僕はこのブログで漢字を使う時に、意識して使い分けている。
今週は紅茶の話題を書いたけれど、この中で『紅茶を淹れる』と書いたはず。
『入れる』でも間違いではないのだけれど、漢字にはそれぞれ意味があって
その使い分けが、意外と楽しいのですよ。
お茶を『入れる』際の言葉には、紅茶やお茶の抽出液の作成方法によって、
「烹れる」「点れる」「煎れる」「淹れる」といった漢字が細かく使い分けられてきた。
「煎れる」は、お茶の葉を火にかけ沸騰させたお湯の中に入れ、 煮出してお茶を作ることをいう。
これに対し、「淹(えん)」という語は、現在普通に行われているように、
火から降ろしたお湯で、急須 に入れた茶葉を浸してお茶を作ることを指す。
『会う』という漢字も、「会う」「遭う」「逢う」「遇う」と使い分けてるかなぁ?
「会う」は人とあうと言う意味で「逢う」と同意義語だけれど、
「逢う」の場合は、親しい人に合う場合、特にや恋焦れていた人にやっと会うような
ちょっとロマンチックなイメージで使っている。
「遭う」や「遇う」は、偶然や思いがけない事に遭遇した場合。
被害に遭うとか、ひどい目に遭ったとかですね。
『聞く』も使い分けている。『聞く』は話を聞くなど、普通に使うけれど、
音楽を聴く場合は『聴く』、人に物を尋ねる場合には『訊く』を使っている。
その他はさっきの『入れる』の他に『容れる』『挿れる』もあるし、
『書く』と『描く』なんかも使い分けていますね。
最近は手書きの文章を書かない人が多くなって、文字の変換で間違って
恥ずかしい文章を書く人が多いけれど、文字の変換機能を使えば、
こういった使い分けは簡単なはずなんだけれどね。
日本語はひらがなという日本独特のものがあるけれど、
漢字は文字に意味があって、それが日本語の文化だと思うのだけれど、
実は日本語を英語に翻訳すると、こういう事がよく解るのです。
今は携帯電話やパソコンのワープロなどを使うと、文字の変換機能や
辞書機能という良い道具があるのに、こういう事が全然意識されていないのが残念ですね。
まぁ、最近はテレビのアナウンサーも変な日本語を使うし、
かのNHKでさえ、おかしな日本語を使っているから仕方がないのかな?
明日はそのあたりの事を書きましょう。
今週は紅茶の話題を書いたけれど、この中で『紅茶を淹れる』と書いたはず。
『入れる』でも間違いではないのだけれど、漢字にはそれぞれ意味があって
その使い分けが、意外と楽しいのですよ。
お茶を『入れる』際の言葉には、紅茶やお茶の抽出液の作成方法によって、
「烹れる」「点れる」「煎れる」「淹れる」といった漢字が細かく使い分けられてきた。
「煎れる」は、お茶の葉を火にかけ沸騰させたお湯の中に入れ、 煮出してお茶を作ることをいう。
これに対し、「淹(えん)」という語は、現在普通に行われているように、
火から降ろしたお湯で、急須 に入れた茶葉を浸してお茶を作ることを指す。
『会う』という漢字も、「会う」「遭う」「逢う」「遇う」と使い分けてるかなぁ?
「会う」は人とあうと言う意味で「逢う」と同意義語だけれど、
「逢う」の場合は、親しい人に合う場合、特にや恋焦れていた人にやっと会うような
ちょっとロマンチックなイメージで使っている。
「遭う」や「遇う」は、偶然や思いがけない事に遭遇した場合。
被害に遭うとか、ひどい目に遭ったとかですね。
『聞く』も使い分けている。『聞く』は話を聞くなど、普通に使うけれど、
音楽を聴く場合は『聴く』、人に物を尋ねる場合には『訊く』を使っている。
その他はさっきの『入れる』の他に『容れる』『挿れる』もあるし、
『書く』と『描く』なんかも使い分けていますね。
最近は手書きの文章を書かない人が多くなって、文字の変換で間違って
恥ずかしい文章を書く人が多いけれど、文字の変換機能を使えば、
こういった使い分けは簡単なはずなんだけれどね。
日本語はひらがなという日本独特のものがあるけれど、
漢字は文字に意味があって、それが日本語の文化だと思うのだけれど、
実は日本語を英語に翻訳すると、こういう事がよく解るのです。
今は携帯電話やパソコンのワープロなどを使うと、文字の変換機能や
辞書機能という良い道具があるのに、こういう事が全然意識されていないのが残念ですね。
まぁ、最近はテレビのアナウンサーも変な日本語を使うし、
かのNHKでさえ、おかしな日本語を使っているから仕方がないのかな?
明日はそのあたりの事を書きましょう。