後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「縄文時代の丸木舟を現在も使用している諏訪湖の文化」

2024年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事の題目は正確ではありません。正しくは、「縄文時代の丸木舟の形の舟を現在も使用している諏訪湖地方独特な地方文化」です。表題として長すぎるので短縮いたしました。
1964年、諏訪湖へ行ったとき六斗川の湖へ出る河口に丸木舟の形をした漁船がびっしり並んでいたのです。何か異様なものを見てしまったような、不思議な感情に打たれましたた。
一本丸木を刳り抜いたものではありませんが、完全に木造で竿と櫂で動かすらしい。
それから44年の2008年に、まだ有るだろうかと探して見ました。
そうしたら彼方此方の舟溜まりに2、3艘ずつ舫ってあります。
同じ形の木造の船体の上にプラスチックが厚くコーテイングされていて、船尾には5馬力の船外機が付いています。その時撮った写真を示します。
1番目の写真は2008年に撮った諏訪湖の丸木舟の形をしたワカサギ漁の漁船です。
縄文・弥生時代から古墳時代の丸木舟が全国で出土しています。その形を継承して諏訪湖では現在でも実用しているのです。
2番目の写真は2014年の写真です。
写真の出典は、http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1490.html?sp です。
その記事の抜粋です。
・・・・長さ7~8mあるでしょうか、どこか、丸木舟を思わせるスタイルです。諏訪湖独特の船型でしょうか。
帰宅後に検索すると、諏訪法人会の「泥舟と漁法」と「豊田アホウ丸大会」がヒット。なるほど、地元では「泥舟」と呼ばれていて、またご当地の偉人・伊藤五六郎の業績を讃えて、毎年記念レースも行われていることがわかりました。・・・・
3番目の写真は2番目の写真の舟と同じような形の舟でワカサギ漁をしている光景です。写真の出典は、2番目の写真と同じです。
この形の舟は現在でも漁船として使用されているのです。
諏訪地方の人々はこの形の舟を貴重なローカル文化として保存するために毎年のように「泥舟レース」を開催しています。
4番目の写真は2017年の第20回「泥舟レース」の写真です。
写真の出典は、https://www.shimin.co.jp/2017/07/諏訪湖で泥舟レース%E3%80%80豊田アホウ丸大会盛り上が/ です。
第20回「豊田アホウ丸大会」(豊田アホウ丸会など主催)は、諏訪市豊田有賀石舟渡の新川河口で開かれました。
 大会は、江戸時代末期に諏訪湖の治水に尽力した、旧有賀村出身の伊藤五六郎の功績を後世に伝え、青少年の健全育成を図る目的です。 大会名は、伊藤五六郎が私財を投げ打って造った大型の泥舟「アホウ丸」が由来です。
5番目の写真が千葉県で出た縄文時代の丸木舟の写真です。全体の形がほぼ完全に残っていたので丸木舟の製法まで分かったのです。

さて諏訪湖に縄文時代の丸木舟の形が継承された理由は次の通りと考えられます。
(1)周囲の山々には巨木が多く丸木舟を作る太い丸木が容易に手に入ったのです。
(2)諏訪湖は波静かで丸木舟でも安全に漁が出来たためと考えられます。細長い舟なので、ふなあしも早く使い易かったのです。

一方、縄文時代の信仰の対象は垂直に立てた高い柱でした。
現在、その信仰は御柱祭りとして毎年開催されています。
諏訪大社にはその御柱が立っています。
ちなみに諏訪大社は出雲大社から分祀された日本最古の神社の一つです。
そして諏訪地方は戦国時代になるまでは諏訪大社の神官が治めていたのです。
こんな諏訪地方の歴史も縄文時代の丸木舟の形が継承された理由と関係があるかも知れません。
考えてみると日本各地のローカル文化は奥が深く興味がつきませんね。


 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘


「日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代の人々の生活の実態」

2024年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の人々の生活ぶりに私は強い興味があります。昔のことを知ると現在の豊かさがしみじみ分かります。幸福感につつまれます。
そこで今日は日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代の人々の生活を書いてみたいと思います。
日本に人間が住み着き始めたのは何時の頃からでしょうか?
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からです。
それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。
そうして時代区分は以下のようなものが一般的です。

旧石器時代;  約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代;   前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代;   前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代;   3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代;   592年 – 710年
奈良時代;    710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間も続いていたことになります。
その後の歴史はたかだか2000年しかありません。旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。
そして弥生時代はたったの600年間だったのです。
ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い、旧石器時代の人々の生活の実態が少し分かりました。
そこで以下にその概略を示します。相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡が発見されたのです。
この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見というのでしょうか?戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の群馬県みどり市の岩宿遺跡の発見で、数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成になってから事情が急変したのです。各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧石器時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。

1番目の写真は2万年前の石器時代の住居跡を復元したものfです。
この写真では、平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡を明示しています。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

2番目の写真は旧跡時代の住居跡の上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。

3番目の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。
旧石器時代には大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方の庶民に限って考えれば、ほとんど変わらなかったというのが真実に近いと私は想像しています。農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと私個人は想像しています。学校で教える歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝えますが、一般の人々は変わら原始的な生活をしていたのです。
さてこのような縄文時代の人々の生活の実態はどうだったのでしょうっか?玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが優れていました。(そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.html です。)
以下に内陸部の八ヶ岳山麓の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

4番目の写真は縄文人達が集団で土器を多量生産している様子です。
八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。土器の生産を仕事にしていた人々が写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのです。

5番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。
漆塗りは全国の縄文遺跡から出土します。漆の成分が付着した生活用具が出てくるのです。八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

6番目の写真は秋の終わりごろ冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭のようです。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。
それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。しかし海や川の漁業も山の狩猟も厳しい作業でした。深い森に分け入って木の実や食用植物を採集することは危険な仕事でした。
次に弥生時代の社会と文化をご紹介したいと思います。弥生時代の代表的な遺跡として有名なものは佐賀県の「吉野ケ里遺跡」です。この遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で数多くの建物は堀や柵で囲まれ独立した小王国のような構造になっています。

7番目の写真はまつりごとの行われていた北内郭で出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 です。

8番目の写真は北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。

9番目の写真は吉野ケ里遺跡に復元された建物の写真です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 です。手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。
稲作という大きな生産力のある農業が九州や西日本の人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。もう少し弥生文化の様子を見てみましょう。
以下の全ての図面の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野ヶ里遺跡 です。

10番目の写真は環濠の内部へ入る入り口の様子で、敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。

11番目の写真は畑作の様子です。
吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているので当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。
そして縄文時代と弥生時代は地方、地方に武装した豪族が跋扈していたのです。
女王の卑弥呼の邪馬台国(242年~248年)もその一例です。邪馬台国は中国の魏と交易していたので漢字文献に名前が残っていますが正確な場所は不明です。
古墳時代になるとこの地方豪族の経済力と武装勢力が大きくなり巨大な古墳を作るようになったのです。

今日は日本の旧石器時代、縄文時代、弥生時代の人々の生活の様子を具体的の書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 


「青森県にあった縄文時代の驚異的な生活の実態と社会組織」

2024年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
青森県と北海道の南部に実に面白い縄文時代の遺跡があります。三内丸山遺跡です。
今日は写真を主にして縄文時代の驚異的な社会組織と文化の発達をご紹介します。三内丸山遺跡をご紹介致します。
まず縄文時代の村落の中心にあった大型の建物の写真をご覧下さい。
1番目の写真は200人以上の人が集会を開くことが出来る大きな広間のある建物です。三内丸山遺跡に復元してあります。
青森県で、縄文時代前期中頃から中期末葉まで存在した大規模集村落跡を復元したものです。
2番目の写真はこの大型の建物の内部の写真です。中に3人の現代人が立っていますので、建物の大きいことが良く分かります。
この縄文時代の大規模集村落は復元されいて誰でも見ることが出来ます。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/三内丸山遺跡 をご覧下さい。
3番目の写真はこの三内丸山遺跡を復元した村落の全体の様子です。遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。
この写真の左にはこの村落の守り神の6本の大きな柱のある祭祀用の掘立柱構造物が写っています。
写真の中央には大規模集会所があり、その上には3棟の高床式の穀類貯蔵庫があり、栽培していた粟や植栽していたクルミやクリを貯蔵していました。
これら3棟の高床式の穀類貯蔵庫の後ろには家臣の大きな竪穴式の家と小さな家が並んでいて身分の上下があったことを示しています。
個人の家の跡は全部で、約780軒にもおよぶ住居跡が確認されています。
そしてこの村落には最大500人位が住んでいたと推定されています。
村長は武装した兵士をかかえた豪族と考えれています。
当時は食料難に陥った他の村落が襲撃して来るのを防ぐため石器の武器や棍棒で武装し、村落の周囲には環状の堀があるのが普通でした。
強大な村落に周囲の弱小村落が服従して現在の県の中の郡くらいの地域を支配する豪族も存在したと考えらえれます。
豪族は世襲制でしょうが、村落の社会組織はかなり高度に出来ていたと想像されます。
それは村落には住居区域、墓地、捨て場、宗教用の大型柱建物、貯蔵穴、土坑墓地、粘土採掘穴、盛り土、道路などが計画的に配置されていることから容易に想像出来ます。

その上、縄文人は粟やエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどを栽培していたのです。残念ながら生産性抜群の水稲だけは栽培していなかったのです。
三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しておりました。
これらは縄文時代の社会と文化が従来考えられていたものよりも格段に進んだものであることを示しています。

その頃の縄文人の暮らしぶりを示す写真を数枚お送りします。
(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)
4番目の写真は男女の縄文人の服装を示しています。
柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。
勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。
5番目の写真は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。
山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。原始的な農業用の道具です。
6番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。
7番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。
その他の出土品は、http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.html に出ています。
8番目の写真は青森県全域で発見された縄文遺跡です。この時代は北海道南部でも縄文文化が栄えた時代で青森県と全く同じ土器などが多数出土しています。

こんなに発達した縄文時代もやがて後期の急速な寒冷化に遭遇したのです。その様子は厳密な学術調査の結果の、http://scienceportal.jp/news/daily/1001/1001041.html 説明してあります。

それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)