生誕百五十年を記念して、台湾から贈られたものある。
明治二十八年(1895)、下関条約により清国から割譲され台湾は日本が統治することになった。新渡戸稲造は明治三十四年(1901)に台湾総督府技師に就任、台湾の産業を発展させるため「糖業改良意見書」を提出した。この意見書により、台湾の砂糖産業は大きく飛躍したとされる。
(聖寿禅寺つづき)
横川省三墓
横川省三は、慶応元年(1865)四月、南部藩士三田村勝衛の二男として、盛岡上米内に生まれた。初め勇治と称し、青年期に山田を姓としたが、のち和賀郡十二鏑村(現・東和町)の横川家に入籍し、名も省三と改めた。明治十七年(1884)、上京して自由民権運動に加わったが、次いで東京朝日新聞に入社。郡司大尉の千島探検に特派員として、日清戦争には従軍記者として参加し、その取材報道に縦横の筆を振るった。明治二十九年(1896)、社を辞して渡米。暫く移民事業に携わったが、東亜の風雲急を告げるに及び、意を決して満蒙に入り、日露戦争が勃発すると、沖禎介等同志とともに、ロシア軍の後方攪乱を企て、嫰江(のんこう)大鉄橋を爆破しようとして捕らえられ、ハルピンにて銃殺の刑に処された。享年四十。
(本誓寺つづき)
元々水曜日から秋田、その日のうちに仙台に移って一泊二日の出張に一日休みを加えて、金曜日は終日岩手県下の史跡を巡る計画であったが、仕事があまりに忙しくて出張どころではなくなってしまった。しかし、ベトナム赴任が目の前に迫り、この機を逃すと盛岡、仙台を旅するのは、最低でも四年は辛抱することになる。木曜日の休暇はキャンセルせず、水曜日の夜、東京駅を出る夜行バスで盛岡を目指した。東京駅を夜の十時過ぎに出発すると、朝五時半くらいに盛岡駅に到着する。さすがにこの時間、鉄道も路線バスも動いていない。当初レンタサイクルで市内を回る予定をしていたが、バスを降りてみると小雨が降っており自転車利用の計画はあっさりと放棄せざるを得なくなった。結局、朝から市内那須川、北山の寺町を歩いて訪ねることになった。最初の訪問地は、前回畠山太助の墓を探しきれなかった本誓寺である。
釋 祐洞(畠山太助の墓)
畠山太助は、嘉永六年(1853)、閉伊郡地方の農漁民等一万数千人が結集した三閉伊一揆の中心的な指導者として活躍し、この壮大な闘いを勝利に導いた人物である。維新後、明治六年(1873)の地租改正反対一揆に連座し、取り調べ中の同年五月二十七日朝、止宿していた盛岡油町の牛方宿、河内屋権兵衛(平野家)宅の厩で抗議の自殺を遂げた。享年五十八。
本誓寺の顕彰碑は、昭和六十三年(1988)五月、畠山太助顕彰会の手によって建立されたものである。
墓石の傍らに立つ畠山太助顕彰碑
衆民のため死ぬるのは 元より覚悟のことなれば 今更命惜しみ申すべきや
三閉伊一揆指導者田野畑村
畠山太助ここに眠る
(法華寺つづき)
板垣草蔭墓(佐々木直作の墓)
二度目の訪問で、佐々木直作の墓を発見することができた。墓石には板垣草蔭という維新後の名前が刻まれている。
(大慈寺つづき)
「圓通」
原敬は西園寺内閣で内務大臣を務め、立憲政友会では西園寺の後を継いで第三代総裁に就任した。西園寺公望とは深い縁で結ばれている。原敬の菩提寺大慈寺が再建される際、本堂に西園寺公望筆の「圓通」(えんづう)の書が本堂に架けられた。境内には鎌倉に建てられた原敬の別荘腰越荘が移築されたが、本堂内には「腰越荘」の書も残されている。
(七十七銀行盛岡支店)
原敬別邸遺跡
「大通り」というのは盛岡市の中心部を貫く目抜き通りである。京都でいえば四条通り、鹿児島でいえば天文館に相当する。
大通り3丁目の七十七銀行のあった場所にかつて原敬別邸介寿荘があった。
原敬は明治四十二年(1909)、当地に別邸介寿荘を設け、毎年帰省して郷党の知友と語ることを楽しみとした。
圓通神社
昭和五十五年(1980)、この地にホテルを建設するにあたり、原家別邸にあった氏神の一部が出土したことから有志により復元が図られた。