史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「龍馬が見た長崎」 姫野順一著 朝日新聞出版

2011年10月23日 | 書評
幕末・明治期は、鎖国から開国に転換した時代であり、我が国における写真時代の始まりを告げる時代でもあった。ことに開港地である長崎は、ベアトやボードインといった外国人の写真家、あるいは上野彦馬という我が国写真史のパイオニアというべき人物が盛んに撮影したため、多くの写真が残ることになった。その大半は現在、長崎大学付属図書館のコレクションとなっており、古写真データベースとしてインターネット上でも公開されている(幕末・明治期古写真メタデータ・データベース)。
この本でもたくさんの写真が紹介されている。とりわけ興味をひいたのが、人物写真である。その多くは、有名人というよりは市井の人々がモデルである。共通しているのは彼らの知的さ、精悍さ、重厚さである。むろんこの時代の人々はカメラに向かって笑顔でピースサインというポーズを取らない。一様に表情は硬い。これにはわけがあって、この時代の撮影にはシャッタースピードが遅いため、モデルは長い時間、同じ姿勢、同じ表情である必要があった。長い時間笑顔を固定するのは難しいので、自ずと表情は硬いものとならざるを得なかったのである。
その点を割り引いても、この時代の人は、現代の日本人と比べて遥かに知的で精悍に見える。もう一つの理由は、百五十年前の日本は食生活も慎ましく、肥満体の人がほとんどいなかったこともあるだろう。翻って今日の日本人はあまりにブヨブヨで、精神にまで余分な贅肉で覆われてしまったような印象を受ける。
古写真に写るご先祖様の写真を見ることは、自分の若かりし頃の写真を見て、「あの頃は自分もスマートだった。あの頃の自分に戻りたい」と痛惜の念にとらわれるのと似ている。たまに古写真を見て、反省するのも必要だろう。かくいう私も二十代の頃と比べると十㎏以上体重が増えてしまった。何とかしなくちゃと思うが、なかなか何ともならない。

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「江戸城を歩く」「江戸の大名屋敷を歩く」 黒田涼著 祥伝社新書

2011年10月23日 | 書評
著者はいう。「江戸城のあり方が、現代の東京や、ひいては日本のあり方を決めた」「大名屋敷は、その江戸城構築、江戸の建設というグランドデザインに基づいて作られた血であり、肉である」
確かに東京を歩いていると、至るところに江戸城や大名屋敷の遺構が残っていることに気付かされる。個人的には相当数の大名屋敷址を踏破したつもりでいたが、この本を読んでまだまだ東京には隠れた史跡が残っていることを思い知らされた。
普段何気なく使っている「史跡」という言葉であるが、「江戸城を歩く」によれば「文化財の中で『記念物』と呼ばれるもののうち、「貝塚、古墳、都城跡、城跡旧宅等の遺跡で我が国にとって歴史上または学術上価値の高いもの」を史跡というのだそうである。私の大好きなお墓は史跡ではないのだろうか。俄かに心配になってきた。
慌てて調べてみたところ、「史跡」については文部科学省が次のとおり定義していることが分かった。幸いにしてお墓も史跡に含まれている。ただし大名とか著名人のものであって、無名の戦死者の墓は史跡に非ずということらしい。

次に掲げるもののうち我が国の歴史の正しい理解のために欠くことができず、かつ、その遺跡の規模、遺構、出土遺物等において、学術上価値あるもの
1.貝塚、集落跡、古墳、墓地等
2.都城跡、国郡庁、城跡、官公庁、戦跡、その他政治に関する遺跡
3.社寺跡、その他祭祀信仰に関する遺跡
4.学校、研究施設、文化施設、その他教育・学術・文化に関する遺跡
5.医療・福祉施設、生活関連施設等
6.交通・通信施設、治山治水施設、生産遺跡、その他経済・生産活動に関する遺跡
7.墳墓(大名・著名人)・碑
8.旧宅、園池
9.外国及び外国人に関する遺跡

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三島 Ⅱ

2011年10月23日 | 静岡県
(三島宿)
 三島駅の南に旧街道が走る。旧街道沿いに本陣址や問屋場址といった石碑が建てられている。


樋口本陣址


世古本陣址

 三島は三島大社の門前町であり、伊豆の中心地として古くから繁栄した。徳川幕府が宿駅制度を設けると、三島は日本橋から数えて十一番目の宿駅として賑わった。安政四年(1857)ハリスは三島宿世古本陣に宿泊し、ここの日本庭園の素晴らしさについて日記に言及している。


問屋場址

 問屋場とは幕府の役人や人足を収容する施設である。人足部屋や駕籠かき人夫の部屋なども備えていたという。

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五井

2011年10月15日 | 千葉県
(養老川)
 慶應四年(1868)閏四月、新政府軍は幕軍残党を養老河畔に追い込んだ。幕軍は最後の抵抗を試みたが、数に勝る新政府軍の圧勝であった。周辺には幕軍(徳川義軍)の戦死者の墓が点在しているという。その場所を知るため、五井の市原市立中央図書館を訪ねた。
 郷土資料のコーナーで五井戦争の戦死者のことを記載した書籍を探したが、少なくとも新しい本に適当なものは無さそうである。
 市原市文化財研究会刊「上総市原 第三号」(昭和五十四年十二月)と同じ文化財研究会の「義軍官軍むかしむかし」に詳しい記述があったので、必要なページをコピーした。「義軍官軍むかしむかし」に至っては昭和30年代に書かれたもので、手書きである。
 この二冊の記述を頼りに五井駅からJRの線路に沿って南下し、養老川と交わる辺りにあるという「三士之墓」を探した。
 「上総市原」によれば、「この橋(中瀬橋)と鉄道線路の間の堤防外に六~七軒の住宅がある・この住宅に囲まれた中央榎の下に官軍塚がある」というが、住宅の数は六軒や七軒ではないし、少なくとも目立つような榎木は見当たらない。さすがに三十年以上も前とは風景が激変している。昭和三十五年(1960)八月七日には、五井町が主催して近くの公民館で慰霊祭が執行されたようである。それから五十年。三士之墓も、時間の経過とともにどこかに消え去ってしまったのであろうか。


養老川

(観音寺)
 先日、市原市立中央図書館での調査をもとに市原市の徳川義軍の墓を訪ね歩いた。結論からいえば、養老川畔にあるという徳川義軍の墓や松ヶ島の青野虎之助の墓、北青柳墓地は発見できなかった。例によって市原市教育委員会にメールを送った。


観音寺


鈴木仁三郎の墓

 市原市村上の観音寺は、五井戦争の際に戦場となり、その際全焼している。
 観音寺の無縁墓が一カ所に集められた一角に、徳川方の戦死者鈴木仁三郎の墓がある。

(畑木)
 畑木という小さい集落に、少し高くなった丘があり、その上が墓地になっている。墓地の入口に徳川遺臣梶塚成志の墓がある。


徳川氏遺臣梶塚成志墓

 表面は、江原素六の筆によるもの。「友人 江原素六」とある。裏面の「一死報恩」という文字は、大鳥圭介の題字。

(出津共有墓地)


徳川義軍陣没者慰霊碑

 出津は五井戦争の激戦地である。
 出津共有墓地には、徳川義軍陣没者慰霊碑が建てられている。この慰霊碑を探して墓地を彷徨していると、墓参りの老女に「何かお探しか」と声をかけられた。徳川遺臣の墓を探しているというと、ここまで案内してくれた。

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虎ノ門 Ⅲ

2011年10月08日 | 東京都
(工部大学校址)


工部大学校址碑

 虎ノ門交差点の北西角、現在霞ヶ関コモンゲートの一帯は、江戸時代には延岡藩邸があった。維新後、工業分野における人材育成を目的として工学校が開設された。明治十年(1877)には工部大学校と改称された。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が、外国から招聘された教師によって教授された。工部大学校は、その後東京大学工学部に発展している。工部大学校が移転した後、この地は帝室博物館、東京女学館、さらに会計検査院に引き継がれたが、さすがに当時の面影は残っていない。


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霞が関

2011年10月08日 | 東京都
(弁護士会館)


大岡越前守忠相屋敷跡

 日比谷公園の西側、霞門の交差点付近には弁護士会館があるが、ここはかつて大岡家の上屋敷のあった場所である。有名な大岡越前守忠相は、八代将軍吉宗に重く用いられ、二十年以上にわたって南町奉行職にあった。大岡忠相は四千石の加増を受けて、三河西大平藩主となって大名に列した。石高はわずか一万石という小大名であったが、忠相を初代として幕末の忠敬まで七代にわたって続いた。

(法務省)


米沢藩上杉家江戸藩邸跡

 桜田門の交差点の東南の角に米沢藩上杉家江戸藩邸跡のモニュメントが置かれている。上杉家の上屋敷址である。


法務省旧本館

 このモニュメントの背後は法務省旧本館である。この建物は旧司法省の庁舎として明治二十八年(1895)に完成したもので、空襲によってレンガ壁を残して全焼したが、改修工事を経て昭和二十五年(1950)より法務省本館として利用されることになった。平成六年(1994)には重要文化財に指定されている。

(外務省)


陸奥宗光像

 外務省には不平等条約の改正に尽くした陸奥宗光の銅像が建っている。
 外務省門前の警備員にこの銅像の写真を撮影したいというと、外務省の許可を得てもらわないと中には入れない。外だったら撮影しても良いというので、柵越しに写真を撮った。


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追浜

2011年10月08日 | 神奈川県
(追浜官修墓地)


追浜官修墓地

 京急の追浜駅からバスに揺られること約十分。深浦バス邸で下車して追浜随道へ向かう。隋道の入り口前の急な階段を昇ると追浜官修墓地がある。
 西南戦争では多数の負傷者が発生した。明治政府は、戦傷者を後送するために和歌山丸と東海丸を派遣した。その帰航中に船内でコレラが発生し、両船は急遽長浦港に寄港した。そこに仮の避病舎を建てて診療にあたったが、十月二十一日以降、毎日のように死者が続いた。これらの遺体は黒崎海岸で火葬され、そのうち遺族不明の四十八名がこの地で埋葬された。
 墓地は雑草が生い茂り、そのため墓碑は読み取ることが困難なものもある。戦死者の慰霊のためにも、貴重な史跡の保存のためにも手入れをしっかり行ってもらいたいものである。


顕彰碑

北村包直の撰文。野口力の書。隷書体の碑名を解読できず。

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丸太町 Ⅱ

2011年10月02日 | 京都府
(石長)


木戸孝允別宅


木戸邸内部


達磨堂

犀渓様より、京都の木戸孝允別邸が特別公開されているとの情報をいただき、祖父の二十三回忌で帰省したのを機に足を運ぶことにした。この日は、朝から大阪府下(天王寺・柏原・藤井寺・大阪狭山・河南・河内長野)の史跡を回った後、午後三時に大阪駅から新快速に飛び乗って京都に移動した。石長に行き着いたのは、受付終了の午後四時を数分過ぎていたが、受付にいた初老の男性は快く受け付けてくれた。
終了間際の滑り込みだったせいもあって、見学者は私一人であった。木戸別邸とその向かいの達磨堂、それぞれボランティアの方から丁寧に解説をしていただける。
往時の木戸別邸はもっと広壮なものだったらしく、その一部は新島譲邸宅に移築されたとも言われている。現在は二階建ての茶室風の木造和室建物が残されているのみである。ボランティアの方に訊いてみたが、木戸が亡くなった部屋は特定されていないそうである。
恐らくボランティアの方は、朝から間断なく訪れる見学者のために、録音テープのように同じ解説を繰り返していたに違いない。この日最後の訪問者のために最後の力を振り絞って話しをしていただいたが、声はかすれ途中で咳き込むほどの疲れ様で、説明を受けているこちら側が申し訳無いと感じるほどであった。

達磨堂は、木戸孝允の子息、木戸忠太郎の達磨コレクションである。その数四~五万点というが、正確な数は不明という。さして広くない室内に、ぎっしりと達磨が並べられている。


木戸忠太郎

木戸忠太郎という人物は、世間ではあまり知られていない。木戸家を継いだ木戸孝正(内大臣木戸幸一の父)は、養子であり孝允の血を受け継いでいない。その一方で忠太郎は、木戸孝允の実子といわれる。母は幾松(木戸松子)の妹とも言われるが、はっきりしない。ちょっと謎めいた人物である。

(女紅場址)
 丸太町通りが鴨川と交わる西南の角に女紅場址と書かれた碑が建っている。
 女紅場(にょこうば)とは、明治五年(1872)に我が国初の女子の教育機関として、九条家の別邸河原殿の敷地内に開設された学校である。梅田雲浜の後妻千代の子、ぬいも入学している。新島襄夫人八重子もここで教鞭を取ったことがあったという。同校は、京都府立京都第一女学校、現在の府立鴨沂(おおき)高校に受け継がれている。


女紅場址

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木屋町 Ⅵ

2011年10月02日 | 京都府
(療病院址)


療病院址

 長州藩邸址である京都ホテルの近く、御池大橋西詰めに療病院址の石碑がある。
 明治五年(1872)、蘭学医明石博高が資金を集めて、ドイツ人医師を招いて療病院を開設した。療病院は一か月後に青蓮院に移り、のちに京都府立医科大学付属病院へと発展した。


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河内長野 Ⅱ

2011年10月02日 | 大阪府
(延命寺)


延命寺

 河内長野市神ヶ丘という山深い集落の中に延命寺という古刹がたたずんでいる。


墓地への参道

毘沙門堂の傍らに墓地へ続く階段がある。道は緑色の絨毯をひいたように苔が生している。ヒグラシの声が染みとおるような静寂の中を上ると、日露戦役の戦没者の墓を集めた墓域に出会う。その横の無縁墓石を集めた一角に、天誅組に参加した上田主殿の墓がある。上田主殿はこのとき三十九歳。五条代官を襲撃し気勢を上げたものの、京都での政変により状況が一変したことを知り、慎重論を唱えた。このため血気にはやる主戦派に斬殺されたという。


明治維新勤王志士 上田主殿墓

 上田主殿の墓付近には、やたらと薮蚊が多い。ズボンの上からでも容赦なく刺す。ゆっくりお参りしている場合ではなくなって、逃げようにしてこの場を去った。しかし、薮蚊はずっと追いかけてきて、かなり血を吸われることになってしまった。

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