史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「桜田門外の変と蓮田一五郎」 但野正弘著 錦正社

2011年01月23日 | 書評
平成二十二年(2010)は、桜田門外の変から百五十年というメモリアルイヤーであった。にもかかわらず、世間ではもっぱら龍馬ブームで明け暮れ、桜田門外の変で盛り上がっていたのは、茨城県の一部に過ぎなかった。大河ドラマを見るなとは言わないが、この事変はもっと注目されてもよいのではないか。
著者によれば、桜田門外の変の原因となった安政の大獄において大老井伊直弼が逮捕者に厳罰を科したのは、「水戸に陰謀がある」という言説を、大老や側臣長野主膳らが自ら捏造、訛伝して引き起こしたものという。この水戸の陰謀とは、豊田天功の長男小太郎が上京して、青蓮院宮尊融親王(中川宮)に上呈した書が、あたかも水戸烈公の意見のように伝わったものらしい。
「水戸の陰謀」という幻影に怯えた井伊大老は、水戸藩の関係者に厳罰を下した。水戸藩家老安島帯刀は、戊午の密勅に関してはほとんど関与することがなかったはずであるが、水戸の陰謀の存在を信じる大老にしてみれば、安島こそが密勅降下の首謀者であり、生かしておくわけにはいかなかったという。
本書では桜田烈士の一人蓮田一五郎という無名の若者を取り上げる。蓮田一五郎は天保四年(1833)の生まれというから、桜田門外の変のとき三十歳にもならない若者であった。父は町方役人で同心(今でいう警官のような職)を務めたが、一五郎が十歳のとき急逝し、そこから一家の悲運が始まる。ただでさえ貧しかった一家は、さらに困窮を極めた。一五郎は早朝から内職を始め、家計を助けた。一方で読書が好きな一五郎は、母や姉が裁縫の内職をしている背後によって、わずかに漏れる灯りで本を読んだ。内職が済むといったん眠ったふりをしてふとんに潜り、灯りが漏れないように行灯に衣服を掛けて、夢中で読書をして時には徹夜することもあったという(休みとなると日がなゲームに興じ、低俗なテレビ番組を観て無為に時間を浪費している我が子たちに、爪の垢でも煎じて飲ませたいような話である)。桜田門外の変を実行した集団は、決して血を好む粗暴な集団ではなく、当時の武士階級の中でも知識層に属する人たちだったという事実は注目して良い。
成人した一五郎は寺社方の手代という卑役に就く。寺社を相手にする仕事を通じて、静神社神官であった斉藤監物と出会う。この出会いが一五郎の人生を決めた。斉藤監物の感化を受けた一五郎は、大老の暗殺という大事業に一命を賭することになる。
桜田門外の変のあと、一五郎は斉藤監物らとともに脇坂中務大輔家に自訴して出た。死刑が執行されたのは、変から一年半後の文久元年(1861)七月のことである。その間、一五郎は母に向けて血涙下る遺書を書き残した。遺書がどういう経路をたどって蓮田家に届けられたのか、今となっては謎めいた部分もあるが、一人の若者が精魂を込めて書き上げた遺書には、容易に人を近づけないような迫力があるのだろう。今日まで伝えられたのは奇跡にようにも思えるし、当然のようにも思える。一度、現物を見てみたいものである。

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「高杉晋作の「革命日記」」 一坂太郎著 朝日新書

2011年01月23日 | 書評
 高杉晋作というと「疎にして狂」と自らを評し、我々も何となく“乱暴者”といったイメージを植え込まれているが、本書を読むととても筆まめであり、藩主に対しては忠、両親に対しては孝。書いている文書は極めて教養に溢れ、かつ自省的である。
 著者一坂太郎氏は、中公新書の歴史散歩シリーズのように、自らの足で史跡を探訪した本を著しているが、本作でも高杉晋作の旅程に沿って、東京から松戸、笠間、日光、壬生を回り、更には上海にまで足を伸ばしている(これを読んで早速私も先週笠間を訪れ、高杉晋作も立ち寄ったという十三山書楼跡を見てきた)。
 やはり歴史上の人物の真の姿に迫るには、その人の書き残した文書を読み、足跡を訪ねることが不可欠である。高杉晋作という人物を理解するには、まだまだ掘り下げが必要だと思うが、それには本書が先ず入門書となるだろう。

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「維新侠艶録」 井筒月翁著 中公文庫

2011年01月23日 | 書評
井筒月翁が、京都祇園新地の中西君尾や大阪南地富田屋のお雄などから聞き書きを基に著した「聞き書き維新裏面史」である。著者によると、君尾やお雄が若い頃に聞いたということであるが、この本が世に出たのは「昭和戊辰」とあるから、昭和三年(1928)であり、当然、君尾(大正七年没)もお雄も故人となっており、その時点で中身はかなり怪しいと思った方が良い。
聞き書きならではのリアリティが楽しめるが、一方で必ずしも聞き書きではなくて、月翁がどこからか仕入れてきたらしいエピソードも混然としており、どこまでがホントの話なのか判然としない。
たとえば鳥羽伏見の戦争に敗れ江戸に引き上げてきた新選組が、品川楼で刀剣談に花を咲かせる場面。一人の隊士が「永倉先生、この刀工の作ですよ、例の心形刀流の小天狗伊庭八郎が箱根で斬りまくったのは―――」と語っているが、伊庭八郎が箱根に戦ったのはこの年の五月のことで、そのときには新選組(甲陽鎮撫隊)はとっくに潰走していたのである。
この本は別に歴史書ではないので、多少の脚色はあっても許されるだろうが、何となく胡散臭さが漂う。

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海南

2011年01月15日 | 和歌山県
(長保寺)
 海南市の長保寺は、紀州徳川家の墓所である。朝七時に高槻の実家を出て、長保寺大門前に八時半過ぎに到着した。そこへ一人の老人が現れ、「九時になったら拝観料三百円を取られるけど、それまでに見ればタダだよ」と教えてくれた。国宝に指定されている本堂と多宝塔は、いずれも鎌倉期の建造である。本堂と多宝塔を見学したあと、紀州徳川家廟堂へ向かうと鍵がかかっていて入ることができない。結局、九時に受け付けの方が現れるまで待つことにした。しかし、九時十分まで待ったが、誰も来なかった。紀州徳川家の墓所が、普段から非公開なのか、たまたまこの日は年末で休業日だったのか、それすら分からないまま撤収することになった。紀州徳川家の墓所は、別の機会に再挑戦することにしたい。


長保寺 本堂と多宝塔

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和歌山 加太

2011年01月15日 | 和歌山県
(加太砲台跡)
 淡路島の由良から友ヶ島を経て加太に至るラインは、古くから大阪湾の防衛にとって要地であった。軍艦奉行勝海舟が和歌山に派遣されたのも、加太に砲台を築くためであった。維新後も加太の重要性に変わりはなく、明治二十年代から加太、友ヶ島、由良は要塞化され、第二次大戦まで使用された。


加太砲台跡 弾薬室

 大砲は撤去されているが、砲台跡、トンネル状の通路、地下の弾薬室などがほとんど往時のまま残されている。


トンネル


友ヶ島

 友ヶ島は、地ノ島(写真手前)、鬼島、沖ノ島、神島から成る。その向こうに淡路島が霞んで見える。

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和歌山 Ⅲ

2011年01月15日 | 和歌山県
(嘉家作)

 和歌山市北郊の嘉家作(かやつくり)は、城下町の出入り口にあたり、交通の要衝になっていた。今は見る影もないが、それでも古い家屋が何軒か残っているのが嬉しい。


嘉家作り丁


春泉堂跡

 春泉堂は、藩政時代青物御納屋通称“おん善”こと村橋善平の別邸であった。藩公が岩出や粉河の別館にお成りの際に度々ここで休憩をとった。本願寺門跡や堂上公卿諸侯が紀州へ出府の際にも立ち寄ることが通例となっていた。
 廃藩置県後、この屋敷は津田出の手に渡り、津田出が上京した後は、出の実弟にして初代和歌山県令津田正臣が住んだ。

 津田出は、藩の蘭学教授として経済政事を講義し、御小姓に取り立てられた。一時、御用取次、国政改革制度調総裁に任命されたが、征長に反対したため退けられた。明治元年(1868)九月、藩執政に登用され、藩政改革に乗り出す。翌年には和歌山藩大参事となり、明治維新の原型となる改革を実施した。特に全国に先駆けて徴兵制を導入し、ドイツの士官によって近代的な軍事教練を実施した。明治新政府の注目するところとなり、廃藩置県ののち、大蔵少輔にとりたてられた。ついで陸軍省に転じ、少将に任じられた。明治二十三年(1890)には貴族院議員に勅選された。明治三十八年(1905)年七十四で没。
 津田正臣は、出の実弟。御三家の藩士でありながら尊王思想を有していた。和歌山県が生まれた時に参事に就任、まもなく権令に昇任した。明治二十九年(1896)年五十六で没。

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平野

2011年01月15日 | 大阪府
(満願寺)


満願寺

 中山忠伊が自刃したと伝えられる平野の満願寺である。満願寺には、忠伊の位牌と辞世が残っているが、公開されているわけではない。

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東住吉

2011年01月15日 | 大阪府
(見性寺)


見性寺

 松浦玲著「幕末・京大阪 歴史の旅」(朝日選書)に一章を割いて「平野郷に消えた謎の皇子」を紹介している。中山忠光が天誅組に参加して敗れ、長州に逃れて暗殺されたことはよく知られているが、同じ中山家の出身で忠伊(ただのぶ)と名乗る人物がいたことはあまり知られていない。忠伊は光格天皇の皇子で、十七歳のとき(か、もう少し早く)中山忠頼の猶子として中山家に入ったという。忠頼には忠能という継嗣がおり、何故忠伊がこの時点で中山家に入ったのか不明である。忠伊は文久三年(1863)の時点で六十歳という高齢であったが、金剛山で天誅組の後詰として参戦した。天誅組が壊滅したあと摂津平野に潜伏したが、翌年二月、平野の満願寺で自刃したという。


遍光院殿義烈忠誠志深大居士

 見性寺には、中山忠伊のものと伝えられる墓碑がある。墓石の裏面には、「正三位近衛中将藤原忠伊」という名前が刻まれている。

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住吉

2011年01月15日 | 大阪府
(東粉浜小学校)


この付近
土佐藩住吉陣屋跡
吉田東洋設営指揮の地
後藤象二郎赴任の地
坂本龍馬訪問の地

 住吉区の東粉浜小学校の近くに、最近土佐藩住吉陣屋跡を示す石碑が建てられた。側面には「吉田東洋設営指揮の地」「後藤象二郎赴任の地」「坂本龍馬訪問の地」と、うるさいほど文字が書いてある。
 住吉陣屋は、山内容堂が鮫洲の藩邸に蟄居を命じられていた時分に、幕府の意を迎えるために参政吉田東洋が建造したものである。文久年間以降は土佐勤王党の拠点となった。木津川河口に鉄鎖を渡して出入りの船を止め、舟銭を徴収したという。
 大岡昇平「堺港攘夷始末」(中公文庫)によれば、「箕浦猪之吉日記」一月十日
――― 幕兵南に逃げるや、堺城に至る。土人防ぎて納れざるに付て、此を怒り、火を放て過去る由。
との記述をもって、鳥羽伏見の幕軍敗残兵によって住吉陣屋が焼き払われたとしている。「堺城」を「住吉陣屋」、「土人」は「土佐兵」と解釈した上での結論であるが、説得力のある推論である。

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桜井

2011年01月08日 | 奈良県
(談山神社)
 桜井市の談山(たんざん)神社は、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)が、極秘の談合を持ち、蘇我入鹿暗殺の謀議を持ったという伝承を持つ。「大化の改新発祥の地」といわれる所以である。
 私が談山神社を訪れたのは、年末の平日。神社では初詣客を迎える準備に余念がない。


談山神社

 手前は神廟拝所、奥は十三重塔。いずれも国の重要文化財である。藤原鎌足は没後、摂津の安威山(現在の高槻市阿武山)に葬られたが、白鳳七年(678)唐より帰国した長男、定慧和尚が鎌足の遺骨の一部を多武峰山頂に埋葬し、併せて十三重塔と講堂を建立したのが談山神社の起淵である。


楠目清馬所用鎖網頭巾

 今回、談山神社を訪れたのは、平成二十年(2008)に公開された楠目清馬所用の鎖網頭巾を実見することにあった。楠目清馬は土佐藩出身。天誅組では砲一番組長として参加した。文久三年(1863)九月二十四日、鷲家口の戦争に敗れた清馬は、多武峰針道の辰巳家に一夜を過ごしたが、針道から倉橋に出ようとしたところで敵兵に見つかり、自刃した。享年二十二。鎖網頭巾は、清馬が一夜を過ごした辰巳家に残したものである。辰巳家では長く秘匿していたが、今般談山神社に寄贈されたのを機に公開されたである。清馬は若くして世を去ったため、これが唯一の遺品となっている。

(楠目清馬墓)


楠目清馬之墓

 倉橋の楠目清馬の墓である。地元では「すずめ墓」と呼ばれている。明治二十九年(1896)当地を訪れた同郷の土方久元(伯爵・宮内大臣)が清馬の墓を修理している。
 楠目清馬の墓は、倉橋地区の民宿「みどり荘」の前の急な坂を上っていくと、熊でも出そうな雑木林の中にある。


倉橋地区

(慈恩寺共同墓地)


関為之助之墓(左)
前田繁馬之墓

 近鉄朝倉駅の近く、慈恩寺交差点から南に入って、踏切を渡った山裾に慈恩寺共同墓地がある。その中に天誅組の変で若い命を散らした関為之助と前田繁馬の墓がある。
 前田繁馬は、檮原村の庄屋。安政六年(1859)、過失によって庄屋の職を追われたが、文久三年(1863)ニ月、親戚の前田要蔵が藩務で京都守衛の名目で上京するのに従って京都に出て、そこで尊王の諸氏と交わった。同年、天誅組の挙兵に参加。鷲家口で紀州、藤堂、彦根の大軍に囲まれたが、それを破って初瀬村に脱出した。繁馬は、ここで朝食をとっていたが、津藩士の探知するところとなり、全身に銃弾を受けて戦死した。享年二十九。関為之助もまた同所で討ち取られた。

コメント (2)
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