史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「渋沢栄一と勝海舟」 安藤優一郎著 朝日新書

2020年09月26日 | 書評

本書も来年の大河ドラマや新一万円札を意識した渋沢栄一関連本である。

副題は「幕末・明治がわかる!慶喜をめぐる二人の暗闘」となっている。渋沢栄一と勝海舟の慶喜に対するスタンスが正反対であり、慶喜を巡って両者の暗闘があったというのが本書の胆であるが、果たして暗闘と呼べるほどの戦いがあったのだろうか。本書を読んでもそこまでの確執があったようには思えない。

二人の葛藤は初対面まで遡る。渋沢栄一はフランスから帰国したばかりの二十八歳。海舟は十七歳年上の四十五歳。既に江戸無血開城を成し遂げた人物としてその名は天下に轟いていた。栄一の回顧によれば「私は勝伯から小僧のやうに眼下に見られ、民部公子(徳川昭武のこと)の仏蘭西引揚には、栗本(鋤雲)のやうな解らぬ人間が居ったんで嘸ぞ困つたらう、然し、お前の力で幸ひ体面を傷つけず、又何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた、なとど賞めめられなんかしたものである」とある。これをもって著者は「栄一は不愉快な思いを味わう」「心中穏やかではなかった」とするが、実際栄一が初対面で受けた印象をどれくらい引きずったのかは本人にしか分かるまい。

本書で指摘されているように、栄一が、「幕府から明治政府への政権交代が割合スムーズに進んだのは、江戸無血開城の立役者勝海舟の功績だと世間では思われているが、それは間違っている。慶喜の深謀遠慮があったからである。しかし、慶喜が東京に戻って、当時のことを語ってしまうと、海舟の功績が奪われてしまう。それを恐れた海舟が、慶喜を静岡にとどめ続けたのだ」と全面的にそう信じ込んでいたかどうかは確かではないが、ひょっとしたらそういうこともあるのではないか、くらいの思いは持っていたかもしれない。

海舟の回顧録「氷川清話」や「海舟座談」は、江戸っ子が話すような洒脱な語り口で貫かれており、人気も高い。しかし、海舟の手柄話や放言が散りばめられており、素直に読むと海舟のことをとてつもない偉人だと思うだろう。

晩年に至るまで海舟は無血開城の交渉相手である西郷のことを絶賛してやまなかったが、そのことによって自分の評価が上がることも計算済みであろう。海舟の言動には何となくあざとさが漂うのである。

晩年、海舟は「海軍歴史」を編纂し、「我が国海軍の父」とも称されるようになったが、本当に海軍創設の功績を海舟が独占することが正しいのだろうか。よくよく検証が要るのかもしれない。

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「鹿児島戦争記」 篠田仙果著 岩波文庫

2020年09月26日 | 書評

本書は明治十年(1877)の西南戦争を題材とした戦争読み物の一つである。戦後、新聞記事をベースに戦争の経緯を読み物とした編集した作品が、夥しく刊行された。言ってみれば、現代でもオリンピックや高校野球大会が終わると、特集号が発行されるがその「走り」かもしれない。

新聞記事をベースにしており、しかも戦争直後に書かれたものとくれば、ページをめくる前は正確に真実を反映しているものかと思ったが、読み始めて困惑することになった。

著者仙果が参照した新聞は、「東京日日新聞」「郵便報知新聞」「東京曙新聞」「仮名読新聞」「朝野新聞」など。いずれも当時発行部数を伸ばしていた主流新聞である(決して怪しげなタブロイド紙やスポーツ新聞ではない)。新興マスメディアであった新聞にとって西南戦争は読者獲得の絶好の機会であった。各社とも競って記者を現地に送り込み、ホットなニュースを東京へ送った。

しかし、まだ取材や記事執筆のルールというものが確立していないこともあり、どちらかというと誇張や脚色が目立つ。そういった記事を基に書かれたものであるから、「鹿児島戦争記」が史実に忠実なわけがない。

相撲取りが私学校党に加担したとか、薩軍に女隊が存在したとか、前原一誠の末弟前原一格なる人物が大活躍したとか、西郷隆盛が愛妾のお花に金を与えて暇を与えたとか、大衆が好みそうなエピソードをふんだんに挿入している。もちろん前原一格などという人物は存在しないし、西郷が妾を陣中に置いていたなどということも確認できない。

さらに仙果は「鹿児島暴徒風説録」「鹿児島太平記」そして本作「鹿児島戦争記」、その後「鹿児島征伐物語」と、繰り返し西南戦争を題材とした戦争実録を書いており、その都度日付、地名、人数、武器弾薬の物量などが微妙に変化している。つまりオリジナルの新聞記事からも次第に離れ、仙果の創作の色がどんどん濃くなっていくのである。

そうなると、ここで展開される物語はもはや事実ではなく、娯楽作品と呼ぶべきであろう。大衆の期待に応えるべく仙果が創作した作品なのである。

解説と校注を担当した松本常彦氏は「鹿児島実録の流れを追えば、近くは二〇一八年のNHK大河ドラマ「西郷どん」にまで及ぶ」とする。確かに「西郷どん」は、史実から離れ誇張と脚色の連続であった。大河ドラマを熱心に見ている現代の大衆が「鹿児島戦争記」がいくら史実から離れて面白おかしく書かれているからといって、それを笑うことはできまい。

 

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「日本を開国させた男、松平忠固」 関良基著 作品社

2020年09月26日 | 書評

十二代将軍家慶の時代以降、幕府倒壊に至るまで幕府の老中に就いた人物については、概ね人物像についても把握していたつもりであった。老中とは、その時代の執政職であり、現代でいえば言わば閣僚か大臣みたいな存在である。従って、墓も現代まで伝わっているものが多い。全国に点在するその墓も八割から九割は訪ねて尽くしてきたという自負がある。その私でも松平忠固という人物については全くの盲点であった。本書でその人物と業績を知って、大いに瞠目するところがあった。

松平忠固は姫路酒井家の生まれで長じて上田藩主を継いだ。嘉永元年(1848)に初めて老中に就いたときは忠優(ただまさ)と名乗っていたが、安政四年(1857)、二度目の老中就任に際して忠固と改名した。ペリー来航時には、積極的開国論を唱え、斉昭らの攘夷論を斥けて修好条約締結に踏み切った。通商条約締結にあたって堀田正睦が勅許を得ることを主張したのに対し、外国交易のことは家康以来幕府の専断事項であり、朝裁を仰いだことがなかったとこれに反対した。その後、堀田は勅許を得ることに失敗し、朝廷の権威が上がり、幕威が失墜したことを考えれば忠固の意見は全うといえよう。

井伊直弼が大老に就任した直後の六月十九日、ハリスからの調印要請に即刻応じるべきであることを主張し、彼の意見が通ってそのまま調印に至った。後世、井伊直弼は「開国の恩人」と称えられるが、実際には開国通商を推進したのは忠固であった。条約調印の二日後に京都には奉書が送られた。言わば事後報告である。その日のうちに堀田と忠固には登城差し止めが命じられ、次いで御役御免が申し渡され、追って謹慎処分が加えられた。政敵忠固の排除に成功した井伊大老は返す刀で安政の大獄と呼ばれる大弾圧を始めるのである。

自らの政治生命と引き換えに開国通商を実現した忠固であったが、その一年後に世を去った。表向きは病死とされるが、筆者は「あまりに不審な点が多い」「病死説を信じることはできない」と自然死であることに疑問を投げかけるが、暗殺を裏付ける史料は見つかっていない。安政年間に世を去ってしまったことが、忠固の知名度を不当に押し下げてしまっている一つの理由のような気がしてならない。

失脚から亡くなるまでの一年、忠固は「皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべき」という信念に則って、江戸に上田産物会所を開き、藩の特産品である絹糸や絹織物を専売集荷する体制を作り上げた。中居屋重兵衛を藩の御用達に起用した。その結果、横浜開港後、上田産の生糸は飛ぶように売れた。筆者は「自分が政治生命を賭して取り組んできた事業が結実するという確信を得て、心地よい達成感を覚えたに違いない」と彼の心中を察している。

本書第三章では「日米修好通商条約は不平等条約ではなく、ほぼ対等なものだった」といわゆる定説を否定している。不平等条約といえば、「関税自主権がない」「外国に領事裁判権を認める」と、高校時代に暗記させられたものである。しかしアメリカとの条約には「神奈川が開港されて五年後には日本側が望むなら関税率を改訂する」ことが明記されており、日本は日米修好通商条約において、自主的に輸入関税を二十%、輸出関税五%と決めた。輸入関税二十%という数字は当時の国際スタンダードであったし、長州藩による下関海峡での砲撃事件をきっかけにイギリスにより輸入関税率は五%に引き下げさせられた。これは「徳川政権の責任ではなく、長州藩の責任」だと主張する。

領事裁判権についても、近代法を持たない当時に日本にとって「近代法ができるまでの当面の経過措置として妥当だった」「これを不平等と批判するのは不当」という主張は説得力がある。

続けて筆者は、日本が独立を維持できたのは、「決して尊王攘夷派が外国と戦ったからではない。むしろ彼らは順調な国際社会への適応を妨害しただけ」「尊王攘夷運動なるものは、日本の独立にとって百害あって一利もなかった」と力説する。

確かに下関戦争の結果、関税を引き下げられたのは事実であるが、攘夷戦争の結果、幕府の弱体化が進んだのも事実であろう。幕藩体制が維持される限り、関税収入は徴税権を持つ徳川幕府の財政を潤すことになっても諸藩にその恩恵はない。この構造を打破しない限り、諸藩に開国のメリットはなかった。

もちろん、上田藩が実践したように藩の特産品を専売化し、貿易によって利益を享受する道もあったであろう。結局、交易によって利益を得られたのが、上田藩や会津藩、紀州藩など限定的だったことも幕府の命運を縮める要因となった。

筆者は京都大学農学部の出身で、歴史学は専門ではない。長野県上田市の出身で、松平忠固という人物に一方ならぬ思い入れがある。その思いがこの著書に結実したのは間違いない。ただし、やや思いが強過ぎて一面的になっている記述がないわけではない。「男性は戦争が好きで、女性は平和主義」的なステレオタイプ的な主張も意見があるところだろう。また、史料の取り上げ方についても、問題が見える。たとえば斉昭が大奥の女中唐橋を手籠めにした話。私も司馬遼太郎先生の小説で知ったエピソードであるが、出典は大八木醇堂の「灯前一睡夢」か三田村鳶魚「大名生活の内秘」くらいしかなく、正確な史実は不明である。斉昭評について山川菊栄の「幕末の水戸藩」を引用している。「幕末の水戸藩」は名著であることに異論はないが、同時代人でもない山川の批評を引用するのは適当ではないだろう。

恐らく歴史学の専門家からすれば、史料の扱い方も知らない素人の著作ということで無視されてしまうのがオチかもしれないが、歴史家からの本書へのコメントも聞いてみたいものである。

 

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海津 Ⅱ

2020年09月19日 | 岐阜県

(治水神社)

 

治水神社

 

治水神社社名碑

 

 油島の治水神社は、平田靱負を祭神として昭和十三年(1938)に創建された神社である。門前の社名碑は、東郷平八郎の筆によるもの。

 

薩摩義士之像

 

内藤十左衛門顕彰碑

 

 境内には、内藤十左衛門の顕彰碑がある。宝暦治水工事の際、亡くなったのは薩摩藩士だけではない。薩摩藩の犠牲者八十四人に対し、それ以外の犠牲者は四人である。うち自害切腹が二人、病死一人、人柱一人となっている。

 内藤十左衛門は旗本で、水行奉行高木新兵衛の家来であった。宝暦四年(1754)春の工事において薩摩方でも二名の自害切腹者が出ており、わずかにその八日後に十左衛門も自刃している。工事の進捗に問題があり、それを江戸から来た役人に注意された。このことで主人高木新兵衛の立場が悪くなることを恐れて自ら責任をとったものと推定されている。薩摩藩の二名も同じような事情で自刃したのであろう。

 

(今尾神社)

 

今尾神社

 

吉田松陰先生参拝碑

 

 今尾神社の鳥居の側に吉田松陰がこの地を訪れたことを記念する石碑がある。

 松陰がこの地を訪れたのは、嘉永六年(1853)五月、伊勢参宮を終えて、桑名の同志とともに夜船で揖斐川を遡り、牧田川と大榑川の合流する当神社下に上陸した。船中夜を徹して豪談酒盃を交わし、「朝来起って蓬窓を掲げて見れば、觀は故まらん。青山三五の巓」と詠じて「陸路大垣より中山道を経て江戸に赴く」と記されている。

 

 全国の吉田松陰関係の史跡を網羅している「松陰の歩いた道」(海原徹著 ミネルヴァ書房)は、感心するほど津々浦々の松陰の歩いた道を紹介した本であるが、何故だか今尾神社は掲載されていない。

 

(今尾小学校)

 今尾小学校のある場所は、文明年間(1469~1487)以降、今尾城があった。元和五年(1619)、尾張藩付家老竹腰山城守正信の居城となり明治維新まで続いた。竹腰氏は、犬山城主成瀬氏と並ぶ尾張藩の重臣で、所領は美濃・尾張に合計三万石を与えられていた。江戸と尾張を行き来して代々の尾張藩主を補佐した。慶應四年(1868)、尾張藩の成瀬氏、水戸の中山氏、紀伊の安藤氏、水野氏とともに立藩を許されたが、三年足らずで廃藩を迎え、当地の敷地と建物の一部は今尾小学校に払い下げられた。

 

今尾小学校

 

史蹟 今尾城阯

 

(西願寺)

 

西願寺山門

 

 西願寺の山門は、今尾城の城門の一つが移されたものである。今尾城には天守閣はなく、周囲を堀や藪で囲み、その建物が堀から浮かび上がるように建っていた。御城屋敷、書院屋敷および役屋敷の三構えに別れ、内郭には濡門と外郭には辰巳門と呼ばれる門があり、藩士といえどもこの門を通るにはそれぞれ厳しい掟があった。維新後、城郭が解体され、今尾城も一般に売り出されたが、明治七年(1874)、西願寺が譲り受け、寺の山門として移築した。

 

(常栄寺)

 常栄寺は、今尾城主竹腰氏の菩提寺で、竹腰氏の墓地のほか、宝暦治水の薩摩義士の墓や、竹腰氏が関ヶ原の戦没者のために建てた慰霊塔などがある。

 

常栄寺

 

薩摩工事義没者墓

 

 常栄寺には宝暦治水工事で犠牲となった薩摩藩士黒田唯右衛門の墓がある。黒田唯右衛門は平田靱負の家人で、大巻役館において事務方手伝いをしていたと推定されている。宝暦四年(1754)七月七日、死亡。「宝暦治水」によれば、切腹とされている。この時期、同年九月から始まる工事に必要な資材(石材や丸太)を調達するための期間であったが、必要な量を予算内で調達することが困難であった。自害切腹の理由はそこにあるのではないかと推定されている。

 

華族 正五位竹腰正美公之墓

 

 幕末の今尾城主竹腰正美(正富)は、尾張藩内が佐幕と尊王に揺れた際、佐幕派を支持して一時失脚して、養子正旧に家督を譲った。慶應四年(1868)四月には新政府から蟄居を命じられた。明治二年(1869)、赦されたが、二度と藩政に参画することはなかった。明治十七年(1884)死去。

 

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養老

2020年09月19日 | 岐阜県

(天照寺)

 養老町は「宝暦治水 薩摩義士ゆかりの地」と銘打って売り出しているが、赤穂義士は知っていても薩摩義士となると全国的知名度は今一つである。養老町では、しばらく宝暦治水を巡る史跡を回ってみたい。

 

 濃尾平野は、木曽川、長良川、揖斐川という三大川が乱流していて、大雨のたびに河道を変え、自然の暴威になすすべもない状態であった。再三の請願に幕府も重い腰を上げ、宝暦三年(1753)十二月、薩摩藩に治水工事の手伝いを命じた。治水工事の規模は、江戸時代濃尾における治水普請中最大であったばかりでなく、三川の分流をも企てた画期的なものであった。

 この大工事を引き受けた薩摩藩は、宝暦四年(1754)、総奉行平田靱負以下の藩士を派遣した。工事は濃・尾・勢三国にわたり、九百四十七人という多数の藩士が慣れない治水事業に従事した。数次の出水で作業は思うように進まず、強い幕吏の督責から自刃する者が続出した。疫病に倒れた藩士も含め実に八十八人もの犠牲を伴った。

 多大な犠牲を強いられた薩摩藩であったが、その引き換えに土木工事に関する技術や知識のほか、工事の経験を通して市場経済に関する様々な仕組みやルールを習得することができた。四十万両という経済的負担を上回る大変大きな意義があった。その後の薩摩藩における近代化(市場経済の拡大、浸透)にはここで得た経験が大いに活かされたとされる。

 天照寺には、薩摩藩士八木良右衛門、山口清作、松下新七の三名が葬られている。この三人はいずれも自刃と伝えられている。(牛島正「宝暦治水」によれば、八木、山口、松下とも病死とされている)。

 本殿に隣接して薩摩義士資料館なるものが設けられているが、残念ながら私が訪問した時、シャッターが下ろされていた。

 

天照寺

 

薩摩義士の墓

 

(浄土三昧)

 この場所は、もとは火葬場で「浄土三昧」と呼ばれた。治水工事中に病死した二十四人の遺体を一つずつ甕に入れて埋めた場所である。大正二年(1913)に池辺村民の協力で、薩摩工事義没者の墓が建てられ、義士の霊を祀った。その後、昭和三十四年(1959)、集中豪雨と伊勢湾台風による二度の洪水があったため、昭和三十五年(1960)に発掘作業が行われ、この場所から七つの甕が発掘された。昭和四十六年(1971)に慰霊堂が建てられ、遺骨が納められた。なお、七体の遺骨は分骨して里帰りし、鹿児島市の大中禅寺に祀られている。現在、この慰霊堂には遺骨と聖観世音菩薩と義士二十四名の位牌が安置されている。二十四人の大半は、仲間・下人で、いずれも病死であった。病名は明らかではないが、酷暑に加えて特に農家に分宿した下人、仲間は非衛生的な居住環境、劣悪な食生活を強いられた。そのため赤痢が発生し、伝染したものと見られている。

 

薩摩工事義没者之墓

 

慰霊堂

 

(大巻薩摩工事役館跡)

 

史蹟 薩摩義士役館趾

 

 治水工事は着工から一年を経た宝暦五年(1755)三月に竣工し、同年五月の幕府検分の際にはその出来栄えに驚嘆したといわれる。総奉行を務めた平田靱負は、半周島津重年に工事の完成を報告した後、多数の犠牲者を出し、四十万両の大金を費消してしまった責任を一身に負って、同年五月二十五日の早朝、大巻の地にあった元小屋において割腹した。

 

平田靱負翁終焉地

 

 現在、大巻薩摩工事役館跡には巨大な平田靱負終焉地碑(東郷平八郎書)や平田靱負像、辞世碑などが建てられている。

 

平田靱負翁像

 

宝暦薩摩治水工事顕彰供養塔

 

平田靱負像

 

平田靱負辞世碑

 

平田翁辞世

住みなれし 里も今更 名残りにて

立ちぞわづらふ 美濃の大牧

 

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関ヶ原

2020年09月19日 | 岐阜県

(八幡神社)

 

郷社 八幡神社

 

関ヶ原本陣跡スダジイ

 

 文久元年(1861)十月二十五日、前夜柏原宿にて宿泊した和宮一行は、今須宿にて小休、関ヶ原宿にて昼食をとった。

 関ヶ原宿の本陣は、遺構らしきものは一切残っていないが、その場所にあったスダジイの木を今も八幡神社境内で見ることができる。

 

(関ヶ原宿脇本陣)

 

関ヶ原宿脇本陣跡

 

 本陣跡がほとんど何も残っていないのに比べて、脇本陣跡にはその面影を伝える門がそのまま残されている。

 

(今須宿)

 

中山道 今須宿

 

今須宿

 

 今須宿は中山道五十九番目の宿場であり、中山道美濃十六宿の最西端の宿場である。当時、難所として知られた今須峠は、今も冬になると交通の難所となるほどの急坂である。静かな佇まいの宿内には、問屋場や常夜灯などが見られる。

 

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岐阜 Ⅴ

2020年09月19日 | 岐阜県

(本願寺岐阜別院)

 

本願寺岐阜別院

 

 今年の夏は、直前まで帰省するつもりでいたのだが、一向にコロナ感染者が減る気配もなく、万が一高齢の両親にウイルスを移してもいけないので、帰省は諦めることにした。代わりに岐阜に一泊だけして岐阜から三重の史跡をレンタカーで巡ることにした。

 朝五時半にホテルをチェックアウトして目指したのは市内西野町の本願寺岐阜別院である。

 

明治天皇岐阜行在所

 

 山門の前には、明治十一年(1878)、明治天皇の東北北陸巡幸の際に行在所となったことを記念した石碑が建てられている。

 

(上加納山墓地)

 いったん岐阜駅まで引き返し、バスで移動する。金園町九丁目バス停で下車。そこから歩いて十分ほど北上すると、斎場が並ぶ一帯に至る。岐阜市斎苑の北側の金華山の山裾に上加納山墓地が広がる。

 かなり広い墓地で、ここを当てもなく歩いて、水野弥三郎の墓を探し当てるのはかなり困難である。墓地の地図くらい掲示されていれば良いのだが、それらしいものもない。因みに水野弥三郎の墓は、「弥八下」という名称の墓域内にあった。

 

釋専志信士(水野弥三郎の墓)

 

勇肝鉄心信士(殉死した生井幸治の墓)

 

 水野弥三郎は、岐阜矢島町に本拠を置く博徒で通称弥太郎ともいった。美濃から尾張一帯に勢力を張る博徒の巨魁であった。弥三郎は文化二年(1805)、医師の子に生まれたが、医業を嫌って一心流の鈴木長七郎に入門。めきめきと腕を上げたが、一方で実家からは破門された。博徒となって頭角を現し、関小左衛門、神戸政五郎と並んで美濃三人衆と称される大親分へと成長した。実家である水野家は文雅に富んだ家であった。京風の文化を好み、やがて尊王運動にも共感するようになったと言われ、新選組から離脱した伊東甲子太郎の一派と接点があったとされる。赤報隊が美濃を目指して進軍を始めると、それに呼応するように手下七十人を引き連れて竹中陣屋に乗り込んで接収にあたった。慶應四年(1868)一月十九日、赤報隊の先鋒二百が加納宿に入ったがその七割は弥三郎の手下であった。やがて相楽総三の一番隊が合流するが、その中には弥三郎と兄弟分である黒駒勝蔵もいた。加納宿はあたかも博徒に占領されたかの様相を呈した。博徒の狼藉に加え、勝手に年貢半減令を布告したことに業を煮やした東山道鎮撫総督府は、弥三郎を大垣の本陣に呼び出し、奸計をもって搦め捕った。絶望した弥三郎は、三日後に自ら首をくくって死を選んだ。墓石側面には「水野彌三郎源維光 終年六拾四歳」とある。墓の隣には殉死した子分生井幸治の墓が並べられている。

 

(切通陣屋跡之碑)

 旧中山道は岐阜駅の南を東西に走っている。旧中山道を東に一里進むと、切通陣屋跡がある。

 

切通陣屋跡之碑

 

 陸奥磐城平に移封となった安藤家が、享和三年(1803)に美濃国内で一万八千石余を加増され、美濃支配のために切通村に陣屋を設けた。平藩では、郡奉行二人、代官四人、与力五人、同心五人など二十二名を配置していた。文政八年(1825)には「長森騒動」と呼ばれる紛争も起きている。

 切通陣屋において、安藤家七代、六十七年に及ぶ支配が続いたが、明治に至り廃藩と同時に廃止され、笠松県に統合された。

 

(上宮寺)

 

上宮寺

 

新加納陣屋移築門

 

 前一色の上宮寺には新加納陣屋(現・各務原市)門が移築されている。

 

(EXEX GARDEN)

 

EXEX GARDEN

加納城二の丸移築門

 

EXEX GARDENという結婚式場に加納城の二の丸門と江戸時代後期に建てられたといわれる代官屋敷が移築されている。

 

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南千住 Ⅳ

2020年09月12日 | 東京都

(素戔嗚神社)

 

素戔嗚神社

 

 開国と同時に海外から伝染病が流入してきた。安政五年(1858)、コレラが世界的に流行すると、日本でも多数の死者が出たため、開国に対する反発はさらに拡がった。コレラ除けに御利益があるとされた素戔嗚神社には参詣者が群がったという(荒川区南千住6‐60‐1)。

 

(ライフ南千住店)

 

旧千住製絨所煉瓦塀

 

 スーパー・ライフの南千住店の前に古い煉瓦塀が残されている(荒川区南千住6‐43‐13)。ここは、明治十二年(1879)に官営千住製絨所が創業した場所で、この煉瓦塀は明治四十四年(1911)から大正三年(1914)頃に建設されたものを推定されている。千住製絨所は、「ラシャ場」とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として、軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設である。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割を果たしていた。ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三が初代所長に就いた。南千住には、紡績工場のほかガス会社等大規模な工場が進出され、隅田川貨物駅なども設置され、工業と商業の街へと変貌していった。

 戦後、製絨所は大和毛織株式会社に払い下げられ、昭和三十六年(1961)に工場が閉鎖され八十年余の歴史を閉じた。

 

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八丁堀 Ⅱ

2020年09月12日 | 東京都

(越前堀児童公園)

 江戸時代、越前堀児童公園付近は、越前福井藩主松平越前守家の屋敷地であった(中央区新川1-11-8)。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」を呼ばれていた。越前堀の護岸は石積みで、今でも建設工事中や遺跡の調査中に越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあるという。公園の片隅に出土した石垣石が置かれている。

 

越前堀児童公園

 

出土した越前堀の石垣石

 

 大正十二年(1923)の関東大震災以降、越前堀は次第に埋め立てられ、町名も「新川」に改められ、往時を偲ぶ越前堀の名前は、この公園に伝えられるのみとなっている。

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立会川 Ⅲ

2020年09月05日 | 東京都

(新浜川公園)

 区立新浜川公園には復元された大砲が展示されている(品川区東大井2-26-18)。

 ペリーが来航すると、鮫洲に抱屋敷を持つ土佐藩では砲台を建造することを幕府に願いでた。嘉永七年(1854)、ペリーの再来航に備えて、急遽土佐藩が造ったのが浜川砲台である。六貫目ホーイッスル砲一門、一貫目ホーイッスル砲二門、鉄製の五貫目砲五門、合わせて八門を配備した。公園に復元されているのは六貫目ホーイッスル砲である。実物が間に合わない他藩では丸太を大砲らしく見せかけた偽物もあったが、土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々であった。

 

浜川砲台 復元大砲

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