史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「タウンゼント・ハリス -教育と外交にかけた生涯」 中西道子著 有隣新書

2012年02月15日 | 書評
今更ながら、幕末に来日した外国人は、いずれも日本にとって恩人である。同じアメリカ人であるが、知名度では鎖国の扉をこじ開けたペリーが勝るが、我が国への貢献度でいえばハリスの方が上回るのではないか。
生涯独身を貫いたハリスが最初にエネルギーを注いだのは、教育であった。ハリスは、ニューヨーク教育委員長に就いてフリー・アカデミー(無月謝の高等教育機関)設立の中心人物として活躍する。学校の開設に目途がついた1848年一月、ハリスは公職を退いた。原因は本職である商売の不調、それにこの時期最愛の母を失ったことが重なったことにあった。この頃、情熱の向け先を失ったハリスは、酒におぼれる日々を過ごしたという。
ハリスが次に熱意を傾けたのが、外交であった。当初、中国の寧波領事として赴任する予定であったが、折しも日米和親条約が締結され、日本(下田)に領事官を駐在させるという報に接すると、ハリスは直ちにニューヨークに戻り、この職への任命を取り付けるべく奔走を始めた。
ハリスに飲酒癖があるといった噂が流れ、人選は難航したが、結果的にハリスのほかに未開国日本の初代領事という、危険を伴う立場に進んで身を投じようという物好きが現れなかったこともあり、晴れてこの職を手にしたのであった。
ハリスのこの情熱はどこから来ているのであろうか。思えば、ニューヨークの教育委員長も無報酬だった。歴史に名を残すような大事を成し遂げるには、大金を得るとか、私服を肥やそうということが動機であってはならないのだろう。
常に粘り強く、誠意をもって交渉にあたるハリスは、いつしか将軍や幕閣から敬意を集める存在になっていた。ある日、ハリスが「毛並のどこかに白い斑のある犬の尻尾の先は必ず白い」と言ったものだから、幕府の交渉委員や大名は手分けして数千匹の犬を調べ、ハリスの言が正しいことが証明されたという。
ハリスの滞日は五年九か月に及んだ。この間、日米通商修好条約の締結、横浜開港など、ハリスは大きな足跡を残した。文久二年(1862)五月、ハリスは日本を去った。ハリスが息を引き取ったのは、明治十一年(1878)二月二十五日のことである。
いつかニューヨークを旅する機会を得られれば、ブルックリンのグリーンウッド墓園のハリスの墓を訪ねてみたい。更にいえば、ハリスの情熱の結晶であるフリー・アカデミーは、現在CCNY(College of the City of New York)となって今も健在である。ハリスの墓参りの後は、CCNYのタウンゼント・ハリス・ホールにも足を伸ばしてみたい。
著者中西道子氏は、比較文化史を専門とする大学講師の方である。ハリスのことを愛情と敬意を込めて調査し、一人の偉大な人生を描き出すことに成功している。

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「山田方谷の夢」 野島透著 明徳出版社

2012年02月15日 | 書評
巻末のプロフィールによれば、著者野島透氏は、山田方谷六代目の直系子孫にして、財務省の官僚という方である。ついでにいえば、昭和三十六年(1961)生まれというから、この私と同い年ということになる。本書でも当時の備中松山藩の藩財政を解説する下りは、さすがにプロと読み手を唸らせるだけのものがある。
官僚といえば、最近の政治ではことあるたびに「悪者」の象徴に吊るし上げられているが、真実はどうだろうか。私の知る官僚の姿は、昼夜分かたず献身的に働く人たちであり、足の引っ張り合いや無意味な駆け引きに精を出している政治家よりよっぽど国民のために身を捧げているように思えてならない。
まず、忙しい身でありながら、山田方谷のことをここまで調べ抜いたということに敬意を表したい。
結局のところ、山田方谷は聖人君子だったのだろう。聖人君子はなかなか小説の主人公にはなりにくい。
この本では、方谷と同郷の谷昌武(近藤周平)を副主人公として登場させている。この人物も、新選組近藤勇の養子となったことや池田屋事件にも出動したこと以外、あまり華々しい事歴があるわけではなく、小説の主人公にはなりにくい。
結果、小説としては残念ながらあまり面白いものにはならなかった。著者も、始めから面白く読んでもらおうとは意図していなかったであろうが…。

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東赤坂 Ⅱ

2012年02月12日 | 岐阜県
(曽根城公園)


梁川星巌紅蘭像

 華渓寺に隣接する曽根城公園には、梁川星巌、紅蘭夫妻の像がある。

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大野

2012年02月12日 | 岐阜県
(所郁太郎顕彰碑)


贈従四位所郁太郎君記念碑

 岐阜北郊の大野は所郁太郎の養家があった街である。所郁太郎は、天保九年(1838)美濃赤坂に生まれたが、十一歳のとき医師所伊織の養子となってこの地に転居した。十五歳で西洋医学を学び、十八歳で京都へ遊学。二十三歳のとき緒方洪庵の適塾に入門した。
 大野の住宅街の一角に、場違いなほど大きな石碑が建てられている。井上馨は恩人所郁太郎のことの顕彰に尽くしたが、この碑は昭和十二年(1937)に井上馨の遺志を受け継いで、井上侯爵家が建立したものである。

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岐阜 Ⅱ

2012年02月12日 | 岐阜県
(岐阜城)


明治大帝聖像

 岐阜といえば、「鵜飼い」である。鵜飼いの歴史は古く、遡れば飛鳥時代(一世紀半ば頃)「隋書倭国伝」に鵜飼いの記述が見られるそうである。
 明治十一年(1878)、岩倉具視を伴って北陸巡幸の途中、明治天皇が鵜飼いを御高覧になった。このとき鮎を献上している。
 岐阜城に登るロープウェイ乗り場の裏手に明治天皇像が立っている。


鵜飼い


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犬山 Ⅱ

2012年02月12日 | 愛知県
(犬山城)
 木曽川を天然の外堀として築かれた犬山城白亜三層の天守は、国宝に指定されている。元和二年(1616)尾張藩の付家老成瀬家が犬山三万五千石の城主となって以来、明治に至るまで代々成瀬家が城主を引き継いだ。慶應四年(1868)正月、ようやく藩として独立。尾張藩の動きに同調して、藩主徳川慶勝をよく助けた。明治四年(1871)廃藩置県によって廃城が決定し、城跡は県立公園になった。明治二十四年(1891)、濃尾地震で天守閣が大破し、その折に修理を条件に旧城主成瀬正肥(まさみつ)に譲渡されたため、今日、城は個人の所有となっている。


犬山城


宝暦治水薩摩義士之碑

 犬山城の南には、昔ながらの街並みを保存した歴史的風致地区が続く。犬山は、国宝に指定された城郭だけでなく、周辺の城下町であったり、明治村やリトルワールド、モンキーセンターなど、集客に力を入れている。この日数時間だけであったが、娘と街を散策して、また訪ねてみたいと思わせる街であった。


史跡 敬道館跡

 犬山城の南に伸びる本町通りの両側には、昔ながらの街並みが続いている。犬山市文化会館の向かい、「犬山焼き」の店舗がある辺りが、藩校敬道館の跡地である。
 犬山藩校敬道館が開設されたのは、天保十一年(1840)、八代藩主成瀬正住のときである。職制は尾張藩の明倫堂を参考としてつくられ、生徒の定員は四~五十名。八歳で入校し十五歳で退館する決まりであったが、希望者は引き続き学校に残ることも許された。

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亀山

2012年02月09日 | 三重県
(亀山城)
 年末年始は親戚が岐阜市の長良川温泉に集合するというので、末娘を乗せて高槻の実家から岐阜に向かった。途中、三重県下亀山と桑名に立ち寄って史跡を訪ねることとした。
 伊勢亀山城の起源は古く、十三世紀関氏が築城したことに始まる。その後、幾度となく城主が変わったが、延享元年(1744)石川総慶(ふさよし)が城主に封じられると、以降十一代にわたって石川氏が治めた。明治六年(1873)の廃城令により城郭は破却され、現在多門櫓と石垣、土塁などの一部が残されているのみである。私が訪れたとき、多門櫓は修復工事中で、その雄姿を見ることはできなかった。


史跡 亀山城

 亀山は、石川氏六万石の城下である。幕末の藩主は、石川成之。鳥羽伏見での津藩の裏切り、桑名藩の敗兵が自領を通過するのを見て、藩論を勤王に統一し、以後桑名城攻撃では先鋒を務めた。菰野藩とともに朝廷に返還された伊勢国内の天領の管理に当たった。


黒田孝富遺剣之碑

 黒田孝冨は、通称頑一郎。天保五年(1834)亀山藩士黒田嘉治の子に生まれた。家老近藤織部(鐸山)の抜擢を受けて広間役となった。江戸に出て、儒学を藤森弘庵に学び、諸国の志士と交わるようになった。その後、帰藩して尊王攘夷を説いた。文久三年(1863)には京都に出て、諸藩主、公武間を奔走し、特に三条実美の信任を得て、三条邸の警衛に任じられた。八一八の政変後は、江戸に走って、水戸藩の武田耕雲斎らと意見交換し、これを幕府に咎められて国許に幽閉された。明治後、勤王の大義を唱導し、藩政改革に力を尽くしたが、嫉怨をまねいて刺殺された。享年三十五。


鐸山近藤君碑

 近藤織部は、文化十年(1813)亀山に生まれた。雅号は鐸山、諱は幸殖。詩を梁川星巖に、国学を鬼島広蔭に学んだ。佐々木弘綱、井上文雄、藤森弘庵らと交った。嘉永三年(1850)家老職に就いた。文久三年(1863)、家茂の上京に従って京に上り、三条実美と会う機を得た。黒田頑一郎に意を含めて諸国の志士を結んで他日を期した。朝廷の親兵を設置には、藩士九名を選抜して送った。このことで幕府に咎められ、頑一郎とともに蟄居を命じられた。明治元年(1868)赦されて藩政に復帰したが、保守派のために再び幽閉された。明治二年(1869)亀山藩大参事に任じられた。明治二十三年(1890)東京で没。七十八歳であった。

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桑名 Ⅱ

2012年02月09日 | 三重県
(顕本寺)
 中村彰彦の小説「闘将伝 小説立見尚文」を読んで以来、もう一度桑名を訪問したいと思っていたが、意外と早くそのチャンスがやってきた。この日のターゲットは二つ。顕本寺の服部半蔵正義の墓と、光明寺の町田武須計の墓である。


顕本寺


服部半蔵正義墓

 服部正義は、有名な服部半蔵の末裔。弘化二年(1844)服部半蔵正綏の長男に生まれた。慶応元年(1865)、二十一歳で家督を継ぎ、桑名藩家老となった。京都にあって京都所司代を務める藩主を補佐した。慶応三年(1866)軍事総裁に就いた。鳥羽伏見の戦いに参戦したが、敗戦後江戸を経て、越後長岡、会津を転戦した。庄内で降伏して東京へ護送された後、桑名に戻され十念寺にて謹慎。明治二年(1869)謹慎も解かれ、桑名藩大参事や第三大区長などを務めた。明治十九年(1886)歿した。享年四十二。

(光明寺)


光明寺


町田武須計墓

 町田武須計は、陸軍大将立見尚文の実兄で、初代桑名町長を務めたことでも知られる。十八歳で藩主に近侍して大番となり、二十一歳のとき学校監察に進んだ。慶應二年(1865)の長州戦争に際して藩命を受けて安芸の戦況を視察した。戊辰戦争では旧幕軍に投じて神風隊の隊長となって、越後、長岡、会津と転戦した。庄内で降伏して桑名に幽閉されたが、明治二年(1869)に赦されて、その後は桑名藩大参事、軍務都督に任じられ、明治十年(1877)の西南戦争にも出征した。
本堂横の墓地にある武須計の墓石側面には、漢文で事跡がぎっしりと書き込まれている。

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御陵大枝山

2012年02月05日 | 京都府
(西念寺)


西念寺

 西念寺は、かつて中京区六角裏寺町にあったが、西京区御陵大枝山の新興住宅街に移転している。移転に伴って古い墓石もこの地に移された。中村武生著「池田屋事件の研究」(講談社現代新書)によれば、西念寺は西川耕蔵の菩提寺であるが、長らく忘れられていた。一族の西川太治郎(近江新報社社長、のち大津市長)が、明治三十八年(1905)にこの寺の存在を知り、妻と母の墓の横に西川耕蔵の墓を建てたものである。


贈従五位西川耕蔵直純之墓

 山門をくぐって右手の小さな地蔵堂の中に西川耕蔵(および夫人)の古い墓石が残されているが、墓地には建て替えられた新しい墓が置かれている。


(旧)西川耕蔵墓

 右手の墓は、「久下氏墓」と刻まれているが、安政六年(1859)に六十九歳で亡くなった西川耕蔵の老母久下静のもの。左手の墓石「巽氏之墓」とあるのは、安政五年(1858)に死んだ西川耕蔵の妻、巽愛(享年三十)のものである。

 西川耕蔵は、文政六年(1823)京都の書肆の家に生まれた。勤王の志固く、梅田雲浜の塾生となってその感化を受けた。安政五年(1858)、雲浜が大獄に連座して捕えられると、幕吏の追求を受けて、逃走、各地に潜伏した。元治元年(1864)の池田屋事件直後、新選組に捕えられ、六角の獄舎に留置された後、斬殺された。享年四十三。

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樫原 Ⅱ

2012年02月05日 | 京都府
(樫原 勤王家殉難之地)


小泉家

 「勤王家殉難之碑」のある場所で、長州藩御用達小泉仁左衛門が油商を営んでいた。当時使われていた油壺が展示されている。仁左衛門は、尊王攘夷を論ずる私塾を開いていたが、森田節斎や梅田雲浜といった急進的な学者も出入りしていた。


樫原本陣

 樫原は山陰道の宿場町で、丹波・山陰からの物資の集積地として賑わいを極めた。樫原本陣は、安政二年(1855)に松尾下山田の豪族玉村新太郎正継が継承し、以後五代にわたって引き継がれている。現在も本陣の遺構が残るのは、京都市内では樫原陣屋のみである。

(冷聲院)


冷聲院

 冷聲院には、この付近の川島村に生まれ、二十二歳のとき庄屋となった勤王家、山口直(なおし)の墓がある。山口直(薫次郎)は、私塾立明館を開いて森田節斎を招き、郷里の子弟の教育に尽した。節斎を通じて梅田雲浜を知り、尊王攘夷論に心酔した。多くの志士と交わり尊攘活動に奔走し、安政の大獄では幕吏に追われて、一時変名して丹波に潜伏した。七卿落ちのとき護衛して長州に下り、その際川島村に残した田畑山林は全て没収された。維新後、東京に移り住み新政府に仕えたが、明治六年(1873)に東京で没した。五十八歳。


勤王志士 山口直墓

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