史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「日本医家伝」 吉村昭著 中公文庫

2024年11月25日 | 書評

山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、土生玄碩、楠本いね、中川五郎治、笠原良策、松本良順、相良知安、荻野ぎん、高木兼寛、秦佐八郎といった、江戸時代後期から近代にかけて登場した医師12名を取り上げる。吉村昭は、この後、「日本医家伝」で取り上げた12人のうちの6人を題材にして「めっちゃ医者伝」(笠原良作)、「冬の鷹」(前野良沢)、「北天の星」(中川五郎治)、「ふぉん・しーほるとの娘」(楠本いね)、「白い航跡」(高木兼寛)、「暁の旅人」(松本良順)に長編化している。

これまでも「ふぉん・しーほるとの娘」、「白い航跡」、「暁の旅人」を読んでいたので、でっきり吉村昭の得意分野だと思っていたが、本書の「旧版文庫版あとがき」によれば、当初「クレアタ」という季刊雑誌の編集長をしていた岩本常雄氏から依頼があった際、「私には未知の分野で、調査もどのようにすべきかわからず、満足のゆける作品を書くことは不可能に思えた」と告白している。つまり「日本医家伝」を手掛ける前の吉村昭氏は、近代医史については得意分野ではなかったのだろう。それがこの作家における一つの大きな作品群の潮流の一つになったことを思い合わせると、「日本医家伝」の重みが理解できる。

個人的に興味深かったのが、前野良沢であった。歴史の授業で「ターヘル・アナトミア」「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」と呪文のように記憶したが、本書によれば、翻訳事業を進めるにつれ、杉田玄白と良沢の間にはずれが生じ、次第に溝が深まり、両者は距離を置くようになったというのである。その理由は野心家の杉田玄白が刊行を急いだことにあったらしい。一方の良沢は、「解体新書」は甚だ不完全な訳書であり、さらに年月をかけて完全なものにしてから刊行したいと考えていた。良沢は学者としての良心から自分の名を公けにすることを辞退し、その結果、「解体新書」の訳業をリードした前野良沢の名前は剥除された、というのである。良沢は、「解体新書」の刊行後も、オランダ語研究に没頭し、多くの訳書を残したが、それを刊行することすらしなかった。杉田玄白と前野良沢、その名前は常に並び称されるが、筆者吉村昭がどちらに好感を抱いているかは明らかであろう。

本書でもっとも感銘を受けたのが、笠原良策(白翁)である。福井の医家に生まれ、若くして名声を得ていた良策であるが、ある日西洋医学の優れていることを聴き、西洋医学に強く引き付けられた。三十一歳のとき、京都に上って蘭医日野鼎斎の門に入り、研鑽に励んだ。いったん福井に戻って西洋医学を広めたが、それに飽き足らず再び京都に上って蘭医学の修得に努めたとされる。

その頃、西洋には「種痘」により天然痘を予防する治療法が確立していて、既に中国でも種痘法が伝わっていた。当時、日本では毎年のように天然痘が流行して多数の人が死亡していた。幸い命は助かっても顔に見にくいあばた(痘痕)が残り、人々を終生嘆き悲しませていた。

良策は痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出したが、何度も役人の手で握りつぶされたしまった。福井藩主松平春嶽へ建言するという最終手段により、ようやく幕府から牛痘輸入許可がおりた。嘉永2年(1849)、長崎に痘苗を入手しに行く途中、京都で痘苗を入手することに成功し、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていくしか確実な方法が無く、種痘を施した幼児を連れて雪深い藩境の峠を越えるという決死行によって福井城下に痘苗を運んだ。金とか名誉ではなく、とにかく民を救いたいという一心でここまでやる彼の情熱に心を動かされるものがある。

吉村昭は、この短編を端緒として「めっちゃ医者伝」(のちに改題・補填して「雪の花」)を発表している。「雪の花」を原作として、来年には映画化されるらしい。笠原良策(白翁)は、一般にはほとんど知られていない人物であるが、「福井にこんなにエライ人がいたんだ」という感動で熱くなる。「雪の花」も読んでみたいし、映画も見てみたいと思う。

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「関東・東北戊辰戦役と国事殉難戦没者」  今井昭彦著 御茶の水書房

2024年11月23日 | 書評

タイトルを見て、全国の戊辰戦争の戦跡や殉難者の墓を訪ねてきた私としては、避けて通れない書籍だと確信した。年に数冊、日本から取り寄せることができるその中の一冊に、迷うことなくこの本を選んだ。もし値打ちものなら、「戊辰掃苔録」の竹さんにも紹介しないといけない。

しかし、期待が高かっただけに、読み進めていくうちに期待は途端に落胆に変わってしまった。その理由は下記の3点に集約される。

  • プロローグにおいて、国事殉難者は靖国神社を頂点としたピラミッド体系に整理されるとしている。本書は、それを具体的に証明するものかと思って読み進めたが、どうもそうではない。ところどころ、西軍の殉難者がカミとして祀られているとか、東軍の殉難者がホトケとして葬られているという記述が散見されるが、最後まで体系的な解説を読むことはできなかった。筆者にしてみれば、前著で言及済ということかもしれないが、前著を未読の読者にしてみれば、消化不良感が残る。
  • 平成二十九年(2017)に野口信一氏が「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実—戊辰殉難者祭祀の歴史—」(歴史春秋社)において、会津落城後の、西軍(新政府軍)による東軍戦没者への「埋葬禁止令」は、虚構であったと主張した。従来から定説となっている、東軍戦没者の遺体が放置され、埋葬されなかったというのは事実に反するとしたのである。本書では、「第四章 会津戊辰役と殉難戦没者」のうち、ほぼ一節を割いて会津城攻防戦の経緯を追い、戦没者の遺体が阿弥陀寺や長命寺に埋葬された経緯を解説している。だから東軍戦没者の遺体は埋葬が禁じられたのか、やはり野口氏が主張するように埋葬禁止は虚構だったのか、それについての著者の最終的な見解は明確にはなっていない。

――― 埋葬作業というものは、単純なものではなく、それを巡っては、様々な事例が考えられることに留意する必要があるだろう。今後の検討課題である。

として、本書で結論を出すことを避けている。プロローグにおいて「果たして「五〇年目の真実」とは、どうであったのか。本書では、こうした野口説を念頭に置きながら、再検討を試みるものである」としておきながら、「それはないだろう」という気がする。

  • 結局のところ、本書において大半を占めているのは、出流山事件、梁田における戦闘、白河城攻防戦、二本松攻防戦、母成峠の戦い、そして会津鶴ヶ城攻防戦の経緯に関する記述である。けれど、これくらいの記述であれば、ほかにもっと詳しく描いている本はいくらでもある。特に新発見があるわけでなく、やや退屈であった。

本書の副題は「上州・野州・白河・二本松・会津などの事例から」である。メイン・タイトルと合わせると随分と長いタイトルであるが、タイトル、中身とも要領を得ない。結局のところ最後まで読んでも何が言いたいのか分からないものであった。

とはいうものの、白河市付近での建碑状況(表1)や会津西軍墓地での土佐藩埋葬者一覧(表2)、土佐藩の戊辰役殉国者墳墓一覧(表3)など、網羅的なリストが掲載されているのは有り難い。改めてこのリストと照合して、抜けがないか確認したところ、新潟県村上市の一部の墓地は未踏であることが判明した。いずれ新潟県内はもう一度回らなければならない。その日が待ち遠しい。

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「悲劇の改革者 調所笑左衛門」 原口虎雄著 草思社

2024年10月27日 | 書評

本書は昭和四十一年(1966)に中公新書から発刊された「幕末の薩摩 悲劇の改革者調所笑左衛門」の主題・副題をひっくり返して改題し、実に五十八年ぶりに復刊したものである。それまで「悪の張本人」とされ、怨嗟の的であった調所に光を当て、彼の功績を浮かび上がらせた名著である。自宅の本棚には「幕末の薩摩」があるが、改めてこの本を手にとって調所笑左衛門という人の事歴を追ってみることとした。

この人物が「悪役」とされるのは、お由羅騒動で斉興・お由羅側についたためである。つまり、明治維新の勝者である薩摩藩の討幕派からは蛇蝎のごとく嫌われたのである。そのため調所一族は零落し、孫のノブ女は、鞠や押絵の内職に励み、夜になると一里も離れた町まで呼び売りに出かけ、時に旅館の二階まで上がって鞠を売った。「金助鞠鞠(まいまい)」と寒風の中で叫ぶ少女の哀音は、地方郷士の憐みをさそったという。

調所笑左衛門広郷は江戸と国元を往復する茶坊主であった。しかし、その後御小納戸勤を命じられ、ついで御小納戸頭取御用、御取次見習を兼務した。さらに御使番、町奉行へと栄進した。いずれも時の藩主島津重豪の引き立てによるものであった。

文政七年(1824)、五十歳のとき再び君側に招かれ御側御用人という重要ポストに任じられた。そして文政十一年(1828)、重豪の命により藩政改革の大任を奉じ、家老中にも指揮せよとの上意を受けた。一介の茶坊主に過ぎなかった調所がこうして抜擢されたのは、彼の有能さを重豪が見抜いたからにほかならない。重豪の見立てに狂いはなかったといえよう。

一口に「改革」というが調所の手がけた改革は多岐にわたる。

  1. 当時の薩摩藩にとって最大の課題が財政改革である。調所がやったことの筆頭に挙げられるのが五百万両にも及ぶ借金の踏み倒しである(実際には二百五十カ年年賦の無利子償還)。証文を集めてすべて焼き払ってしまったというからかなり乱暴な手口である。
  2. 続いて冗費削減と国産開発。藩費の半分以上を占める営繕費用の削減。木材などの資材を直接調達したり、手続きを簡素化することで支出の合理化を進めた。
  3. 冗費削減の典型例として挙げられるのが南西諸島と大阪を結ぶ海運の大改正。大船を建造して米や砂糖をタイムリーに廻送できる体制をととのえた。
  4. 菜種子、櫨蠟、煙草、椎皮、椎茸、牛馬皮、海人草、鰹節、捕鯨、櫓木、硫黄、明礬、石炭、塩、木綿織物、絹織物、薩摩焼などの物産開発に手を付けた。同時に流通の合理化をすすめた。
  5. 三島方を設置して奄美三島の黒糖の専売化を推進した。島民への生産強制、品位改良、密売の徹底的取締り、運賃の削減、交換比率のペテン的低率適用、そして高値での売りさばき。
  6. 農政改革では、従来、「上見部下り」と呼ばれ、天災を口実に年貢の軽減を受ける悪弊が常態化していたのを「定免制」に転換した。
  7. 軍制改革。家禄高に応じた軍賦を逃れるため、高の売買が横行していたが、その改革に着手した。

調所は多方面の改革を精力的に、しかも二十年の長きにわたって取り組んだ。彼はもともと茶道や花、囲碁、将棋、詩歌、角力などを好んだが、藩政改革に従事するとフッツリとやめ、部下がこれらの趣味に走ることをひどく嫌ったという。毎年、十月頃に国元を出発し、途中長崎、大阪、京都に逗留しながら陣頭指揮をとった。一年のうち家族と同居するのはわずかに二~三か月という生活を二十年以上にわたって続けた。毎日、登庁前に来客と用談し、帰宅後も夜半まで応接に忙殺された。「とにかく大変な精力家で、たまに徹夜をしても、翌日ちょっと居眠りするだけで精神が爽やかになった」というから一種の超人だったのだろう。側近のものでも調所のだらけた姿を見たことがないといわれる。反調所派や反由羅派があら探しに奔走したが、何も見つからなかった。徹頭徹尾生活は質素であり、これだけ権力を掌中にしながら一切汚職に手を染めることもなかった。

調所の眼からすれば、斉彬は「偏に洋癖に固まり珍奇を衒ひ(てらい)、無用の冗費をつくされ、用度(必要な費用)為に空竭(くうけつ:すっからかんになる)に至らん」「(斉彬)公は高祖重豪公の風あれば、或いは驕奢に募り、わずかに立ち直らんとする御家の先途も危からん」と映じた。江戸育ちで、しかも重豪の膝下に愛育された斉彬を、全く所帯の苦労を知らぬハイカラ若殿と感じたのは無理もないことで、「財布の底を見ないで行なう文明開化は、重豪で充分に懲りていた」とされる。

しかし、日本に危機が迫り、老中阿部正弘をはじめとした幕閣からも諸侯からも斉彬の登場を嘱望されていた。調所の判断ミスがあったとすれば、新しい時代が来ていることを察知できなかったことであろう。

嘉永元年(1848)時点で、斉興は58歳、斉彬は既に40歳になっていたが、斉興は頑なに家督を譲ろうとしなかった。そこで斉彬は阿部正弘と結託して、調所の密貿易事件を密告し、まずは斉興の両翼というべき調所と二階堂志津馬を失脚させるべく、周到な手を打った。密貿易というのは、弘化三年(1846)、琉球の使者池城(いけぐすく)が中国へ渡航して交渉し、十万両の品物を薩摩から密輸出し、同時に琉球の残留外国人を連れ帰ることを取り決めた、このことを指している。当時薩摩領内の津々浦々には密貿易の専門家がいた。公許された琉球貿易を隠れ蓑にして、その裏では盛大な藩営密貿易を行っていた。調所はその陣頭に立ち、年に二度は必ず長崎に立ち寄って指揮をしていた。この秘密が絶対に漏れないように周到な裏面工作を行っていたというから、これが幕府の知るところとなった(実は斉彬から阿部へ意図的に漏らした)とは、さすがの調所も驚倒したであろう。このままでは藩主斉興の立場が危ういと思った調所は、罪を一身にかぶって服毒自殺を遂げた。彼は「改革が完成するまでは隠退しない」と周囲に伝えていたという。無念の死であった。齢七十三。

幕末の薩摩藩が圧倒的な財力によって、政局をリードし、遂には倒幕の主体となったのは周知のとおり。その財力を築き上げた最大の功労者は調所笑左衛門であり、本来討幕運動にかかわった人たちは調所に足を向けて寝られないはずである。斉興―由羅―調所VS斉彬という対立図式でみれば、調所は怨嗟の対象であり悪役となってしまうが、調所を抜擢したのは斉彬の曽祖父である重豪であるし、由羅の子久光なくして討幕はあり得なかった。幕末の薩摩藩は、単純な対立構造で説明できるものではなく、両者は複雑に絡み合っている。維新の功労者であっても、調所笑左衛門を悪人呼ばわりすることはできないはずなのである。

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「川路利良 日本警察をつくった明治の巨人」 加来耕三著 中央新書クラレ

2024年10月27日 | 書評

本書は、今から二十年前の平成十六年(2004)に講談社+α文庫より「日本警察の父 川路大警視」として発刊されたものを再編集して改題したものである。さすがにこの二十年で見直された歴史について、最新の知見が反映されていないのはしょうがないとして、明らかな誤り(たとえば、出羽米沢出身の千阪高雅を石川県士族としたり、京都府参事の槇村正直のことを植村正直と表記したり…)は訂正して欲しかった。

川路利良という人物の特質が一番よく表れているのが、明治六年の政変の後、西郷隆盛が辞職して帰郷すると、文武の薩摩系官吏が一斉にあとを追って辞職した場面である。この時、警保助兼大警視であった川路は、ほかの警保寮の奏任官とともに太政官に上申書を提出している。

「臣等惶恐(せいきょう)俯(ふし)て惟(おも)ふ。刑罰は国家を治ル要具、則(されば)一人を懲して千万人恐る。」

公明正大であるべき法の執行に愛憎(私情)を挟むのはおかしい。「曩(すで)に京都府参事槇村正直、拒刑の罪あり」――― それを拘留しておきながら、今ふいにそれを解くのは「臣等驚き且つ怪しむ」。邏卒たちが懸命にその職務を遂行するのは「一に信賞必罰法令厳重にして、以て之を約束せざるなし」だからであって、「今若し政府愛憎を以て、法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、即ち曰はん、国家の大臣信ずるに足らざるべしと、既に如斯(そのごとく)、況(いわん)や区々の法令約束何の頼む所ありて能く勤労せん。数千の属員をして一度離心を抱かしめ、法令行はれざるに及んで、遂に制馭する能はざるの勢に至る必せり」これは「近衛の士卒非役を命ずる者数千人」も同罪と断じた。

川路は幕末以来、西郷によって卑賎の身から引きたてられた経歴をもつ。周辺の人間は誰もが川路も西郷のあとを追って下野するだろうと考えていたが、川路の発想は全く異なっていた。ここに彼の思想や国家観を見ることができる。国家の仕事を遂行するのに、愛憎だとか恩義とかを持ち込むべきではないというのである。

川路は「冀(ねがわ)くば政府速(すみやか)に明諭し、(槇村)正直の為に下す所の特命の旨と近衛兵動揺のことの由とを審」せよと主張し、この上申書の勢いそのまま上司である大久保利通に迫った。大久保は川路に対して懸命の説得を行い、最後は「もう少し時期を待って欲しい」と懇願することで川路はようやく矛を納めるところとなった。川路は、よく言えば筋を通す熱血漢、悪く言えば融通がきかない頑固者であった。

川路と対照的だったのが、同じ薩摩出身の同僚、坂元純煕であった。坂元は、川路が洋行する直前に川路と並んで警保寮助大警視に就任し、川路の留守中警保助として実質的に警察を取り仕切った人物である。坂元は警保寮が司法省から内務省に移管された明治七年(1874)一月十日、辞表を提出した。この時、鹿児島出身の警察官吏約百余人もこれに従った。坂元は一旦鹿児島に戻ったものの、旧近衛兵の連中とはそりが合わず、間もなく東京に戻ってきた。しかし、さすがに内務省には戻れず、陸軍省に入った。西南戦争にも少佐として従軍した(因みに川路は西南戦争時には臨時的に陸軍少将に昇進している)。

彼は連日眠る時間を惜しんで職務に尽くした。睡眠時間を四時間と定め、死ぬまでそれを実践した。己に厳しいだけではく、警察官に「警官は人民のために死すべし」と訓示し、警察官は国家、国民の盾であり、滅私奉公以外につとめようはないとし、厳格な規律をもとめた。今なら過労死を厭わないパワハラ上司ということになるだろう。しかしながら、我が国の警察の草創期にこのような意思堅固な指導者を頂いたことは、現代日本の警察の姿を思い合わせると警察にとっても幸運だったのではないだろうか。

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「航西日記」 杉浦譲・渋沢栄一共著 大江志乃夫現代語訳 講談社学術文庫

2024年08月24日 | 書評

本書「航西日記」は長らく渋沢栄一の手によるものとされてきたが、近年の研究の結果、前半三分の二は杉浦譲、後半の三分の一(杉浦が帰国後の部分)が渋沢栄一の作であることが明らかになった。渋沢栄一については改めて説明の必要もないだろうが、杉浦譲(号・藹山(あいざん))という人は明治十年(1877)に41歳という若さで世を去ったこともあって、あまり世の中に知られているとは言い難い。天保六年(1835)の生まれで、渋沢より5歳の年長。甲斐出身の幕臣である。通称は愛蔵。甲府勤番士ののち、江戸で外国奉行支配書物出役。文久三年(1863)および慶応四年(1867)の二度にわたって渡欧した。維新後は明治政府に出仕し、郵便制度の確立などに努め、郵便切手の創始者としても知られる。本書によれば過労のため明治十年(1877)没。

慶応三年(1867)一月十一日、徳川昭武一行が乗船したフランス郵船アルヘー号は横浜港を出港した。昭武に随行したのは外国奉行向山一履(黄村)、傅役(もりやく)山高信離(のぶあきら)、田辺太一、杉浦譲、渋沢栄一のほか、水戸藩からの警護役七名や伝習性、さらに商人として万博に参加した清水卯三郎らである。

彼らは上海、香港に寄港し、インド洋から紅海に入り、スエズ運河の開削工事を見ながら地中海に出て、マルセイユに上陸した。欧州上陸に至るまでも、彼らは観察を怠らない。

――― 土地がやせ、飲水も自由でなく、生活が困難なので、どうしても勤勉でなければならない。地味の肥えているかやせているかのちがいは、民の苦楽のちがいであることがまざまざとわかる。肥沃な土地に生まれて遊惰安逸にすごし、こんな土地もあるということを知らずにすむのは、幸せというべきか、また不幸というべきか。やせた土地の民は勤勉で剛健、事があればすぐに武器をとって起つ。富国強兵の基礎である。肥沃の民は遊惰で柔弱で、戦場にたつことをきらう。亡国の原因をなすものである。

と評する。一般論としては正しいかもしれない。フィリピンやマレーシアやベトナムの人たちは、黙っていてもバナナやパパイヤができる土地で生活しており、猛暑の中、汗水をたらして働くことにさほど価値を見出さないというのも理解できなくはない。

ただし、そういう土地にあっても、中国やインドから出稼ぎ目的で渡ってきて、そこに生活の基盤を置いている連中はちょっと違う。己の才覚と人脈が生活の糧である。

明治六年(1873)六月二十二日(太陽暦では七月二十三日)の項では、カリナニ新聞というフランス現地で発刊されている新聞の記事を転載している。欧州における日本人の習俗に関する評判についての記事であり、今に連なる日本人論の走りみたいなものである。

その記事によれば、「日本人は平常、精神や行いをつつしむことがなく、淫楽に耽ることを楽しんでいるだけ」という記事が上海で発刊されている漢字新聞に掲載されたという。その証拠にあげられているのが、オールコック(初代駐日英公使)が日本国内旅行を企画したとき、日本の茶店の制度が良くないため、別に旅宿を設けるよう希望したことである。日本人は怠惰淫逸であって不潔、性情も日に日に堕落し、その結果、人口も年々減少しつつあるという。確かに当時の日本において、宿場の飯盛り女は当たり前のように性的サービスを提供していたし、公衆浴場における混浴も当たり前という社会であった。道徳観念の発達した西洋人からみれば、「淫逸」と評されてもしかたないだろう。

当該記事にはこれに対する反論も掲載されている。日本男性は身体強壮であって、女性は健康で血色も美しい。西洋の発明を取り入れることに力を尽くし、知能も優れている。日本は衰弱する人種ではない。むしろ、かつてインド洋や太平洋までさかんに航海を行った伝統にかえって、再び盛んになるだろうというのである。

どちらが正しいというものではなく、両論とも日本人の本質を突いているというべきであろう。注目すべきは、杉浦譲が敢えてこの長文の日本人論を「航西日記」に転載したという事実である。海外からどのように見られているのかを気にする日本人の性質は、この頃から今に至るまで脈々と受け継がれている。

私もベトナムに住んで2年が経とうとしている。この国は日本とほぼ同等の国土面積を有し、人口も1億人に達した。つまり外形的には日本と遜色ない国力を有しながら、経済力(GDP)でいえば日本の十分の一にも満たない規模である。この違いは「日本人は優秀でベトナム人はそうでないから」生じた結果なのだろうか。ベトナム人と2年ほど一緒に仕事をしてみて、私には両国民の能力にそれほどの差があるように思えない。(他人の迷惑をまったく顧みないとか、衛生観念・公共意識が完全に欠落しているとか、法やルールを守ろうという意識がないといった)欠点を論うとキリがないが、ベトナム人は押しなべて勤勉であるし、手先も器用だし、従順である。

ベトナムは19世紀の前半にフランスの侵攻を受け、フランスの植民地とされた。そのため西洋文明との接触は日本より数十年も早い。蒸気機関を積極的に取り入れた形跡はないが、少なくとも銃砲などの武器については西欧の優位性を理解して採用している。にもかかわらず、何故ベトナムでは我が国のように近代化が進まなかったのだろう。これはベトナムに限った話ではなく、アジア全般にいえることである。中国にしても、西洋文明との接触は日本よりずっと早かったのである。

私が感じているのは、当時のリーダーの資質の差ではないかということである。西洋文明に接した日本には、大久保利通や伊藤博文といった政治家にとどまらず、「航西日記」の著者である渋沢栄一や杉浦譲、あるいは啓蒙思想家福沢諭吉といった人たちが、各分野で西欧の文明を咀嚼して我が国を導こうとした。「航西日記」においても、単に西洋の進んだ文明を紹介するのではなく、それを支える社会の仕組みにまで筆が及んでいる。渋沢らは、国力の源は軍事力ではなく経済力である(つまり富国あっての強兵である)ことに着目し、その背景には経済活動に誰もが参加できる民主的な競争社会があることを見抜いた。そこで彼らは紙幣や株券、公債の仕組みを研究し、帰国後銀行制度や商業会議所などのソフト面を重視し、それを積極的に我が国に導入しようとした。

清王朝期の中国や阮朝時代のベトナムに、そのようなリーダーはいなかった。ベトナム人や中国人のために弁解すれば、彼らは近代化する前に独立する必要があった。この時期に革命家や独立運動家として著名な人は生まれたが、その先の近代化まで手が回らなかったという不運な側面は否定できない。幸いにして日本は植民地化を免れ、近代化において先行することができたが、日に日にその先行者としてのアドバンテージは失われつつある。我が国は既に人口減少時代を迎えており、このままいくと自分の孫やひ孫の時代には、経済力でも人口の多いほかのアジアの国に抜かれてしまうのではないか、という危機感をいだかざるを得ない。

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「東京・横浜 激動の幕末明治」 安藤優一郎著 有隣新書

2024年07月27日 | 書評

ペリーは、当初幕府から条約交渉の場として提案のあった浦賀を拒否し、江戸もしくはその近くを主張して譲らなかった。幕府はその圧力に屈し、横浜村での交渉を提案した。半農半漁の寒村であった横浜が歴史の表舞台に登場したのは、嘉永七年(1854)二月十日、日米和親条約の交渉がこの地で開始された場面からである。その後、三月三日に条約が調印される。

安政五年(1858)、日米通商修好条約が締結された。交渉の結果、江戸、品川、大阪、平戸は開港場から外され、箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の五港が開港されることが決まった。ハリスは神奈川と横浜の両方を開港地として条約に明記するよう主張したが、幕府は神奈川だけで良いと応じたため、条約では横浜は開港地とされなかった。

神奈川は街道上にあって陸上交通の要衝であっただけでなく、神奈川湊を備えていたため水上交通でも要衝の地であった。人の往来の激しい神奈川に開港場を設置すると、外国人とのトラブルが起きることは明らかであった。神奈川に開港場を置くことは、攘夷の志士にその機会をわざわざ与えるようなものであった。そこで横浜開港案が浮上し、幕府は「横浜は神奈川の一部」という論法で強行突破を図った。

当然、欧米の外交団は横浜開港に猛反発し、神奈川の開港を強く要求した。特に通商条約締結の先鞭を切ったハリスは強硬であった。横浜のことを「出島」とまで表現し、憤激のあまり「自分の目の黒いうちは横浜開港を認めない。」と言い切っている。

この勢いに幕府は腰砕けになり神奈川における居留地設置を受け容れたが、一方で日本との貿易のために横浜に来た外国商人たちは、続々と横浜の居留地に住み始めた。横浜は大型船舶が停泊できる天然の良港を備えていたことに加え、もともと農村であったため未開発の土地が広がっていた。住居だけでなく倉庫にも転用可能な土地が、人口密集地であった神奈川と比べてまだまだ残されていたのである。ついには商人たちの方から「横浜を開港地にして欲しい」と懇願されるに至り、外交団も横浜居留地として認めざるを得なくなる。

安政六年(1859)六月に開港となった横浜であるが、勅許を得られないまま通商条約を締結したことで朝廷から厳しく責め立てられることになった。そこで幕府は、七、八年から十年以内に条約を破棄して攘夷を実行すると約束してしまう。文久三年(1863)には横浜・箱館・長崎の鎖港をイギリスに申し入れる。その後、鎖港交渉は横浜に絞られるが、いずれにせよ欧米列強は相手にしなかった。その年末、幕府は横浜鎖港を目的として使節団(正使池田長発)をヨーロッパに送ったが、もちろんそのような無茶な交渉がうまく行くはずもなかった。

最終的に横浜が貿易港として朝廷から認められたのは、慶應元年(1865)九月、四か国連合艦隊が兵庫沖に集結して威嚇し、これを受けて将軍慶喜が強く勅許を求めた結果、ようやく正式に開港地となったのである。実際に開港されて六年の歳月が過ぎていた。その間、横浜は常に政争の具となったが、たくましく発展を続けた。

横浜は自由貿易の舞台として、日本の経済に大きな影響を与える存在となったが、欧米人が居住地に住んだことにより、同時に西洋の生活文化の発信地になった。現代に生きる我々にとっても、横浜といえばお洒落でハイカラなイメージが強いが、そのイメージは明治から続いているのである。たとえばガス灯やアイスクリーム、テニス、競馬などは横浜が発祥の地となっている。

明治に入って東京築地にも居留地が設けられ外国人がそこに居住したが、その規模は横浜居留地と比べるとはるかに小さかった。築地居留地の面積は約二万八千坪にとどまったのに対し、横浜居留地は明治七年(1874)の段階で約三十七万八千坪に達した。築地には貿易商人はほとんど居住しておらず、公使館や領事館のほか、宣教師や医師、教師が多く、彼らが設立したミッションスクール(明治学院大学や立教大学等)や病院が置かれたが、横浜のような文明開化の発信地とはならなかった。

明治十年代に入ると、東京に貿易港を築き、横浜の貿易業務を東京に移管しようという計画が浮上した。事実上の横浜廃港につながりかねない計画であり、横浜としては看過できない議論であった。激しい反対運動が展開された結果、東京築港案は頓挫したが、対照的に横浜港の改良事業は進展を見せた。今日に続く横浜発展の基礎はこの時期に築かれたのである。以来、わずか百五十年ほどの間に、東京の発展とともに横浜にも人口が集中し、現在では人口三百七十万人超と大阪、名古屋を抜いて全国一の巨大都市にまで成長を遂げている。

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「福沢諭吉 変貌する肖像」 小川原正道 ちくま新書

2024年07月27日 | 書評

福沢諭吉といえば、明治を代表する啓蒙思想家である。「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「丁丑公論」など多くの著作があるが、個人的には読み通したことがあるのは「瘦我慢之説」くらいのもので、福沢をとりまく評価の変遷を読んでも今一つピンと来ないものがあったが、その中でも「なるほど」と思ったこと2点について書き残しておきたい。

ちょうどこの本を読んでいるさなかに、一万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一へ切り替わった。福沢諭吉が一万円札の顔として登場したのは、昭和五十九年(1984)のことである。福沢が文化人の象徴として紙幣の顔に取り上げられた背景には、「学問のすゝめ」に代表される啓蒙思想家としての側面が国民一般の間に広く認知されていることがある。

しかし、一万円札の肖像に選ばれた昭和五十年代にあっても、福沢論は定まっていなかった。国権論者・国家主義的という批判もあれば、「脱亜論」(明治十八年(1885))の解釈を巡って、福沢の「闇」の部分の論評も盛んにおこなわれていた。「脱亜論」は「時事新報」上に無署名で発表されたこともあって、戦前論壇で注目を集めることはなかった。これが福沢の論説として取り上げられるようになったのは戦後のことである。左派イデオロギーの立場からは、福沢は「経済的不平等について無関心」「資本家を擁護し、労働階級の抵抗を恐れた」(小松周吉1962)「「富豪の致富」を積極的に奨励した「ブルジョアイデオローグ」」(家永三郎1963)「帝国主義的国内政策の模倣」(ひろた1962)「下流人民を切り捨て、朝鮮民衆の可能性を無視して、これを踏み台に日本の資本主義化を促進しようとした」(ひろた1976)と激しく批判された。

1977年に政治史研究家坂野潤治が「朝鮮に永続的な立脚点を構築しようと主張した福沢」にとって、清仏戦争で中国が敗北すると日本に「朝鮮改造の好機」が訪れたが、甲申事変(朝鮮の親日派勢力によるクーデター)が失敗に帰すと、福沢は「朝鮮改造論」を放棄せざるを得なくなり、「脱亜」を宣言せざるを得なくなったと解釈した。筆者によれば「これが脱亜論の通俗的解釈として、今日まで継承されていくことになる」という。これが一点目の「なるほど」。

明治六年の政変で敗れた板垣退助らが、明治七年(1874)一月、民選議院設立建白書を提出すると、俄かに民会設置に関する議論が熱を帯びた。福沢は、「文明論之概略」で人民が地方の利害を論ずる場として民会の必要性を主張して以来、民会設置の重要性を繰り返し説いた。明治八年(1875)一月には、同じ明六社に属する加藤弘之、森有礼との鼎談で、加藤が「時期尚早」を唱えたのに対し、「尚早」とは何の「時」を基準にしていうのかと疑問を呈し、民選議院が時期尚早なら廃藩置県も尚早であると反論した。福沢が民権派であることを強く印象付ける一幕であった。

ところが明治十年代に入って自由民権活動が激化すると、官民調和論を唱え始める。「官」と「民」が権力のバランスを保ちつつその相互が「調和」するというものである。このことをもって福沢を変節漢と批判する声が上がった。

幕末に鎖国攘夷論が盛んな時には開国論を唱え、文明開化が進んで西洋への心酔が進むと逆にこれを排撃した。福沢の主張がよく変わるという声は福沢の存命中からよく指摘されていた。

これに対し、慶應義塾長を務めた鎌田栄吉は、福沢の主張が変わることをコンパスに例え、「その一脚は中心に固着して毫も移動することなく之に反して他の一脚は自由自在に伸縮弛緩して大小何れにても勝手次第の輪郭を画く」と表現した(鎌田1901)。

時代は下がるが昭和四十一年(1966)に早稲田大学出身の政治学者・木村時夫が「たしかに福沢は時代によって変貌する」が、「彼は決して機会主義者や変節漢ではない。・・・一言もって評するならばナショナリストこそが、彼に冠しうる最も妥当な称号であるように思われる」と述べたのも、鎌田栄吉のコンパス論に連なる批評であろう。これが2点目の「なるほど」である。

昭和二十六年(1951)に歴史学者の遠山茂樹が「歴史上の人物を現代的関心から取り上げる場合…往々にして誤りをおかしやすい」として自分の現代的関心にとって都合の良い一面のみを強調し、無条件に持ち上げる傾向があり、「福沢諭吉の場合でも、戦時中は国権論者(国家主義者)としての福沢が説かれ、戦後には、完全無欠な民主主義者であるかのように、礼賛の辞が捧げられる。これは歴史の勝手な利用であり、不遜な冒瀆である」という指摘は福沢批評にとどまらず、歴史上の人物を解釈するときに肝に銘じなければならないことだと思う。

 

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「新・幕末史」 NHKスペシャル取材班 幻冬舎新書

2024年05月24日 | 書評

本書は、近年ヨーロッパやアメリカで発見された機密文書をもとに、グローバル・ヒストリーという視点で幕末史を見直そうと試みである。グローバル・ヒストリーというのは、日本史や世界史という垣根を越えて歴史を俯瞰しようという新しい潮流のことをいう。幕末日本は世界の覇権争いと深く関わっていたというのが本書の肝である。

本書を執筆したのは、「NHKスペシャル取材班」である。彼らは歴史の専門家ではない。従って、最新の歴史研究では疑問が呈されている「薩長同盟」とか「船中八策」といった言葉が何の注釈もなく使われており(たとえば、町田明広先生は薩長同盟のことを「小松・木戸覚書」という表現をとっている)、その点では違和感は残るものの、欧米の博物館や学者に取材して新しい視点で歴史を切り開く姿勢には感心した。フットワークの軽さと綿密な取材力がマスコミの強みであろう。

たとえば文久元年(1861)に起きたポサドニック号による対馬占拠事件(ポサドニック号事件あるいは露寇事件などと呼ばれる)についても、日本側では唐突にロシアによって対馬の一角を占拠されたという印象が強いが、実はロシアでは周到に計画されたものということが明らかにされた。この時、イギリス駐日公使オールコックは「イギリスの軍艦を対馬に送ってその圧力でロシアを退去させよう」と提案した。小栗上野介は「目の前の虎を追い払うために、狼を迎え入れるようなもの」と反発したが、幕府はイギリスの提案を受け入れた。小栗の危惧したとおり、これを手始めにイギリスは日本への関与を強めていくことになる。

グローバル・ヒストリーという視点は非常に新鮮だが、それだけで幕末史を料理しようとすると無理が生じる。「江戸総攻撃を食い止めたのは、列強の秘密外交だった」と断言しているが、確かに外交団から圧力をかけられたのは一つの要因であるが、それだけが理由ではなかろう。慶喜が徹底恭順を貫いたこと、山岡鉄舟の談判や天璋院や和宮らの嘆願、その他様々な要因が重なって総攻撃中止が決まったのであって、列強からの圧力だけが理由ではない。マスコミは、大衆受けするセンセーショナルな表現を好む傾向がある。本書でもマスコミのそのような性癖が散見される。

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「幕末史の最前線」 町田明広著 インターナショナル新書

2024年04月27日 | 書評

「はじめに」において町田先生の見解が提示される。

「人物の叙述においても、執筆者それぞれの研究成果から導き出された「解釈」を基に叙述される。人物から歴史を叙述する機会は数多いが、その際にはさらなる配慮が必要であろう。そもそも、執筆者は自らが選定する人物に対して、何らかの興味関心があるはずであり、その人物に対するイメージは、プラスに傾いていることは否めない。人物を通して歴史を叙述する場合、その人物の好悪や先入観をできるだけ遠ざけ、客観的にその人物をとらえることが必要である。人物顕彰に陥ってはならず、マイナス部分にも目配りすべきである」

という筆者の姿勢にはまったく同感であり、この姿勢の上に書かれている故に町田先生の著述はいずれも安心感がある。

本書では、井伊直弼、吉田松陰、マシュー・ペリー、徳川慶喜、平岡円四郎、島津久光、渋沢栄一、松平容保、佐久間象山、坂本龍馬、五代友厚といった、いずれも幕末維新期に活躍した十一人を取り上げている。

最初に取り上げられるのが井伊直弼である。この人ほど評価が分かれる人物はいない。難局における責任を一身に背負い、通商条約を結び我が国を開国に導いた英雄と称される。一方で安政の大獄における苛烈極まりない処断から、血も涙もない専制的な悪人のイメージも付きまとう。どちら側に立つかによって評価が左右される人物の典型である。

安政五年(1858)六月十八日、ハリスとの交渉を終えた岩瀬忠震、井上清直は江戸城での評議に臨み、その場で大老井伊直弼から「窮した場合は調印をしても良い」との言質を得たため、岩瀬らはそのまま翌日日米修好通商条約に調印してしまう。

この時、直弼は「勅許を待たざる重罪は、甘んじて我等壱人に受候決意につき、また云う事なかれ」と言い残した(「公用方秘録」写本「開国始末」)。直弼の剛毅果断の性格により、欧米列強の植民地から日本を救った偉人というイメージは、ここから生まれている。

ところが、昭和六〇年代になって彦根藩の公式記録「公用方秘録」は改竄されていることが判明したという。公開されたオリジナルの写しによれば側近宇津木六之丞に勅許を待たずに調印したことを責められると「無念の至り、身分伺いするより致し方ない」と後悔の言葉を口にした。つまり「その点に気が付かなかったことは残念である」と言って大老職の辞任すらほのめかしたのである。この様子に剛毅果断さを感じることは難しい。筆者は「直弼の人間臭さが感じられる」と遠慮がちに評しているが、彼が日本の植民地化を救おうとか前向きの理由で条約調印に踏み切ったとは思えない。筆者がいうように本来開国の恩人は、むしろ「歴史から忘れられている岩瀬忠震」という指摘は的を射ているといえよう。

「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社、2009年)で島津久光に焦点を当て、従来一種のピエロとして取り扱われてきた久光の実像を浮かびあがらせた町田先生の筆は、本書でも健在である。

「「久光―小松―西郷・大久保」という意思命令系統によって、中央政局における薩摩藩の周旋は図られた。維新は、西郷と大久保だけでなされたわけではない。」「久光は史上稀に見る剛腕の君主であり、かつ政治家であったことは間違いなく、もっと評価されるべき偉人」という筆者の主張に異論はないが、我々のような一般読者を納得させるためには、証拠の一つでも提示してもらえると有り難い。つまり久光が小松帯刀や西郷・大久保に重要な政局において明確に指示しているような書簡や藩の公式記録を見せてもらえると、説得力が増すと思うのである。

勝手に想像するに、藩主(あるいはその父)の反幕・抗幕的な発言を証拠として残る形で作成することは、藩のリスク管理上避けるべきことだったと思われる。従って「そのような証拠を見せて欲しい」と言ったところで、基本的には残っていないというのが実際であろう。従って町田先生の主張は、「状況証拠を積み上げる」という手法に拠らざるを得ない。それは坂本龍馬の章で「龍馬は薩摩藩士であった」という主張においても同様である。状況証拠はそろっているが、決定的証拠がない。仮に龍馬が薩摩藩士だったとして、彼が幕長戦争に参戦したのは何故なのだろう。これも薩摩藩の指示によるものなのか。薩摩藩としては表立って長州を支援するわけにいかなかったので、「薩摩藩士のようで薩摩藩士ではない」龍馬に参戦させたということだろうか。

「あとがきにかえて」では「大河ドラマ」の功罪について触れている。「史実と違うことが事実のように受け止められて、一人歩きしてしまう危うさ」を指摘する。一方で「扱われる対象に関心が高まり、研究や史料の発見が進む」という「功」もあるという。

筆者は先年放映された「青天を衝け」について「きめ細やかな時代考証に基づき、脚本が史実を丁寧に扱っている」「史実ほど劇的で物語性に富んでいるものはありえない」と評しているが、まったく同感である。「青天を衝け」では、廃嫡された渋沢篤ニの物語、つまり偉人渋沢栄一の「負の側面」もありのまま描いており、非常に好感を持てた。

本書はJBpressというビジネスマンを対象としたウェブメディアに連載したものを改稿してまとめたものである。一般人にも分かりやすく書かれており、幕末史に馴染みのない人にも読みやすく、歴史の解釈の面白さを感じることができる。入門書としてもお勧めの一冊である。

 

 

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「五代友厚」 楠木俊詔著 平凡社新書

2024年04月27日 | 書評

五代友厚という人は、薩摩藩出身でありながら、武力倒幕にも公武合体にも加担せず、いわば独自の路線を歩んだという意味で異色の人である。明治維新という革命は武力倒幕だけで成立したわけでもないし、政権が交代した以上に経済、文化、風俗等様々な分野で大きな地殻変動が起こった時期であった。その時、たまたま政治ではなく、経済分野に渋沢栄一や五代友厚といった海外通のリーダーが存在していた。渋沢や五代がいなければ、ほかの経済通の人物がその肩代わりをしたかもしれないが、結果的にこの二人は東京と大阪という二大商業圏の経済を確立する上で重要な役割を果した。

五代友厚が経済人として活躍するに至った経緯は、本書で詳しく述べられている。

藩校造士館に学んで頭角を現すと、幕府が長崎に開いた海軍伝習所に派遣された。この中には税所四郎左衛門(篤)や川村与十郎(純義)らがいた。一旦薩摩に戻されるも、藩命により1862年(文久二年)に再び長崎に赴任した。ここで彼は商社マンのように軍艦や船舶、武器弾薬などを購入した。本書にはこの時期、薩摩藩が海外から調達した艦船を一覧表にして掲載しているが、想像を超える数である。おそらく五代友厚はこの取引の大半に関与していたであろう。この経験を通じて、彼は外国との交渉術や海外の商習慣などへの理解を深め、グラバーらとの人脈を築いた。外国語を習得するとともに、西欧列強の文明や産業、経済、軍事力をリアルに理解することができた。この先、経済人として生きていくにあたって、長崎での経験が大きな財産になったことは想像に難くない。

五代友厚の人生において、二つ目の転機となったのが、薩英戦争であった。戦争の砲火が交わされる直前に、薩摩藩の商船三隻がイギリスに拿捕された。それに乗っていた五代友厚と寺島宗則(当時は松木弘安)が捕虜としてとらえられた。作家加治将一氏の推論によれば、真偽のほどは不明ながら、五代と寺島はイギリスと示し合わせて、生麦事件の賠償金の担保として、戦争を回避するために独断で商船を引き渡したという。

「西洋かぶれ」の二人がイギリスの捕虜となったことは、薩摩では極めて評判が悪かった。藩内には「不利な条件で勝手に講和に持ち込もうとしている」「藩の実情や軍隊の情報をイギリスに流している」といった噂が流され、二人への反感は一層強まった。五代が藩の中枢と距離を置くようになったのは(もともと政治や軍事に興味がなかったのもあるだろうが)薩英戦争が一つの契機となっている。

五代友厚といえば「大阪経済の父」とか「関西経済の生みの親」「大阪市立大学開学の祖」と称えられるが、同時に北海道開拓使官有物の払い下げ事件で、巨万の富を得た(正確には「得ようとした」)政商として、三菱の岩崎弥太郎と並んで悪評が高い。どうやら高校の日本史の教科書にもそのように記載されているらしく、「悪徳商人」のイメージがぬぐい難い。

現在、五代友厚の名誉挽回に熱心に活動されているのが、大阪市立大学を卒業され一般財団法人大阪教育文化振興財団評議員などを務められている八木孝昌氏である。私は残念ながら「新・五代友厚伝」(八木孝昌著 PHP研究所)を読んでいないが、本書でも概略が触れられているので、八木氏の主張はだいたい理解できた。つまり、事実としては、五代は官有物のうち二つの小さな事業である岩内炭鉱と厚岸官林を引き受けようとしたに過ぎない。これに対し「東京横浜毎日新聞」などが払い下げを一手に引き受け、巨万の富を得ようとしたと批判したが、八木氏はこれを「誤報」と結論付けた。筆者は、「歴史家でもない筆者は、八木孝昌の分析が100%正しいと判断する資格はない。とはいえ、当時の政治状況や言論界の姿を考慮すると、裏話を隠す気風のある点を暴露した八木の執筆は、素人ながら大まかに信頼できると判断する」と、八木氏の主張を控えめに支持している。

筆者には同じ平凡社新書に「渋沢栄一」という書籍もあり、本書最終章では東西の両巨頭を対比させて批評している。両者は共通するところもあれば、相反しているところもあって、とても面白い比較論になっている。

幕末に海外に渡航して現地で西欧の経済を見聞したというのは共通の体験である。渋沢は銀行や株式市場といった市場のインフラに興味をもった。これに対し五代は金融業にはほとんど関心を示さず、彼の関心は製造業とくに鉱山業や造幣、繊維、貿易、鉄道事業等に向かった。筆者の解釈によれば、渋沢は徳川慶喜の下で、その後は大蔵官僚として日本国全体の政治、経済、社会をみる眼を養ったが、五代にはそのような「全国的なことに関心を持つ野心」はなかったとする。

一方で両者ともに東西で商法会議所(のちの商工会議所)の開設に関与し、人材育成の必要性から商法講習所(後の一橋大学もしくは大阪市立大学(現・大阪公立大学))の創立に尽力したという共通点もある。渋沢が九〇歳を超えるほど長生きしたのに対し、五代は明治十八年(1885)四十九歳という若さで世を去っている。五代が渋沢栄一ほどの会社の設立に関与できず、しかも地域としては大阪に限定的であり、社会貢献事業や民間外交にまで手を広げることができず、知名度の点では渋沢の後塵を拝することになっている。その最大の理由は、寿命の差にあるのかもしれない。

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