城は歴史の交差点である。城を舞台に数々のドラマが演じられた。たとえば、大政奉還が行われた二条城、天誅組が襲撃した高取城、徳川家茂が永眠した大阪城など。
私も幕末の史跡を回る中で、現時点で百六十余りの城もしくは城跡を訪ねた。訪問した台場・砲台の数も四十を越えた。陣屋数は数えていないが、やはり三十カ所以上は訪ねたように思う。本書によれば、明治維新時点で、全国に二百八十七藩、城郭は約百八十、要害は二十、陣屋は約百三十が存在していたそうである。とすれば、城郭はかなりの比率を踏破したことになるが、陣屋はまだまだ行かなくてはならないところがありそうである。
江戸時代以前に建てられた城郭は、まさに実戦を想定した要塞であった。その後、戦争のない時代が続くと、次第に「権威の象徴」へと変容していく。ところが、幕末騒乱の時代を迎えると、城は要塞としての機能を再び求められることになった。しかし、近代兵器を前に日本の城が要塞として用を成した例は、決して多くない。
幕長戦争では、浜田城、小倉城が焼亡したし、戊辰戦争でいえば、白河城、会津若松城、松前城、五稜郭(これは西洋式城郭であるが…)、いずれも城方が敗戦することになった。そういう意味では、西南戦争において薩軍の猛攻に耐えた熊本城の存在は特筆に値する。
明治以降、藩が財政難に陥ったこともあり、全国の城郭は次々に解体・破却された。その頃の日本人には、城に対してあまり深い思い入れはなかったようである。士族にとって城は「精神的シンボル」であり、これを破棄するのは憚られた。その躊躇いのため、一部の城郭は辛うじて破壊から免れることができた。
城郭の文化財的価値が評価されるようになったのは、ようやく明治も半ばを過ぎた頃である。古来、日本の建造物は木造が主流である。そのためか、日本人はあまり家屋を恒久的に使うことを想定していなかった。昔から日本ではスクラップ&ビルトが繰り返されてきた。古くなった城郭を保存しようという発想がなかったことも、仕方ないことかもしれない。現在、古天守閣が残る城は全国に十二。古建造物が現存する城郭は二十一に過ぎない。筆者は、「城郭の近代史からは、権威好きで、排他的で、新しいもの好きといった、愛すべき日本人の姿が見えて来る」と評するが、それにしても、少々残念である。
私も幕末の史跡を回る中で、現時点で百六十余りの城もしくは城跡を訪ねた。訪問した台場・砲台の数も四十を越えた。陣屋数は数えていないが、やはり三十カ所以上は訪ねたように思う。本書によれば、明治維新時点で、全国に二百八十七藩、城郭は約百八十、要害は二十、陣屋は約百三十が存在していたそうである。とすれば、城郭はかなりの比率を踏破したことになるが、陣屋はまだまだ行かなくてはならないところがありそうである。
江戸時代以前に建てられた城郭は、まさに実戦を想定した要塞であった。その後、戦争のない時代が続くと、次第に「権威の象徴」へと変容していく。ところが、幕末騒乱の時代を迎えると、城は要塞としての機能を再び求められることになった。しかし、近代兵器を前に日本の城が要塞として用を成した例は、決して多くない。
幕長戦争では、浜田城、小倉城が焼亡したし、戊辰戦争でいえば、白河城、会津若松城、松前城、五稜郭(これは西洋式城郭であるが…)、いずれも城方が敗戦することになった。そういう意味では、西南戦争において薩軍の猛攻に耐えた熊本城の存在は特筆に値する。
明治以降、藩が財政難に陥ったこともあり、全国の城郭は次々に解体・破却された。その頃の日本人には、城に対してあまり深い思い入れはなかったようである。士族にとって城は「精神的シンボル」であり、これを破棄するのは憚られた。その躊躇いのため、一部の城郭は辛うじて破壊から免れることができた。
城郭の文化財的価値が評価されるようになったのは、ようやく明治も半ばを過ぎた頃である。古来、日本の建造物は木造が主流である。そのためか、日本人はあまり家屋を恒久的に使うことを想定していなかった。昔から日本ではスクラップ&ビルトが繰り返されてきた。古くなった城郭を保存しようという発想がなかったことも、仕方ないことかもしれない。現在、古天守閣が残る城は全国に十二。古建造物が現存する城郭は二十一に過ぎない。筆者は、「城郭の近代史からは、権威好きで、排他的で、新しいもの好きといった、愛すべき日本人の姿が見えて来る」と評するが、それにしても、少々残念である。