(金沢城公園)
今年のGWは、家族で北陸地方に旅行に行くことになった。発端は、電車マニアの息子が北陸フリー切符を使って寝台特急に乗りたいと言い出したことである。息子によると、北陸フリー切符には、新幹線を含む北陸までの特急料金、寝台料金も含まれ、しかも指定区間の列車は乗り放題。一人当たり何万円もトクだという。しかし考えてみれば、ETCの休日割引を利用して自動車で往復すれば、家族五人でその何分の一かのコストで済んだはずである。息子は「自動車だったら運転手であるお父さんが寝られない」というが、もともと寝台列車で安眠できたためしがない。しかも相部屋になった若い男のいびきが凄まじく、まるでライオンの檻にでも入れられたようであった。金沢には朝の六時半に着いたが、そのときには寝不足でフラフラであった。二酸化炭素の排出量削減に貢献したと自分に言い聞かせるしかない。
金沢の街を訪れたのは、当時福井に住んでいた中学生のとき以来、三十五年以上も昔のことである。母方の祖父に連れられて兼六園を歩いた記憶がある。そう思って古いアルバムをひも解いてみると、全く覚えがないが、高校の遠足で金沢を訪れていたようで、そこから起算すると三十年振りということになる。
金沢というと京都を彷彿とさせる古い町並みが連想されるが、金沢駅はドーム状の屋根を持つ現代的なデザインに生まれ変わっていた。町並みも随分と垢抜けた印象であるが、しばらく歩きまわってみると、市内の至るところに寺町や武家屋敷があって、昔ながらの風情も残されている。
旅の始まりは、定番であるが、金沢城と兼六園からである。
金沢城
手前が菱櫓
私の記憶によると、金沢城跡には金沢大学が建っていたように思うが、いつの間にか大学は移転していた。平成十三年(2001)、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が史実に忠実に復元再建されている。金沢城は、度重なる火災により、ほぼ全ての建物が焼失した。石川門(天明八年(1788)再建)と本丸の三十間長屋(安政五年(1858)建築)だけが明治以前の遺物である。
石川門
俗に“加賀百万石”と称されるように加賀藩は全国でも最大の雄藩であった(石高は、厳密には百二万三千石)。にも関わらず、幕末には目立った活動がなく、維新を迎えている。江戸や京都から離れているという地理的な問題に加えて、藩の親幕志向によるもの、更に藩内の派閥抗争の結果であろう。
幕末の藩主は、前田慶寧(よしやす)である。当時三十五歳の世子の側近には、松平大弐や、千秋順之助、不破富太郎、大野木仲三郎といった勤王派の人材が付き添い、元治元年(1864)の禁門の変の際には、京都にあって長州藩のために斡旋しようと働いたが失敗し、退京を命じられた。幕府の圧力を恐れた斉泰は、慶寧を加賀に呼び戻して勤慎を命じ、藩内の尊王討幕派四十名に切腹、死罪、禁獄、流罪を申しつけた。これにて加賀藩内の勤王派の動きは封じられた。
(兼六園)
岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで天下の三名園と称される兼六園は、五代藩主前田綱紀が、延宝四年(1676)に金沢城の外郭の地に、蓮池御亭を建ててその周辺に作庭したことに始まる。その後、十一代藩主治脩(はるなが)、十二代藩主斉広(なりなが)十三代藩主斉泰(なりやす)らの手によって、今日の姿へと仕上げられた。
兼六園 霞が池
手前右は徽軫(ことじ)灯籠。左手奥は唐崎松(からさきのまつ)といって、十三代藩主斉泰が、琵琶湖畔の唐崎から種子を取りよせて育てたといわれる黒松である。
兼六園の南一帯に広がる梅林は、かつて長谷川邸跡広場と呼ばれた広場であった。ここにはかつて第二代の金沢市長を務めた長谷川準也の邸宅があった。長谷川は旧士族出身で、士族救済を目的に金沢に銅器会社や撚糸工場を興したことでも有名である。
兼六園 梅林周辺
(尾山神社)
香林坊の繁華街のすぐ近くに、ひときわ異様な神門が目を引く尾山神社がある。祭神は藩祖前田利家。
この神門は、長谷川準也らが主導して明治八年(1875)に完成を見た。三層構造の一階部分は日本の伝統技術である木彫りの装飾を配し、上層部には西洋風のステンドグラスが使われている。更に頂上には避雷針が載せられている。私の個人的な感覚では、いかにも鳥居や本殿とはマッチしていない趣味の悪い構造物としか思えない。
この奇妙な神門によって荒廃した尾山神社を再興するとともに、文明開化を庶民に実感させようという意図があったという。長谷川準也は「ことさら珍奇を衒うものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固を目指した」と語っている。
尾山神社 神門
尾山神社本殿
(藩老本多蔵品館)
兼六園の南西に、藩老本多蔵品館がある。この地には、加賀八家といわれる加賀藩の家老職を務める門閥の一つである本多家の屋敷があった。本多家は、徳川家康の重臣本多正信の次男で、やはり徳川家に重用された本多正純を兄に持つ本多政重を祖とする。幕府を恐れた加賀前田家では、本多家と強い繋がりを持つことで安泰を図ろうとしたのであろう。本多家は五万石という大名並みの高禄で処遇され、歴代当主は重職を担った。幕末には本多家十一代当主政均(まさちか)が、加賀藩の執政に任じられ、藩政を取り仕切ったが、保守派の反発を受けて暗殺されている。時に明治二年(1869)八月のことである。既に世は明治となり、版籍奉還が断行されて中央集権化が着々と進行しているこの時期に、加賀藩では藩内抗争に明け暮れていたのである。後世から見ると、“コップの中の嵐”以外の何物でもない。
更にこの抗争は続き、明治四年(1871)十一月、政均の家臣十二人が処罰を逃れた暗殺者を仇討にした。今から見れば、驚くほどの時代錯誤である。
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藩老本多蔵品館
藩老本多蔵品館では、歴代本多家の所有していた武具や調度品、古文書などを保管、陳列展示している。政均の遺品や肖像画なども見ることができる。
(東本願寺金沢別院)
金沢駅前にある東本願寺金沢別院(東別院)は、十七世紀初頭にまでその歴史を遡ることができるが、明治に入って火災により壮大な伽藍を焼失し、その後再建されて太平洋戦争の戦火も逃れたが、昭和三十七年(1962)に再び火災により全焼した。現在、建てられている本堂は巨大にして頑丈なコンクリート造りのものである。
慶応四年(1868)三月、新政府の北陸道先鋒総督が東別院を宿舎とすると、加賀藩は越後出兵に協力を申し出ることになった。
東本願寺金沢別院
(長町武家屋敷群)
長町武家屋敷群 大野庄用水
野村家
床の間の掛け軸は、十三代藩主斉泰の書(右)と十四代慶寧のもの
金沢随一の繁華街である香林坊から少し露地を入ると、長町の武家屋敷の落ち着いた町なみに出会う。武家屋敷のうち、旧野村家は藩祖前田利家が金沢城に入城した際に従ってきたという直臣である。十代にわたって馬廻組組頭各奉行職を歴任し、廃藩まで続いた名家であった。庭園は縁側まで池が迫る贅沢な作りである。居間の掛け軸は藩主から下賜されたものであろう。この屋敷にいるだけで、贅沢な時間を過ごすことができる。