史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「中沼了三伝」 中沼郁著 中沼了三先生顕彰会編 ハーベスト出版

2017年01月28日 | 書評
「隠岐騒動」を御存知だろうか。この事件は、慶応四年(1868)二月、江戸からも京都からも遠く離れた隠岐の島を舞台に起こったものである。隠岐出身の儒者中沼了三の薫陶を受けた隠岐の島の島民は、十津川の文武館にならって、隠岐文武館の設立を嘆願していた。彼らは松江藩が置いていた郡代が、山陰道鎮撫総督西園寺公望が隠岐の庄屋に宛てた文書を開封していたことに憤激し、郡代を追放し、代表者による合議制を引いた。隠岐コミューンとも呼ばれる自治機関である。島民による自治は約八十日間続いたが、松江藩の反撃を受けて一旦陣屋を明け渡す。しかし、新政府の抗議を受けた松江藩が引き揚げたため、自治が一時回復。明治元年(1868)十一月、隠岐の島が松江藩から鳥取藩に移され、さらに明治二年(1869)二月には隠岐県として明治新政府の行政下に組み込まれ、隠岐の島の自治は終息した。パリコミューンの三年前のことである。
中沼了三は、慶応三年(1867)十二月、王政復古の大号令が宣言されると、新政府の参与に任じられた。慶応四年(1868)一月に起こった鳥羽伏見の戦争では、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王の御前で軍議に参列している。明治二年(1869)一月には明治天皇の侍講となって、毎日のように四書五経を講じた。順当にいけば、新政府の幹部となって、もう少しばかり知名度も高くなったであろう。ところが、明治三年(1870)十二月、三条実美、徳大寺実則と激論を交わした末に辞表を提出して明治政府を去る。ここでどのような議論があったのか記録に残っていないので詳細は分からないが、恐らく開化政策をとる明治政府と、我が国古来の「伝統とか本質的な貴重なもの」を重視する了三の路線の違いが相容れなかったのであろう。中沼郁氏は、一章を割いて了三の考え方や時代背景などを論じているが、結局何も書き残されていないので、状況証拠を寄せ集めて想像するしかない。しかし、中沼郁氏の「想像」は大きく間違っていないだろう。了三が議論したのは、若き明治天皇の教育方針にかかわる方針だっただろうか。中沼了三を研究することは、明治政府が置き忘れた何モノかを知ることに繋がるかもしれない。
本書は、中沼了三生誕二百年・没後百二十年を記念して、中沼了三先生顕彰会より復刻出版されることになったものである。中沼了三の兄中沼参碩の曽孫にあたる中沼郁氏(故人)が昭和五十二年(1977)に著した「中沼了三伝」を復刻して「第二部」に置かれており、これが本書の中心となっている。ここでは隠岐騒動の概要のみならず、中沼了三の経歴などが詳述されており、読み応え十分である。
腰の痛みがひけば、隠岐の島に行ってみたいと思う。
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「明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府の実像」 森田健司著 洋泉社歴史新書

2017年01月28日 | 書評
「明治新政府は暴虐を尽くした」「平和で治安の良かった江戸を官軍が破壊した」という主張は、特段新説・奇説にも入らないかもしれない。いずれにせよ、新説・奇説を主張するのであれば、それなりの理論武装が不可欠である。
第一章では、官軍として江戸に駐留した新政府軍が江戸の庶民から嫌われたということを風刺錦絵などで見て行こうというものである。考えてみれば、薩摩や長州から上京してきて我がもの顔に江戸の街を闊歩するのを見て、江戸の住民が快く思うはずがない。幕政時代、江戸は参勤交代で駐在する大名家や旗本らが集まる我が国最大の消費都市であった。その構造が大きく変化することに対して、江戸の庶民の不安も非常に大きかったであろう。薩摩藩が画策した御用盗によって治安が悪化したから江戸の庶民が反感をもったという単純なものではないはずである。「治安の悪化」を理由に挙げるのであれば、何らかのデータを提示すべきであろう。
慶応四年(1868)五月二日、河井継之助は北陸道先鋒総督府に対して、武装中立を申し入れた。しかし、向背定かならぬ長岡藩を背に、会津藩や庄内藩討伐に向えるだろうか。純軍事的に河井継之助の提案を受け入れることは現実的とは思えない。著者は、交渉決裂の背景に「彼らの第一の目的は、より良い、近代的な日本の確立など」ではなく「自分たちが政権の座にある日本」だったと断定する。著者の歴史を見る目には偏りがあるのではないか。ここまでくると偏りというより悪意すら感じる。
第四章「明治政府のイメージ戦略と「三傑」の実像」に至ると、益々筆勢はエスカレートする。「五箇条の御誓文」の原案となる由利公正の「議事之体大意」には「貢士期限を以って賢才に譲るべし」との項目があった。これを木戸孝允が削ったというのである。筆者は「維新期に活躍した人々は、健康上の問題が生じないかぎり、肩書を変えつつ、国の中心にずっと居座った。これが「公」を重んじ、「私」を否定する振る舞いだと、果たして言えるだろうか」と非難するが、年齢に関係なく居座ることができるのは、現代の議員でも同様ではないか。どうして、このことをもって木戸だけを責めることになるのか。
大久保利通については、井伊直弼の暗殺を企て、「まったく同じ思考回路のテロリスト」に襲われたとする。大久保は桜田門外の変に関与していたが、最後はブレーキをかける方に回った。大久保の人生を俯瞰しても、暗殺といった卑劣な手段で何ごとかを動かそうとした形跡はない。筆者は、大久保に金銭欲はなかったが巨大な権力欲の男だと評する。確かに、世の中を動かすために権力には執着したが、決してそれは私利私欲のためではなかった。筆者の大久保評はあんまりだと思う。
明治期に総理大臣に就いた人物は、いずれも薩長もしくは肥前あるいは公家の出身で、要するに戊辰戦争で新政府側にいた人物で権力を占有した、これでは徳川幕府と変わらないと筆者は批判するが、徳川家と明治新政府の決定的な違いは、貿易による利益を独占しなかったという点である。その視点が抜け落ちていないか。
「おわりに」では「戊辰戦争ほど無意味な戦争はなかった」と断言する。最後の将軍慶喜が凡庸な人物であれば、武力で徳川家と対抗する必要はなかったであろう。しかし、ここに至るまで何度も慶喜に煮え湯を飲まされてきた薩長としては、慶喜を「朝敵」として武力で排除する必要があったと私は考えている。
また、少なくとも海軍力をもって蝦夷で独立を目指した榎本政権については、明治新政府としては無視するわけにはいかなかったであろう。箱館戦争まで「無意味」で片づけるのは無理があるのではないか。

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「誤解だらけの京都の真実」 八幡和郎著 イースト新書

2017年01月28日 | 書評
「京都ぎらい」(井上章一著 朝日新書)が昨年ベストセラーとなった。ベストセラーと聞くと途端に読む気が失せてしまう、へそ曲がりの私は、無論この本を読んでいないが、京都出身者としてはこの本の題名は、心穏やかではない。本書は、京都在住の八幡和郎氏が、「京都ぎらい」に刺戟を受けて上梓した「実践的京都論」である。
自分の家系は、代々京都で油屋を営んでいた。今も本家は、堀川の下長者町で化粧品店を開いている。母親も西陣の出身なので、血統的には生粋の京都人。本書で説明されている地名でいえば、両親とも「上京」の出である。私自身が生まれ落ちたのは京都市内の産婦人科病院であるが、一度も京都に住んだことはなく、父親が転勤族だったため、成人するまで一番長く住んだのは兵庫県西宮市と福井県福井市なのである。心のふるさとは福井であるが、福井の友人から見れば「関西弁を使うよそ者」である。要するに私のような根なし草は、○○人と単純に定義することは不可能なのである。
だから、京都のことをケナされても、持ち上げられても、一々腹を立てたり、反論する必要もない。最後まで冷静に読み通すことができた。
本書で一番共感を覚えたのは、石田梅岩の思想である。石田梅岩は京都府の亀岡出身で、江戸中期に活躍した町人学者である。町人が暴利を貪ることを戒め、「勤勉、誠実、正直、倹約」を説いた。現代の企業経営にも通じる哲学だと思う。
本書「はじめに」によれば「どちらから先に読んでもいいように」しているといい、「私の本を読んでから井上氏の本に移れば、(中略)予備知識を持って楽しめます」という。しかし、やっぱりこの本は「京都ぎらい」を前提に書かれたものであるし、結論からいえば「京都ぎらい」を読んでおかないとよく分からない部分もある。どうせなら「京都ぎらい」を読んでから、こちらも読むことをお勧めします。
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「幕末明治 新聞ことはじめ ジャーナリズムを作った人びと」 奥武則著 朝日新聞社

2017年01月28日 | 書評
筆者によればジャーナリズムの前提には「事実を事実として報道する」ことがあり、さらに単なる情報伝達を超えて公共性という軸によって情報の意味を明らかにする批評的機能が求められるという。そういう観点で見れば、「かわら版」と呼ばれた刷り物の時代、さらに「我が国における新聞の父」とも称されるジョセフ・ヒコが販売した「海外新聞」にしても、批評的機能という点では大いに不足していた。
ところが、時代がわずかに下って柳河春三になると、現代のジャーナリズムの基準に照らしても遜色のないものとなる。名古屋の商家に生まれた柳河春三は、江戸に出て洋学者たちと交流を深め、やがて「中外新聞」を創刊する。著者が「天才」と称する春三は、明治三年(1870)二月、肺結核のため三十七歳で夭折した。天が春三にあと十年、いや五年の時間を与えていたなら、彼の名は不動のものとなっただろう。
明治初期のジャーナリズムを牽引したのは、旧幕臣であった。台湾出兵に初の従軍記者として参加した岸田吟香、新聞紙条例や讒謗律に対してパロディーや反語的表現で対抗した成島柳北、新聞を通じて輿論を喚起しようとした福地源一郎(桜痴)ら、いずれも幕臣出身者である。
イギリス人ブラックの刊行した「日新真事誌」上では、民選議院開設をめぐって、加藤弘之と大井憲太郎とが激しい論争を展開した。加藤は、民選議院の必要性は認めつつも、人民の多くがまだ文明の域に達していない現在、まず教育が大事と論じた。これに対し、大井は民選議院の開設を先送りすることは、政府の強権政治の弊害が強まるだけだと反駁した。両者の論争の結論が出たわけではないが、十分成熟していると思われる欧米の人民であっても、必ずしも成熟した結論が出せるわけではないという現実を目の当たりにすると、加藤のいう「人民の教育」にいくら時間を費やしても、無駄ではないかと思ってしまう。
それにしても昨今のマスメディアは、「批評的機能」に偏っていないだろうか。退院後も引き続き自宅で静養を余儀なくされ、毎日退屈にまかせてワイドショーを見ていたが、危険なオスプレイが墜落した、とんでもないという報道ばかりで、何故米軍がオスプレイを極東に配備しようとしているのか、オスプレイの配備が東アジアの防衛にどのような意味があるのか、引いては我が国にどのような意味があるのか、オスプレイはほかの軍用機や軍用ヘリコプターと比較してどの程度危険なのか、といったこちらが知りたい情報を教えてくれる番組は一つもない。これは新聞もテレビも同様である。昨今のジャーナリズムは情緒的で表面的に過ぎないか。世論の形成にジャーナリズムの果たす役割は非常に大きい。一つ間違うと、イギリスのEU離脱や隣国韓国の大統領弾劾のように、国益や地域の利益を大きく損なう恐れがある。批評だけが能ではない。大衆の判断に必要な情報を提供するというのも現代ジャーナリズムの重要な機能ではないのか。

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「「咸臨丸難航図」を描いた幕府海軍士官」 粟宮一樹著 文芸社

2017年01月28日 | 書評
入院シリーズ第三弾が本書である。以前から鈴藤勇次郎のことは気になる存在であったし、鈴藤の曽孫に当たる方が著した本書を読みたいと思っていた。実際には、予想以上に早く退院できたので、読破できたのは自宅静養中のことであった。
万延元年(1860)に幕府が米国に派遣した咸臨丸には、木村喜毅、勝海舟、佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、小野友五郎、松岡盤吉、伴鉄太郎、肥田浜五郎、赤松大三郎、小杉雅之進、吉岡勇平ら、当時の幕府を代表するエリートが参加していた。彼らはその後、幕府海軍あるいは維新政府の海軍草創期にも大きな役割を果たし、あるいは崩壊寸前の幕府に殉じて幕府軍に身を投じた者もいる。
咸臨丸で彼の国に渡った人たちは、それぞれ記録を残しており、我々は当時の歓迎ぶりや現地の風俗などこと細かく知ることができる。この中にあって鈴藤勇次郎はスケッチ入りの詳細なレポートを残している点で極めて特異な存在である。相当な画才があった人らしく、時間的制約のある中、良くぞここまで精緻で明確な図画を書き残したものと感心する。
本書の表題となっている「咸臨丸難航図」についても、単なる絵画ではなく、咸臨丸の正確な仕様を現在に伝える史料としても価値のあるものとなっている。著者は日本IBMなどに勤務された技術屋だったそうだが、その祖先たる鈴藤勇次郎も技術系の人だったのであろう。
本書でも紹介されている浮ドックの絵は、もはやスケッチというより図面である。鈴藤は正確を期するために正面図と側面図の二枚の組図を使用しており、さらに説明文を加えて、第三者にも原理を十分に把握できるように工夫している。彼は日本においても早晩このような設備の導入が必要になることを考え、それに資するように具体的かつ詳細に資料を残したのであろう。
鈴藤がスケッチを残したのは、現地の歓迎式典の様子、食事の数々、宿舎の風景から部屋割り、現地の衣裳風俗、動植物など、極めて広範に及ぶ。もし彼にコンパクトカメラを持たせたなら、無数に写真を撮り残したことだろう。相当な記録魔だったのである。
鈴藤は技術をもって最末期の幕府を支えた。客観的にみれば満足すべき人生であったが、前橋藩の刀工の二男に生まれた自分を軍艦役まで引き立ててくれた幕府に厚い恩義を感じていた。慶応四年(1868)八月、榎本武揚が旧幕艦隊を率いて箱館へ脱走したという報に接すると、病床に就いていた鈴藤はこれに参加できないもどかしさを嘆き、自決している。著者がいうように、技術屋らしい好奇心と探求心を併せ持ち、一方でどこまでも誠実な人柄が透けて見える。そして鈴藤の資質は曽孫である著者にまで着実に引き継がれていると感じる。
本書は全八章から成る。当然ながら咸臨丸の米国(ハワイを含む)渡航に多くのページが割かれているが、第五章「幕末の社会情勢と幕府海軍」は割愛しても良かったかもしれない。幕府海軍の歴史と咸臨丸の太平洋横断の壮挙、それに鈴藤の生涯にフォーカスした方が読み物としてはスッキリしたものとなったように思う。

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目次 鳥取

2017年01月03日 | 目次

鳥 取

最勝院・適處正墻先生之墓(正墻薫の墓)・鳥取城・鳥取城二の丸三階櫓跡・仁風閣・興禅寺・一岳玄了居士塔(渡辺数馬墓)・猪多伊折佐重良墓・贈従四位故米子城主荒尾清心齋在原成裕之墓・箕浦家武家屋敷門・藩校尚徳館碑・観音院・増井熊太先生墓・景福寺・後藤又兵衛基次と妻子の墓・島田元旦墓・井上静雄源尚友・贈正四位 三相両州御軍監中井範五郎正良墓・山口遊圃(謙之進)之墓・玄忠寺・荒木又右衛門の墓・近藤家累代墓(近藤類蔵)・妙玄寺・堀庄次郎墓・広徳寺・伊藤猪吉墓・池田光仲墓・池田家墓所・栄岳院殿穆雲光澤大居士之塔(池田慶栄墓)・大雲院・池田家之墓・村上水産 海鮮丼・鳥取砂丘・浜坂台場跡・砂の美術館

岩 美

浦富台場跡 お台場公園

湯梨浜

西向寺・因藩勤王二十二士之碑・橋津台場跡・明治百年記念 因幡二十士来舩之地・西蓮寺・贈正五位 中原忠兵衛之墓・忠譽義道即心信士(中原忠次郎の墓)

倉 吉

三朝温泉 依山楼岩崎・第五十三代横綱琴桜傑将像・赤瓦白土土蔵群・赤瓦七号館「元帥酒造」・倉吉淀屋(旧牧田家住宅)・吉祥院

北 栄

JR由良駅(コナン駅)・コナン像・由良台場跡・青山剛正ふるさと館・台場公園の大砲・隆光寺・適處先生避塵之地碑(の跡)・適處先生避塵之地碑(現地の北栄町教育委員会案内板より)

琴 浦

赤崎台場跡

日吉津

義芳院萬岳遜處居士(須山萬の墓)

米 子

淀江台場跡・米子城跡・米子城・米子市街・了春寺・荒尾家墓地・舊米子城主在原朝臣荒尾成冨墓・村河與一右衛門尉直方墓・中江藤樹先生成長之地

境 湊

境台場跡・連理の松・正福寺・水木しげる像・大霊院覺應智正居士(景山立硯の墓)・僊岳院大圓高徳居士(景山粛の墓)・贈従五位 明治徴士景山龍造守正夫婦墓

日 野

泉龍寺・平成維新碑・供養碑

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