後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中村研一画伯の特別展、「中村研一の往還」のご案内

2024年03月14日 | アート・文化
中村研一画伯の特別展、「中村研一の往還」のご案内です。
東京美術学校以降、中村研一がずっとアトリエとしていた家は明治神宮近くにありました。パリでの修行と戦災を経て小金井市の「はけの森」に移り住み 1967年に亡くなるまで小金井に22年間住んでおました。

特別展、「中村研一の往還」

会期:2024年 3月24日(日)~5月12日(日)
開館時間:10:00 ~ 17:00(入館は 16:30 まで)
休館日:月曜日
観覧料:一般200円、小中学生100円

詳しくは、https://www.hakenomori-art-museum.jp/exhibition をご覧下さい。
写真は会場になる中村研一記念館で、今日私が撮った写真です。
 

「川瀬巴水の版画と吉田博の日本画の静謐な美しい世界」

2024年03月01日 | アート・文化
心が静かになる川瀬巴水の版画の写真をお送りいたします。静謐な世界です。詩的で美しい版画です。
川瀬巴水は大正・昭和期の浮世絵師、版画家です。江戸時代の葛飾北斎や歌川広重のように力強くありませんが胸を打つ静かな美しさがあるのです。

1番目の写真は明治期の東京湾の風景です。まだ帆船が運搬船として使われいました。

2番目の写真は芝の増上寺の前の雪の風景です。和服姿の女性が傘を斜めにして歩いている様子に詩情が感じられます。

3番目の写真は雪晴れの富士山の静かな風景です。忍野八海付近から見た風景でしょうか。

4番目の写真は雪晴れの農村風景です。除雪した道を一人の人間が歩いています。それだけの絵ですが郷愁を感じます。

5番目の写真は深川付近の木場の夕暮れ風景です。水に浸けた材木が波の無い水面に横たわっています。
一般に油彩画は見ていると疲れます。観賞するためにエネルギーが要るのです。
それに比較すると日本画は何の抵抗もなく心に自然に溶け込みます。心が寛ぐのです。そこで続けて吉田博の日本画をご紹介致します。
吉田 博は1876年(明治9年)生まれ、 1950年(昭和25年)に亡くなりました。画家で版画家でもありました。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した人です。
6番目の写真は吉田博 「瀬戸内海集」の「帆船、夕」です。

7番目の写真は吉田博の「 瀬戸内海集 」の「光る海 」です。大正15年(1926)の作です。

8番目の写真は「瀬戸内海集」の「倉」です。1930年作です。

9番目の写真は「富士拾景 船津」です。 1928年(昭和3年)作です。

吉田博は旧久留米藩士の上田束秀之の次男として久留米市に生まれました。1888年、福岡県立修猷館に入学します。1891年、修猷館の教師の洋画家、吉田嘉三郎に画才を見込まれ吉田家の養子となります。
1893年、修猷館を卒業し、京都で洋画家田村宗立に師事します。上京して小山正太郎が主催する不同舎に入門し、後に明治美術会の会員となりました。
1899年、中川八郎と共に渡米、ボストン美術館で2人展を開催し成功します。その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴しパリ万博において、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けました。

今日は川瀬巴水の版画と吉田博の日本画の静謐な美しい世界をご紹介致しました。何の抵抗もなく心に自然に溶け込み心が寛ぐ版画と日本画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「キリスト教以前の西洋の宗教(1)バイキングの多神教」

2023年12月22日 | アート・文化
多神教と北欧神話を信仰していたのは、ゲルマン系に属するデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドの4カ国である。

これらの国では、キリスト教が入ってくる紀元後1000年前後まで、いろいろな神々を深く信仰していた。このキリスト教化する前の時代は、「異教時代」の時代として扱われるようになった。

ヴァイキングの生活は、神々への信仰と非常に深く結びついていた。ほかの宗教における「司祭」は存在せず、日々の祭祀は地域の代表者や家長が執り行う。

また各家庭には信じる神がまつられ、ことある毎に祈りを捧げたとされている。このように、彼らヴァイキングにとっては信仰=生活であり、切っても切り離せないものだったのだろう。

北欧神話を信じていた人々は、スカンディナヴィア半島の周辺に広く住んでいた。そのため、彼らの住む住居は森林の多い地域では木造、石が豊富に取れるところでは石造りと、地域によってばらつきがあった。

ただ、もっとも多く見られたのは、船をひっくり返したような湾曲した屋根を持つ「ロングハウス」という形式の住居だ。元々彼らは、本当に船をひっくり返して住んでいたと言われている。

人々はロングハウスという家に住んでいた..

ロングハウスの中には、部屋と呼べるものはほとんどなく、入り口を入るとすぐ「スカーリ」と呼ばれる広間があった。スカーリの中央には炊事や家事を行う土間と炉があり、部屋の壁には2列のベンチがもうけられている。

そのベンチには、家長や客人が座る高座があり、高座の柱には「トール」などその家が信じる神の像が彫られていた。

寫眞はスカンディナヴィア半島の海、ロングハウスの外観とその構造図です。

詳しくは、https://www.phantaporta.com/2017/06/blog-post03.html をご覧ください。
 

「芸術の秋(12)茨城県の板谷波山記念館」

2023年10月03日 | アート・文化
茨城県の水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。
そして笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。
私はこれらの美術館を以前に家内と一緒に見てまわりました。
今日は板谷波山記念館をご紹介したいと思います。

1番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。

2番目の写真は白磁唐草文壺です。

3番目の写真は青磁袴腰香炉です。

4番目の写真は彩磁呉州絵香炉です。

5番目の写真は唐花文の花瓶です。

板谷波山は明治5年(1872)に茨城県に生まれ昭和38年(1963)に亡くなりました。
明治27年東京美術学校彫刻科卒業後、明治36年に田端に居を構え、「波山」と号し、優美なホ光彩を編み出し陶芸家としての道を歩み始めました。
貧窮の生活の中で窯を築き、明治39年初窯に成功し、翌年には東京勧業博覧会で三等賞を受賞。以後様々な展覧会や博覧会で入選、受賞を重ね、陶芸界での地位を不動のものとしたのです。
板谷波山の作品は静謐な美です。眺めていると心が静まります。そしてその上品な美の世界へ吸い込まれていくのです。宗教とはまったく別な崇高なものを感じさせます。嗚呼、そういうのが陶芸芸術なのだと納得するのです。
茨城県の筑波山の北の山麓にある筑西市に生まれ育ったので筑波山の筑を消して波山と号したそうです。
波山の精神性に溢れた陶磁器が沢山あるのが板谷波山記念館です。そして笠間日動画廊美術館の近所にある茨城県立陶芸美術館にも波山の作品が沢山展示してあります。
是非、茨城県の板谷波山記念館をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「クロード・モネの描いた雪景色」

2023年02月12日 | アート・文化
印象派のクロード・モネ、Claude Monet (1840-1926)は雪の情景を他の画家に比べて数多く描きました。
写真をお送り致します。出典は、http://bluediary2.jugem.jp/?eid=3517 です。

1番目の写真は、「The Cart, Alley under the Snow at Honfleur」1865 です。

2番目の写真は、「Snow at Argenteuil」1875 です。

3番目の写真は、「Lavacourt under Snow」1878-1881 です。

4番目の写真は、「Train in the Snow」1875 です。

「スーパーの『ヤオコー』に関係した三栖右嗣の油彩画」

2022年10月26日 | アート・文化

今朝の朝食中に妻が今日は隣町小平市のスーパー『ヤオコー』に車で連れて行ってくれと言います。近所のスーパーマーケットでも良いと思いましたが行くことにしました。三栖右嗣の油彩画を思い出したからです。

今日は三栖右嗣の油彩画をご紹介したいと思います。

さてヤオコーというスーパーマーケットは川越市の八百屋さんが作った店で、埼玉県と東京の西北部に数多くのスーパーを展開しています。
その創業者の女主人、川野トモさんが油絵が大好きで川越美術館を作ったのです。
この美術館は三栖右嗣(みす ゆうじ)記念館でもあります。
彼の絵画を蒐集し33点展示してある小さいながら芸術性あふれる美術館です。館内にカフェもあります。

建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。
ヤオコー川越美術館に展示してあるものを含めて三栖右嗣画伯の油彩画の写真をご紹介いたします。

1番目の写真は「麓郷早春」と題した長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。
  2番目の写真は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

3番目の写真は「春園」という題の大作の部分です。三栖さんの晩年の傑作です。

4番目の写真は冬の北海道の牧場風景です。この絵は展示されていませんでした。

5番目の写真は冬の灯台風景です。  6番目の写真は「林檎のある風景」です。  7番目の写真は「カテドラルの或る街」です。
ヤオコー川越美術館は以前に訪問しました。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。 現代リアリズムの画家ともいわれ、人気作家でもあったのです。彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。温かみのある描写の作品です。質の高い充実した油彩画です。
ヤオコーというスーパーに買い物に行くたびに三栖右嗣さんの油彩画を思い出して楽しい気分になります。
そんなスーパーがあるのは幸運ですね。
川越の近辺にお住まいの方は是非この美術館を訪問なさって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。


「西洋の美しい絵画(6)温厚なカミーユ・ピサロの油彩画」

2022年05月02日 | アート・文化
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)は1830年に生まれ 1903年に没しました。、19世紀フランスの印象派の画家でした。 
ピサロは1830年にカリブ海の、当時デンマーク領だったセント・トーマス島で生まれます。父フレデリック・アブラハム・ピサロはボルドー出身のユダヤ教徒で金物屋でした。 
パリでは、アカデミックな画家たちの指導も受けたがより自由にモデルを描くことが許される画塾アカデミー・シュイスに通っていました。
1859年にはクロード・モネが、1861年にはポール・セザンヌやアルマン・ギヨマンがパリに来て同じアカデミー・シュイスで学び始めており、ピサロはこの頃彼らと知り合ったようです。そして コローに会いに行きアドバイスを求めています。 
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月にパリに戻り、突然病気に倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
カミーユ・ピサロの油彩画を5枚、http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=1041 からお借りしてお送り致します。

1番目の写真は制作年:1867年、原画サイズ:151.4 x 200.6 cm、所蔵:グッゲンハイム美術館です。
本作に描かれているのはフランスのポントワーズにあるエルミタージュという街です。ピサロは1866年から1883年の間、このポントワーズに住み、この地の風景をたくさん描き残しました。
2番目の写真は【ルーヴシエンヌの景色】制作年:1870年です。
この作品に描かれているルーヴシエンヌは、パリのセーヌ河流域にある村です。
ピサロは1868年秋にポントワーズからこのルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までまでこの地で生活したと言われています。
ピサロはこのルーヴシエンヌの風景をたくさん描き残しています。
3番目の写真は【ポントワーズの閘門】、制作年:1869年、所蔵:個人所蔵です。 
4番目の写真は【アッパー・ノーウッド、クリスタルパレス、ロンドン】、制作年:1870年、原画サイズ:39x50cmです。
 本作にはロンドンのアッパー・ノーウッド地区にクリスタルパレスという通りが描かれています。
ピサロは1870年に起こった普仏戦争から逃れるためにロンドンへ移住し、その時に描かれた作品です。
5番目の写真は【シャポンヴァルの風景 】、制作年:1880年、原画サイズ:54.5cm×65cm、所蔵:オルセー美術館です。
この作品に描かれているシャポンヴァルはフランスのパリの少し北西、オワーズ川のほとりの町です。 


「吉田博の帆船と倉と富士の絵、心がくつろぐ絵画」

2022年03月18日 | アート・文化
昨日の「日本人を愛したニコライ、ロシア人の全てが悪人ではない!」という記事でロシアの画家、イリヤー・レーピンの油彩画をご紹介致しました。
しかし油彩画は見ていると疲れます。観賞するためにエネルギーが要るのです。
それに比較すると日本画は何の抵抗もなく心に自然に溶け込みます。心が寛ぐのです。そこで今日は吉田博の日本画をご紹介致します。
吉田 博は1876年(明治9年)生まれ、 1950年(昭和25年)に亡くなりました。画家で版画家でもありました。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した人です。
1番目の写真は吉田博 「瀬戸内海集」の「帆船、夕」です。

2番目の写真は吉田博の「 瀬戸内海集 」の「光る海 」です。大正15年(1926)の作です。

3番目の写真は「瀬戸内海集」の「倉」です。1930年作です。

4番目の写真は「富士拾景 船津」です。 1928年(昭和3年)作です。

吉田博は旧久留米藩士の上田束秀之の次男として久留米市に生まれました。1888年、福岡県立修猷館に入学します。1891年、修猷館の教師の洋画家、吉田嘉三郎に画才を見込まれ吉田家の養子となります。
1893年、修猷館を卒業し、京都で洋画家田村宗立に師事します。上京して小山正太郎が主催する不同舎に入門し、後に明治美術会の会員となりました。
1899年、中川八郎と共に渡米、ボストン美術館で2人展を開催し成功します。その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴しパリ万博において、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けました。
詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%8D%9Akipedia  にあります。

今日は吉田博の日本画をご紹介致しました。何の抵抗もなく心に自然に溶け込み心が寛ぐ絵です。

今日の記事と関連した2020年03月07日 掲載の「川瀬巴水の詩的な版画を見て静かに時を過ごす」というの記事もご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「印象派シスレーの風景画」

2022年01月02日 | アート・文化
 印象派シスレーの風景画を4点お送り致します。 どの作品もフランスの田舎町の風景画です。のどかな田園風景を描いた作品です。作品を通して、その当時の空気感も感じられるような作品です。 出典は、http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=506 です。

 1番目の写真はシスレーの【アルジャントゥイユのエロイーズ大通り】です。 

2番目の写真はシスレーの【サン・マメスの眺め】です。 

3番目の写真はシスレーの【ヴァルヌーヴ・ラ・ガレンヌの橋】です。 

4番目の写真はシスレーの【モレのポプラ並木】です。

シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、パリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画で、人物、室内画、静物といった他のジャンルは全て合わせてもおそらく20点に満たない。
スタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作することを選んだ。
シスレーは1839年10月30日、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。

「今日の日記、府中市美術館に行く、そして牛島憲之の話」

2020年07月18日 | アート・文化
今日も雨です。鬱陶しいので府中市美術館に行って絵画を少し見ました。
府中市美術館は牛島憲之の記念館を兼ねています。久しぶりに見た彼の絵で気分が良くなりました。
7枚の写真をお送りいたします。はじめの5枚は今日の府中市美術館で撮った写真です。あとの2枚は牛島憲之の「伊豆の魚港」と「墨東」です。













牛島 憲之は1900年に生まれ 1997年に没しました。洋画家で熊本県熊本市二本木町で生まれました。
風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれています。
熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大卒で岡田三郎助に師事します。帝展入選以後、秀作美術展を中心に出品を重ねました。
日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いたのです。家族には「絵の具とカンバスと、雨風しのげて目と手があれば、絵は描けるんだよ」と言い続けたそうです。
世田谷区在住でしたが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されています。そんな経緯から府中市美術館は牛島憲之の記念館を兼ねています。

「ゴッホの油彩画の追加です」

2019年08月04日 | アート・文化

1番目の写真は「ひまわり」です。1888年8月から1890年1月にかけての作品です。南仏のアルル滞在時に盛んに描かれた。花瓶に挿された向日葵の「ひまわり」は7点存在し、2007年現在6点が現存している。

2番目の写真は「糸杉と星の見える道」です。ゴッホがこの世を去る2か月前の1890年5月、フランス南部のサン=レミ=ド=プロヴァンスにある精神病院で療養中の作品です。

3番目の写真は「星月夜(ほしづきよ)」です。南フランスの聖ポール療養院で1989年にゴッホが見た星空です。
ゴッホが入院した聖ポール療養院(Saint Paul de Mausole)は、現在でも診療が行われており、ゴッホの病室や回廊も公開されているそうです。

4番目の写真は「医師ガシェの肖像」です。1890年6月の作品です。医師ガシェは絵画愛好家でありゴッホと親しくセザンヌやピサロらと交友があったほか、自らも絵画を描いていました。

5番目の写真は「カラスのいる麦畑」です。この作品は、ゴッホが拳銃自殺を図った1890年7月に完成されたもので、「巨匠最後の作品」です。

ゴッホの生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけでした。それでも弟テオドール(通称テオ)の援助でなんとか生活していたのです。
ゴッホは油彩900点、素描1100点を遺しました。
傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものでした。
しかし彼の絵画は世界中で人々に感動を与えているのです。不思議です。私も彼の絵が大好きです。

好きという軽々しいものではなく魂がゆさぶられるのです。生きる勇気が猛然と湧いて来るのです。人間の素晴らしさを感じるのです。そして何と言っても美しいのです。
1989年、1990年にオハイオのコロンバス市に住んでいたときゴッホの絵があるシカゴ美術館やピッツバーグ美術館に何度も車を走らせたこともありました。
ゴッホの絵は世界の宝です。

宮沢賢治の展示会2つご案内します。

2008年07月24日 | アート・文化

夏になると宮沢賢治を思い出す。・・・サムサノナツハオロオロアルキ・・・という言葉が子供心に何故か焼き付いてしまったから。人それぞれ思い出す文章が違うと思うが。

風の又三郎を思い出す人も居る・・・さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り日光は運動場いっぱいでした。・・・・

昨日、賢治への連想に関して記事を掲載したあとで、奇しくも2つの展示会の案内が手元へ来たのでご紹介します。

その一、「絵で読む宮沢賢治展」ー賢治と絵本原画の世界ー日本橋三越本店 別館8月12日(火)から21日(木)まで、入場料、一般700円、高校・中学生500円、ギャラリートーク8月12日(火)11:00時かた13:00時迄。宮澤和樹氏(賢治の弟、清六氏の孫)、問い合わせ電話番号:03-3274-8702

その二、児玉房子がガラス絵で描く「宮沢賢治の世界」、8月1日(金)から31日(日)迄。11:30時から19:00時迄。JR御岳駅前の河鹿園(大広間、月の間、渡り廊下)にて。入場料は無いが、会席料理を食すのが入場の条件。(メニュー、料金などはこのブログの6月29日の記事、「中年夫婦へお勧めする河鹿園」に掲載。詳しくは、http://www.kajikaen.co.jp をご参照下さい。最後に河鹿園から多摩川の向こうにある玉堂美術館の写真をご紹介します。ガラス絵の展示を見たあとで是非、玉堂の絵もお楽しみ下さい。(終わり)

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