京都は「古代から近代までの都市街路の重層性」が際立つ街である。このような街は、日本においては唯一無二。他国に目を向けてもローマのような欧州の古い都市しかないだろう。
たとえば幕末の史跡が集中する高瀬川沿いであるが、少し時代を遡れば角倉了以が開削した水運の要所であった。五条木屋町周辺は平治の乱の戦場になったというし、六条河原では石田三成が処刑された。
岡崎公園のある辺りは、江戸時代を通じて近郊農村に過ぎなかった。ところが幕末の風雲急を告げると、諸藩の藩邸が櫛比することになる。明治を迎えて藩邸が撤退すると一時もとの畑に戻るが、明治十四年(1881)以降、当時の府知事北垣国道により琵琶湖疎水事業が発企され、この地に開発の手が伸びる。特に平安遷都一一〇〇年を期して内国博覧会場が岡崎に決まると、平安神宮や岡崎公園が次々と建造される。岡崎周辺は、京都にしてみれば最近拓かれた地域なのである。
第十一章では大徳寺に至る「朝鮮通信使の道」を紹介する。江戸時代を通じて我が国は十二回にわたって朝鮮から使節を迎えている。歴史を振り返ると、江戸時代はもっとも両国関係が良好だった時代といえる。徳川幕府が、朝鮮通信使を厚遇した背景には、朝鮮出兵を強行した前政権(豊臣政権)を否定するという意図もあったかもしれない。
韓国の人たちは、未だに四百年も前の秀吉の朝鮮出兵のことを恨みがましく批判する。日本人にしてみれば、何としつこい人たちかと半ば呆れるばかりであるが、本書を読むと恨みがましくいわれてもしょうがないほどヒドイことをしたようである。朝鮮侵略において、多くの非戦闘員である民衆が巻き込まれ、「鼻斬り」の対象や略奪・殺害の対象になったほか、被虜人として日本に移送された。その数は数万に及んだ。朝鮮通信使が洛中に入り大徳寺を目指すと、涙を流しながらそれを見ていた朝鮮女性がいたという。「そういう時代だった」と開き直ることも可能だが、それにしてもヒドイことをしたものである。
今も方広寺大仏殿跡に耳塚を見ることができる。当時戦闘において相手を討ち取ると首級を上げる代わりに耳を削ぐことが行われていたが、「人には両耳があるが、鼻は一つである。朝鮮人の鼻を削いで、それを首級に代えよ」と秀吉が命じた。斬られた鼻は、塩漬けにされて秀吉のもとに送られ、それが「小高い一丘陵」に埋められた。
徳川政権は朝鮮通信使を耳塚に案内し、「報国の者を供養する将軍」をアピールしたというが、無神経というほかはない。さすがに享保年間に来日した通信使は、方広寺境内で宴会を開くことに異を唱えた。このとき随行していた雨森芳洲(対馬藩真文役)は、新井白石に進言して耳塚を竹垣で囲わせたという。
維新後の江華島事件、征韓論争、朝鮮併合という歴史を見ると、根底には「朝鮮蔑視」があったとしか思えない。
たとえば幕末の史跡が集中する高瀬川沿いであるが、少し時代を遡れば角倉了以が開削した水運の要所であった。五条木屋町周辺は平治の乱の戦場になったというし、六条河原では石田三成が処刑された。
岡崎公園のある辺りは、江戸時代を通じて近郊農村に過ぎなかった。ところが幕末の風雲急を告げると、諸藩の藩邸が櫛比することになる。明治を迎えて藩邸が撤退すると一時もとの畑に戻るが、明治十四年(1881)以降、当時の府知事北垣国道により琵琶湖疎水事業が発企され、この地に開発の手が伸びる。特に平安遷都一一〇〇年を期して内国博覧会場が岡崎に決まると、平安神宮や岡崎公園が次々と建造される。岡崎周辺は、京都にしてみれば最近拓かれた地域なのである。
第十一章では大徳寺に至る「朝鮮通信使の道」を紹介する。江戸時代を通じて我が国は十二回にわたって朝鮮から使節を迎えている。歴史を振り返ると、江戸時代はもっとも両国関係が良好だった時代といえる。徳川幕府が、朝鮮通信使を厚遇した背景には、朝鮮出兵を強行した前政権(豊臣政権)を否定するという意図もあったかもしれない。
韓国の人たちは、未だに四百年も前の秀吉の朝鮮出兵のことを恨みがましく批判する。日本人にしてみれば、何としつこい人たちかと半ば呆れるばかりであるが、本書を読むと恨みがましくいわれてもしょうがないほどヒドイことをしたようである。朝鮮侵略において、多くの非戦闘員である民衆が巻き込まれ、「鼻斬り」の対象や略奪・殺害の対象になったほか、被虜人として日本に移送された。その数は数万に及んだ。朝鮮通信使が洛中に入り大徳寺を目指すと、涙を流しながらそれを見ていた朝鮮女性がいたという。「そういう時代だった」と開き直ることも可能だが、それにしてもヒドイことをしたものである。
今も方広寺大仏殿跡に耳塚を見ることができる。当時戦闘において相手を討ち取ると首級を上げる代わりに耳を削ぐことが行われていたが、「人には両耳があるが、鼻は一つである。朝鮮人の鼻を削いで、それを首級に代えよ」と秀吉が命じた。斬られた鼻は、塩漬けにされて秀吉のもとに送られ、それが「小高い一丘陵」に埋められた。
徳川政権は朝鮮通信使を耳塚に案内し、「報国の者を供養する将軍」をアピールしたというが、無神経というほかはない。さすがに享保年間に来日した通信使は、方広寺境内で宴会を開くことに異を唱えた。このとき随行していた雨森芳洲(対馬藩真文役)は、新井白石に進言して耳塚を竹垣で囲わせたという。
維新後の江華島事件、征韓論争、朝鮮併合という歴史を見ると、根底には「朝鮮蔑視」があったとしか思えない。