昔の人々の生活ぶりに私は強い興味があります。昔のことを知ると現在の豊かさがしみじみ分かります。幸福感につつまれます。
そこで今日は日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代の人々の生活を書いてみたいと思います。
日本に人間が住み着き始めたのは何時の頃からでしょうか?
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からです。
それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。
そうして時代区分は以下のようなものが一般的です。
旧石器時代; 約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代; 前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代; 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代; 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代; 592年 – 710年
奈良時代; 710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間も続いていたことになります。
その後の歴史はたかだか2000年しかありません。旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。
そして弥生時代はたったの600年間だったのです。
ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い、旧石器時代の人々の生活の実態が少し分かりました。
そこで以下にその概略を示します。相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡が発見されたのです。
この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見というのでしょうか?戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の群馬県みどり市の岩宿遺跡の発見で、数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成になってから事情が急変したのです。各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧石器時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。
1番目の写真は2万年前の石器時代の住居跡を復元したものfです。
この写真では、平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡を明示しています。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。
2番目の写真は旧跡時代の住居跡の上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。
3番目の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。
旧石器時代には大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方の庶民に限って考えれば、ほとんど変わらなかったというのが真実に近いと私は想像しています。農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと私個人は想像しています。学校で教える歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝えますが、一般の人々は変わら原始的な生活をしていたのです。
さてこのような縄文時代の人々の生活の実態はどうだったのでしょうっか?玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが優れていました。(そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.html です。)
以下に内陸部の八ヶ岳山麓の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。
4番目の写真は縄文人達が集団で土器を多量生産している様子です。
八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。土器の生産を仕事にしていた人々が写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのです。
5番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。
漆塗りは全国の縄文遺跡から出土します。漆の成分が付着した生活用具が出てくるのです。八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。
6番目の写真は秋の終わりごろ冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭のようです。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。
それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。しかし海や川の漁業も山の狩猟も厳しい作業でした。深い森に分け入って木の実や食用植物を採集することは危険な仕事でした。
次に弥生時代の社会と文化をご紹介したいと思います。弥生時代の代表的な遺跡として有名なものは佐賀県の「吉野ケ里遺跡」です。この遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で数多くの建物は堀や柵で囲まれ独立した小王国のような構造になっています。
7番目の写真はまつりごとの行われていた北内郭で出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 です。
8番目の写真は北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。
9番目の写真は吉野ケ里遺跡に復元された建物の写真です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 です。手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。
稲作という大きな生産力のある農業が九州や西日本の人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。もう少し弥生文化の様子を見てみましょう。
以下の全ての図面の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 です。
10番目の写真は環濠の内部へ入る入り口の様子で、敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。
11番目の写真は畑作の様子です。
吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているので当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。
そして縄文時代と弥生時代は地方、地方に武装した豪族が跋扈していたのです。
女王の卑弥呼の邪馬台国(242年~248年)もその一例です。邪馬台国は中国の魏と交易していたので漢字文献に名前が残っていますが正確な場所は不明です。
古墳時代になるとこの地方豪族の経済力と武装勢力が大きくなり巨大な古墳を作るようになったのです。
今日は日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代の人々の生活の様子を具体的の書いてみました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)