後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「隠岐の島に咲く花々」

2022年12月29日 | 写真
隠岐の島に咲く花々の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.e-oki.net/feature/detail.php?spid=168 です。

1番目の写真はオオイワカガミです。
隠岐の島町の久見川沿いに生息しています。隠岐では海抜0mの海岸周辺の岩場でも生息しています。
淡紅色~紅紫色の花が6~15個つき、花びらの先端は細かくわかれています。

2番目の写真はオキシャクナゲです。
隠岐の島町で見られる隠岐の固有種です。
本土のシャクナゲは深山の尾根や岩場で見られますが、隠岐では平地にも生育しています。
毎年ゴールデンウィークには、村上家隠岐しゃくなげ園で「しゃくなげ祭」が開催されます。

3番目の写真はオキタンポポです。
隠岐の固有種です。和タンポポの一種で、隠岐全域で見られます。
セイヨウタンポポの侵入により、オキタンポポの生息が脅かされており、隠岐全域でオキタンポポの分布調査と、セイヨウタンポポの駆除活動が行われています。

4番目の写真はヤブツバキです。
日本の固有種で、隠岐全域で見られる照葉樹の代表木です。
枝先に直径5~7cm程の赤色(まれに淡紅色や白色)の花をつけ、隠岐では花と葉の形が地域によって微妙に異なります。

「日本の歴史(2)美しい隠岐と島流しになった天皇」

2022年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
1221年の承久の乱は日本が天皇支配から武家政権支配へと変わった日本歴史の大事件でした。
その結果、当時の天皇が隠岐の島へ流されました。天皇が島流しになるのは日本の歴史では空前絶後です。
今日は美しい隠岐の島の風景写真を示します。その後で何故、後鳥羽上皇が島流しになったのか簡単に説明したいと思います。
それではまず風景写真を示します。
写真の出典は、https://www.pref.shimane.lg.jp/tourism/tourist/kankou/oki_shoukai/oki-geopark/ です。

1番目の写真は日本一の海蝕崖である高さ257mの摩天崖から見た国賀海岸の風景です。放牧されている牛や馬はかつての牧畑の名残りです。

2番目の写真は海岸浸食と地すべりによってできた天然の橋です。奇岩風景だけでなく、幾度となく繰り返された噴火の跡が地層の模様で楽しめます。

3番目の写真は海上に伸びた高さ約20mの島。波の浸食によって作り出されたローソク型の島の上に夕日が重なる瞬間です。

4番目の写真は西ノ島に伝わる田楽です。離島だからこそ残された文化の一つです。中国地方では唯一の田楽として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
写真が示すように隠岐の島は美しいところです。有名な観光地です。この島に後鳥羽上皇が流されたのです。承久の乱の結果でした。そして後鳥羽上皇は1239年(延応元年)に隠岐の島で没したのです。
その承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱でした。日本初の武家政権の鎌倉幕府を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いでした。
資料の、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
から敗れた天皇側の運命を記します。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流される。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流されたのです。
仲恭天皇は廃され、後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の子が後堀河天皇として即位します。
そして親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、鎌倉幕府の意向を受けて朝廷を主導することになったのです。
後鳥羽上皇の下にあった膨大な荘園群は没収され、新たに後堀河天皇の院政を執ることになった行助入道親王(後高倉院)に与えられます。ただしその支配権は幕府が握っていたのです。

討幕計画に参加した上皇方の一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となります。
また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、加藤光員ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放されます。
乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行います。朝廷は新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化されたのです。
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられたのです。

このように承久の乱は日本の歴史上の大事件でした。大改革でした。その割にはあまり注目されないのは何故でしょう。承久の乱は武家が天皇側を倒したのです。天皇側にとって不名誉な事件でした。忘れたい悲劇でした。明治維新で天皇の権力が大きくなると日本史の学校教育では承久の乱はなるべく教えないようになったのです。多くの日本人は承久の乱を無視し忘れています。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)