「隠岐騒動」を御存知だろうか。この事件は、慶応四年(1868)二月、江戸からも京都からも遠く離れた隠岐の島を舞台に起こったものである。隠岐出身の儒者中沼了三の薫陶を受けた隠岐の島の島民は、十津川の文武館にならって、隠岐文武館の設立を嘆願していた。彼らは松江藩が置いていた郡代が、山陰道鎮撫総督西園寺公望が隠岐の庄屋に宛てた文書を開封していたことに憤激し、郡代を追放し、代表者による合議制を引いた。隠岐コミューンとも呼ばれる自治機関である。島民による自治は約八十日間続いたが、松江藩の反撃を受けて一旦陣屋を明け渡す。しかし、新政府の抗議を受けた松江藩が引き揚げたため、自治が一時回復。明治元年(1868)十一月、隠岐の島が松江藩から鳥取藩に移され、さらに明治二年(1869)二月には隠岐県として明治新政府の行政下に組み込まれ、隠岐の島の自治は終息した。パリコミューンの三年前のことである。
中沼了三は、慶応三年(1867)十二月、王政復古の大号令が宣言されると、新政府の参与に任じられた。慶応四年(1868)一月に起こった鳥羽伏見の戦争では、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王の御前で軍議に参列している。明治二年(1869)一月には明治天皇の侍講となって、毎日のように四書五経を講じた。順当にいけば、新政府の幹部となって、もう少しばかり知名度も高くなったであろう。ところが、明治三年(1870)十二月、三条実美、徳大寺実則と激論を交わした末に辞表を提出して明治政府を去る。ここでどのような議論があったのか記録に残っていないので詳細は分からないが、恐らく開化政策をとる明治政府と、我が国古来の「伝統とか本質的な貴重なもの」を重視する了三の路線の違いが相容れなかったのであろう。中沼郁氏は、一章を割いて了三の考え方や時代背景などを論じているが、結局何も書き残されていないので、状況証拠を寄せ集めて想像するしかない。しかし、中沼郁氏の「想像」は大きく間違っていないだろう。了三が議論したのは、若き明治天皇の教育方針にかかわる方針だっただろうか。中沼了三を研究することは、明治政府が置き忘れた何モノかを知ることに繋がるかもしれない。
本書は、中沼了三生誕二百年・没後百二十年を記念して、中沼了三先生顕彰会より復刻出版されることになったものである。中沼了三の兄中沼参碩の曽孫にあたる中沼郁氏(故人)が昭和五十二年(1977)に著した「中沼了三伝」を復刻して「第二部」に置かれており、これが本書の中心となっている。ここでは隠岐騒動の概要のみならず、中沼了三の経歴などが詳述されており、読み応え十分である。
腰の痛みがひけば、隠岐の島に行ってみたいと思う。
中沼了三は、慶応三年(1867)十二月、王政復古の大号令が宣言されると、新政府の参与に任じられた。慶応四年(1868)一月に起こった鳥羽伏見の戦争では、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王の御前で軍議に参列している。明治二年(1869)一月には明治天皇の侍講となって、毎日のように四書五経を講じた。順当にいけば、新政府の幹部となって、もう少しばかり知名度も高くなったであろう。ところが、明治三年(1870)十二月、三条実美、徳大寺実則と激論を交わした末に辞表を提出して明治政府を去る。ここでどのような議論があったのか記録に残っていないので詳細は分からないが、恐らく開化政策をとる明治政府と、我が国古来の「伝統とか本質的な貴重なもの」を重視する了三の路線の違いが相容れなかったのであろう。中沼郁氏は、一章を割いて了三の考え方や時代背景などを論じているが、結局何も書き残されていないので、状況証拠を寄せ集めて想像するしかない。しかし、中沼郁氏の「想像」は大きく間違っていないだろう。了三が議論したのは、若き明治天皇の教育方針にかかわる方針だっただろうか。中沼了三を研究することは、明治政府が置き忘れた何モノかを知ることに繋がるかもしれない。
本書は、中沼了三生誕二百年・没後百二十年を記念して、中沼了三先生顕彰会より復刻出版されることになったものである。中沼了三の兄中沼参碩の曽孫にあたる中沼郁氏(故人)が昭和五十二年(1977)に著した「中沼了三伝」を復刻して「第二部」に置かれており、これが本書の中心となっている。ここでは隠岐騒動の概要のみならず、中沼了三の経歴などが詳述されており、読み応え十分である。
腰の痛みがひけば、隠岐の島に行ってみたいと思う。