維新後、勝海舟が江戸城無血開城のことを繰り返し語り、あれで江戸が戦火を免れたと信じられているが、実際にはその数カ月後に上野を舞台に彰義隊と官軍の戦争があった。戦争といっても、わずか一日で片が付いてしまったため、やや印象が薄いが、実は太平洋戦争の空襲を除けば、江戸(東京市街)が戦争の舞台となったのは、史上唯一のことであった。
江戸城無血開城というと、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談によって「江戸城総攻撃は中止された」といわれている。しかし、筆者によれば、中止というより「一時中止、延期」と表現する方が正確だという。海舟との会談を受けて、西郷は駿府にいる大総督有栖川宮熾仁親王に判断を仰ぐため、総攻撃は延期となったのである。結果的には中止となったが、あの時点では「延期」というべきである。人間はどうしても「美談」に流れがちである。
その後、新政府、旧幕府双方にとって最大の関心事は徳川家の処分であった。我々は徳川家が駿府に移されて存続したことを知っているので、新政府内でも満場一致で決定し、徳川家もそれをすんなりと受け入れたと思いがちであるが、新政府内でも意見は割れていた。
江戸で孤立していた大総督府では、江戸城を徳川家に返還し、江戸を徳川家の所領とする案を推していた。徳川家に与える所領が百万石を下回る場合は、騒乱に備えて四万~五万の兵を送って欲しいと要求していた。
これに対し、京都の新政府首脳(三条、岩倉、大久保、木戸ら)は、所領は駿河、江戸城は返還しないという厳しい案を主張していた。注目すべきは、早くもこの時点で、西郷と大久保の意見は対立していたということである。我々の抱いているイメージでは、幕末を通じて西郷と大久保は常に「一枚岩」であったが、ここに亀裂の萌芽を見ることができる。
最終的に徳川家が駿河に移封されたのは歴史が語るとおりであるが、大総督府と新政府首脳の会談が行われていた慶應四年(1868)四月の時点では、江戸城が徳川家に返還される可能性もあったのである。
彰義隊の戦争も、結果的に一日で終わったため、新政府軍の圧勝のように思われている。確かに、新兵器を装備し、場合によっては全国から兵を補給できる新政府軍に対し、烏合の衆である彰義隊に勝ち目はなかった。しかし、戦いが長期化すれば、寛永寺境外に潜伏する旧幕不満分子や日和見の旧幕臣らが彰義隊に呼応して市中でゲリラ戦を展開する恐れもあった。彰義隊から分離した、渋沢成一郎が率いる振武隊もその一つであった。のちに渋沢成一郎は「戦いが夜にまで雪崩込み一日で終わらなかったならば、江戸にいた幕臣たちが東征軍と一戦交えるかまえだった」と証言している。
新政府軍を指揮する大村益次郎にとって、勝利はいうまでもなく、戦いを日が暮れるまでに終わらせることが命題であった。結果的には、その日のうちに戦いは終結したが、案外薄氷の勝利だったのである。
彰義隊が潰走し、牙を抜かれた徳川家に対し、新政府は七十万石で駿府へ移るよう言い渡した。彰義隊による上野戦争は、徳川家の命運を握る戦いでもあったのである。