史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

建部

2019年06月08日 | 岡山県
(西原)


長尾君之墓

 岡山市北区建部町西原にはJR津山線が南北に貫いているが、線路の西側の山裾の共同墓地に長尾亀八の墓がある。墓地の場所は極めて分かりにくいが、墓地まで行きつけば、長尾の墓には官修墓として石造りの鳥居と玉垣が設置されており、一目で分かる。

 長尾亀八は、銃卒。慶応四年(1868)七月二十九日、岩代二本松にて戦死。三十一歳。

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美咲

2019年06月08日 | 岡山県
(行信)


温知館跡

 温知館は、明治七年(1874)に、山田方谷の塾生矢吹正誠がこの後背地に設立したもので、方谷は開校式に望み「論語」を講じた。塾名は方谷の命名である。

(大戸)


知本館の碑

 美咲町大戸下の吉井川にかかる橋のたもとに知本館の碑がある。知本館は、山田方谷の指導によって学問のともし火が輝いたことを記念するために有志の人々によって建てられたものである。碑には、方谷の和歌二首が記されている。歌にある「癸酉のとし」は、明治六年(1873)のことである。

 ふみ見るも鋤もて行くもひとすじの
 学びの道のあゆみなるら免

 世のためとおもへば楽し鋤つかふ
 くるしき業に身はやつすとも

 癸酉のとし八つ月の月末つかた、方谷の翁しるす
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奈義 Ⅱ

2019年06月08日 | 岡山県
(日本原)


安達清風の屋敷跡

 安達清風の屋敷跡の案内板は、国道53号の南側に立っている。安達清風は明治十一年(1878)、初代勝北郡長に就任して日本原の開拓を志し、鳥取藩士など五十四名がこの地に入植した。洋式の農具を使い、桑・茶・楮・ニセアカシアなどの栽培を試み、また有功学舎を創設して教育にも力を尽くした。
 実際の屋敷跡はこの北側となる。北側は自衛隊日本原駐屯地の敷地であるが、屋敷跡だけは立ち入りが可能となっている。しかしながら、手入れがされているとは言い難い状態で、膝丈ほども伸びた雑草を踏みながらようやくのことで安達清風と森英太郎の顕彰碑に近づくことができた。


安達清風先生頌徳碑


畊隠森先生碑(森英太郎頌徳碑)

 森英太郎は第二代の勝北郡長。旧岡山藩士。通称を新谷(しんがい)英太郎といった。号は畊隠。明治初年、初代郡長安達清風を援け、日本原の開墾、養蚕、牧畜の振興等に成果を挙げた。安達郡長の死後、郡長として清風の遺業を継ぎ、特に因幡道(現・国道53号)の幅員拡張屈曲の改修を行い、県道編入に努力した。また、日本原の地に漢文、数学、英語を教える林園書院を開設し、美作各地から二百有余の若者が学んだ。

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鏡野

2019年06月08日 | 岡山県
(貞永寺)


従五位櫻井新三郎墓

 今回の岡山県下の史跡巡りで最大の収穫は、鏡野町貞永寺の桜井新三郎の墓であった。
 情報としては、貞永寺に新三郎の墓があるというだけで、あとは現地で探すしかない。それらしい場所を歩いてみたが、そう簡単に見つかるものではない。途方に暮れていると、ある家の主婦の方が「何かお探しですか」と近寄って来られた。普通なら人が立ち入らないような山道までウロウロしていたので、さすがに不審に見えたのであろう。「桜井新三郎という方の墓を探していまして…」と事情を説明したものの、ご婦人は御存じないようであった。ただし、貞永寺には桜井家は一軒しかないそうで、その家は貞永寺の交差点より北側だという情報をいただいたので、ダメ元でその辺りを探してみることにした。見えている墓地を一つずつ訪ねて、ようやく桜井家の墓所に出会うことができた。思わずガッツポーズ。

 桜井新三郎は、文政七年(1824)の生まれ。生家は貞永寺村の庄屋であった。資性は沈勇豪胆、好んで野史を読み、史跡を歴遊した。つとに勤王の志を抱き、立石正介、安東鉄馬らと深交した。ついで京師に入って諸藩の志士と交わり、岩倉具視の門に出入りした。一日、賊数名が洛北幽居中の岩倉を襲うと、これを撃退し、以来岩倉はその胆勇を頼み、寵遇はますます厚かった。元治元年(1864)の禁門の変で幕府の嫌忌を受け、逃れて香々美村円通寺の住僧道契に危急を語り、僧衣を贈られ剃髪して去った。明治元年(1868)、岩倉具定に随行し、御旗奉行として北陸に向い、三月任を果たして江戸に駐留したが、芝において賊のために暗殺された。年四十五。

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新見

2019年06月01日 | 岡山県
(新見市役所)


丸川松隠と山田方谷

 新見市役所の前に師丸川松隠と子供時代の山田方谷の像がある。
 丸川松隠(1758~1831)は、新見藩の藩校思誠館に招かれて、多くの人材を育てた。山田方谷もその愛弟子の一人で、五歳の時に松隠の塾に入り、約十年をそこで学んだ。方谷は終生松隠の教えを守り、後に備中松山藩の廃政改革を成し遂げた。

(思誠小学校)


藩黌思誠館之跡

 丸川松隠が教鞭をとった藩校思誠館は、現在思誠小学校となっている。体育館の前に藩黌思誠館跡の石碑が建てられている。


新見館跡碑

 新見館は、新見藩の館で、現在この碑が建てられているのは正門のあった辺りである。撰文は犬養毅。篆額は第十代当主で貴族院議員をつとめた関博直。


松隠丸川先生碑銘

 丸川松隠の顕彰碑は、昭和四年(1929)、新見阿哲の有志によって建立されたもので、高さ三・六メートル。撰文は松隠の盟友佐藤一斎による。

(丸川松隠旧宅)


丸川松隠旧宅

 思誠小学校前には丸川松隠宅が現存している。今も丸川さんがお住まいのようで、一般公開はされていない。

(雲居寺)


雲居寺


松隠丸川先生原墓

 雲居寺は、思誠小学校の前の道を登り切った高台にある。丸川松隠の墓所である。
 丸川松隠は、宝暦八年(1758)倉敷の西阿知で生まれた。西阿知は、新見藩の飛び地であった。時の藩主関長誠(ながのぶ)は、藩政の立て直しに人づくりが必要と考え、西阿知から松隠を招いて思誠館の督学(校長)として迎えた。以後、十七年にわたりその任にあたった。

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高梁 Ⅳ

2019年06月01日 | 岡山県
(山田方谷記念館)


山田方谷像

 久しぶりに高梁市の郷土史料館を訪ねたところ、その隣に山田方谷記念館が開設されていた。あとで調べたところ、この記念館がオープンしたのは、わずか数か月前のことで、まだ真新しい施設である。入館料は大人五百円。六十五歳以上の方は無料。
 入ると、いきなり二体の山田方谷像が出迎えてくれる。一つは郷土史料館の前に立つ像、もう一つは備中高梁駅前に立つ像の、いずれも原型である。


山田方谷記念館

 記念館では「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」という三つのテーマに分けて、歴史資料や解説パネルにより、山田方谷の事績について分かり易く紹介している。
 山田方谷所縁の史跡も紹介されている。ここで情報を入手して、この後、美咲町の知本館と温知館を訪ねることにした。

(高梁基督教会堂)


高梁基督教会堂

 有終館跡の斜め向い側に立つ教会は、新島襄ゆかりの教会として知られる。
 高梁市でのキリスト教活動は、明治十二年(1879)十月の布教に始まり、翌十三年(1880)、新島襄が来高して活動が急速に発展した。明治十五年(1882)四月、高梁基督教会が創立された。一部の町民の感情的な反対運動もあったが、信者の団結が高まるとともに教会堂建設の要望も強まり、信者の浄財によって明治二十二年(1889)に教会堂が建設された。この教会堂は、現存する県内最古の教会堂であり、プロテスタントとしては全国でも同志社のチヤペルに次いで古い教会堂である。高梁市内で最初に建てられた擬洋風建物でもある。設計は、今治市出身の吉田伊平。

(備中高梁駅)


山田方谷像


至誠惻怛(しせいそくだつ)

 備中高梁駅前に山田方谷の銅像が建てられたのは、平成二十九年(2017)のことである。銅像の横には、山田方谷が河井継之助に贈ったといわれる「至誠惻怛」という王陽明の言葉が刻まれている。方谷は、まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)の二つを兼ね備えて生きることが、人としての大事な基本姿勢だと説く。

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倉敷 Ⅱ

2019年06月01日 | 岡山県
(正福寺)


正福寺

 倉敷市藤戸町天城の正福寺には、戊辰戦争で戦死した岡山藩の斎藤小十郎の墓がある。本堂向かって右手にある鳥居を備えた墓がそれである。


忠哉軒殉難勇猛居士
(斎藤小十郎の墓)

 斎藤小十郎は銃隊司令。慶応四年(1868)八月二十九日、若松城下にて戦死。三十七歳。





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岡山 Ⅳ

2019年06月01日 | 岡山県
(沼)


大節玄忠居士(内藤恵三郎の墓)

 沼地区の山の斜面の共同墓地に、戊辰殉難者内藤恵三郎の墓がある。官修墓特有の玉垣で囲まれているので、遠くからでも直ぐに分かるだろう。

 内藤恵三郎は岡山藩銃卒。慶応四年(18868)五月十五日、江戸根津にて彰義隊伏兵と会し戦死。四十二歳。

(岡山護国神社)
 岡山護国神社は、明治二年(1869)四月三日、後楽園裏の竹田河原において時の岡山藩主池田章政公が、戊辰戦争奥羽の役までの藩戦死者三十四柱の招魂祭を執行。次いで、同年読月、岡山市内東山公園内にて社殿と碑石を建て、箱館における戦死者を含めた五十五柱の鎮祭を執り行ったことを起源とする。以来、大東亜戦争までの殉難者五万六千七百柱余りを御祭神として祀っている。
 参道に戊辰戦争と西南戦争の招魂碑がある。


岡山護国神社


招魂碑


紀功碑(西南戦争招魂碑)

(幣立山公園)


大融院殿静巗士裁大居士(杉山岩三郎の墓)

 岡山護国神社の近くにある幣立山公園は、山そのものを公園化したものである。手もとの「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、杉山岩三郎の墓が幣立山にあると記載されていたので、半信半疑であったが、幣立山を歩いてみることにした。
 歩き始めて数分で、自然林の中に玉垣で囲まれた杉山家の墓所を発見。あっけなく杉山岩三郎の墓に出会うことができた。

(犬養木堂生家)


犬養木堂生家

 前回、吉備津神社を訪ねた際、犬養毅の生家がこの近くにあることを知ったので、機会があれば訪問したいと思っていた。私が犬養毅生家跡を訪ねたのは、まだ八時にもならない時間だったため、門は閉ざされたままであった(開館時間は、九時~十七時)


犬養木堂翁生誕之地碑

 犬養家は、代々庄屋や藩の要職を務めた農家で、この生家は江戸時代前期に建てられたものと推定されており、この地方の近世民家の代表的なものとしても価値が高い(国の重要文化財)。老朽化が甚だしかったが、昭和五十四年(1979)、解体復元され、一般公開されている。また、隣接して犬養木堂記念館も開設されている。

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奈義

2018年11月23日 | 岡山県
(日本原)


安達清風先生墓

 津山から国道53号線を東へ進み、奈義町上町川に入ると、右手にファミリーマート、その隣に中華レストランちゅーが見えてくる。次の交差点を右へ折れて南進すると葬儀場らしき建物が現れ、その南側に広がる共同墓地の南端に安達清風の墓がある。
 安達清風は、天保六年(1835)の生まれ。鳥取藩士。少年時代から京阪各地に遊学。安政元年(1854)四月、江戸昌平黌入学。翌年水戸に赴き、神発流砲術を学び、鳥取に水戸学を伝えた。文久二年(1862)十二月、京都留守居役となり、文久三年(1863)の本圀寺事件の暗殺を支持した。慶応元年(1865)閏五月、周旋方頭取用向当分請持を免じられた後も、しばしば上申して藩政の改革を願ったが用いられなかった。維新後、藩主池田慶徳の隠退を勧め、あるいは藩庁と衝突して志を得られず、明治八年(1875)からは岡山県に官仕。県北部の日本原の開拓に治績を挙げた。明治十七年(1884)、年五十にて没。

 帰宅してから調べて分かったことだが、安達清風の屋敷跡および頌徳碑がファミリーマートの向い側付近にあるらしい。もう一度奈義町を訪ねなくてはならない。

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津山 Ⅱ

2018年11月23日 | 岡山県
(上之町二丁目町内会館)


植原六左衛門旧宅跡

 上之町二丁目町内会館のある場所が、植原六左衛門の旧宅跡に当たる。
 植原六左衛門は津山藩士で、海防家、水連家として名を成した。古式泳法神伝流の第十世宗師。嘉永元年(1848)、津山藩の水連師役となり、嘉永六年(1853)には幕命によって出府。同藩士はもとより多くの他藩士にも教授した。その頃から水戸藩尊攘派と交友を深め、安政四年(1857)、勤王儒者藤森弘庵は植原六左衛門に合うために津山まで来ている。文久三年(1863)、幕府より六左衛門に大砲製造の命が下り、以後もそのことにあたった。これによって藩における立場を失い、明治元年(1868)十一月、自邸にて自決した。享年五十三。

(本源寺)


本源寺

 本源寺は、臨済宗妙心派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。本堂は、慶長十二年(1607)に上棟された方丈形式の建物で、屋根は入母屋造、桟瓦葺きである。森家墓所は門が閉じられており、中を伺うことはできない。墓地に鞍懸寅二郎の墓がある。


森家墓所


秋汀鞍懸君之墓(鞍懸寅二郎の墓)

 鞍懸寅二郎は天保五年(1834)、播磨国赤穂の生まれ。十五歳で赤穂藩の勘定方となり、のちに江戸に出て塩谷后陰に師事した。安政五年(1858)、故あって浪人となり、美作西北条郡香々美村に寓し、子弟に句読を授けた。ついで「富籤論」を著して津山藩の富籤を痛撃したが、これを機に同藩の儒員に抜擢され、藩政改革に努めた。文久二年(1862)、国事周旋掛となり、上京して縉紳(高位の人)に画策した。元治元年(1864)、征長に際して、藩主松平慶倫に長州藩の高義を説得した。明治二年(1869)、津山藩権大参事。明治四年(1871)、民部省出仕。同年八月、津山で暴漢に短銃で狙撃され死亡した。年三十八。

(妙法寺)


妙法寺


翼龍植原先生之墓(植原六左衛門の墓)

 妙法寺の広い墓地の中に植原六左衛門の墓がある。墓地を三分の二週してようやく発見することができた。

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