十二代将軍家慶の時代以降、幕府倒壊に至るまで幕府の老中に就いた人物については、概ね人物像についても把握していたつもりであった。老中とは、その時代の執政職であり、現代でいえば言わば閣僚か大臣みたいな存在である。従って、墓も現代まで伝わっているものが多い。全国に点在するその墓も八割から九割は訪ねて尽くしてきたという自負がある。その私でも松平忠固という人物については全くの盲点であった。本書でその人物と業績を知って、大いに瞠目するところがあった。
松平忠固は姫路酒井家の生まれで長じて上田藩主を継いだ。嘉永元年(1848)に初めて老中に就いたときは忠優(ただまさ)と名乗っていたが、安政四年(1857)、二度目の老中就任に際して忠固と改名した。ペリー来航時には、積極的開国論を唱え、斉昭らの攘夷論を斥けて修好条約締結に踏み切った。通商条約締結にあたって堀田正睦が勅許を得ることを主張したのに対し、外国交易のことは家康以来幕府の専断事項であり、朝裁を仰いだことがなかったとこれに反対した。その後、堀田は勅許を得ることに失敗し、朝廷の権威が上がり、幕威が失墜したことを考えれば忠固の意見は全うといえよう。
井伊直弼が大老に就任した直後の六月十九日、ハリスからの調印要請に即刻応じるべきであることを主張し、彼の意見が通ってそのまま調印に至った。後世、井伊直弼は「開国の恩人」と称えられるが、実際には開国通商を推進したのは忠固であった。条約調印の二日後に京都には奉書が送られた。言わば事後報告である。その日のうちに堀田と忠固には登城差し止めが命じられ、次いで御役御免が申し渡され、追って謹慎処分が加えられた。政敵忠固の排除に成功した井伊大老は返す刀で安政の大獄と呼ばれる大弾圧を始めるのである。
自らの政治生命と引き換えに開国通商を実現した忠固であったが、その一年後に世を去った。表向きは病死とされるが、筆者は「あまりに不審な点が多い」「病死説を信じることはできない」と自然死であることに疑問を投げかけるが、暗殺を裏付ける史料は見つかっていない。安政年間に世を去ってしまったことが、忠固の知名度を不当に押し下げてしまっている一つの理由のような気がしてならない。
失脚から亡くなるまでの一年、忠固は「皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべき」という信念に則って、江戸に上田産物会所を開き、藩の特産品である絹糸や絹織物を専売集荷する体制を作り上げた。中居屋重兵衛を藩の御用達に起用した。その結果、横浜開港後、上田産の生糸は飛ぶように売れた。筆者は「自分が政治生命を賭して取り組んできた事業が結実するという確信を得て、心地よい達成感を覚えたに違いない」と彼の心中を察している。
本書第三章では「日米修好通商条約は不平等条約ではなく、ほぼ対等なものだった」といわゆる定説を否定している。不平等条約といえば、「関税自主権がない」「外国に領事裁判権を認める」と、高校時代に暗記させられたものである。しかしアメリカとの条約には「神奈川が開港されて五年後には日本側が望むなら関税率を改訂する」ことが明記されており、日本は日米修好通商条約において、自主的に輸入関税を二十%、輸出関税五%と決めた。輸入関税二十%という数字は当時の国際スタンダードであったし、長州藩による下関海峡での砲撃事件をきっかけにイギリスにより輸入関税率は五%に引き下げさせられた。これは「徳川政権の責任ではなく、長州藩の責任」だと主張する。
領事裁判権についても、近代法を持たない当時に日本にとって「近代法ができるまでの当面の経過措置として妥当だった」「これを不平等と批判するのは不当」という主張は説得力がある。
続けて筆者は、日本が独立を維持できたのは、「決して尊王攘夷派が外国と戦ったからではない。むしろ彼らは順調な国際社会への適応を妨害しただけ」「尊王攘夷運動なるものは、日本の独立にとって百害あって一利もなかった」と力説する。
確かに下関戦争の結果、関税を引き下げられたのは事実であるが、攘夷戦争の結果、幕府の弱体化が進んだのも事実であろう。幕藩体制が維持される限り、関税収入は徴税権を持つ徳川幕府の財政を潤すことになっても諸藩にその恩恵はない。この構造を打破しない限り、諸藩に開国のメリットはなかった。
もちろん、上田藩が実践したように藩の特産品を専売化し、貿易によって利益を享受する道もあったであろう。結局、交易によって利益を得られたのが、上田藩や会津藩、紀州藩など限定的だったことも幕府の命運を縮める要因となった。
筆者は京都大学農学部の出身で、歴史学は専門ではない。長野県上田市の出身で、松平忠固という人物に一方ならぬ思い入れがある。その思いがこの著書に結実したのは間違いない。ただし、やや思いが強過ぎて一面的になっている記述がないわけではない。「男性は戦争が好きで、女性は平和主義」的なステレオタイプ的な主張も意見があるところだろう。また、史料の取り上げ方についても、問題が見える。たとえば斉昭が大奥の女中唐橋を手籠めにした話。私も司馬遼太郎先生の小説で知ったエピソードであるが、出典は大八木醇堂の「灯前一睡夢」か三田村鳶魚「大名生活の内秘」くらいしかなく、正確な史実は不明である。斉昭評について山川菊栄の「幕末の水戸藩」を引用している。「幕末の水戸藩」は名著であることに異論はないが、同時代人でもない山川の批評を引用するのは適当ではないだろう。
恐らく歴史学の専門家からすれば、史料の扱い方も知らない素人の著作ということで無視されてしまうのがオチかもしれないが、歴史家からの本書へのコメントも聞いてみたいものである。