平成二十二年(2010)は、桜田門外の変から百五十年というメモリアルイヤーであった。にもかかわらず、世間ではもっぱら龍馬ブームで明け暮れ、桜田門外の変で盛り上がっていたのは、茨城県の一部に過ぎなかった。大河ドラマを見るなとは言わないが、この事変はもっと注目されてもよいのではないか。
著者によれば、桜田門外の変の原因となった安政の大獄において大老井伊直弼が逮捕者に厳罰を科したのは、「水戸に陰謀がある」という言説を、大老や側臣長野主膳らが自ら捏造、訛伝して引き起こしたものという。この水戸の陰謀とは、豊田天功の長男小太郎が上京して、青蓮院宮尊融親王(中川宮)に上呈した書が、あたかも水戸烈公の意見のように伝わったものらしい。
「水戸の陰謀」という幻影に怯えた井伊大老は、水戸藩の関係者に厳罰を下した。水戸藩家老安島帯刀は、戊午の密勅に関してはほとんど関与することがなかったはずであるが、水戸の陰謀の存在を信じる大老にしてみれば、安島こそが密勅降下の首謀者であり、生かしておくわけにはいかなかったという。
本書では桜田烈士の一人蓮田一五郎という無名の若者を取り上げる。蓮田一五郎は天保四年(1833)の生まれというから、桜田門外の変のとき三十歳にもならない若者であった。父は町方役人で同心(今でいう警官のような職)を務めたが、一五郎が十歳のとき急逝し、そこから一家の悲運が始まる。ただでさえ貧しかった一家は、さらに困窮を極めた。一五郎は早朝から内職を始め、家計を助けた。一方で読書が好きな一五郎は、母や姉が裁縫の内職をしている背後によって、わずかに漏れる灯りで本を読んだ。内職が済むといったん眠ったふりをしてふとんに潜り、灯りが漏れないように行灯に衣服を掛けて、夢中で読書をして時には徹夜することもあったという(休みとなると日がなゲームに興じ、低俗なテレビ番組を観て無為に時間を浪費している我が子たちに、爪の垢でも煎じて飲ませたいような話である)。桜田門外の変を実行した集団は、決して血を好む粗暴な集団ではなく、当時の武士階級の中でも知識層に属する人たちだったという事実は注目して良い。
成人した一五郎は寺社方の手代という卑役に就く。寺社を相手にする仕事を通じて、静神社神官であった斉藤監物と出会う。この出会いが一五郎の人生を決めた。斉藤監物の感化を受けた一五郎は、大老の暗殺という大事業に一命を賭することになる。
桜田門外の変のあと、一五郎は斉藤監物らとともに脇坂中務大輔家に自訴して出た。死刑が執行されたのは、変から一年半後の文久元年(1861)七月のことである。その間、一五郎は母に向けて血涙下る遺書を書き残した。遺書がどういう経路をたどって蓮田家に届けられたのか、今となっては謎めいた部分もあるが、一人の若者が精魂を込めて書き上げた遺書には、容易に人を近づけないような迫力があるのだろう。今日まで伝えられたのは奇跡にようにも思えるし、当然のようにも思える。一度、現物を見てみたいものである。
著者によれば、桜田門外の変の原因となった安政の大獄において大老井伊直弼が逮捕者に厳罰を科したのは、「水戸に陰謀がある」という言説を、大老や側臣長野主膳らが自ら捏造、訛伝して引き起こしたものという。この水戸の陰謀とは、豊田天功の長男小太郎が上京して、青蓮院宮尊融親王(中川宮)に上呈した書が、あたかも水戸烈公の意見のように伝わったものらしい。
「水戸の陰謀」という幻影に怯えた井伊大老は、水戸藩の関係者に厳罰を下した。水戸藩家老安島帯刀は、戊午の密勅に関してはほとんど関与することがなかったはずであるが、水戸の陰謀の存在を信じる大老にしてみれば、安島こそが密勅降下の首謀者であり、生かしておくわけにはいかなかったという。
本書では桜田烈士の一人蓮田一五郎という無名の若者を取り上げる。蓮田一五郎は天保四年(1833)の生まれというから、桜田門外の変のとき三十歳にもならない若者であった。父は町方役人で同心(今でいう警官のような職)を務めたが、一五郎が十歳のとき急逝し、そこから一家の悲運が始まる。ただでさえ貧しかった一家は、さらに困窮を極めた。一五郎は早朝から内職を始め、家計を助けた。一方で読書が好きな一五郎は、母や姉が裁縫の内職をしている背後によって、わずかに漏れる灯りで本を読んだ。内職が済むといったん眠ったふりをしてふとんに潜り、灯りが漏れないように行灯に衣服を掛けて、夢中で読書をして時には徹夜することもあったという(休みとなると日がなゲームに興じ、低俗なテレビ番組を観て無為に時間を浪費している我が子たちに、爪の垢でも煎じて飲ませたいような話である)。桜田門外の変を実行した集団は、決して血を好む粗暴な集団ではなく、当時の武士階級の中でも知識層に属する人たちだったという事実は注目して良い。
成人した一五郎は寺社方の手代という卑役に就く。寺社を相手にする仕事を通じて、静神社神官であった斉藤監物と出会う。この出会いが一五郎の人生を決めた。斉藤監物の感化を受けた一五郎は、大老の暗殺という大事業に一命を賭することになる。
桜田門外の変のあと、一五郎は斉藤監物らとともに脇坂中務大輔家に自訴して出た。死刑が執行されたのは、変から一年半後の文久元年(1861)七月のことである。その間、一五郎は母に向けて血涙下る遺書を書き残した。遺書がどういう経路をたどって蓮田家に届けられたのか、今となっては謎めいた部分もあるが、一人の若者が精魂を込めて書き上げた遺書には、容易に人を近づけないような迫力があるのだろう。今日まで伝えられたのは奇跡にようにも思えるし、当然のようにも思える。一度、現物を見てみたいものである。