(長福寺)
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長福寺
愛知県東部の史跡を回った後、伊豆半島の河津まで足を伸ばして長福寺の鈴木長吉の墓を訪ねることにした。河津町には、新東名高速道路の長泉沼津ICから70キロメートル以上も南下しなくてはならず、とても遠い。
大量院願船良應居士
(鈴木長吉の墓)
鈴木長吉は、文政元年(1818)、河津町浜で生まれた。船大工として腕を磨いた長吉は、浦賀の幕府造船所で洋式軍艦鳳凰丸や戸田で築造された戸田号の建造に関わり、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所の第一期生に選抜された。安政四年(1857)には江戸築地の講武所内に設けられた軍艦操練所の職方に就いた。安政七年(1860)、咸臨丸の乗組員に選ばれ、艦長勝海舟以下、鈴藤勇次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、ジョン万次郎、福澤諭吉らと太平洋を横断した。現地では、サンフランシスコのメア・アイランド海軍造船所にて咸臨丸のドック修理を担当した。維新後は工部省に出仕したが、明治五年(1872)二月、享年五十五で生涯を閉じた。長福寺長吉の墓の隣には、娘とよの小さな墓が置かれている。
帰路は、東伊豆海岸を北上し、伊豆スカイライン、箱根ターンパイクを経て小田原に出て、小田原厚木道路に入った。厚木で激しい渋滞にまきこまれたが、三時間半程度で八王子に帰ることができた。
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長福寺
愛知県東部の史跡を回った後、伊豆半島の河津まで足を伸ばして長福寺の鈴木長吉の墓を訪ねることにした。河津町には、新東名高速道路の長泉沼津ICから70キロメートル以上も南下しなくてはならず、とても遠い。
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大量院願船良應居士
(鈴木長吉の墓)
鈴木長吉は、文政元年(1818)、河津町浜で生まれた。船大工として腕を磨いた長吉は、浦賀の幕府造船所で洋式軍艦鳳凰丸や戸田で築造された戸田号の建造に関わり、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所の第一期生に選抜された。安政四年(1857)には江戸築地の講武所内に設けられた軍艦操練所の職方に就いた。安政七年(1860)、咸臨丸の乗組員に選ばれ、艦長勝海舟以下、鈴藤勇次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、ジョン万次郎、福澤諭吉らと太平洋を横断した。現地では、サンフランシスコのメア・アイランド海軍造船所にて咸臨丸のドック修理を担当した。維新後は工部省に出仕したが、明治五年(1872)二月、享年五十五で生涯を閉じた。長福寺長吉の墓の隣には、娘とよの小さな墓が置かれている。
帰路は、東伊豆海岸を北上し、伊豆スカイライン、箱根ターンパイクを経て小田原に出て、小田原厚木道路に入った。厚木で激しい渋滞にまきこまれたが、三時間半程度で八王子に帰ることができた。