山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、土生玄碩、楠本いね、中川五郎治、笠原良策、松本良順、相良知安、荻野ぎん、高木兼寛、秦佐八郎といった、江戸時代後期から近代にかけて登場した医師12名を取り上げる。吉村昭は、この後、「日本医家伝」で取り上げた12人のうちの6人を題材にして「めっちゃ医者伝」(笠原良作)、「冬の鷹」(前野良沢)、「北天の星」(中川五郎治)、「ふぉん・しーほるとの娘」(楠本いね)、「白い航跡」(高木兼寛)、「暁の旅人」(松本良順)に長編化している。
これまでも「ふぉん・しーほるとの娘」、「白い航跡」、「暁の旅人」を読んでいたので、でっきり吉村昭の得意分野だと思っていたが、本書の「旧版文庫版あとがき」によれば、当初「クレアタ」という季刊雑誌の編集長をしていた岩本常雄氏から依頼があった際、「私には未知の分野で、調査もどのようにすべきかわからず、満足のゆける作品を書くことは不可能に思えた」と告白している。つまり「日本医家伝」を手掛ける前の吉村昭氏は、近代医史については得意分野ではなかったのだろう。それがこの作家における一つの大きな作品群の潮流の一つになったことを思い合わせると、「日本医家伝」の重みが理解できる。
個人的に興味深かったのが、前野良沢であった。歴史の授業で「ターヘル・アナトミア」「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」と呪文のように記憶したが、本書によれば、翻訳事業を進めるにつれ、杉田玄白と良沢の間にはずれが生じ、次第に溝が深まり、両者は距離を置くようになったというのである。その理由は野心家の杉田玄白が刊行を急いだことにあったらしい。一方の良沢は、「解体新書」は甚だ不完全な訳書であり、さらに年月をかけて完全なものにしてから刊行したいと考えていた。良沢は学者としての良心から自分の名を公けにすることを辞退し、その結果、「解体新書」の訳業をリードした前野良沢の名前は剥除された、というのである。良沢は、「解体新書」の刊行後も、オランダ語研究に没頭し、多くの訳書を残したが、それを刊行することすらしなかった。杉田玄白と前野良沢、その名前は常に並び称されるが、筆者吉村昭がどちらに好感を抱いているかは明らかであろう。
本書でもっとも感銘を受けたのが、笠原良策(白翁)である。福井の医家に生まれ、若くして名声を得ていた良策であるが、ある日西洋医学の優れていることを聴き、西洋医学に強く引き付けられた。三十一歳のとき、京都に上って蘭医日野鼎斎の門に入り、研鑽に励んだ。いったん福井に戻って西洋医学を広めたが、それに飽き足らず再び京都に上って蘭医学の修得に努めたとされる。
その頃、西洋には「種痘」により天然痘を予防する治療法が確立していて、既に中国でも種痘法が伝わっていた。当時、日本では毎年のように天然痘が流行して多数の人が死亡していた。幸い命は助かっても顔に見にくいあばた(痘痕)が残り、人々を終生嘆き悲しませていた。
良策は痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出したが、何度も役人の手で握りつぶされたしまった。福井藩主松平春嶽へ建言するという最終手段により、ようやく幕府から牛痘輸入許可がおりた。嘉永2年(1849)、長崎に痘苗を入手しに行く途中、京都で痘苗を入手することに成功し、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていくしか確実な方法が無く、種痘を施した幼児を連れて雪深い藩境の峠を越えるという決死行によって福井城下に痘苗を運んだ。金とか名誉ではなく、とにかく民を救いたいという一心でここまでやる彼の情熱に心を動かされるものがある。
吉村昭は、この短編を端緒として「めっちゃ医者伝」(のちに改題・補填して「雪の花」)を発表している。「雪の花」を原作として、来年には映画化されるらしい。笠原良策(白翁)は、一般にはほとんど知られていない人物であるが、「福井にこんなにエライ人がいたんだ」という感動で熱くなる。「雪の花」も読んでみたいし、映画も見てみたいと思う。