史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「江戸のながい一日 彰義隊始末記」 安藤優一郎著 文春新書

2019年06月29日 | 書評

 維新後、勝海舟が江戸城無血開城のことを繰り返し語り、あれで江戸が戦火を免れたと信じられているが、実際にはその数カ月後に上野を舞台に彰義隊と官軍の戦争があった。戦争といっても、わずか一日で片が付いてしまったため、やや印象が薄いが、実は太平洋戦争の空襲を除けば、江戸(東京市街)が戦争の舞台となったのは、史上唯一のことであった。

江戸城無血開城というと、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談によって「江戸城総攻撃は中止された」といわれている。しかし、筆者によれば、中止というより「一時中止、延期」と表現する方が正確だという。海舟との会談を受けて、西郷は駿府にいる大総督有栖川宮熾仁親王に判断を仰ぐため、総攻撃は延期となったのである。結果的には中止となったが、あの時点では「延期」というべきである。人間はどうしても「美談」に流れがちである。

その後、新政府、旧幕府双方にとって最大の関心事は徳川家の処分であった。我々は徳川家が駿府に移されて存続したことを知っているので、新政府内でも満場一致で決定し、徳川家もそれをすんなりと受け入れたと思いがちであるが、新政府内でも意見は割れていた。

江戸で孤立していた大総督府では、江戸城を徳川家に返還し、江戸を徳川家の所領とする案を推していた。徳川家に与える所領が百万石を下回る場合は、騒乱に備えて四万~五万の兵を送って欲しいと要求していた。

これに対し、京都の新政府首脳(三条、岩倉、大久保、木戸ら)は、所領は駿河、江戸城は返還しないという厳しい案を主張していた。注目すべきは、早くもこの時点で、西郷と大久保の意見は対立していたということである。我々の抱いているイメージでは、幕末を通じて西郷と大久保は常に「一枚岩」であったが、ここに亀裂の萌芽を見ることができる。

最終的に徳川家が駿河に移封されたのは歴史が語るとおりであるが、大総督府と新政府首脳の会談が行われていた慶應四年(1868)四月の時点では、江戸城が徳川家に返還される可能性もあったのである。

彰義隊の戦争も、結果的に一日で終わったため、新政府軍の圧勝のように思われている。確かに、新兵器を装備し、場合によっては全国から兵を補給できる新政府軍に対し、烏合の衆である彰義隊に勝ち目はなかった。しかし、戦いが長期化すれば、寛永寺境外に潜伏する旧幕不満分子や日和見の旧幕臣らが彰義隊に呼応して市中でゲリラ戦を展開する恐れもあった。彰義隊から分離した、渋沢成一郎が率いる振武隊もその一つであった。のちに渋沢成一郎は「戦いが夜にまで雪崩込み一日で終わらなかったならば、江戸にいた幕臣たちが東征軍と一戦交えるかまえだった」と証言している。

新政府軍を指揮する大村益次郎にとって、勝利はいうまでもなく、戦いを日が暮れるまでに終わらせることが命題であった。結果的には、その日のうちに戦いは終結したが、案外薄氷の勝利だったのである。

彰義隊が潰走し、牙を抜かれた徳川家に対し、新政府は七十万石で駿府へ移るよう言い渡した。彰義隊による上野戦争は、徳川家の命運を握る戦いでもあったのである。

 

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廿日市

2019年06月29日 | 広島県

(大頭神社)

 

大頭神社                                     

 

 広島市内の掃苔を終えると、次は隣接する廿日市の二つの史跡をアタックした。千人塚は、広島岩国道大野ICを出てすぐ、大頭神社の門前にある。

 

千人塚

 

 慶応二年(1866)六月、この辺りは第二次幕長戦争の際、約二か月にわたり激戦が展開された。この戦闘で戦死した新宮藩士らがここに葬られたという。

 

(残念さん)

 山陽道を走っていると、「残念さん」という看板が目に入ってくるが、これも長州戦争関係の史跡である。高速道路の南側に駐車スペースが設けられており、そこからは徒歩で向かうことになる。高速道路を渡る橋も「さんねんさん橋」と名付けられている。

 

残念社

 

 残念社に祀られているのは、丹後宮津藩士依田伴蔵。

 慶應二年(1866)七月九日、四十八坂を単騎西に向かって走る幕軍の武者がいた。長州軍は、これを戦闘員と誤認をして狙撃。武士は「残念」と言い残してこと切れた。武士の名は依田伴蔵で、軍使として長州軍営に向かう途中であったことが分かり、長州軍は遺憾の意を表した。残念社は、村人が伴蔵の戦死を悼んで祀ったものである。

 

吉田松陰の腰掛石

 

 近いところに依田神社というもう一つ社がある。その参道にあるのが、吉田松陰の腰掛石である。松陰が江戸に護送される途中、当時西国街道中の難所といわれた八坂峠のこの石の上に腰を掛け、遥かに周防大島を望みながら、「この場こそ、三国一望の地である」と。故郷への別れを告げた。

 

依田神社

 

 以上で予定された広島県の史跡を終了し、いよいよ山口県に入る。

 

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広島 Ⅱ

2019年06月29日 | 広島県

(聖光寺)

 東広島での史跡三昧の一日を過ごした夜、広島へ移動してそこで車中泊することになった。広島は大都市であるが、どういうわけだか車中泊の定番「道の駅」が周辺に少なく、ネットで検索すると「マリーン公園」くらいしかヒットしないのである。マリーン公園は、広島市と廿日市市の境の海岸沿いにある。広い駐車スペースを備えているが、前日のRVパーク西条駅前が閑散としていたのと打って変わって、大混雑であった。

 聖光寺

 平成が終わり、令和を迎えた。私の令和も史跡の旅で始まった。

外が明るくなると早々にマリーン公園を出発し、真っ先に向かったのが東区山根町の聖光寺である。浅野家繋がりだろうか、境内には赤穂浪士大石内蔵助父子の供養塔がある。

 

 

高間壮士之碑と高間省三正忠之墓

 

 高間省三の墓と顕彰碑である。高間省三は、広島藩の武具奉行高間多須衛の長子。藩校助教を務めた。若くして神機隊の砲隊長兼武器方として出征。慶応四年(1868)八月一日、浪江口において顔面に砲撃を受け戦死。双葉町自性院にも墓所がある。二十一歳。顕彰碑は、阪谷朗蘆の撰文。

 

  

介菴梅園翁之碑

 

 梅園介庵は広島藩儒。慶應元年(1865)、江戸詰藩邸学館(講学所)を監督。明治三年(1870)、三原学校監督。廃藩後は修道学校教授。明治十八年(1885)には市内中島本町に漢学学校麗澤学校を開いた。明治二十一年(1888)没。

 (本照寺)

 聖光寺の後、安佐南区の緑井霊園に行って、咸臨丸航海長小野友五郎の墓を探したが、緑井霊園では小野家の墓すら見つけることができなかった。

 次いで常林寺で戊辰殉難者亀田喜代三の墓を探したが、周囲は広大な霊園となっており、まずその中から常林寺の墓域を探す作業から始めなくてはならなかった。残念ながら、ここでも亀田喜代三の墓に出会うことはできなかった。

 空振りが続いたが、次に訪れた本照寺では、墓地に入った途端、目の前に目当ての阪井虎山の墓が立っていた。

 

 

本照寺

 

 

虎山阪井先生之墓

 

 阪井虎山は幕末の広島藩儒。頼春水に学び、漢詩に長じた。妙円寺の海防僧月性も二十歳のとき虎山に入門し、交流が深かった。嘉永三年(1850)、五十三歳にて没。

 

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東広島

2019年06月22日 | 広島県

(酒蔵通り)
 平成最後の日、すなわち連休四日目、竹さんご夫妻と合流して二日目は、東広島市の郷土史研究会のMさんのご案内で神機隊関係の墓を巡るというディープな一日であった。
 前日、福山から神石高原、庄原、因島、竹原、安芸太田と回って、RVパーク西条駅前にぎわいパークがこの日のゴールであった。RVパークは車中泊が可能な駐車場で、トイレや洗面所なども完備している。この場所もMさんの手配で利用することになった。連休中というのに、この日この場所で車中泊をしている車は、我々を含めて三台しかなかった。
 我々がRVパークに到着すると、早速Mさんが迎えに来てくれて、行きつけの店で飲むことになった。東広島市の中心部西条は、灘、伏見と並ぶ酒処として有名で、駅前には「酒蔵通り」がある。Mさんお勧めの日本酒は、すいすいと飲めてしまった。
 前日は本降りの雨だったため、この日も天気が最大の懸念であったが、何とか朝には雨が上がった。Mさんとは朝九時に待ち合わせしていたため、それまでの時間、酒蔵通りを散策した。


酒蔵通り

 酒蔵通りには、白牡丹、亀齢、賀茂鶴といった西条を代表する蔵元が密集している。いずれも赤いレンガ造りの煙突と白壁に赤い瓦屋根という特徴的な建物が並ぶ。


西条四日市宿本陣(御茶屋)跡

 酒蔵通り周辺は、江戸時代西条四日市と呼ばれ、旧西国街道の宿場町として栄えた。西条四日市宿の本陣は、藩の直営で、御茶屋と称された。建物は取り壊されたが、昭和六十一年(1986)、正門が復元された。

(上河内)
 東広島郷土史研究会のMさんと竹さんとの接点は八年前の東日本大震災に遡る。Mさんが、震災後に福島県の浜通りに点在している神機隊士の墓の状況を問い合わせたことから何回かメールのやりとりがあったという。その後、音信が途絶えていたが、今回、竹さんご夫妻が東広島の神機隊士の墓の場所を問い合わせたところ、「分かりにくい場所だから」と一日案内役を買ってでていただいた。確かに、この日ご案内いただいた墓所は、いずれもカーナビと住所だけでは絶対に行き着けないような場所ばかりで地元の方のご案内は大変値打ちがあった。

 最初にご案内いただいたのが、上河内地区の後藤仁三郎の墓である。仁三郎の末裔の方が麓で待っていてくれた。後藤家の墓は、公道から十分ほど歩いた山の中にある。末裔の方によれば、これでもこの場所は昔の街道沿いに当たるそうである。


釋 明乗(後藤仁三郎の墓)

 後藤仁三郎(にさぶろう)は、神機隊東北出軍第二隊に属し、一番中隊隊長補として仙台周辺に出征。明治十年(1877)には西南戦争にも従軍して日向を転戦している(墓石には明治十一年とあるが、明治十年の誤りだろう)。墓石によれば、後藤家の二代政之助は日露戦争に従軍し、三代政美氏は昭和十四年(1939)に支那事変に従軍し、戦後復員したというから、戊辰以来の我が国近代の戦争とこの家の歴史は見事に重なっているのである。


義照院釋明乗 為祖父後藤仁三郎追善供養塔

 傍らには、平成元年(1989)に後藤政美氏が神機隊百二十年を記念して建てた、後藤仁三郎の供養塔がある。

(上三永)
 次に向かったのが、上三永の藤原春鵲(しゅんじゃく)の墓である。これも極めて分かりにくい場所で、もう一度一人で行けといわれてもとても無理である。
 藤原春鵲は、儒医春徳の子。幼少より父春徳の薫陶を受け、少年時代は頼聿庵に師事。のち長崎に行き蘭医池田玄彬に学び、特に種痘を研究して二年後帰郷。慶應二年(1866)六月、第二次征長出兵の際、弟子を引率して藩庁に出張して傷病兵、被災民の治療に当たった。この頃、郡奉行の指揮のもとに従来の農兵とは別に臨時農兵隊(のちに應変隊に発展)が編成されていたが、その屯営に出向して軍医長となった。神機隊関係の史料によると、志和の同隊残留部隊の役付の中に春鵲の名があり、應変隊より転出したものと思われる。嘉永六年(1853)の飢饉の際には私金七十五両を窮民救済にあて、それも受給者の心情を慮り貸付の名目で行い、実際には返済を受けなかった。その後も凶作の度に救済し、また郡役所に上申して郡内全域に無料で種痘を行った。常時伝来の山林を開放して村民の燃料として提供。明治六年(1873)には上三永に小学校が創設されると、その経費の過半を負担した。明治二十九年(1896)十月、病没。六十七歳。弟権曹、子の戒三はいずれも広島県議に当選している。

 上三永の築地神社には春鵲の顕彰碑があるが、時間の関係で立ち寄れず。


藤春鵲碣(藤原春鵲の墓)

(助実)


神機隊加藤常太郎義光墓

 次にご案内いただいたのが、助実の神機隊加藤常太郎の墓である。農地の一角で神機隊加藤常太郎の墓が発見されたもの、既に加藤家の人々も思い当たらないという状況であった。
 加藤常太郎は、神機隊三番中隊。「東広島の歴史事典」(東広島郷土史研究会編)によれば、出征当時二十四歳だったらしいが、墓石には行年二十二歳(明治二年(1869)十二月十八日)とある。

 このあと、やはりMさんのお勧めの東広島市内の広島風お好み焼き屋で昼食。今回の旅で、唯一「土地の美味いもの」を口にした。

(八本松町原 為本集会所)


造賀善太郎惟義墓

 ここからは八本松の神機隊士の墓を訪ねる。Mさんによると、八本松という地名は、旧山陽道の一里塚に夫婦の松があり、それぞれ四本の枝を出し、あたかも八本の松があるように見えたことに由来するそうである。
 最初に訪問したのが、為本集会所の周辺にある墓地にある造賀(ぞうか)善太郎の墓である。
 造賀善太郎は、第三小隊。賀茂郡原村の人。慶応四年(1868)七月二十六日、磐城広野にて戦死。十九歳。

(八本松町原 吉川)


蓮臺院釋光義 (吉川逸平の墓)

 八本松町原吉川(よしかわ)の吉川(きっかわ)逸平の墓である。こちらも近所に住む末裔の方にご案内いただいた。ご案内いただいただいでも恐縮なのに、その後、ご自宅でお茶やお菓子までいただき、帰りにはお土産にもみじ饅頭までいただいてしまった。この日は至るところでこのような厚いもてなしを受け、感激するやら恐縮するやらといった一日となった。
 吉川逸平は、第一小隊。慶応四年(1868)七月二十三日、磐城広野にて負傷。二十四日、小名浜病院にて死亡。二十三歳。

(八本松町原 寺屋敷墓地)


釋 願證信士(宮崎三右衛門の墓)

 宮崎三右衛門は神機隊員として従軍。仙台から箱館五稜郭まで転戦した。墓石によれば、大正七年(1918)九月二十四日、死去。享年七十五。

(西蓮寺)
 西蓮寺本堂は、この地域特有の艶のある赤い屋根瓦で覆われている。Mさんに教えていただいたところによると、この赤い屋根瓦は「石州瓦」と呼ばれる、山陰地域特有のもので、この地域でも石見地方と同じ粘土質の土を産出することから、同様の瓦が生産されることになったそうである。


西蓮寺

 神機隊は、西蓮寺を屯所とし、もと長州藩奇兵隊に属していた木本壮平を教師として、新旧流の訓練を行った。戊辰戦争に出征して、多くの戦病死者を出した。凱旋後も解散されることなく再編成されたが、廃藩置県後の明治五年(1872)に至り、生涯扶持と三百人ずつ交代で広島城内松原講武所出勤を条件に解散した。西蓮寺境内に隊員の一部の墓が集められている。


明治維新 神機隊本陣跡


芸州回天軍第一起神機隊の墓

 神機隊の墓は、その多くが西蓮寺の向いの和田山の山中に無造作に放置されていたものを、地元のK氏が西蓮寺境内に集めたものである。この日は、東広島郷土史研究会副会長のYさんとK氏の御子息に西蓮寺まで御越しいただき、その場でたくさんの関係資料を頂戴し、解説を聞くことになった。


石田速一居士之墓

 西蓮寺神機隊墓地には十七基の墓石が並べられているが、いずれも戊辰戦争においていわき、広野、相馬、双葉周辺での戦病死者である。その中にあって中央一段背の高い墓は、石田速一のものである。
 石田速一は、西蓮寺墓地に寝せ棺で土葬されていた。身長六尺と、当時としてはかなり大柄であった。墓から掘り起こされた時、何故かチョンマゲだけは長く伸びていたと伝えられる。西蓮寺に駐屯した神機隊士のうち病死したものと思われる。


加藤善三郎高義墓

 加藤善三郎の墓は白河の萬持寺にもある。東北における戊辰戦争も終息した十月、長州藩の人夫を誤って殺してしまい、その責を負って自刃。二十五歳。

 西蓮寺向いの和田山(山というより丘と呼んだ方が正確だろう)では、神機隊の調練が行われたという。今は深い藪に覆われている。


和田山

(八条原城跡)


副会長宅の史料館

 西蓮寺からY副会長のご自宅に移動し、ここで副会長より三十分ほど八条原城についてのレクチャーを受け、それだけでなく様々な書籍(「高間省三の遺品写真集」「歴史記録写真集 志和」「神機隊ものがたり」)や資料のコピーを頂戴した。いただいた中には「東広島の歴史事典」(東広島郷土史研究会編)という大部の書籍まで含まれている。この書籍は定価七千円もするもので、東広島に関する歴史が網羅されている。神機隊についても十八ページを割いて詳述している。
 Y副会長のご自宅は、八条原城に近接した場所にあり、八条原城跡から発掘された瓦や門柱の一部等が自宅の資料室に展示されている。


文武塾の瓦


志和神社


広島藩八条原城跡

 Y副会長の自宅の裏手、現在志和神社のある辺りが旧八条原城の兵舎や練兵場のあった場所と推定されている。
 八条原城は、慶応四年(1868)、戊辰戦争勃発に際し、芸州藩では戦乱の拡大と外国軍艦の干渉等、不測の事態に備え、既にその前年軍艦方木原秀三郎が神機隊屯営地としていたこの場所に、藩庁別館および学寮兼兵営・練兵場を設営し、非常時に対処することとした。同年七月、武具奉行高間多須衛(たすえ)を総監として着工した。世子浅野長勲、前藩主浅野長訓らも相次いで来村指揮したという。同時に志和への入口となる六カ所に柵門を設け、神機隊の留守部隊をもって守衛させた。その他の間道も全て封鎖し、志和盆地全体を一大要塞とした。明治二年(1869)四月には藩士子弟三百人を選抜して学寮に入れ、文武塾(現在の志和神社の東側)を開校した。しかし、動乱は鎮静化に向い、明治二年(1869)十二月、築城工事は中止され、諸施設は解体払下げとなった。
 八条原城と呼ばれているものの、城郭や石垣が築かれたわけではなく、実態としては陣屋のようなものであったと考えられる。
 普段は立ち入ることができない場所であるが、Y副会長のご厚意で、城址の隅々までご案内いただいた。感謝感激のひとときであった。


八千石の米蔵礎石

 兵舎の北側には、八千石の米蔵が築かれていた。現在はその礎石のみが残されている。
 兵舎から本丸までは「抜け穴」が通じていた。Y会長の子供の頃は、トンネルで遊んだというが、ある時、一部が崩落したため出入りが禁止された。
 ジャングルのような藪を抜けると、いきなり何もない空間が出現する。ここが本丸跡で、その周囲には庭園や見張台、政事堂などが設けられていたとされる。


 平成最終日、長い一日が終わった。時計の針は午後五時を回っていた。
 東広島市は通常観光で行くような場所ではないが、地元の人に行く先々で解説してもらった。これ以上の贅沢はないだろう。特別風光明媚な場所でもなく、山海の美味に舌鼓をうつわけでもなく、温泉を楽しむわけではなかったが、こういうゴールデンウイークの過ごし方も悪くない。
 なお、この日の様子は東広島郷土史研究会のブログに掲載されている。

 三十年余り続いた平成が終焉を告げた。振り返れば、私が史跡の旅を始めたのは、平成七年(1995)からであり、いつしか四半世紀が過ぎた。それなりに執念深く史跡を求めて日本全国を歩いてきたが、まだ道半ばといったところである。史跡訪問の日々はまだ続く。

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安芸太田

2019年06月15日 | 広島県
(真教寺)
 広島市内から安芸太田町までおよそ五十キロメートル、高速道路を使っても一時間のドライブとなる。真教寺の川本久次郎の墓を訪ねるためだけに、はるばると安芸太田まで往復することになった。安芸太田は、山に囲まれた町で、北西部は島根県の益田市と接している。


真教寺

 真教寺に行けば、直ぐに見つかるだろうと高を括っていたが、予想に反して真教寺の境内に墓地がなく、雨の中を近くの墓地を隈なく探してみたが、見つけることができなかった。
 しかし、ここまで来て手ぶらで帰るのも悔しい。そこで思い切って真教寺の人に聞いてみることになった。
 突然の訪問に、ご住職は少々驚いたようだが、竹さんがこの墓を訪ねて仙台から来たことを切々と訴えると、丁寧に墓の在り処を教えてくれた。墓所は、真教寺の前の道を南に進んで、最初の交差点を右折して直ぐの畳屋を右折した突き当りにある。

 川本久次郎は、戸河内村の出身。政屋芳松といったが、出征中に川本久次郎と改名した。應変隊に召募され、奥州方面を転戦したが、慶応四年(1868)九月五日、戦死。
 会津若松郊外の新城寺に葬られたが、昭和五十四年(1979)、子孫の手により故郷の真教寺に改葬された。新城寺にも記念碑が残されている。


忠誠院義源大居士(川本久次郎の墓)


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因島

2019年06月15日 | 広島県
(神峰寺)


神峰寺

 因島は、かつて因島市と呼ばれる独立した行政区であったが、現在は尾道市の一部となっている。西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で尾道とも実質的に陸続きとなっており、決して孤島ではない。島の東側の椋浦地区にこの地区出身の青木忠右衛門の碑が建てられている。


徳川幕府軍船美嘉保丸舩将青木忠右衛門之碑

 美嘉保丸は、慶應元年(1865)六月、幕府がオランダから購入した三本マスト八百トンの機帆船で、ブランデンボルグ号と呼ばれた。青木忠右衛門は、当時としては優秀な艦船であったこの軍艦に乗り組み、榎本武揚に率いられ、他艦船七隻と行を共にし、慶応四年(1868)八月二日、品川起きを抜錨した。第一集結地である奥州陸前松島湾に向け航行の途次、下総銚子浦沖にて大時化に遭遇して難破。黒生浦に漂着した。


椋浦廻船の燈籠

 椋浦には文化二年(1805)に建立された燈籠が残されている。当時、椋浦廻船は千石船二~三十艙を有しており、人家も三百軒を数えた。この石燈籠は、当浦の廻船連中が金毘羅大権現を祀った常夜燈であり、燈明台(燈台)でもあった。

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竹原 Ⅱ

2019年06月15日 | 広島県
(忠海八幡神社)


忠海八幡神社

 竹原市忠海(ただのうみ)町の八幡神社に池田徳太郎の顕彰碑がある。
 池田徳太郎(号は快堂)は、天保二年(1831)に忠海町の医者池田元琳の長子として生まれた。幼くして神童と呼ばれ、八歳にして入野村の清田黄裳の塾に学んだ。十一歳から豊前中津の常藤頼母に師事。さらに十五歳から豊後の広瀬淡窓の門に入り、筑前の亀井革卿の塾を訪れ、試しに「論語」を講じて認められ、塾長となった。十九歳で帰郷し、病死した黄裳にかわって清田塾を主宰し、さらに須波の曹洞宗能満寺に山籠もりして読書修養に励むかたわら、学生を教えていた。その頃、浦賀にペリー、長崎にプチャーチンが来航し、徳太郎は江戸遊学の志を立て、安政四年(1858)、麹町に塾を開き、お玉が池の清河八郎の道場に通った。安政の大獄で吉田松陰、頼三樹三郎らが処刑されたことを聞き、大いに憤慨している。文久元年(1861)、清河八郎、伊牟田尚平、樋渡清明、山岡鉄太郎(鉄舟)、北有馬太郎、笠井伊蔵等と会して、尊王攘夷の挙に出ることを決した。しかし、幕府の偵察が厳しく、清河八郎が無頼漢を斬ったことを口実に逮捕投獄されてしまう。獄中での厳しい吟味に耐え、死を覚悟して同志を救うことに苦心した。獄中不衛生により多くの同志が病死し、徳太郎も瀕死の大病を患ったが、九死に一生を得た。文久二年(1862)、坂下門外の変が起こり、これを契機に幕府の方針が変わり、国事犯の赦免がなされ、徳太郎も放免された。徳太郎は、国事のため囚われた志士の大赦と、浪士募集の運動を画策した。幕府も将軍家上洛を理由に浪士を集めてその懐柔策とした。この浪士の組織が分裂して、一部が新選組となったが、徳太郎は、幕府の力で変革は無理と判断して、同志と袂を分かち帰省した。元治元年(1864)には芸藩に属し、藩の重要事件に関し、密使として活躍。慶応三年(1867)十一月には御手洗において薩長芸の会盟が開かれ、徳太郎は芸藩を代表してこれに当たった。戊辰戦争が起こると、倒幕軍の参謀として芸州兵を率いて出兵した。戦後は地方官として、下総常陸の管轄を命じられ、さらに若森県権知事、新治県権令、島根県権令、岩手県参事、青森県権令を歴任した。明治七年(1874)、四十四歳で病没。


維新志士 池田快堂顕彰碑

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庄原

2019年06月15日 | 広島県
(光縁寺)


光縁寺

 光縁寺の本堂前に渡辺他人之丞の墓がある。渡辺他人之丞は、安芸藩應変隊。慶応四年(1868)九月二日、岩代栃沢村にて戦死。四十歳。日光の龍蔵寺、東京の泉岳寺の広島藩合葬墓にも葬られている。


渡辺他人之丞墓

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神石高原

2019年06月15日 | 広島県
(神石高原ホテル)
 幕末維新という時代に活躍した人物ではないが、このところ伊能忠敬という人に惹かれている。伊能忠敬は五十歳を越えて、十七年という歳月を測量という事業に身を投じ、精緻な地図を完成させた(ただし、「大日本沿海與地図」の完成は伊能忠敬の没後のことである)。現在より遥かに平均寿命の短い江戸時代にあって、隠居後にそれまでの人生とは全く異なる事業を始め、歴史に名を残すような成果を収めたということに驚くほかない。
 当然ながら、伊能忠敬の関係史跡は全国に点在しており、それを追いかけるのも終わりのない作業である。日本地図を作成するだけであれば、沿岸部だけを測量すればよいのだろうが、忠敬は結構山間部にも足を運んでいる。
 神石(じんせき)高原町にも四カ所伊能忠敬関係石碑が建てられている。


伊能忠敬測量之地

 最初に訪問したのが、神石高原ホテル前の石碑である。伊能忠敬の測量隊が神石を訪ねたのは、文化八年(1811)二月のことであった。一行は百谷村(現・福山市)方面から北上して、時安村(神石高原ホテルのあるところ)を経由して井関村へ向かっている。

(井関)


伊能忠敬測量本体宿泊邸跡

 伊能忠敬測量隊は、文化八年(1811)二月十四日、午前二時過ぎに井関村の門田久治郎宅に到着し、この夜、天体観測を行い、翌朝、六時過ぎに出立した。

(中平)


伊能忠敬測量支隊宿泊邸跡

 伊能忠敬の測量隊には別動隊がいて、彼らは三次方面から新免村(現・油木町)に入り、文化八年(1811)二月十一日、中平村の庄屋矢田貝孫兵衛宅に宿泊している。この石碑はそのことを記念したものである。

(三輪酒造)
 神石高原町油木の三輪酒造の門前にも伊能忠敬測量隊が宿泊したことを記念する石碑が建てられている。


伊能忠敬測量隊宿泊邸跡

 この場所は、庄屋七郎庄衛門邸の跡で、文化八年(1811)二月十日に支隊が宿泊、その五日後に本隊もここに宿泊し、その夜、天体観測を行っている。
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福山 Ⅱ

2019年06月15日 | 広島県
(福山城)
 前日は岡山市内にホテルをとった。翌朝、七時半に福山駅で竹様と約束していたが、その前に福山駅周辺を散策するため、まだ日が登らない四時半に起床。五時十五分発の岡山駅始発に乗って福山に移動した。個人的にはほぼ十五年ぶりの広島県下の史跡の旅である。
 福山駅前に福山城がそびえ立っている。駅から、この距離で城が立っているのは、福山以外にないのではないか。今回の福山城訪問目的は、小丸山の江木鰐水、寺地舟里の顕彰碑である。


小丸山

 小丸山は、福山城の背面の防備の役割をもった天然の城塞であった。
 明治維新に際し、譜代大名であった福山藩は、長州軍の攻撃を受け、この丘で死守した。当時、福山藩は藩主阿部正方を失い、その喪を秘して小丸山に仮埋葬していたが、藩論を勤王にまとめ、儒者の関藤藤陰らを使者に立てて、長州藩との和平を成立させたため、城下は戦火を逃れることができた。
 福山藩の動向を決定付けたこの丘に、福山の礎となった人びとの碑を移設し、現在この場所は「先人の森」としてその遺徳を顕彰する場となっている。水野勝成、江木鰐水と寺地舟里の顕彰碑は、もともと本丸跡にあったが、昭和五十五年(1980)に移設したものである。


鰐水江木先生之碑

 江木鰐水は、文化七年(1810)、豊田郡戸野に生まれた。名は繁太郎。頼山陽に師事し、大阪、江戸に学んだ。のち儒官として阿部正弘に仕え、学制、軍制改革に参与した。廃藩後、教育、殖産に努めた。明治十四年(1881)没。


舟里寺地先生之碑

 寺地舟里は、文化六年(1809)福山に生まれた。名は強平。京、長崎、江戸で洋学を学び、福山で初の種痘を実施した。藩校誠之館で洋学教授。廃藩後は城下西町に医学校兼病院を設立した。明治八年(1875)没。

(備後護国神社)
 備後護国神社は、明治元年(1868)、従四代藩主阿部正桓の創立に始まる。維新の国難で亡くなった英霊を始め、幾多の戦役や日清、日露、先の大戦に至るまで国家のため殉じた郷土の英霊三万一千余柱を祀っている。当初は、新宮と称し、福山八幡神社境内に招魂社が建立されたが、明治二十六年(1893)に福山城に移転し、明治三十四年(1901)官祭福山招魂社、昭和十四年(1839)には福山護国神社と改称された。戦後、占領軍の指示に従い、備後神社と称し、阿部神社と合併して備後護国神社となり現在地に移転した。
 文化十年(1813)九代阿部正精が開いた勇鷹(ゆうおう)神社が前身となり、明治十年(1877)、阿部神社と改称された。祭神は、阿部家の遠祖大彦命(おおひこのみこと)ほかを主神とし、阿部家代々の祖霊を祀っている。昭和三十二年(1957)、備後神社と合併して今日に至っている。


備後護国神社


阿部正弘公像

 本殿の横に阿部正弘の像がある。福山城にある像と比べると丸顔で何だか福々しいくらいであるが、我々が残された肖像から連想する阿部正弘は、こちらの方がイメージに近いかもしれない。
 十一代藩主阿部正弘は、歴代の阿部家当主の中でも最も著名な存在であろう。ペリー来航という難局に当たって「言路洞開」の道を開いたという意味では英断といえるかもしれない。しかし、このことが契機になって、外様大名や公家までもが政治に口を出すようになり、最終的には幕府の倒壊を早めることになった。阿部正弘は、安政四年(1857)に三十七歳という若さで世を去ってしまったので、このことだけをもって評価を下すのは酷かもしれないが、手放しで「名君」と誉め称えるのも如何なものか、という気がする。


捨生取義碑

 捨生取義碑は、阿部正桓の篆額。濱野章吉撰文。明治十九年(1886)建碑。裏面には幕末の石州の役から箱館五陵郭の役、佐賀の役、台湾の役、西南戦争まで福山から出征し犠牲になった兵士の名前が刻まれている。

 約束の時間まで、備後護国神社の境内を歩いていると、竹さんご夫妻と遭遇した。朝早くから神社をウロウロしている人種といえば、ラジオ体操の老人か竹さんご夫婦くらいしかいない。待ち合わせするまでもなく出会うことができた。以降、竹さんご夫妻とともに広島県から山口県の史跡を回ることになる。

(みずほ銀行福山支店)
 福山駅南口から徒歩数分。みずほ銀行福山支店の前に福山医学黎明の地と題した石碑が建てられている。明治初年、この地に福山醫學校、同仁館病院があったことを記念したものである。
 明治二年(1869)、福山藩は誠之館教授寺地舟里を院長として、西洋医学による大規模な病院並びに医学校をこの地に開設し、広く住民に開放した。福山地方の近代医療の原点となる旧跡である。


福山医学黎明の地

(箱田良助誕生之地)
 福山市神辺町箱田に、箱田良助誕生の地の石碑がある。
 箱田良助は、寛政二年(1790))箱田村の庄屋細川園右衛門の次男に生まれた。通称良助。のちに左太夫、源三郎。細川家が一時箱田氏を称したことから、箱田姓を名乗った。文化四年(1807)、十七歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。九州第一次測量、第二次測量に参加したのち、忠敬の筆頭内弟子として測量および地図作成に尽力し、文政四年(1821)の大日本沿海與地全図作成に大きく寄与した。文政五年(1822)、榎本家に入り、榎本園兵衛武規と改名、御徒士となった。弘化元年(1844)には御勘定方となって、旗本の列に加えられた。万延元年(1860)八月、七十一歳にて死去。榎本武揚の実父である。


箱田良助誕生之地


箱田道中 菅茶山

 箱田良助誕生の地碑の横には、菅茶山の漢詩箱田道中が刻まれた碑が置かれている。

此經山蹊歳幾回
 此の山蹊を経ること歳に幾回
毎将夜半始還來
 毎(つね)に夜半ならんとして始めて還り来る
行思往時停籃擧(擧はたけかんむり)
 行くいく思ふ往時 籃擧(らんよ)を停めしを
數點流蛍水竹隈
 数點の流蛍 水竹の隈


コメント
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