(鎌ヶ谷大仏)
鎌ヶ谷はかつて宿場町として繁栄した。梁川星巌、渡辺崋山なども鎌ヶ谷宿を訪れた記録が残る。鎌ヶ谷宿の中心部に鎌ヶ谷大仏が鎮座している。この大仏は、安永五年(1776)この地の豪農福田文右衛門が祖先の冥福を祈るために建立したものである。高さ1.8メートルの青銅製阿弥陀如来像は、大仏と呼ぶにはやや小さいかもしれないが、個人が建てたことを考え合わせるとなかなか立派な像といって良い。
鎌ヶ谷大仏
官軍兵士の墓
大仏の置かれている墓地(延命寺墓地)に、官軍兵士の墓がある。慶応四年(1868)閏四月、官軍と旧幕府軍の激しい戦闘が市川・船橋の地で繰り広げられた。鎌ヶ谷でも、福田八郎右衛門率いる撤兵隊は、岡山、津、福岡、佐土原から成る官軍と衝突し、佐土原藩兵蓑毛次右衛門と巳之助の二名が戦死した。明治十九年(1887)、千葉県がこの地に墓を建てた。墓には二人の戒名が刻まれている。
(宝泉院)
宝泉院
東武野田線六実(むつみ)駅から徒歩約5分の地点に宝泉院がある。本堂の正面に、渋谷総司の顕彰碑がある。
贈従五位渋谷總司之碑
渋谷総司は、弘化三年(1846)に下総佐津間に生まれ、相楽総三が官軍の先鋒として赤報隊を結成すると、幹部として参加した。赤報隊は「年貢半減」を掲げて庶民の人気を得るが、突然本営より「あれは偽官軍である」と宣告され、逆に追討を受ける身となった。彼らは下諏訪で捕えられ処刑された。渋谷総司は二十二歳という若さであった。
(佐津間城跡)
佐津間城跡
佐津間城は、戦国時代に造られた城の一つで、戦国時代後半にはこの地を領地としていた高城氏の配下の豪族の砦として使用されていたと考えられている。市の教育委員会の建てた説明によれば、「土塁や堀が良好な状態で残っている」というが、素人が見る限り、藪に覆われた台地である。
澁谷総司之生家
渋谷総司の生家が、この佐津間城址に近い場所にある。宝泉院の墓地には渋谷家の墓がたくさんあったが、この周辺にも渋谷姓の表札を掲げる民家が数多く見られる。取り分け堂々たる門構えの家が渋谷総司の生家である。門前に膝下くらいの小さい石碑が建てられており、「渋谷総司之生家」という文字が読み取れる。
渋谷総司生家
渋谷総司は、この地の豪農で庄屋も務める家に生まれた。今見る生家も、立派な門構えといい、大きな屋根を持つ母屋といい、当時の繁栄を伝えるだけの風格が感じられる。
鎌ヶ谷はかつて宿場町として繁栄した。梁川星巌、渡辺崋山なども鎌ヶ谷宿を訪れた記録が残る。鎌ヶ谷宿の中心部に鎌ヶ谷大仏が鎮座している。この大仏は、安永五年(1776)この地の豪農福田文右衛門が祖先の冥福を祈るために建立したものである。高さ1.8メートルの青銅製阿弥陀如来像は、大仏と呼ぶにはやや小さいかもしれないが、個人が建てたことを考え合わせるとなかなか立派な像といって良い。
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鎌ヶ谷大仏
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官軍兵士の墓
大仏の置かれている墓地(延命寺墓地)に、官軍兵士の墓がある。慶応四年(1868)閏四月、官軍と旧幕府軍の激しい戦闘が市川・船橋の地で繰り広げられた。鎌ヶ谷でも、福田八郎右衛門率いる撤兵隊は、岡山、津、福岡、佐土原から成る官軍と衝突し、佐土原藩兵蓑毛次右衛門と巳之助の二名が戦死した。明治十九年(1887)、千葉県がこの地に墓を建てた。墓には二人の戒名が刻まれている。
(宝泉院)
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宝泉院
東武野田線六実(むつみ)駅から徒歩約5分の地点に宝泉院がある。本堂の正面に、渋谷総司の顕彰碑がある。
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贈従五位渋谷總司之碑
渋谷総司は、弘化三年(1846)に下総佐津間に生まれ、相楽総三が官軍の先鋒として赤報隊を結成すると、幹部として参加した。赤報隊は「年貢半減」を掲げて庶民の人気を得るが、突然本営より「あれは偽官軍である」と宣告され、逆に追討を受ける身となった。彼らは下諏訪で捕えられ処刑された。渋谷総司は二十二歳という若さであった。
(佐津間城跡)
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佐津間城跡
佐津間城は、戦国時代に造られた城の一つで、戦国時代後半にはこの地を領地としていた高城氏の配下の豪族の砦として使用されていたと考えられている。市の教育委員会の建てた説明によれば、「土塁や堀が良好な状態で残っている」というが、素人が見る限り、藪に覆われた台地である。
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澁谷総司之生家
渋谷総司の生家が、この佐津間城址に近い場所にある。宝泉院の墓地には渋谷家の墓がたくさんあったが、この周辺にも渋谷姓の表札を掲げる民家が数多く見られる。取り分け堂々たる門構えの家が渋谷総司の生家である。門前に膝下くらいの小さい石碑が建てられており、「渋谷総司之生家」という文字が読み取れる。
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渋谷総司生家
渋谷総司は、この地の豪農で庄屋も務める家に生まれた。今見る生家も、立派な門構えといい、大きな屋根を持つ母屋といい、当時の繁栄を伝えるだけの風格が感じられる。