史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「安政の大獄」 松岡英夫著 中公文庫

2015年02月27日 | 書評
本書は平成十三年(2001)に中公新書から刊行されたもので、今般中公文庫から再版された。著者松岡英夫氏は、毎日新聞の政治部記者で「岩瀬忠震」や「大久保一翁」などの著書がある。本書が遺稿となった。純粋な歴史学者が書いた本ではなく、現実の政治を見て来た目で歴史を批判する。そこが本書の面白味となっている。
たとえば、当時「年長・英明」が売り出し文句であった徳川慶喜について「その英明さは幕府を倒壊させる程度のものだった」とばっさり切り捨てる。結果が全てという政治の世界を見て来た著者に慶喜を評価させれば、これも当然の結論かもしれない。
安政の大獄の引き金となったのは、将軍継嗣問題である。将軍継嗣問題が浮上したのも、十三代将軍家定が暗愚であったこと、その後継者候補に慶喜という存在が浮上したことがそもそもの発端であった。もし、家定が普通の人物であったなら、もしくは慶喜が存在しなければ、安政の大獄は起きなかっただろうし、大老井伊直弼が桜田門外で落命することもなかっただろう。幕府の倒壊ももう少し先のことだったかもしれない。こうやって歴史を結果からみれば、慶喜という人物は決して好意的に評価できる人間ではないということである。
安政の大獄には、統治者である幕府の最高責任者としての井伊大老がとらなければならなかった当然の行為であるとの弁護論もあるが、本書「序章」で「この切迫した時期に安政の大獄という百名に達する第一線人事の入れ替えをやり、日本国の先頭に立つべき人材を、あるいは切り捨て、あるいは遠島・追放して国の第一線から追い払ったのは時代逆行の暴挙」と述べているように、著者のスタンスは明確である。これまた結果から見れば、安政の大獄が桜田門外の変を誘引し、幕府倒壊が早まったのは間違いない。幕府側・討幕側、どちらの視点から見ても安政の大獄を好評価することは難しい。
本書では長野主膳と井伊直弼という、大獄を主導した二人の履歴や出会いから説き起こす。長野主膳の謎に包まれた前半生もここで明らかにされる。
長野主膳は大獄の半年以上も前から、さらに言えば井伊直弼の大老主任の数か月も前から京都に駐留し、井伊直弼の手足となって情報収集に働いている。長野主膳の京都派遣は大獄を目的としたものではなく、彼の人脈を利用した情報取集だったのである。確かに彼の情報収集能力は抜群であった。
安政の大獄に至る経緯を仔細に見ると、井伊大老と長野主膳が京都の反幕・反関白派の一斉検挙に動く決断をしたのは、安政五年(1858)八月の水戸藩への密勅、九月の九条関白の辞任が引き金となったと思われる。それまでは二人の頭の中に非常手段を用いる考えはなかった。長野主膳という一介の国学者が井伊直弼と出会い、安政の大獄に至るまでの経緯を見ると、数々の事件が複雑に絡み合い、偶発的にここに至ったことが見て取れる。歴史の綾の不思議さを想わざるを得ない。改めて安政五年(1858)の歴史のスピード感と面白さを実感させられた本であった。

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「戊辰転々録」 中村彰彦著 中公文庫

2015年02月27日 | 書評
「虎に狩られた男」「かわ姥物語」「思い出かんざし」「大江戸御金蔵破り」「もう悪いこと仙之助」「権田原与一郎遺稿 『幕末烈女伝』」「戊辰転々録」の七編を所収。うち後半の三編が幕末に題材をとったものである。
「もう悪いこと仙之助」は、甲州の博徒祐天仙之助と、祐天を親の敵とする大村達尾の物語である。甲州で勢力を張っていた大親分が、あっさりと討たれてしまったというのはやや腑に落ちないところであったが、中村彰彦氏の描く仇討シーンはリアルである。中村氏は史料に比較的忠実に小説を書く人なので、この場面もかなり現実に近いのではないか。
「権田原与一郎遺稿 『幕末烈女伝』」は、筆者が権田原与一郎という作家から講演会の遺構を入手したところから物語が始まる。てっきり権田原与一郎は実在の小説家かと思い、念のためネットで検索してみたが、当たり前ながら実在する人物ではない。それくらい本編における権田原与一郎はリアルに描かれている。小説家というのはウソがうまい人種だと、改めて思った。
文庫の表題にもなった「戊辰転々録」は津軽の商家の放蕩息子が主人公である。津軽藩が小説の舞台かと思うと、物語は思わぬ展開を見せ、主人公は二本松や会津戦争に巻き込まれる。さらに広島藩士が軍夫を斬殺する場面に出くわしてしまう。この広島藩士は加藤善三郎といい、白河萬持寺に墓がある。私も五年前にこの墓を訪ねたことがあるが、このような凄惨な事実があるとは知らなかった。

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伏見 Ⅵ

2015年02月21日 | 京都府
(欣浄寺)


欣浄寺

 墨染の欣浄寺は、新選組の井上源三郎の首が埋葬された寺と言われている。この説に確たる根拠はないが、井上源三郎の生家のごく近所に同名の寺があり、その縁で甥の井上泰助がこの寺に源三郎の首を埋めたのではないかと推定されているのである。
 欣浄寺の撮影を済ませた直後、季節外れの夕立のような豪雨に襲われた。傘は持っていたが、それでもズボンがずぶ濡れになってしまった。

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淀 Ⅱ

2015年02月21日 | 京都府
(淀城)


田邊治之助君記念碑

 前回、淀城趾を訪ねたのは、もう十年以上も前のことになる。今回、淀藩の田邊治之助の記念碑と墓を訪ねて、再度淀周辺を歩いた。
 まず、淀城趾に置かれている田邊治之助記念碑を訪問する。
 田邊治之助は淀藩士である。鳥羽伏見戦争の際、淀藩は敗走する旧幕軍に対して淀城の門を堅く閉ざして受け入れなかった。淀藩の裏切りとして知られる事件の裏で、田邊治之助は藩論を勤王に統一する立役者となった。しかし、その後、旧幕兵が城内に乱入した責を負って、自刃した。「淀藩の裏切り」事件の背後にこのような事件があったことは特記しておくべきであろう。

(妙教寺)


觀壽院照遠日覺居士(田邊治之助の墓)

 再び納所の妙教寺を訪ねた。今回の目的は田邊治之助の墓である。本堂の裏に墓地があるが、その入り口に田邊家の墓域がある。側面に「田邊治之助信教墓」とあるのが、治之助の墓である。
 田邊治之助は、天保三年(1832)、淀藩家老田邊刑部の二男に生まれた。元治元年(1864)第一次長州征伐にも参加。鳥羽伏見の戦争では、藩中は尊王佐幕二派に分れて紛争したが、治之助は時勢を説いて中立を守らせ、城門を閉ざして戦局より逃避させた。しかし、正月五日、旧幕兵が敗走し、淀城の御大手門を破って数名が城内に乱入した。大手門警備に当たっていた責任を負って、治之助は同夜自刃して藩を朝敵の汚名から救ったという。三十七歳。
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三井寺 Ⅳ

2015年02月21日 | 滋賀県
(川瀬太宰宅跡)


川瀬太宰先生邸宅趾

 皇子山中学校の正門向い辺りに、川瀬太宰邸宅趾碑が建てられている。
 川瀬太宰は、文政二年(1819)の生まれ。膳所藩の同志をはじめ、広く諸方の志士と交わって尊攘活動に従事したが、その時期は主として文久以降といわれる。太宰の家は裕福で、その邸宅は広壮であったのみならず、妻女幸(彦根藩医飯島三大夫の娘)も同憂の女丈夫であったことから、志士が潜行して、その庇護を受ける者が多かった。禁門の変に敗れた長州藩を助けるために同志と語らい、遠く彼の地まで赴いて画策するところもあったが。転じて江戸に潜入した。ここで捕吏の追うところとなり、逃れて京都に入り、さらに大津の自宅に隠れようとしたが、途中慶応元年(1865)閏五月、雲母越にて新選組に捕えられて京都の獄に繋がれ。翌年斬首された。年四十八。
 太宰が逮捕されたとき、邸宅にいた幸も新選組に踏み込まれ召喚されようとしたが、関係書類を火中に投じて自刃を図り絶命した。

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膳所 Ⅱ

2015年02月21日 | 滋賀県
(杉浦重剛旧宅)
 京阪瓦ヶ浜駅近くの住宅街の中に、今も杉浦重剛の旧宅が当時のまま保存されている。周囲は重剛に因んで杉浦町と名付けられている。
住宅の内部には重剛の遺墨や資料などが多数保管されているらしいが、今回は屋外を見学したのみである。
 屋外には杉浦重剛の胸像や顕彰碑、漢詩碑などが建てられている。


杉浦重剛旧宅


杉浦重剛先生像


漢詩碑

 鉄骨水心長養真
 一枝斜處更無塵
 寒香僅々両三點
 先占東風万里春
梅窓剛

 梅窓は重剛の号である。号に因んで邸内には紅白の梅が植えられている。

(茶臼山公園)
 杉浦重剛の旧宅跡から、北西に二十分以上歩くと、茶臼山公園がある。茶臼山古墳を中心とした公園で少し小高い場所にあるが、杉浦重剛の誕生地碑があるのは、道路をはさんでその向い側の小さ目の公園である。写真では伝わらないかもしれないが、仰ぎ見るような巨大な石碑である。


杉浦重剛先生誕生地碑

 杉浦重剛は、安政二年(1855)三月、膳所藩の儒者で、藩校遵義堂の教授杉浦重文の次男に生まれた。長じて藩より推されて、東京開成学校(東京大学の前身)に学び、明治九年(1876)、二十二歳のときからイギリスに留学の後、東京予備門長(旧制第一高等学校長)を務め、また称好塾という家塾を開いて多くの子弟を育てた。明治・大正にわたって教育者として有名であった。大正十三年(1924)死去。

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近江八幡

2015年02月21日 | 滋賀県


八幡堀

 近江八幡といえば、近江商人の里として有名である。市内の新町通り周辺には、昔ながらの商家が当時のまま軒を連ね、これを楽しみに訪れる観光客も多い。
 また町の北側の八幡堀沿いには、往時の屋敷や蔵が立ち並ぶ。これも人気スポットである。
 駅前でレンタサイクルを借りる。年末でも休み無く営業しているのが有り難い。本来は観光用だろうが、私の目的は、西川吉輔宅跡と西川吉輔の墓を訪ねることにある。

(近江兄弟社メンターム資料館)


勤王家 西川吉輔宅跡

 西川吉輔宅跡の石碑を探して、付近を探し回った。結局、この分かりにくい石碑は、近江兄弟社メンターム資料館の裏手にひっそりと建っていた。この場所が、西川吉輔が帰正塾を開いた地である。
 西川吉輔は、文化十三年(1816)、近江国八幡に生まれた。富商西川屋善六の七代目として家業の肥料商を営んだが、幼時より学を好み、長じて大国隆正について国学を学び、弘化四年(1847)には、平田篤胤の没後門人となった。嘉永元年(1848)には自宅に帰正館なる私塾を開いて学を講じ、門人の数は百五十人を越えた。門下には住友第二代総理事伊庭貞剛もいる。安政五年(1858)十月、安政の大獄に連坐して町預かりに処せられたが、脱出して京都に潜匿し、文久三年(1863)二月の足利三代木像梟首事件に連坐。この間、家産を蕩尽した。ついて谷鉄臣と親交を結び、井伊直弼没後の彦根藩を勤王方に引き入れるについては大いに功労があった。王政復古の直後、新政府において金穀出納御用掛に登用されたが、間もなく皇学所へ転じ、明治二年(1869)七月には大学少博士に任ぜられた。明治三年(1870)以降は大教宣布運動に従事し、晩年は日吉・生魂両社宮司を歴任した。明治十三年(1880)、年六十五で没。

(西山共同墓地)
 近江八幡観光物産協会のホームページに、西川吉輔の墓は「市内西山の共同墓地に葬られています。」とあるのを頼りに西川吉輔の墓を探すことにした。地図で調べても、近江八幡市内に「西山」という地名は見つからない。多分、西の方に在る山だろうというアテズッポウで市街の西側一帯を走り回った。自転車で探すこと四十分。ついに「さざなみ浄苑」という葬祭場の横に墓地を発見した。共同墓地と呼ぶには、あまりに手入れがされておらず、本当にここに西川吉輔の墓があるのか半信半疑であったが、雑草と枯葉だらけの小径を上って行くと、その突き当りに西川吉輔の墓があった。ちょっと感動的な出会いであった。


西川吉輔君墓

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豊岡

2015年02月15日 | 兵庫県
(蓮生寺)


蓮生寺

 生野における挙兵の一報が近隣の諸藩に届くと、出石や姫路、豊岡藩は慌ただしく兵を送った。豊岡藩兵が出陣したのは文久三年(1863)十月十三日の早朝。その夜には城崎郡高田村の蓮生寺に着陣した。
 蓮生寺を探したが、自信が持てない。日高町宵田の蓮生寺は円山川沿いにあり、豊岡藩が最短距離で生野を目指したとすれば、通過する地点である。恐らくこの蓮生寺が豊岡藩兵着陣の寺だろうと思う。

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出石 Ⅱ

2015年02月15日 | 兵庫県
(辰鼓楼)


辰鼓楼

 年の瀬というのに出石は観光客で賑わっていた。辰鼓楼周辺のお土産屋さんは、立錐の余地もないほどの混雑であった。
 出石を象徴する建物である辰鼓楼は、明治四年(1871)、廃城となった出石城の三の丸大手門石垣を利用して建設された。かつて城下町の人々は、寺院の鐘で時刻を知ったが、明治時代に入ってこれに替るものとして辰鼓楼が建設されたもので、当初は最上階から太鼓を鳴らして時を知らせていたという。明治十四年(1881)、城下で開院していた医師池口忠恕が大時計を寄付し、以来時計台となった。有名な札幌の時計台と並び、我が国最古の時計台といわれる。

(崇鏡寺)


崇鏡寺

 崇鏡寺(すきょうじ)は沢庵和尚ゆかりの寺として有名である。境内には沢庵和尚作庭の鶴亀の庭や出石藩主の墓などがある。

(願成寺)


願成寺

 崇鏡寺の目の前にある願成寺には、先年の大河ドラマ「八重の桜」で注目を集めた川崎尚之助の供養碑がある。門前の墓地に目立つように置かれているので、直ぐに発見できる。
 川崎尚之助は、出石藩の出身であるが、江戸に出て山本八重の兄、山本覚馬と知り合ったことから、会津藩に招聘され、藩校日新館でも蘭学を教授した。その後、山本八重の最初の夫となった。会津戦争後斗南に渡り、そこで食糧の調達のために訴訟に巻き込まれ、明治八年(1875)失意のうちに世を去った。


川崎尚之助供養之碑

(川崎尚之助生家跡)
 本町通りの一角に川崎尚之助の生家跡がある。以前、出石を訪れたときにはこのような表示はなかったので、これも大河ドラマ効果である。現在、川崎尚之助の生家は化粧品屋になっている。


川崎尚之助生家跡

(木戸孝允潜居跡)

 今回、出石を訪ねた最大の目的は町内五か所に点在している桂小五郎の潜居跡を全て訪ね当てることになった。レンタカーを駐車場に預けて、歩いて全てを網羅することができたので、さほどハードルが高いというわけではないが、それにしてもどうして桂小五郎はこの狭い城下町で潜伏先を転々としたのだろうか。素人の発想かもしれないが、そんなことをしたら却って見つかりそうな気がするのだが…。特に畳屋茂七屋敷跡と角屋喜作屋敷跡、鍋屋喜七屋敷跡の三つは、ほぼ一つの交差点を取り囲むように石碑が置かれており、さほど離れていない住居を転々としていたことが伺われる。


木戸孝允公(当時桂小五郎)潜伏セラレシ
遺蹟 志水重兵衛屋敷跡


桂小五郎君木戸孝允潜伏セシ
畳屋茂七屋敷跡


桂小五郎君木戸孝允潜伏セシ
角屋喜作屋敷跡


桂小五郎君木戸孝允ヲ庇護セシ
鍋屋(廣戸)喜七屋敷跡


桂小五郎君木戸孝允ノ
潜伏セシ遺蹟

 最後の石碑は、昌念寺前の駐車場の一角にある。恐らく昌念寺のことを「潜伏セシ遺蹟」と称しているのであろう。

(加藤弘之生家跡)
 出石城から近い場所に、近代日本の先覚思想家で、東京帝国大学の初代総長となった加藤弘之の生家が残されている。屋根や外観は修理が施されているが、敷地と当時のままである。


加藤弘之生家

 加藤弘之は天保七年(1836)出石藩士加藤四郎兵衛正照の長男に生まれ、藩校弘道館に学び、十七歳のとき父に従って江戸に出て佐久間象山の門に入った。その後、西洋兵学や蘭学に加え、英・仏・独の語学を修め、西洋思想の啓蒙に尽くした。主な著書に、日本で最初の立憲政体を論じた『隣草』(となりぐさ)などがある。


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養父 Ⅲ

2015年02月15日 | 兵庫県
(養父神社)


養父神社

 文久三年(1863)九月五日、農兵組立のための第一回会議が明神普賢寺で開かれた。現在、普賢寺は養父神社の社務所となっている。
 この会議に生野挙兵の幹部である薩摩の美玉三平、膳所の本多素行、伊藤龍太郎のほか、生野銀山の地役人や太田六右衛門ら地元の有力者も参加した。


旧・普賢寺


養父神社の土俵

 第一回会議のあと、合流した平野國臣を迎え、美玉三平や本多素行らは、養父神社で開かれた祭礼に参加した。多くの参詣客で賑わっていたが、養父市場の大橋又右衛門、同寛蔵、同助右衛門、児島友次郎らは袴を着用して、丁重に平野らを出迎えた。少し高くなったところに御座を敷いて、さらにその周囲に縄を張り、平野らの席が確保されていた。平野らはそこで角力を見物した。養父神社には今も土俵が残っている。あるいは百五十年前とその風景は変わっていないのかもしれない。

 養父神社の階段を下りていたところで、足を滑らせ仰向けに転倒した。この日、但馬地方は雪になるのではないかと思い、底の厚いスノーシューズで出掛けたが(準備だけは十分であった)、積雪とは関係なく石段は湿っていて滑りやすかった。思えば、今年は北海道でもスノーシューズを着用していながら、数回転倒した。よくコケタ一年であった。

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