後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「写真で見ると分かり易い韓国の文化」

2024年12月01日 | 写真
韓国は隣の国ですが我々は意外にその歴史と文化を知りません。学校で新羅、百済、高句麗の三国の名前だけは習いますが、それ以外のことは一切習った記憶がありません。
そこで今日は韓国の歴史と文化を写真で見てみようと思います。何事も写真で見ると分かり易いものです。
さて朝鮮の歴史は大雑把に言うと高句麗、新羅、百済の三国時代の後に統一した高麗時代が長く続きやがて李朝朝鮮になるのです。
朝鮮のことを英語でコリア、Koreaと言いますが、これは高麗時代から来ているのです。高麗時代は重要な時代ですが、多くの日本人はこの時代のことは知りません。
その上、朝鮮に花咲いた文化についても多くの日本人は知りません。
朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことも多くの日本人は知りません。日本に古事記や日本書紀、万葉集があったように朝鮮にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
朝鮮の歴史の面白い点は島国の日本と違い、中国に陸続きなので絶えず中国王朝の影響を受けて来たことにあります。
その上、中国東北部の渤海族や女真族や漢族がいろいろな時代に朝鮮へ移住して独特の文化を作って来たのです。
後に李氏朝鮮を建国した李成桂は現在の中国の東北部の出身で、この地域の女真族を自身の支持基盤としていたのでた。

1番目の写真は李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真です。

2番目の写真は昌徳宮の全体の写真です。このソウルにある昌徳宮は1395年から李氏朝鮮の正宮として使用されたのです。

3番目の写真は李氏朝鮮の昌徳宮の大門の前の風景です。1397年に漢陽の城郭と四大城門が作られのですが、その大門を復元したのです。

4番目の写真は韓国の世界遺産の南漢山城の写真です。

5番目の写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。
さて韓国の佛教をご紹介いたします。
韓国の佛教の90%は曹渓宗です。日本の曹洞宗のような禅宗ですが日本より戒律が厳しい宗派です。その曹渓宗に朝鮮古来の原始宗教が混淆したのが韓国の佛教です。
韓国の仏教は三国時代(4世紀から7世紀)に中国から入ってきました。仏教は新羅(668年-935年)や高麗(918年-1392年)の時代に最も優勢で文化的影響力を持っていたのです。儒教も同様に中国から初期に伝わりましたが儒教は朝鮮李朝樹立までは仏教の下の立場に置かれていました。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 ) 
次に韓国の卓越した磁器焼成をご紹介します。
柿右衛門が磁器に赤絵の焼き付けに成功したことを学校の教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
それ以前、秀吉の朝鮮出兵まで日本では、磁器の焼成ができず土器を焼いた須恵器という器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。

6番目の写真は李朝初期の白磁壺です。
写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html  です。

7番目は李朝初期の白磁皿です。
最後に韓国の文学作品をご紹介します。
古くから文学作品や歴史書があったのです。日本に古事記や日本書紀、万葉集があったのと同じです。それを省略して後の時代の文学作品を示します。

8番目の写真は韓国の本、「春香伝」の表紙です。韓国人なら誰でも知っている「春香伝」です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/春香伝 です。
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と貴族の両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。文学作品は写真で示すことが出来ないので、「あらすじ」だけを文章で示します。
・・・南原府使の息子の李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘の成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の南原府使としての任期が終わり、李夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。
新たに南原府に赴任した卞府使は、成春香の美貌を聞きつけて我が物としようとすます。
しかし成春香は李夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は成春香を拷問し投獄します。
都に帰った李夢龍は科挙に合格して官吏となり南原に再び行きます。そして成夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し成春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。・・・韓国人なら誰でも知っている話です。
韓国にも高尚な古典文学だけでなく、こんな男女の愛のものがたりもあるのです。それは高尚な万葉集の他に井原西鶴の人情話があるのと同じことです。
一方、韓国の古典文学については、山田 恭子著「文学からの接近:古典文学史の4 時代区分とジャンルを中心に」をご覧ください。(http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf )
この山田 恭子の研究は面白いのですのでお暇の折にご覧下さい。

今日は韓国の文化を分かり易く写真でご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「我々と同じような韓国のお寺と墓地の風景」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国には我々と同じような人間が住んでいます。

父母、祖父母、知人や友人の死を悲しむのは全く同じです。そして亡くなった親しい人はあの世で必ず生きていると信じたいのです。

惜別の悲しみを少しでもやわらげてくれるのが宗教です。そして死者を土葬にしてお墓を大切に守るのです。その心情を思いやれば日韓の間の交流も楽しくなります。より親密になります。

韓国は50%が無宗教で、30%がキリスト教で残り20%が仏教です。韓国の仏教は中国の道教の北斗七星に対する妙見信仰や風水と習合しています。日本の神仏混淆と同じことです。 

日本の宗教風景と非常に違うところはシベリア大陸の原住民のシャーマニズムが現在でも強く残っていることです。それは巫俗という原始宗教です。本質的に一神教的でが、精霊が住む世界の信仰が先史時代にまで遡る韓国人の宗教生活の最古の形でと言われています。こんなところも人間的で親しみを感じます。 日本の恐山にある巫女への信仰と似ています。 

韓国への親近感を持って頂きたいと思い、下に仏教寺院の写真と韓国の墓地の風景写真を示します。尚、韓国には日本のような檀家制度が無かったので墓地はお寺とは離れた景色の良い山際に作ります。墓参を兼ねてピクニックに行くところです。それは沖縄の風習とも似ています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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1番目の写真は韓国の11の世界文化遺産の一つの海印寺です。

写真の出典:http://www.seoulnavi.com/special/5003998

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2番目の写真は韓国の三大祈祷院の普門寺です。写真の出典: http://www.hikorea.jp/tour/tour_view.php?topinfo_tcode=TB1320394145

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3番目の写真は韓国の墓地です。写真の出典http://seoul2.blog97.fc2.com/blog-date-200908.html韓国では生花ではなく造花を捧げるのでいつまでも鮮やかだ。)Dc100520811

4番目の写真も韓国の墓地です。

「韓国人はお祭りやイベントが好き」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国人は祭りやイベントを開催して楽しく暮らしているのです。日本人の祭り好きとよく似ています。

そんな韓国の祭りの様子は政府の文化体育観光部が公表している「韓国のお祭り2014」に数多く紹介してあります。

その中から私の気に入った祭りを5つ選んでご紹介いたします。

http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_5.jsp?cid=977374を開けてみて、あなたのお好きな祭りを選んでみるのも楽しいと思います。

(1)ソバの花が主役の祭り平昌孝石文化祭り

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韓国現代文学の大家、李孝石(イ・ヒョソク)の故郷である平昌(ピョンチャン)郡の蓬坪にある孝石文化村は彼の代表作である「蕎麦の花の咲く頃」の舞台でもあります。この祭りでは、作品に登場する地域を巡るコースや様々な民俗体験イベント、文学・料理イベントを楽しむことができます。また、祭りは白い蕎麦の花が蓬坪一帯を覆う最も美しい時期に開催されるため、見どころいっぱいの祭りといえます。 期間:2014年9月初旬予定
会場:
江原道 平昌郡 蓬坪面の一帯(文化村一帯) 

(2)菊の花が主役の祭りカゴパ菊花祭り

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馬山(マサン)は韓国で初めて菊の栽培を始め、初めて日本に輸出もしました。2000年から開催されたカゴパ菊花祭りのイベント会場では、雄壮なフラワーゲートや5千輪の菊で作った菊の丘、菊のキャラクターのある花の塔など美しい菊が満喫できます。 

期間:2014年10月下旬予定 、会場:慶尚南道 昌原市 馬山第1埠頭の一帯 

(3)漢城百済時代の文化が感じられる祭り漢城百済文化祭

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ソウル特別市松坡(ソンパ)区一帯は2000年前、約500年間漢城百済(ハンソンペクチェ)として都があった場所です。ソウルの歴史が始まったといえるこの地には、風納土城や夢村土城など由緒正しい遺跡があります。燦爛たる花の漢城百済時代の歴史や文化を感じられるお祭りです。 

期間:2014年10月2日(木)~5日(日)、会場:ソウル特別市 松坡区 オリンピック公園一帯、慰礼城大路、風納キョンダン歴史公園など

(4)韓国の民謡、アリランの哀愁を懐かしむ祭り旌善アリラン祭り

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旌善(チョンソン)アリラン祭は、保存と継承の発展のため、自然と人とアリランがひとつになる祭りです。旌善アリランの哀歓をこめたアラリいかだの再現、旌善アリランや拍子を覚えるアリラン体験やカムジャジョン(ジャガイモのチヂミ)やメミルジョン(蕎麦のチヂミ)などの料理体験などがあります。また故郷の香りをいっぱいに感じられる、躍動力あふれる旌善市場(伝統市場)は、祭り期間中は毎日開催され、農産物や食べ物を安価で購入できます。 

期間:2014年10月9日(木)~12日(日)、会場:江原道 旌善郡 公設運動場、朝陽江の一帯 

(5)薬草と韓方薬の祭り智異山(山清)韓方薬草祭り

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智異山(山清)韓方薬草祭りは、健康に関心がある現代人にぴったりのお祭りです。この祭りでは自宅でハーブのように育てて食べられる薬草の鉢植えや薬草を材料にした韓方料理などを展示して、観光客にわかりやすく薬草を伝えています。 

期間:2014年10月2日(木)~9日(木)、会場:慶尚南道 山清郡 山清インター入口の祭り広場および東医宝鑑村の一帯


「私は知らなかった朝鮮の歴史、特に高麗と李氏朝鮮」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は中国の歴史は良く知っていますが隣の韓国の歴史や文化をよく知りません。日本人が学校で習うのは百済、新羅、高句麗の三国だけです。その後の歴史は殆ど習いません。
そこで今日は韓国の歴史について調べたことを書きます。
朝鮮の歴史は中国と同じような王朝の興亡の歴史なのです。それは天皇と幕府の二つの権威が並存する日本の歴史とは非常に違うのです。
百済、新羅、高句麗の三国の後の朝鮮ではいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を奪い、高麗という王朝を建国したのです。
この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗王朝は918年から始まりましたが、この高麗は1259年に モンゴル帝国の元に屈し属国化します。そして元の皇帝の女婿の国になるのです。
高麗は1274年、1281年 の元の2度の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむったのです。しかし1392年まで存続しました。
1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂に滅ぼされ、李氏朝鮮が始まったのです。
一方、現在の北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来たのです。
その日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。秀吉の軍が朝鮮のほぼ全域を占領します。
しかし 李舜臣の活躍で日本軍は撃退されました。
ですから現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。
 
さて朝鮮の歴史を概観すると、百済、新羅、高句麗の三国時代がありました。そしてその後、高麗王朝が出来ました。この高麗は918年から1392年まで続きましたが1259年に モンゴル帝国の元に屈し属国化します。1392年からは李朝朝鮮になるのです。
 
もう一つ韓国の歴史を理解するために重要なことは地方、地方によって歴史が違うことです。現在でも百済、新羅、高句麗のあった地方はそれぞれ異なる文化と政治意識を持っていると聞きます。
 
今日の挿絵は世界遺産の済州島の王宮の2枚の写真と当時の復元した街と仏教のお寺の本堂の写真です。観光客用に作ったものですが、韓国の王宮と仏教の本堂が理解出来て興味深い写真です。写真の出典は、http://mdavinci.exblog.jp/7132453/ です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 
===参考資料===============
(1)朝鮮の歴史の詳細:出典は朝鮮の歴史に関するWikipedea などより。
三国時代(4世紀中葉-676年)南部三韓は、百済・新羅・任那となる。
 
1.高句麗
2.百済
 3.新羅
 
統一新羅(676年-935年)初めての統一政権渤海(698年-926年)高句麗の滅亡後建国した高句麗流民中心の国家後三国時代(892年 - 936年)1、新羅2、後高句麗(894年-918年)→高麗3、後百済(892年-936年)
 
高麗:918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国する。
 
933年 - 後唐の冊封を受ける。
935年、新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、ここに新羅滅亡す。
936年 - 後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
976年 - 田柴科の創設。
1010年 - 契丹の侵入。
1018年 - 契丹の再侵入。
1033年 - 高麗の長城の建設開始。
1126年 - 李資謙の乱。金に服属。
 
1259年 - モンゴル帝国(元)に屈し、属国化。皇帝の女婿の国になる。
1274年、1281年 - 元の2度の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむる。
この頃より倭寇に悩まされるようになる。
1388年 - 親明派の武将李成桂がクーデターを起こし実権者になる。
 
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位し李氏朝鮮が始まる。
 
(2)済州島の概要、 出典は、http://mdavinci.exblog.jp/7132453/ です。
済州島は、韓国の最南端、高知県とほぼ同じ緯度にあり、韓国唯一のミカンの産地である。人工は56万人、面積1,845k㎡(淡路島の約3倍)あり、巨大な火山島である。済州島の特徴を端的に言う言葉に『三多』「三無」がある。三多は「石、風、女」で、三無は「泥棒、乞食、大きな門」である。また、人半分、馬半分と言われるくらい馬が多い。この馬は、元が勢力を伸ばした時代に馬を放牧したことに由来する。古くは、独立国「耽羅(タムナ)」を名乗るなど、島独自の歴史、文化、風俗を有している。また、李氏朝鮮時代は流刑地としても有名である。
現在は、済州特別自治道に指定され、国際的リゾートアイランドを目指し、中文観光団地を中心に観光産業に特に力を入れている。その他、ありのままの自然を大いに生かし、時代劇のロケ地としても脚光を浴びている。「チャングムの誓い」「朱蒙(チュモン)」「太王四神記」などの舞台となっている。
2007年には、『済州の火山島と溶岩洞窟群』が世界自然遺産に登録された。島の中央に聳える漢拏(ハルラ)山(1950m)、城山日出峰、溶岩洞窟がそれである。

「年老いて振り返る我が人生(16)韓国と日本は運命共同体」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と日本はともに民主国家です。共韓国は産党独裁の中国と北朝鮮と軍事的に対抗しています。ですからこの韓国は日本と運命共同体なのです。そんな事情は皆が知っている自明のことです。
ところが韓国と日本は必ずしも友好関係にあるとは言い難いのです。大局的に東アジアの真の平和のためには韓国と日本の完全な友好関係が必要です。
そこで今日は韓国と日本の関係を考えてみたいと思います。
昔から日本は中国や朝鮮の文化を学んで来ました。推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来した恵慈は聖徳太子の師でした。そして恵慈は飛鳥時代の日本仏教界で活躍した朝鮮の人でした。 
時代は飛びますが日清戦争の頃の朝鮮は大韓帝国として近代的な独立国になっていました。
しかし1910年に日本は朝鮮半島を併合して、日本の固有の領土にしたのです。その併合は1945年まで35年間続いたのです。
朝鮮半島併合の前年の1909年には、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根の発射した3発の銃弾によって暗殺されたのです。安重根は現在大韓民国の英雄として記念碑がソウルにあります。
併合後の朝鮮半島では日本語が教えられ、個人の名前も日本風に改名させられたのです。創氏改名です。
そして多数の人々が労働者として半強制的に日本内地へ駆り出されました。彼らは炭鉱やダム建設現場で過酷な労働に従事したのです。
東京の小河内ダムの犠牲者の名前を刻んだ石碑を見ると朝鮮の人の名前がズラリと並んでいます。
そして戦前、戦争中は各地に「朝鮮人飯場」があったものです。私個人はよく朝鮮人飯場に行き、彼等と一緒に遊びました。
現在の在日韓国人はそういう人々の子孫なのです。
なお朝鮮併合に関する歴史は参考資料としてこの記事の末尾につけてあります。
それよりも私自身が韓国で見た観光地の看板について書いてみたいと思います。
1985年ごろ日本の援助で出来た巨大な浦項製鉄所の技術研究所の金鉄祐所長に韓国へ招待されたのです。
あちこちで講演をする旅でした。その旅には、いつも浦項製鉄所の韓さんという心優しい技師が同行してくれました。そして慶州の数多くの古い寺にも案内されたのです。
ところが何処の寺に行っても入口に40cmX50cmくらいの立派な真鍮製の看板が掲げてあり、ハングル文字で何やら書いてあります。
同行した韓さんに聞くと、16世紀に秀吉軍がこの寺を焼き尽くしたと書いてあるそうです。そしてその後の何の時代に誰によって再建されたかと書いてあるそうです。
驚いたことに数多くのどの寺に行っても秀吉軍が焼き尽くしたと書いてあるのです。焼き尽くされた韓国人の恨みの深さが身に迫ります。
「それにしても文化財の数多くの寺を焼くとは秀吉軍が悪い」と私が韓さんへ言いました。
すると韓さんは、「お寺は韓国兵の宿泊所に利用されていたので仕方がなかったのです」と私を慰めてくれたのです。
そうです。日本でも戦乱が起きるとお寺が焼かれるのはこの理由だったのです。
秀吉軍は寺を焼いただけでなく朝鮮から多数の人々も拉致してきたのです。九州の窯業はその人々によって出来上がったのです。
当然、韓国人は秀吉の蛮行を現在でも恨んでいます。そう思うのは自然ではないでしょうか?
蛇足を書いておきます。
私を韓国へ招待してくれた浦項製鉄所、技術研究所の金鉄祐所長はその前には東京大学の鉄鋼製錬を専門にしていた雀部教授の下にいました。
朴政権の前の政権に反対して東京で政治運動をしていたのです。日本の警察が逮捕して拘留します。
雀部教授には私も大変お世話になったので、金鉄祐さんの釈放運動に私も少しだけ協力したことがありました。
韓国の政権が代わり、朴政権になったお蔭で、金さんは釈放され、やがて浦項製鉄所、技術研究所の所長として韓国へ招び戻されたのです。
釈放運動に協力したことを恩義に思って、私を韓国へ鄭重に招待してくれたのだと思います。韓国人個人はこのように恩義に篤い人なのだと信じています。
 
日韓の両国民は過去の感情問題を克服して日韓友好を確立すべきです。それが東アジアの真の平和をもたらすのです。平和こそ尊いのです。
 
それはさておき今日の挿絵代わりの写真は韓国の釜山とソウルの風景写真です。写真の出典は、https://snapmart.jp/photos/4395135 と https://seoul-heyanavi.com/blog/11543 です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料===============
韓国併合(かんこくへいごう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
1910年(明治43年)、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記されている。1910年に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。