史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「岩倉使節団という冒険」 泉三郎著 文春新書

2009年05月28日 | 書評
 「堂々たる日本人」(祥伝社黄金文庫)に続いて、泉三郎氏の岩倉使節団に関する著作を読んだ。「堂々たる日本人」と比べると、使節団が訪問した国々における描写にページを割き、著者の主張は最低限に抑えられている。とはいえ、著者は八年にわたって岩倉使節団の足跡を追って、主な場所は全て踏破したという方で、岩倉使節団に対する思い入れは尋常ではない。微に入り細に入り訪問先でのできごとを紹介している。
 著者の主張は、最終章の「中東、アジア、そして日本」の後半部分、それと「エピローグ」に集約されている。この部分は、さすがに説得力のある内容となっているが、特に木戸、大久保、伊藤がそれぞれ米欧回覧から持ち帰ったものがその後の憲法制定に植え込まれたという主張は納得がいく。
――― 西洋にはキリスト教があって人心の機軸をなしているが、日本にはそれに相当するものがない、仏教は衰頽に傾き、神道も宗教として力を持たない。だから伊藤(博文)は、「我が国に在っては機軸とすべきは独り皇室あるのみ」とし、天皇を憲法の核心においたのである。(213頁)
 明治の先人は、西洋の進んだ文明を積極的に取り入れた。西洋文明と一言でいうが、憲法、国会、裁判所、牢屋、学校、貿易、造船、製鉄、鉱山、銀行から鉄道に至るまで、彼らがこの旅で吸収したものは数知れない。明治の先人は、「和魂洋才」をスローガンに、常に日本のアイデンティティを意識して、日本独自のものを付け加え、或いはアレンジして、日本にもっとも適した形で受け入れていったのである。
――― 岩倉使節団の物語は、必ずやわれわれに知恵と元気を与えてくれるものと信じるのである。
という著者の結びの言葉に共感を覚える。

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「明治忠臣蔵」 中村彰彦著 角川文庫

2009年05月23日 | 書評
 有名な元禄の赤穂浪士の討ち入りに比較すると、金沢で起きたこの仇討はあまり世間に知られていない。単に江戸と金沢というロケーションの差だけが理由ではないだろう。
 忠臣蔵ほど日本人に愛された物語はない。忠臣蔵とて、見方を変えれば、集団で襲撃して寄ってたかって老人を殺したという、けしからん事件ということもできる。何故、日本人は忠臣蔵が好きなのだろうか。忠臣蔵の人気の秘密は、幾多の困難を乗り越えて、主君の仇討という大事業を組織的に達成したこと。私利私欲を排し、命を賭して目標に立ち向かい、目標を達成したあとは従容として死についた潔さ。これらが日本人の琴線に触れたのであろう。更に言えば、元禄という時代背景も影響しているかもしれない。長く太平が続き、人々が怠惰に流れた時代に、武士の魂とは何か、一石を投じた事件でもあった。
翻って金沢藩で起きたこの仇討はどうだろうか。赤穂浪士ほどではないにしろ、障碍を乗り越え、主君の仇を倒したという点では変わりがない。金沢の十二義士も私利私欲を持たず、しかも宿願を果たしたあとは逃げ隠れもせず、大人しく自首している。義士の一人、浅井彦五郎は、予て仲間と約束したとおり、介錯を受けたあとも胴体はなおも直立したままで、立ち会った検視人を驚嘆させた。見事な最期であった。
 彼らは室鳩巣の『赤穂義人録』などを輪読していた。首領である本多弥一が、遊興に耽って周囲を欺く様子など、大石内蔵助を彷彿とさせるものがある。これほど赤穂浪士を意識して行動した彼らのことであるから、彼らの行為に決して恥じるべき点はない。
 筆者は、「あとがき」で「この事件はしっかり記録が残っているにもかかわらず、意外と知られていない。これなら書く意味がある」と述べているが、金沢における仇討事件が、かくも認知度と世間の評価が低いのは、不思議なほどである。
 赤穂浪士の討ち入りは、喧嘩両成敗という定法に反して一方だけをお家取り潰しとした時の権力に対する抵抗でもあった。明治金沢事件では、暗殺された本多政均の家は、直後に嫡子の相続が認められている。そのとき遺臣たちが主張したのは、犯人の引き渡しであった。彼らは、せめて自分たちの手で犯人を処刑することで、悔しさを晴らそうとしたのである。それが果たせないとなると、彼らは共謀して死を逃れた連中をターゲットとした復讐を目論んだ。悪くいえば、自分たちの怒りの矛先として殺戮を選んだとも言える。相手を殺さなくてはならない必然性は、赤穂浪士と比べると低いように思える。
 明治忠臣蔵は、この事件からほどなく仇討禁止令が出されたことから、最後の仇討事件とも呼ばれる。彼らが仇討を果たしたのは、明治四年(1871)十一月のことで、既に日本は新しい国造りに向けて動き出していた。この時期に北陸の片隅で、仇討という前時代的な行為に熱中していたことに違和感を覚えるのである。筆者は、『加賀本多家義士録』を底本に、「歴史そのまま」の姿を目指して小説化した。この事件を「明治忠臣蔵」と名付けた筆者の意図は明らかであるが、単純に美化するのもやや躊躇いがある。

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「堂々たる日本人 -知られざる岩倉使節団-」 泉三郎著 祥伝社黄金文庫

2009年05月20日 | 書評
 明治四年(1871)の岩倉使節団は、国家のグランドデザインを描くために、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら、当時一流のリーダーが約二年に渡って欧米諸国を歴訪した国家的事業である。
 岩倉使節団については、最初の訪問先であるアメリカにおいて条約改正に失敗したこと、さらに当初の計画を大幅に上回る一年九か月に及ぶ長期の旅程となったため経済的にも大きな負担となったこと、それに留守をまもる西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らと外遊組との間に亀裂が生じ、いわゆる「明治六年の政変」の引き金になったことなど、批判も多い。岩倉使節団の負の部分は確かに否定できないが、それを上回る成果があったというのが著者の主張である。
 著者は、この本のタイトルを「堂々たる日本人」と名付けた。長い鎖国の時代を終えて、きらびやかな欧米の文明社会を眼前にした彼らは、決してその事実の前に卑屈になることはなかった。使節団の公式記録である「米欧回覧実記」で、久米邦武は次にように述べている。
――― 当今欧羅巴各国、みな文明を輝かし、富強を極め、貿易盛んに、工芸秀で、人民快楽の生理に悦楽を極む、その状況を目撃すれば、これ欧州商利を重んずる風俗の、これを漸致せる所にて、原来この州の固有の如くに思われども、その実は然るらず、欧州今日の富庶をみるは、千八百年以後のことにて、著しくこの景象を生ぜしは、僅に四十年に過ぎざるなり。
 つまり、久米邦武は半世紀のヨーロッパの歴史を俯瞰し、彼らが今日の文明社会を築いたのはほんの四十年ばかりのことで、それまでは我が国と何ら変わることは無かった。であれば、才知が劣るわけではない日本人が、四十年もあれば彼らの文明社会に追いつくことも可能だというのである。圧倒的な文明の差を目のあたりにして、多少は卑屈になってもおかしくないが、当時の日本人は決してそのようなことはなかった。まさに「堂々たる日本人」である。
 使節団は、訪問する欧米の各国で熱狂的な歓迎を受ける。このことは万延元年の遣米使節やそれに続く遣欧使節団にも共通して見られる現象である。当時の日本人は、欧米から見ると風俗が全く異なりながら、それでいて知性と威厳を備えたミステリアスな存在だったのだろう。
 この本を読んで、最も共感を覚えたのは、「サムライは金銭を卑しんだ」
とする筆者の主張である。江戸時代、いわゆる「士農工商」といって、「商」即ち金儲けは最下位に置かれた。権力と富との分離は、富の分配を公平にするシステムでもあった。「サムライは、あくまでも精神的貴族であり、貧しさをむしろ誇りとする君子」だったという。岩倉使節団の一行は、仰ぎ見るような西洋文明の隆盛を目のあたりにしながら、なお劣等感に打ちひしがれることがなかった、その秘訣は、彼らがもともと物資や金銭にそれほどの価値を置かなかったからだ、という解析は真理をついているように思う。
 日本人はもともと金銭を卑しむ精神風土を持った、世界的にも奇特な人種だということを、再確認する必要があるだろう。一方、欧米社会はその当時から政府自らが貿易の振興や殖産興業を主導する商利追及型社会であった。何百年にもわたって利益を追求してきた欧米社会と比較すると、日本がそのマネごとを始めたのはわずか百五十年前である。基本的に金銭に対する執着心という点では、欧米人にはとても敵わない。
 二十一世紀を迎えた今日、経済のグローバル化が進展し、日本経済も否応なく米国型経済システムに組み入れられている。企業経営もいつの間にか株主利益を最優先し、利益が出なければリストラを繰り返すアメリカ型経営が主流となってしまった(かくいう私もリストラに加担した一人であるが)。欧米と同じ経営スタイルで、日本企業が太刀うちできるのだろうか。
 すでに企業会計はグローバル・スタンダードという名のもとに、すっかり欧米型に変容してしまった。外堀は埋められた感が強いが、今一度日本型経営を再評価しても良いのではないか。私が海外で勤務していたころ、現地の人たちは「日系企業は、報酬は低いが人を大事にしてくれる。首切りをしない。家庭的な経営をする」と好意をもって日本型経営を受け入れてくれた。彼らの期待に応えるべく、今や日本国内では流行らないが、当方も厚生旅行や日本語教室などを実践したものである。
 「堂々たる日本人」を読んで、何でもかんでも欧米型に追従するのではなく、従業員重視の日本型経営に今一度舵をきってはどうか。日本人には日本人にあったやり方がある…という想いを強くした。

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厚木

2009年05月17日 | 神奈川県
(山中藩陣屋跡史跡公園)


山中城址

 神奈川県の北相模地域は、幕末の史跡に関しては「無風地帯」である。しかし、日本全国が沸騰していたあの時代、しかも江戸に近いこの地が、無風のままでいられるはずがない。静かで平穏な農村地帯であった荻野山中藩の陣屋は、慶応三年(1867)十二月、突如浪人集団に襲撃され焼き打ちにあっている。荻野山中藩は、小田原藩大久保家の分家で大久保教寛を藩祖とし、五代教翅(のりのぶ)のときそれまでの松永陣屋(現・沼津市)から荻野山中に移転した。参勤交代の経費を抑えるためといわれている。以降、教孝、教義の三代八十八年にわたり、明治四年(1871)の廃藩置県まで続いた。
 慶応三年(1867)の浪士による焼き打ちは、関東の擾乱を狙った薩摩藩の命を受けた水戸浪士鯉淵四郎を首領とする浪士隊三十数名の手によるものであった。このことに激昂した幕府勢は京都に押し寄せ、鳥羽伏見戦争の一因となった。
 現在、荻野山中藩陣屋跡は、小さな公園となり、一画に山中城址と記した石碑が建てられている。

(福傳寺)


福傳寺

 山中藩陣屋跡史跡公園には陣屋の遺構はほとんど残っていないが、そこから数㎞離れた王子の福傳寺の山門は、陣屋の遺構(裏門)だという。

(清源院)


清源院

 清源院は、千年近い歴史を持つ古刹である。深閑とした雑木林の奥に山門があり、その向こうに境内が広がる。
 明治十年代、自由民権活動が盛んだった時期、厚木から澎湃として民権活動家が生まれた。全国から民権家が厚木を訪れた。明治十六年(1883)には、板垣退助らを迎えて、清源院で演説会が開かれた。

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「横井小楠」 徳永洋著 新潮新書

2009年05月14日 | 書評
 横井小楠は、藤田東湖、佐久間象山と並ぶ幕末を代表する思想家である。坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、西郷隆盛など、横井小楠の思想に影響を受けた顔ぶれを見れば、小楠の存在の大きさを理解するには十分であろう。坂本龍馬の船中八策や新政府鋼領八策も、由利公正が起草した五箇条の御誓文も、小楠の国是十二条を参考にしたものと考えられる。将にこの本のサブタイトルである「維新の青写真を描いた男」だと言える。
 よくテレビで評論家がしたり顔でコメントしているのを見ると
「そんなにいうならあんたがやれや」
と言いたくなるが、どうやら思想家、評論家と政治家、革明家とは明確な役割分担があるらしい。横井小楠は確かに思想家としては優れていたが、政治家、革明家としては必ずしも成功したとは言い難い。
 若いころの酒席での失敗は数知れず、政事総裁職として活躍する松平春嶽の顧問として期待された大事な時期に、士道忘却事件を起こして一時逼塞を余儀なくされた。また小楠には政敵が多かった。このこと自体は政治に携わる者には珍しいことではない。ただ小楠の場合、少々度が過ぎている。それまで同志であった長岡監物と突然絶交し、遂には故郷熊本にいられなくなってしまう。一説には坂本龍馬とも絶交したという(本書129ページ)。非常に鋭敏な思想家であると同時に、相手を不快にするような人間的欠陥があったのかもしれない。
小楠は明治二年(1869)一月、刺客に襲われ命を落とす。小楠を暗殺したのは頑迷な保守勢力で、小楠がキリスト教を国内に広めようとしている、共和政治の実現と廃帝を唱えているというのがその動機であった(もちろん、根拠のない風説に過ぎないが)。即時処刑すべきという政府要人に対し、犯人の助命減刑を強く主張する勢力があった。強烈な敵対勢力の存在は、先鋭な思想家の宿命であろう。
 著者徳永洋氏は、熊本に生まれ日本銀行に勤務するかたわら、横井小楠に関する資料を収集し長年にわたって小楠の顕彰に関わっている。その熱意と執念には脱帽する。

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金沢 野田山

2009年05月09日 | 石川県
(野田山墓地)

 北陸旅行の三日目は、許しを得て自由行動となった。電車マニアの息子は一人で氷見線に乗るといい、嫁さんと娘たちは世界遺産である五箇山の合掌造りの集落に行くという。私は迷いなく金沢の史跡巡りに向かうことにした。
 金沢の街の散策には、レンタサイクルが適している。自動車では渋滞に巻き込まれるし、観光地の駐車場はどこも満車である。ストレスなく、効率的に史跡を回るには自転車に勝るものはない。駅で自転車を借りると、私が最後の一台といわれた。今日は付いている。
 自転車の難点は、坂道に弱いことである。入手した市街地図では高低差が分からない。意外と金沢の街は坂道が多く、自転車には厳しかった。特に野田山は、金沢駅から遠く離れている。標高175mの山頂近くにある前田家の墓地に、自転車を押して到着したときにはかなりぐったりした。史跡巡りに必ずしも自転車が万能ではないということを思い知った。


前田利家墓所

 野田山の山頂に近い場所に加賀藩主前田家の墓所がある。一族の墓はいずれも神式で鳥居の裏に土塚を築き、石柱の墓標が建つ構造となっている。もっとも立派な墓は、藩祖前田利家のもの。その隣には大河ドラマの主人公にもなった利家夫人芳春院(名は松または昌)の墓もある。


前田斉泰墓所

 石段を少し下った位置に、十三代斉泰、十四代慶寧ら、幕末の藩主とその夫人の墓が並ぶ。
 前田斉泰の夫人、景徳院(偕、溶姫)は十一代将軍家斉の二十一女であった。加賀藩は、最大の雄藩でありながら、江戸期を通じて幕府には従順であった。幕府に阿諛することが、外様が生き抜くための処世術と心得ていたらしい。徳川家と婚姻を重ね、そういう意味では譜代大名よりもずっと親幕的であった。特に将軍の娘を正室にもった斉泰は、最後まで佐幕派であった。
 斉泰は、文政五年(1822)から慶応二年(1866)の長期に渡り藩主の座にあり、家督を慶寧に譲ったあとも、隠然たる影響力を有していた。斉泰は明治十七年(1884)、七十四歳で没している。


前田慶寧墓所

 十四代藩主慶寧は、父斉泰とは異なり心情的には勤王派寄りであったが、結局父の方針には逆うことはできなかった。大藩である加賀藩が幕末を通じて存在感を発揮することができなかった最大の要因がここにあったと言える。慶寧は明治七年(1874)に熱海で没している。享年四十五であった。

 前田家墓所から下がったところに、石川県戦没者墓地がある。広くて静謐な敷地内に西南戦争以降太平洋戦争に至るまで、戦死者の墓が並んでいる。


石川県戦没者墓地 陸軍戦没者墓地
西南戦争戦死者の墓

 西南戦争の犠牲者の墓碑を見ると、意外と戦闘での犠牲者より、戦争のあった翌年以降の犠牲者が多いことが目につく。当時の銃弾は鉛製であった。被弾した兵卒には、鉛中毒によって亡くなるケースが多かったと伝えられるが、ここに眠る兵士の何人かも或いはそういう犠牲者かもしれない。


ロシア人墓地

 日露戦争に際して捕虜とされたロシア人のうち、金沢には約六千人が連行された。うち病気等で亡くなった十名を慰霊する墓が陸軍によって建立されたものである。


大久保利通暗殺者の墓
明治志士敬賛会

 今回、金沢を訪れた最大の目的地が、野田山墓地の麓にある大久保利通暗殺者の墓であった。彼ら六人の墓は、谷中霊園にもあるが、こちらは言わば事務的に埋葬したという印象であるが、金沢の墓は彼らの所業を顕彰しているかの如き雰囲気が漂っている。一国の宰相を暗殺した犯人を持ち上げるというのは、どういう神経だろうか。確かに、彼らが時の独裁者的存在となった大久保利通を葬ったことは事実であるが、大久保の退場は結果的に薩長閥の世代交代を促進しただけのことである。この暗殺によって決して歴史が変わったとは思えない。
 司馬先生は「翔ぶが如く」の中で次のように解説している。
--- 大久保を殺そう
というふうに島田が決意したのは、飛躍でもなでもない。殺すという表現以外に自分の政治的信念をあらわす方法が、太政官によってすみずみまで封じられているのである。(中略)
 島田も、明治六年に左院に建白書を出したが相手にされず、これがために「腕力あるのみ」と覚悟し、さらには条令のために自分の政府批判を新聞などに発表することもできなかった。この意味からいえば、大久保が磁石になり、島田という鉄片をひきよせたといえなくはない。

(大乗寺)
 大乗寺は、前田家の重臣本多家の菩提寺で、新旧二か所の本多家墓所に本多家累代の墓がある。鬱蒼とした森の中に仏殿、法堂、山門、総門が配置されている。明治二年(1869)に城内の二の丸で刺殺された本多政均の墓は、本多家の新墓所の入口に近い場所に建てられている。
 本多政均は、天保九年(1838)に、本多正和の次男に生まれ、安政三年(1856)、兄政通の死により本多家を継いだ。万延元年(1860)、城代となる。文久三年(1863)、主命により上洛後、逼塞していたが、元治元年(1864)、世子前田慶寧退京処分を受けたのち、復権して尊攘派の処断に関与した。その後は、藩主のそばに従ってしばしば上洛した。一方で藩政改革にも手腕を発揮し、執政として権力を誇った。このことが守旧派の恨みを買い、城内で暗殺されることになった。年三十二。政均暗殺の裏には、元治の獄で重刑に処された尊攘派の手も動いていたといわれる。


大乗寺


十二義士の墓

 政均の仇をうった十二人の家臣の墓は、政均の墓に寄り添うように建てられている。彼らが“仇打ち”を果たしたのが明治四年(1871)。その後、明治六年(1873)に仇討禁止令が出されたため、“最後の仇討”とも言われる。


本多政均の墓

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金沢 寺町

2009年05月09日 | 石川県
(妙立寺)
 “忍者寺”として知られる妙立寺は、実際には忍者と何の関係もないが、建物内に色々なからくりがあるため、このように呼ばれている。妙立寺は、幕末史とはあまり関わりはない。子供たちが妙立寺を拝観している間に、近くの寺町を散策してみた。因みに妙立寺の見学に要する時間は四十分ほど。これだけの時間があれば、この周辺に在る三光寺、承証寺、玉泉寺、大円寺、法光寺を見て回るには十分である。


妙立寺

(三光寺)


三光寺

 妙立寺の隣が三光寺である。紀尾井坂にて大久保利通を暗殺した石川県士族、島田一良、長連豪らがここで会合を重ねたため、彼らは三光寺派と呼ばれた。維新に乗り遅れたという意識にとらわれた三光寺派は、新政府の要人暗殺に走った。彼らは大久保利通暗殺に成功すると斬奸状を胸にその足で自首し、事件の二ヶ月後には六人全員が処刑された。

(承証寺)
 妙立寺の向かい側には、承証寺が建つ。本堂の前に、福岡惣助の墓がある。福岡惣助は加賀藩与力で藩の探索方として活躍していた。元治元年(1864)の禁門の変の後、藩内の尊王討幕派が肅清され、福岡惣助も生胴の刑(生きたまま日本刀で胴体を真っ二つにする刑)に処せられた。傍らの一字一石の供養塔は、惣助の死を嘆いた祖母が、法華経を小石に写経して納めたといわれるものである。


承証寺


福岡惣助の墓(左)と一字一石の供養塔

(玉泉寺)


玉泉寺
正七位清水誠墓

 妙立寺から歩いて五分程度で玉泉寺に行き着く。玉泉寺は、二代藩主利長夫人の菩提寺という名刹であり、かつては広大な寺域を誇ったが、現在はどこに寺があるのかも分からないくらいである。辛うじて墓地だけは残されており、その中に旧加賀藩士族清水誠の墓がある。清水誠はフランス留学から帰国すると、そこで学習した知識を活かしてマッチの工場生産に成功したことで知られる。

(大円寺)


大円寺

大円寺には、三光寺派とともに加賀藩を二分していた忠告社が事務所を置いていた。忠告社は、杉村寛正や長谷川準也ら一時は千人を抱える政治結社であった。やがて彼らは、民権運動に接近していくことになり、武力による抵抗を唱えて脱盟した島田一良ら三光寺派とは明確に一線を画することになった。

(法光寺)


法光寺

 忠告社の本拠地大円寺の隣には、島田一良らの大久保暗殺に際して斬奸状を書いた陸義猶(くがよしなお)の碑が建っている。陸義猶は、終身刑の判決を受けている。


陸義猶之碑

(棟岳寺)
 寺町からは少し離れるが、棟岳寺には水戸藩士永原甚七郎の墓と水戸藩義勇塚がある。永原甚七郎は、元治元年(1864)の天狗党の乱に際して、加賀藩勢千人を率いて監軍(総指揮者)として敦賀に出兵した。加賀藩勢は天狗党と対峙していたが、説得と交渉を重ねた結果、天狗党は武装解除し降伏と決した。永原は天狗党に同情的で彼らを武士として扱おうとしたが、結局彼らの身柄は敵意を抱く田沼意尊に引き渡されたため、全員死罪という非情な最期を迎えることになった。助命嘆願のために京都に向かった永原は、結果的に自分が彼らを欺いたことになったことに自責の念にとらわれたであろう。墓の横に置かれた水戸義勇塚を前にすると、永原甚七郎の無念が伝わってくる。


曹洞宗 棟岳寺


永原甚七郎之墓(左)水府義勇塚

 同寺には、我が国蘭方医の先駆者といわれる吉田長淑の墓がある。加賀藩主前田治脩が病気で倒れたときに、師の宇田川玄真の推薦により藩医となった。以来、加賀藩の庇護を受けることになる。門弟に高野長英、渡辺崋山、小関三英ら、そうそうたる顔触れが名を連ねる。


江戸 吉田長淑之墓

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金沢

2009年05月09日 | 石川県
(金沢城公園)
 今年のGWは、家族で北陸地方に旅行に行くことになった。発端は、電車マニアの息子が北陸フリー切符を使って寝台特急に乗りたいと言い出したことである。息子によると、北陸フリー切符には、新幹線を含む北陸までの特急料金、寝台料金も含まれ、しかも指定区間の列車は乗り放題。一人当たり何万円もトクだという。しかし考えてみれば、ETCの休日割引を利用して自動車で往復すれば、家族五人でその何分の一かのコストで済んだはずである。息子は「自動車だったら運転手であるお父さんが寝られない」というが、もともと寝台列車で安眠できたためしがない。しかも相部屋になった若い男のいびきが凄まじく、まるでライオンの檻にでも入れられたようであった。金沢には朝の六時半に着いたが、そのときには寝不足でフラフラであった。二酸化炭素の排出量削減に貢献したと自分に言い聞かせるしかない。
 金沢の街を訪れたのは、当時福井に住んでいた中学生のとき以来、三十五年以上も昔のことである。母方の祖父に連れられて兼六園を歩いた記憶がある。そう思って古いアルバムをひも解いてみると、全く覚えがないが、高校の遠足で金沢を訪れていたようで、そこから起算すると三十年振りということになる。
 金沢というと京都を彷彿とさせる古い町並みが連想されるが、金沢駅はドーム状の屋根を持つ現代的なデザインに生まれ変わっていた。町並みも随分と垢抜けた印象であるが、しばらく歩きまわってみると、市内の至るところに寺町や武家屋敷があって、昔ながらの風情も残されている。
 旅の始まりは、定番であるが、金沢城と兼六園からである。


金沢城
手前が菱櫓

 私の記憶によると、金沢城跡には金沢大学が建っていたように思うが、いつの間にか大学は移転していた。平成十三年(2001)、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が史実に忠実に復元再建されている。金沢城は、度重なる火災により、ほぼ全ての建物が焼失した。石川門(天明八年(1788)再建)と本丸の三十間長屋(安政五年(1858)建築)だけが明治以前の遺物である。


石川門

 俗に“加賀百万石”と称されるように加賀藩は全国でも最大の雄藩であった(石高は、厳密には百二万三千石)。にも関わらず、幕末には目立った活動がなく、維新を迎えている。江戸や京都から離れているという地理的な問題に加えて、藩の親幕志向によるもの、更に藩内の派閥抗争の結果であろう。
 幕末の藩主は、前田慶寧(よしやす)である。当時三十五歳の世子の側近には、松平大弐や、千秋順之助、不破富太郎、大野木仲三郎といった勤王派の人材が付き添い、元治元年(1864)の禁門の変の際には、京都にあって長州藩のために斡旋しようと働いたが失敗し、退京を命じられた。幕府の圧力を恐れた斉泰は、慶寧を加賀に呼び戻して勤慎を命じ、藩内の尊王討幕派四十名に切腹、死罪、禁獄、流罪を申しつけた。これにて加賀藩内の勤王派の動きは封じられた。

(兼六園)
 岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで天下の三名園と称される兼六園は、五代藩主前田綱紀が、延宝四年(1676)に金沢城の外郭の地に、蓮池御亭を建ててその周辺に作庭したことに始まる。その後、十一代藩主治脩(はるなが)、十二代藩主斉広(なりなが)十三代藩主斉泰(なりやす)らの手によって、今日の姿へと仕上げられた。


兼六園 霞が池

 手前右は徽軫(ことじ)灯籠。左手奥は唐崎松(からさきのまつ)といって、十三代藩主斉泰が、琵琶湖畔の唐崎から種子を取りよせて育てたといわれる黒松である。

 兼六園の南一帯に広がる梅林は、かつて長谷川邸跡広場と呼ばれた広場であった。ここにはかつて第二代の金沢市長を務めた長谷川準也の邸宅があった。長谷川は旧士族出身で、士族救済を目的に金沢に銅器会社や撚糸工場を興したことでも有名である。


兼六園 梅林周辺

(尾山神社)
 香林坊の繁華街のすぐ近くに、ひときわ異様な神門が目を引く尾山神社がある。祭神は藩祖前田利家。
 この神門は、長谷川準也らが主導して明治八年(1875)に完成を見た。三層構造の一階部分は日本の伝統技術である木彫りの装飾を配し、上層部には西洋風のステンドグラスが使われている。更に頂上には避雷針が載せられている。私の個人的な感覚では、いかにも鳥居や本殿とはマッチしていない趣味の悪い構造物としか思えない。
 この奇妙な神門によって荒廃した尾山神社を再興するとともに、文明開化を庶民に実感させようという意図があったという。長谷川準也は「ことさら珍奇を衒うものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固を目指した」と語っている。


尾山神社 神門


尾山神社本殿

(藩老本多蔵品館)
 兼六園の南西に、藩老本多蔵品館がある。この地には、加賀八家といわれる加賀藩の家老職を務める門閥の一つである本多家の屋敷があった。本多家は、徳川家康の重臣本多正信の次男で、やはり徳川家に重用された本多正純を兄に持つ本多政重を祖とする。幕府を恐れた加賀前田家では、本多家と強い繋がりを持つことで安泰を図ろうとしたのであろう。本多家は五万石という大名並みの高禄で処遇され、歴代当主は重職を担った。幕末には本多家十一代当主政均(まさちか)が、加賀藩の執政に任じられ、藩政を取り仕切ったが、保守派の反発を受けて暗殺されている。時に明治二年(1869)八月のことである。既に世は明治となり、版籍奉還が断行されて中央集権化が着々と進行しているこの時期に、加賀藩では藩内抗争に明け暮れていたのである。後世から見ると、“コップの中の嵐”以外の何物でもない。
 更にこの抗争は続き、明治四年(1871)十一月、政均の家臣十二人が処罰を逃れた暗殺者を仇討にした。今から見れば、驚くほどの時代錯誤である。


藩老本多蔵品館

 藩老本多蔵品館では、歴代本多家の所有していた武具や調度品、古文書などを保管、陳列展示している。政均の遺品や肖像画なども見ることができる。

(東本願寺金沢別院)
 金沢駅前にある東本願寺金沢別院(東別院)は、十七世紀初頭にまでその歴史を遡ることができるが、明治に入って火災により壮大な伽藍を焼失し、その後再建されて太平洋戦争の戦火も逃れたが、昭和三十七年(1962)に再び火災により全焼した。現在、建てられている本堂は巨大にして頑丈なコンクリート造りのものである。
慶応四年(1868)三月、新政府の北陸道先鋒総督が東別院を宿舎とすると、加賀藩は越後出兵に協力を申し出ることになった。


東本願寺金沢別院

(長町武家屋敷群)


長町武家屋敷群 大野庄用水


野村家
床の間の掛け軸は、十三代藩主斉泰の書(右)と十四代慶寧のもの

 金沢随一の繁華街である香林坊から少し露地を入ると、長町の武家屋敷の落ち着いた町なみに出会う。武家屋敷のうち、旧野村家は藩祖前田利家が金沢城に入城した際に従ってきたという直臣である。十代にわたって馬廻組組頭各奉行職を歴任し、廃藩まで続いた名家であった。庭園は縁側まで池が迫る贅沢な作りである。居間の掛け軸は藩主から下賜されたものであろう。この屋敷にいるだけで、贅沢な時間を過ごすことができる。

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岩瀬浜

2009年05月09日 | 富山県
(北前回船問屋 森家)


北前回船問屋 森家

 富山駅からライトレールという2両編成のかわいい鉄道に乗り換え、二十分ほどで終点の岩瀬浜駅である。岩瀬の街は、旧北国街道に面しており、北前航路が最盛期に建てられた回船問屋が建ち並んでいる。北前航路は、江戸初期から日本海を行き来する重要航路である。明治六年(1873)に大火があり、そのとき約千戸のうち六百五十戸が焼失したが、回船問屋の財力を背景に町は再建された。今も馬場家、森家など往時を偲ぶ家屋が残されている。

 森家は四十物屋(あいものや)と号し、北前船の船主、肥料商などと取引のあった回船問屋であった。この屋敷は、明治十一年(1878)に再建されたもので、建物に入ると、母屋の吹き抜けの天井の格子状の梁が出迎えてくれる。その造形美に圧倒される。

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富山

2009年05月09日 | 富山県
(富山城)


富山城

 富山城の歴史は、十六世紀まで遡る。その後、織田信長の家臣、佐々成政も入城したが、その後、加賀藩の二代藩主前田利長が隠居所として入城した。しかし慶長十四年(1609)に焼失したため、本格的に城が再建され、城下町が整備されたのは、富山藩主として前田利次が任じられた万治三年(1660)以降である。以降、明治六年(1873)の廃城となるまで十三代にわたって前田家が城主となった。
 加賀藩の支藩である富山藩は、宗藩の動きと無縁ではあり得なかった。鳥羽伏見の戦いが始まると、藩内は革新、守旧両派の抗争を経て、結局、慶応四年(1868)四月、会津征討に派兵することになった。

(神通川船橋跡)


神通川船橋跡

 富山藩祖前田利次の時代、富山の街造りに着手した利次は、この地に左右二条の鉄鎖を渡し、それに六十四艙の船を繋ぎ、三枚の板を敷いて船橋とした。明治十六年(1883)に板橋に架け替えられるまで、富山名物として全国に知られた。


頼三樹三郎詩碑

 左右両岸に、寛政十一年(1799)町年寄内山権右衛門が寄進した常夜灯が建てられているが、左岸の常夜灯のかたわらには頼三樹三郎の詩碑が建っている。頼三樹三郎は、諸国遊歴の途中に愛宕町に逗留して神通川の船橋を詠んだ。

 神通川即吟
 鉄鎖横江万丈長 急流如矢響琅々
 五更鴉唱人蹝白 六十四梁舟板霜

コメント (4)
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