後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「深まり行く晩秋の紅葉風景」

2021年11月21日 | 写真
もう冬がそこまで来ています。今日の東京は暗い冬日のようです。寒いです。
晩秋の紅葉風景の写真をお送りいたします。出典は、https://tabizine.jp/2019/11/13/296828/ です。

1番目の写真は秋田県の角館武家屋敷です。シックな黒塀の町にカエデやイチョウの赤や黄色が美しく映えます。

2番目の写真は千葉県の南房総市の「小松寺」です。「もみじの寺」としても知られ境内のモミジ、カエデ、イチョウが鮮やかに紅葉します。

3番目の写真は広島県の筒賀神社の大銀杏の黄葉です。高さ48メートルの大銀杏は県の天然記念物指定されています。推定樹齢1,100年を超す巨大な銀杏が黄金色の葉を降り注ぐさまは感動する絶景です。

4番目の写真は岐阜県の茅葺屋根の合掌造りの白川郷です。ユネスコ世界遺産に登録されています。心に描くふる里を紅葉が彩る様子は懐かしくホッとする風景です。

「今日の『王であるキリスト ミサ(堅信式) 』動画配信」

2021年11月21日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、
 年間第34主日ミサ 、
https://www.youtube.com/watch?v=uC9HJy49H0w
11月21日10:00 司式 タルチシオ菊地功大司教様S.V.D
世界青年の日
ミャンマーデー

入祭の歌 典147 天は神の栄光を語り
あわれみ・栄光の賛歌 222・223
答唱 典39①②③ 神のいつくしみを
アレルヤ唱 典266 王であるキリスト   
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(1)
奉納の歌 典120 主はわれらのささえ
感謝・平和の賛歌 224・225
拝領  カ典506 やさしい目が
閉祭の歌 典346 勝利と力は神のもの


聖イグナチオ教会 、11月21日10:00時

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
ダニエルの預言 (ダニエル 7:13-14) 
第2朗読
ヨハネの黙示(黙示録 1:5-8)
福音朗読
ヨハネによる福音 (ヨハネ 18:33b-37)


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

挿し絵はオナルド・ダヴィンチによる宗教画「岩窟の聖母」です。 



「愛という言葉は西洋のもの、日本では使われていなかった!」

2021年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
愛という言葉は西洋のもので、明治維新の前には日本ではほとんど使われていなかったのです。日本へキリスト教が大々的に入って来た時に一緒に入って来た新しい言葉なのです。万葉集にも源氏物語にも愛という言葉は出て来ません。
今日は愛という言葉は西洋のものでキリスト教が大々的に入って来た時に一緒に入って来た事情を書いてみます。
さて日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国なのです。
しかしその日本は明治維新以来、西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、近所で撮った黄葉の樹々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)