史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鎌ヶ谷

2008年11月30日 | 千葉県
(鎌ヶ谷大仏)
 鎌ヶ谷はかつて宿場町として繁栄した。梁川星巌、渡辺崋山なども鎌ヶ谷宿を訪れた記録が残る。鎌ヶ谷宿の中心部に鎌ヶ谷大仏が鎮座している。この大仏は、安永五年(1776)この地の豪農福田文右衛門が祖先の冥福を祈るために建立したものである。高さ1.8メートルの青銅製阿弥陀如来像は、大仏と呼ぶにはやや小さいかもしれないが、個人が建てたことを考え合わせるとなかなか立派な像といって良い。


鎌ヶ谷大仏


官軍兵士の墓

 大仏の置かれている墓地(延命寺墓地)に、官軍兵士の墓がある。慶応四年(1868)閏四月、官軍と旧幕府軍の激しい戦闘が市川・船橋の地で繰り広げられた。鎌ヶ谷でも、福田八郎右衛門率いる撤兵隊は、岡山、津、福岡、佐土原から成る官軍と衝突し、佐土原藩兵蓑毛次右衛門と巳之助の二名が戦死した。明治十九年(1887)、千葉県がこの地に墓を建てた。墓には二人の戒名が刻まれている。

(宝泉院)


宝泉院

 東武野田線六実(むつみ)駅から徒歩約5分の地点に宝泉院がある。本堂の正面に、渋谷総司の顕彰碑がある。


贈従五位渋谷總司之碑

 渋谷総司は、弘化三年(1846)に下総佐津間に生まれ、相楽総三が官軍の先鋒として赤報隊を結成すると、幹部として参加した。赤報隊は「年貢半減」を掲げて庶民の人気を得るが、突然本営より「あれは偽官軍である」と宣告され、逆に追討を受ける身となった。彼らは下諏訪で捕えられ処刑された。渋谷総司は二十二歳という若さであった。

(佐津間城跡)


佐津間城跡

 佐津間城は、戦国時代に造られた城の一つで、戦国時代後半にはこの地を領地としていた高城氏の配下の豪族の砦として使用されていたと考えられている。市の教育委員会の建てた説明によれば、「土塁や堀が良好な状態で残っている」というが、素人が見る限り、藪に覆われた台地である。


澁谷総司之生家

 渋谷総司の生家が、この佐津間城址に近い場所にある。宝泉院の墓地には渋谷家の墓がたくさんあったが、この周辺にも渋谷姓の表札を掲げる民家が数多く見られる。取り分け堂々たる門構えの家が渋谷総司の生家である。門前に膝下くらいの小さい石碑が建てられており、「渋谷総司之生家」という文字が読み取れる。


渋谷総司生家

 渋谷総司は、この地の豪農で庄屋も務める家に生まれた。今見る生家も、立派な門構えといい、大きな屋根を持つ母屋といい、当時の繁栄を伝えるだけの風格が感じられる。

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「開国のかたち」 松本健一著 岩波現代文庫

2008年11月29日 | 書評
 著者松本健一は、「評論家」と紹介されているが、この本を読むと立派な「歴史家」である。幕末に活躍した多くの思想家や活動家の言葉を紹介しながら、「開国のかたち」を明らかにしていく。
 まず冒頭でペリーが白旗をもって開国を迫ってきた事実を指摘する。ペリーは大統領フィルモアの国書を持参し、あたかも友好的に通商を迫ったかのように伝えられているが、真実は驕傲無礼な砲艦外交であったというのである。
 アメリカが砲艦をもって脅してきた事実を察知した佐久間象山は、「アメリカは本来法の国だったのではないか。イギリスが中国やインドでやったように、或いはフランスがベトナムでやったように、干戈に訴えて他人の国を奪うようなことをやってこなかったではないか。どうしてあのときだけ干戈に訴えたのか」とアメリカを舌鋒鋭く非難する。
 象山と並んでこの時代を代表する思想家である横井小楠の「外国と交遊するなら「有道の国」とのみ交遊すればよい。「無道の国」とはしなくてよい」という論は、果たして列強の砲艦の前に通用したかどうかは別として、当時のナショナリストの心を捉えるに十分であった。
 「南洲翁遺訓」において西郷隆盛は、西洋は野蛮だと主張する。なぜなら「西洋が文明ならば、未開の国に対して「慈愛」の心をもって、懇々とその未開のゆえんを説き、開明に導くべきであるのに、相手が未開だとみてとると「残忍」をきわめ、「己を利する」ような行為をする」からだという。松本氏は「(西郷が)西洋の帝国主義的な政策に倣った「征韓論」などを主張するはずがない」と説く。
 明治国家は西郷を捨てて、帝国主義へ走る。司馬遼太郎先生によれば「欧米の帝国主義列強に対抗するためには、明治政府であれ徳川幕府であれ、日本はヨーロッパにならった「帝国主義」的な国づくりをするしかなかったろう」といっている。
 そう考えると、西郷が政変で下野した明治六年は日本史の分岐点だったのかもしれない。明治政府が西郷を遣韓使節として朝鮮に送っていたら、その後の日中韓の不幸な歴史も塗り替えられていたとは考えられないだろうか。

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「脱藩大名の戊辰戦争」 中村彰彦著 中公新書

2008年11月23日 | 書評
 「脱藩大名」とは上総請西藩主林忠崇のことである。林忠崇が藩を抜けて幕府のための戦いに挑んだのは、弱冠二十歳のときである。この結果、上総請西藩は戊辰戦争後に唯一改易処分(城地没収処分)を受けることになる。若さゆえの暴挙というべきかもしれない。しかし幕末の混乱期、保身のために右往左往している藩が圧倒的に多い中、一直線に己の信念を貫いた姿勢は爽快ですらある。
 林忠崇は奥羽越列藩同盟の崩壊と同時に仙台で降伏した。忠崇は廃君となり、林家は弟忠弘に相続されることになった。謹慎処分が解けたあと、忠崇は元の領地に帰って農民として過ごし、更に東京府に出仕して下級官吏として勤務したこともあった。三年足らずで官を辞すると、今度は商家の番頭に就いたり、宮内省に出仕したり、日光東照宮の神官になったり…と職を転々としたが、要は当人にしてみれば長い余生だったのであろう。昭和十六年(1941)九十四歳で世を去ったが、死に際して辞世を求められると「明治元年にやった」と笑って答えたという。その明治元年に作られたという辞世―――
 真心のあるかなきかはほふり出す
 腹の血しをの色にこそ知れ

「長い余生」と言えば、明治元年(1868)時点で三十二歳だった徳川慶喜は七十七歳で亡くなっているから、四十年以上の余生を送ったわけだが、忠崇の余生は実に七十年以上に及ぶ。幕末とそれに続く明治時代は、その時代に生きた人たちに実に様々な人生をもたらしたが、かくも歪な人生も明治維新の所産といえるのかもしれない。

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「真説 西南戦争」 勇知之著 七草社 

2008年11月16日 | 書評
たまたま鹿児島空港の土産物屋の店頭で見つけ、機内で読むために買った。
西南戦争の業界?で有名な著者勇知之氏が敢えて「真説」と銘打ったのは、おそらく西郷隆盛の最後の場面。西郷は敵弾にあたって動けなくなり、別府晋介の介錯を受けたというのが通説であるが、ここでは西郷が敵に降りることを危惧した桐野が発砲したという説を取っている。「桐野が撃った」という説は、戦争が終結した直後からささやかれており決して目新しい話ではないが、やはりちょっと不自然に思う。西郷にその気があれば、その機会はそれまでもあったわけで、西郷ほどの人格者がこの期に及んで同胞を裏切るような降伏を演じるとは考えられない、と私は思っている。

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ロンドン(遣欧使節団所縁の地)

2008年11月10日 | 海外
(クラリッジ・ホテル)
今年は日本とイギリスが安政年間に国交を結んで百五十年という節目の年である。このことを記念して、先ごろイギリスのチャールズ皇太子夫妻が日本を訪問した。幕末の政局において、日本との外交に関していえば、先行したのはアメリカであった。アメリカの艦隊を率いたペリー提督が鎖国の扉を開いたことは夙に知られるが、その後もハリスが下田に常駐し、将軍との謁見を実現し、江戸に領事館を置いた。いずれもアメリカが先陣を切り、イギリス、フランス、オランダ、ロシアといった国はその後塵を拝した。
アメリカに強烈な対抗心を燃やしたのが、イギリスであった。オールコックが着任すると、いつしか彼は外国の領事団の中心的な存在となっていく。その背景の一つにはアメリカが南北戦争の混乱で極東の島国など構っていられなくなったこともあるだろう。
日本からの使節団を最初に受け入れたのは、アメリカであった。万延元年(1860)、勝海舟、福沢諭吉らが咸臨丸で決死の太平洋横断を果たしたことは良く知られている。遣米使節団はアメリカで熱狂的に受け入れられ、幕府初の外交使節は成功を収めた。
オールコックはライバル心をむき出しにして、幕府および本国政府に対し遣欧使節を画策した。幕府がフランス、イギリス、オランダ、ロシアを巡る初の遣欧使節団を送ったのは、文久二年(1862)のことである。
総勢38人からなる遣欧使節団のロンドンにおける宿舎が、今も当時の風情を伝えるクラリッジ・ホテル(Claridge Hotel)である。ちょん髷姿の使節たちは、寸暇を惜しんでロンドンの文明を象徴する施設(病院、造幣局、造船所など)を視察した。
ロンドン出発までの残された時間、遣欧使節団の足跡を追うことにした。


Claridge Hotel

使節団一行が宿舎を構えたClaridge Hotelは200年近い歴史を有する。現在も営業を続ける老舗である。

(自然史博物館・ヴィクトリア&アルバート博物館)


自然史博物館


ヴィクトリア&アルバート博物館

自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館は、私が宿泊したホテルに近かった。現在、自然史博物館それに隣接して科学博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館が建てられている敷地にて、当時ロンドン万博が開催されていた。自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館の間の道路は、Exhibition Roadと名付けられているが、恐らく140年前の万博の名残であろう。使節団はロンドン万博の開幕に合わせてロンドン入りしたのである。
万博の展示品はオールコックが一品一品横浜の商人に指示を出して選定したらしいが、幕府漢方表医師で使節団の一人として同行した高島祐啓は
「惜しむらくは彼の地に渡る所、皆下等の品多くして、各国の下に出たるは残念なりと云うべし」
と書き記している。展示品は、女性の古着や粗製の日本刀、草履や行灯など、日本人の目からするとガラクタの類ばかりで、使節一行は非常に恥ずかしい思いをしたようである。

(ロンドン・ブリッジ駅)


ロンドン・ブリッジ駅

カメラを構えると駅の警備員に「写真はダメだ」と制止された。何の不都合があるのか分からないが、ここで揉め事になってもいけないので一旦退却し、警備員に隠れて撮影したのが上の写真である。

産業革命を経験したイギリスでは、当時既に鉄道網が整備されていた。使節団はロンドン・ブリッジ駅を訪れ、更にこの周辺にあるロンドン塔やタワー・ブリッジ、造幣局、ドックなども視察している。

(セント・ポール大聖堂)


セント・ポール大聖堂

使節団には通詞として福沢諭吉も随行していた。福沢諭吉は当時二十七歳、身分は中津藩士である。彼は大英博物館とセント・ポール寺院を見学し、次のように書き残している。
「英国最大の寺院なり。院の高さ四百四フート、東西五百フート、南北二百五十フート。堂の頂に登れば、龍動(ロンドンのこと)府中一目下臨すべし。堂の下は、地を掘り窟を設け、窟中に古来国王及名称の墓あり。カピタンネルソンの墓も此中に建てり」

(大英博物館)


大英博物館

一行は有名な大英博物館も見学している。同行した市川渡(副使松平石見守康直の家臣)が、克明に記録を残している。やはりミイラは彼らの目にも焼きついたようである。更に彼らは図らずも「中国・日本図書室」にて伊勢物語や新井白石、青木昆陽らの著作や江戸、大阪の地図、それに日本の小判などを目にしている。

(国会議事堂)


Big Benの愛称で知られる国会議事堂

ロンドンに到着早々、使節一行は国会議事堂を訪れている。この国会議事堂(Big Ben)が改修され現在の姿になったのは、1840年から1850年頃にかけてといわれている。イギリスとしては最も日本の使節一行に見せたかったものの一つだろう。しかし当時の日本人には議会の持つ意味が理解できなかったのか、特に感想らしきものは残されていない。


ウェストミンスター寺院

(バッキンガム宮殿)


バッキンガム宮殿

5月に入って市川渡はセント・ジェームス公園内のバッキンガム宮殿を訪れている。池に浮かぶ鳥や小船を眺めてのんびりと過ごしたようである。私がバッキンガム宮殿を訪れたとき、ちょうど衛兵の交替儀式の真っ最中であった。

遣欧使節団は約1ヵ月半の滞在期間中、現存するものだけでも、このほかに動物園、グリニッジ天文台、ハンプトン・コートなどを精力的に訪問している。残念ながら今回、ロンドンで自由行動が赦されたのは、夜の数時間と、その翌日ホテルを出るまでの数時間しかなかった。これだけの時間で使節団が訪れた地を全て踏破するのはいくらなんでも不可能でった。

【参考図書】講談社学術文庫 宮永孝著「幕末遣欧使節団」

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ロンドン大学(University College of London)

2008年11月09日 | 海外
遣欧使節団の縁の地に加え、実は今回のロンドン出張中、どうしても実見しておきたかったのが、ロンドン大学(University College of London)構内にあるという記念碑である。前夜、地下鉄を乗り継いで、一人夜のロンドン大学に進入した。暗いうちに目星をつけておこうとしたのだが、残念ながら見つけることはできなかった。あまり夜の大学をうろうろして怪しまれてもいけないので、ほどほどで切り上げて退散することにした。
翌日も、やはり遅く寝ても朝4時に目覚めてしまった。結局、時差ぼけは修正されないまま、最終日を迎えた。


ロンドン大学(University College of London)

昨夜も足を運んだロンドン大学に再挑戦である。土曜日とはいえ、夜と違って学生や先生らしき人の姿があるので心強い。一人の青年を捕まえて「日本語で書かれたMonumentを知らないか」と尋ねると、青年は「自分はここから30マイルも離れた場所から、展示の用意のために来ているだけなので、よく分からない」と申し訳なさそうにいう。その瞬間、私は青年の肩越しの窓の向こうに黒い石碑を発見した。喜び勇んで勝手に部屋の鍵を開けて中庭に出た。終に石碑と対面することができた。石碑を見たあと引き上げてくると先程の青年と目が合った。「見つけたよ」というと、何故だか青年も「Great!」と喜んでくれた。


日英友好協会 日英文化記念クラブその他有志により平成五年(1993)に建立された記念碑

記念碑は、前面は日本語、背面は英語で、文久三年(1863)および慶応元年(1865)にロンドン大学に留学した日本人の名を刻む。

文久三年(1863)は、いわゆる「長州ファイブ」の五人。
伊藤博文、井上勝、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三。
慶応元年(1865)は、薩摩藩からの若者が中心である。
新納久脩、村橋久成、寺島宗則、名越時成、五代友厚、高見弥一、町田久成、東郷愛之進、畠山清成、町田申四郎、鮫島尚信、町田清蔵、松村淳蔵、朝倉盛明、森有礼、中村博愛、吉田清成、堀孝之、長沢鼎

側面には「はるばるとここにつどいてはなさかる」と美しい仮名で刻まれている。

碑に刻まれた二十四人は、同じ時期に海外で学んだという共通点を持つが、その後の人生は様々であった。いわゆる「長州ファイブ」と呼ばれる五人は、維新後も各人それぞれの道で名を残したが、薩摩藩からの留学生(厳密に言うとうち一人は土佐藩出身、一人は長崎出身)は、まさに「人生色々」であった。帰国した直後、戊辰戦争に従軍して戦死した者(東郷愛之進)もいるし、森有礼のように政府の高官となりながら暗殺された者もいる。町田久成、清蔵、申四郎らは兄弟で留学団に加わった。久成は帰国後、文部省、外務省、内務省に出仕し、博物館長なども歴任したが、次弟、末弟の清蔵、申四郎はどういうわけだか帰国後の消息が分からない。吉田清成、鮫島尚信は外交官として活躍したし、五代友厚や長沢鼎は実業家として成功した。ここで彼ら全員の人生を追いかけるわけにいかないが、ドラマティックな二人を紹介することにしよう。

まず村橋久成(直衛)。天保十一年(1840)に鹿児島城下に生まれ、二十五歳のときロンドンに留学。当地では陸軍学術を専攻した。翌慶応二年(1866)松木弘安(寺島宗則)らと帰国した。戊辰戦争では北陸、奥羽を転戦し、五稜郭の戦争でも功があった。その後、開拓使に出仕し、北海道で麦酒醸造所(現サッポロビール)を創設した。開拓権少書記官まで進んだが、明治十四年(1881)突然官を辞し、雲水に身をやつして各地を放浪した。それから十余年、明治二十五年(1892)神戸で病に倒れた。五十三歳であった。明治の時代に実業家として成功した人物は数多けれど、雲水として生涯を終えたという人生は聞いたことがない。いったいどういう心境の変化があったものか、興味が尽きない。

高見弥一は土佐藩の出身。もとは大石団蔵と称した。土佐勤王党に加盟し、文久二年(1862)四月、参政吉田東洋を斬殺して長州に逃れた。やがて薩摩藩に逃れ高見弥一と改名した。薩摩藩の洋学教育施設である開成所に学び、ここで優秀な成績を挙げ、他藩出身に関わらずイギリス留学生に選抜された。ロンドン大学では測量、機関学、数学を学んだ。帰国して鹿児島造士館で数学教師を務めた。六十四歳にて逝去。暗殺者大石団蔵と教育者高見弥一が同一人物とは、意外というほかはない。手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)でも大石団蔵と高見弥一が別の人物として掲載されている。


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「ある明治人の記録」 石光真人著 中公新書

2008年11月02日 | 書評
会津藩出身の軍人、柴五郎の手記を基とした壮絶な記録である。「柴五郎の遺書」と題した第一部は文語調であるが、簡明な文体で現代人にも読み易い。十才の柴五郎は、会津戦争で祖母と母、姉妹が自刃する悲劇に見舞われる。だがこれは悲劇の始まりに過ぎなかった。戦後処分により会津藩は斗南藩に移封される。家名存続が許されたことに藩士たちは歓喜の涙を流すが、現実はそう甘いものではなかった。会津藩六十七万石が、実質七千石の不毛の地に押し込められたのである。藩士たちは貧困と飢えと厳しい寒さに悲惨な生活を余儀なくされる。「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」という柴五郎の叫びは悲痛である。私は常々、現代の尺度で百五十年前のことを評価しないよう自戒しているが、その私の目から見ても人道に反した措置だと言わざるを得ない。飢えに苦しむ柴五郎少年が、無理に犬の肉を嚥下するシーンを読んだときは、流石に食欲と言葉を失った。柴五郎は、第二次世界大戦が終了した昭和二十年十二月、軍人として敗戦の責任を感じ、自裁して世を去る。八十七歳であった。明治人らしい気骨を感じる最期であった。

明日から一週間、海外出張ですので、しばらく記事の投稿はお休みとなります。
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