史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

河津 Ⅱ

2018年08月31日 | 静岡県
(長福寺)


長福寺

 愛知県東部の史跡を回った後、伊豆半島の河津まで足を伸ばして長福寺の鈴木長吉の墓を訪ねることにした。河津町には、新東名高速道路の長泉沼津ICから70キロメートル以上も南下しなくてはならず、とても遠い。


大量院願船良應居士
(鈴木長吉の墓)

 鈴木長吉は、文政元年(1818)、河津町浜で生まれた。船大工として腕を磨いた長吉は、浦賀の幕府造船所で洋式軍艦鳳凰丸や戸田で築造された戸田号の建造に関わり、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所の第一期生に選抜された。安政四年(1857)には江戸築地の講武所内に設けられた軍艦操練所の職方に就いた。安政七年(1860)、咸臨丸の乗組員に選ばれ、艦長勝海舟以下、鈴藤勇次郎、小野友五郎、肥田浜五郎、ジョン万次郎、福澤諭吉らと太平洋を横断した。現地では、サンフランシスコのメア・アイランド海軍造船所にて咸臨丸のドック修理を担当した。維新後は工部省に出仕したが、明治五年(1872)二月、享年五十五で生涯を閉じた。長福寺長吉の墓の隣には、娘とよの小さな墓が置かれている。

 帰路は、東伊豆海岸を北上し、伊豆スカイライン、箱根ターンパイクを経て小田原に出て、小田原厚木道路に入った。厚木で激しい渋滞にまきこまれたが、三時間半程度で八王子に帰ることができた。

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浜松 Ⅲ

2018年08月31日 | 静岡県
(正寿院)


正寿院


八王子千人同心の墓

 浜松市浜北区の内野台という住宅街の中にある正寿院は、八王子同心ゆかりの寺である。
 慶應四年(1868)六月、幕府の軍事組織の一角を担っていた八王子千人同心千人隊に対し解隊を命じるとともに、新政府の臣下となるか(朝臣派)、駿河に領地を定められた徳川家に復帰するか(徳川随従派)、武士身分を捨てて農民となるか(帰農派)の選択を迫った。徳川家が配置替えを命じられた駿河七十万石では、三万二千人といわれる旧旗本、御家人を養うことが不可能であった。それでも千人隊頭(かしら)は全て徳川家への随従を希望し、隊士からも若干名が静岡移住の願いを出した。千人隊之頭の駿河移住は四期に分れて行われたとされる。静岡県における暮らし向きは苦しいものであった。結局、明治十年(1877)前後にはほとんどが帰郷し、徳川家への帰参の夢は水泡と帰した。正寿院には浜松で生涯を終えた八王子千人同心の墓が残されている。

(豊川稲荷)


豊川稲荷

 移住した八王子千人同心の人たちが勧請した豊川稲荷が、今も内野台の住宅街の片隅に残されている。
 千人隊士とその家族二百五十人余が入植した八丁谷(現・浜名ニュータウン)は人跡未踏の雑木林で、地元の農民も寄り付かないような土地であった。彼らは開拓の汗を流し、婦女らは一角にあった勧工場といわれる施設で縄やむしろ作りに従事した。しかし、三~四年後には半数が脱落し、リーダー格であった町田宮衛門正房も明治十一年(1878)に旧地八王子に戻る決断を余儀なくされた。

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豊橋 Ⅱ

2018年08月26日 | 愛知県
(龍拈寺)


龍拈寺

 豊橋市街の龍拈寺(りゅうねんじ)は旧東海道沿いにあって、文久三年(1863)、徳川家茂が上洛途中に宿泊したという記録が残る。
 「王政復古」(久住真也著 講談社現代新書)によれば、文久三年(1863)将軍徳川家茂の上洛に際し、随従する行列は約三~四千人と過去に実施された将軍上洛と比べて格段に規模が小さく、大名迎列に近いものであった。宿泊所は、駿府城を除き、本陣もしくは寺院が使用され、新規に修繕することは制限する等、質素を標榜した。同年二月二十八日、宿泊予定であった桑名の本統寺が「陰気な様子」であるとして、宿所変更の要請が家茂の側近から老中水野忠精になされた。その理由としてあげられたのが、二十五日に宿泊した三河吉田の龍拈寺は、座敷内がひどく陰気であり、家茂が不快に感じ、善処するように命じたことがあったからとされる。結局、水野は寺側の準備にかかわらず、急に宿所を変えるのは将軍の「不徳」にもなるとして、要請には応じなかった。
 龍拈寺は昭和二十年(1945)の豊橋空襲で山門を覗いて全伽藍が炎上し、「陰気な様子」といわれた本堂はコンクリート製に建て替えられている。個人的には寺というのは、どこでも基本的に陰気で、そこに宿泊して愉快なものではなかろう、という気がする。

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蒲郡

2018年08月26日 | 愛知県
(乃木山)


乃木将軍像

 蒲郡市「山の上の洋食屋はなわ」のある小高い山は、通称乃木山と呼ばれ、その名のとおり頂上に乃木希典の立像がある。ここの乃木将軍は若干頭でっかちである。
 展望台から蒲郡市街を一望することができる。


忠魂社


蒲郡市街

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西尾 Ⅱ

2018年08月26日 | 愛知県
(長圓寺)


長圓寺

 八年前(正確には2009年の年末から2010年の正月にかけて)、家族旅行で訪れて以来の西尾・蒲郡となる。西尾貝吹の長圓寺は、徳川家の重臣板倉家の菩提寺で、石を敷き詰められた小径を上って行くと、森の中に歴代当主の墓が並んでいる。
 この場に立ち入ったら藪蚊の猛攻撃を受けるので、それなりの準備をお勧めする。私は不用意にも半袖Tシャツだったもので、両腕をボコボコに刺されました。


板倉家墓所への参道

 長圓寺は、もと岡崎市中島町にあった永安寺が前身で、慶長八年(1603)、京都所司代を務めた板倉勝重が再建して、中島山長圓寺と改めた。寛永七年(1630)、勝重の長男重宗が父の七回忌を機に現地に移した。長圓寺には、勝重の座像や肖像などが伝わる。板倉家墓所にある朱塗りの肖影堂は、寛永七年(1620)に重宗が建てた板倉勝重の霊廟である。肖影堂の目の前に板倉勝静の墓がある。


肖影堂

 板倉勝静は、桑名藩主松平定永の八男。備中松山藩主板倉勝職の養子となり、嘉永二年(1849)襲封して周防守を称した。資性温順にして恭謙、藩祖勝重および祖父松平定信の遺風を継いで、文武ともに成績が現れた。碩儒山田方谷を重用して、藩校有終館を興し、川田剛、三島中洲らを要路に据えた。文久二年(1862)には老中に進み、外交事務を主管した。長州再征や一橋慶喜の将軍就任、慶喜のもとで幕政改革に取り組んだが、鳥羽伏見にて敗戦。慶喜とともに東帰して、朝廷から官位を褫奪され藩邸も没収された。老中を辞して家督を世子勝全に譲り、日光南照院で恭順した。宇都宮英巌寺に幽閉されたが、大鳥圭介に救われて会津に逃れ、十月仙台から榎本艦隊に投じて箱館に移った。板倉氏は父祖累代徳川と親縁があったため、最後まで抵抗する道を選んだのであろう。板倉家墓所にある勝静の墓を前にすると、勝静はここに自らの墓を建てるために父祖に恥じない道をとったように思えてしまう。
 明治二年(1869)二月、勝静、勝全父子は安中藩に禁固され、封三万石を削られた。明治五年(1982)、赦されて帰国し、これより隠居して世事を断ち、みずから松叟と号した。明治九年(1876)、東照宮祠官となったが、基本的には公職に就かず、明治二十二年(1889)、年六十七で病没した。駒込の吉祥寺にも墓がある。


板倉家墓所


樹功院殿正四位耆徳松叟大居士
(板倉勝静の墓)


中興院殿泰山源昌大居士
(板倉勝弼の墓)

 本来、板倉家は勝静の嫡男勝全が継ぐことになっていたが、勝全が父とともに箱館まで転戦していたため、新政府にはばかった勝静が、第四代藩主板倉勝政の孫勝弼を後継に指名した。最後の藩主、そして板倉家宗家第十四代を継いだ勝弼は、明治二十九年(1896)、五十一歳で世を去った。

 長圓寺の板倉家墓所には、島原の乱の殉難者や子爵にして陸軍騎兵隊に属した勝貞、十六代勝豪、十七代重俊らの墓もある。藪蚊がいなければ、いくらでも時間を過ごせる空間である。

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岡崎 Ⅲ

2018年08月26日 | 愛知県
(源空寺)


源空寺

 岡崎市中心部に所在する源空寺に本多忠考(ただなか)の墓がある。源空寺は、慶長十六年(1611)、岡崎城主本多豊後守康重の菩提所となった。


勝雲院殿従五位天譽晴空壽僊大居士
(本多忠考の墓)

 本多忠考の墓は、歴代寺族の墓の前の一等地に建てられている。本多忠考は、岡崎藩第四代藩主。本多忠勝系本多家宗家十四代となる。文化二年(1805)、三代藩主本多忠顕の四男に生まれ、当初忠祥と名乗った。文政四年(1821)、父の隠居に伴い家督を継いだが、病弱で藩政を執れなかった。岡崎藩では、文政十一年(1828)、矢作川洪水で七十人余りの死者と甚大な損害を被り、藩財政は逼迫した。天保六年(1835)、養子忠民を迎えて隠居した。明治十二年(1879)十一月二十一日、死去。享年七十五。
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豊田

2018年08月26日 | 愛知県
(幸福寺)


幸福寺

 例年になく早く梅雨が明けた。せっかくの好天というのに週末、家でぐずぐずしているのは勿体ない。早朝四時に自宅を出て、愛知県を目指した。この日は、豊田、岡崎、西尾、蒲郡、豊橋を回って、静岡県の浜松、河津各地の史跡を訪ねるという遠大な計画を立てた。途中、睡魔に襲われ、雨に祟られることもあったが、何とか計画とおり実行することができた。


宇都宮三郎藤原義綱墓

 豊田市郊外の幸福寺に我が国の近代科学技術の先覚者と称される宇都宮三郎の墓がある。宇都宮三郎は、天保五年(1834)、尾張藩士神谷半右衛門の三男として名古屋に生まれ、十六歳の頃、宇都宮小金次と名を変え(神谷家の旧姓)、後に三郎と改めた。江戸出張の際、脱藩し、勝海舟の招きで製錬所に出仕し、名称を化学所と改称した。「化学」という言葉を公に使用した最初といわれる。明治七年(1874)、セメントを日本で最初に製造し、その後も耐火煉瓦、炭酸曹達、ヤスリ紙、製鉄釜の改良、清酒醸造法など工業化学分野に輝かしい業績を残した。明治十七年(1884)、病により工部大技長を辞したが、その後も化学技術者として活躍し、多くの後継者を育成した。明治三十五年(1902)七月、肺結核により東京にて没。享年六十九。


神谷家墓所

 幸福寺の墓地は無縁墓石を整理したらしく、かなり縮小されている。その中にあって宇都宮三郎夫妻の墓は、堅牢な石段の上に設けられていて、墓地に入れば直ぐに分かる。宇都宮三郎は自ら考案した化学装置付きの棺に入って、ここに眠っている。三郎の本家である神谷家の墓所も夫妻の墓の隣に設けられている。

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流山 Ⅱ

2018年08月26日 | 千葉県
(光照寺)
 光照寺は安土桃山時代創建の浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。境内には田中藩本多家の飛び地領代官で、暗殺された須藤力五郎の墓がある。


光照寺


須藤力五郎墓

 須藤力五郎は下総本多領船戸代官。領民から慕われていたが、藩の理解を得られず解任された。彰義隊に同志七名と参加し、上野戦争の後は上総、下総を転戦した。慶應四年(1868)八月二十一日、田中藩本多家の命を受けたかつての同僚に下総高田村(現・柏市)に呼び出され、饗応され泥酔したところを斬殺された。四十歳。墓石の書は山岡鉄舟。


須藤力五郎首実検の地

 この日は、市川で野球部の練習に参加した後、我孫子新木駅と流山セントラクパークの史跡を訪ねた。午前中は何とかもったが、昼からは本格的な梅雨らしい雨となった。靴の中までびっしょりになりながら二つの史跡を訪問することができた。
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我孫子 新木

2018年08月26日 | 千葉県
(新木野)


須藤力之助之碑

 我孫子市新木野の住宅街の一角、薬師台公園の北側の月極駐車場の片隅に須藤力之助之碑が建てられている。
 須藤力之助は佐倉藩士。青山(現・我孫子市)から佐倉に向かう途中、慶応四年(1868)八月二十一日、追手により殺害された。二十四歳。
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飯山 Ⅱ

2018年08月18日 | 長野県
(英岩寺)


英岩寺

 英岩寺は飯山市内の寺町の一角に所在する。墓地の入口近くに戊辰戦争の犠牲者浅山兵馬の墓がある。


淺山正立之墓

 浅山兵馬は大砲方。兵卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板城ヶ峰にて戦死。三十八歳。

(忠恩寺)
 忠恩寺は、歴代城主の菩提寺であり、城主松平家や本多家の墓所がある。早速、本多家の墓所を訪ねる。


忠恩寺

 本多家墓所には、二代本多康明、八代助成、九代助寵、四代助盈の二人の娘、十代助実の息兼吾郎(二歳で卒)の墓が並ぶ。


文明院殿前豊前太守有譽章山達道大居士
(本多助成の墓)

 本多助成は、弘化三年(1846)、第七代藩主本多助実の長男として生まれ、文久元年(1861)、将軍家茂に拝謁し、従五位下伊勢守に任じられた。五尺八寸の堂々たる体格で、文武にも秀でていた。慶應二年(1866)には病気の父助実の代理として大阪への出陣を命じられた。慶應三年(1867)、父助実の隠居により家督を継いだ。慶應四年(1868)三月、明治政府から謹慎を命じられ、新政府に対し一万五千両の軍資金を献納した。同年六月、飯山において旧幕軍古屋佐久左衛門らと新政府との戦闘が勃発したが、そのさ中に死去した(二十三歳)。偉丈夫として知られた殿さまのあまりの若さとそのタイミングに、当時から毒殺されたという噂もあったが真相は不明。
 藩では助成の死を隠し、隠居届けを提出して養子(実弟)助寵に家督を継がせた。


成就院励譽功道徳山大居士(本多助寵の墓)

 本多助寵は第九代藩主。慶応四年(1868)七月、家督を継いだものの、病弱であったため政務は実父助実が代行した。戦後、北越戦争出兵の賞典禄五千両を賜り、版籍奉還後藩知事に就任したが、その直後、わずか十六歳で死去した。


本多康明の墓

(永国寺)
 永国寺(ようこくじ)の門前をJR飯山線が横切っており、境内を分断している。境内に行くには線路をまたがなくてはならない。


永国寺


佐藤由松の墓

 佐藤由松の墓は線路手前の墓地にある。
 佐藤由松は銃卒。慶応四年(1868)五月二十七日、越後与板にて負傷。同年八月二十護日、柏崎で死亡。二十三歳。

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