後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の歴史(4)武田信玄の隆盛と武田家の滅亡」

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県に私は小さな山小屋を持っています。50年以上通いました。山梨県に行ってみると人々は武田信玄を自慢します。武田信玄こそ甲州の英雄なのです。合戦で徳川家康を恐怖の境地に追いやりました。上杉謙信と川中島で激しい合戦を数回しました。領土を広げ、治山治水に務めました。

今日は日本の歴史(4)として武田信玄の隆盛と武田家の滅亡について書きたいと思います。
信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。
晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。
武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。
信玄は1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。
徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。
天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。これが武田家の滅亡になりました。
武田家450年の歴史の終焉でした。勝頼は享年37歳でした。そのお墓を訪ねると天目山の麓の景徳院という山寺にありました。侘びしい粗末な墓石です。悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。
景徳院は後に徳川家康により菩提寺として建てられたお寺です。

以下では武田信玄の館のあった 場所に建てられた武田神社の紅葉の写真をお送り致します。甲府市の中央にある武田神社の紅葉です。武田信玄の館はお堀で囲まれていたので武田神社も当時のお堀で囲まれています。

1番目の写真は本殿前の紅葉の風景です。写真は全て家内が撮りました。

2番目の写真は武田神社の拝殿です。武田信玄は山梨県の誇りです。武田家は代々、甲斐の国の守護でした。その生地の韮崎にも武田神社があり、そちらも立派な神社です。

3番目の写真は武田神社への入り口にある朱塗りの橋と堀です。

4番目の写真は武田神社を囲む堀の写真です。この神社は信玄の館の跡に作ったのでお城のように掘に囲まれています。

5番目の写真は武田神社を正面から見上げた写真です。

さて信玄が長野の善光寺の本尊や寺宝や全ての僧侶を甲府に連れ帰ったエピソードを書いておきます。いかにも信玄らしい無法ぶりです。
善光寺は元来、飯田市にありました。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、作った寺が現在の飯田善光寺なのです。それを皇極天皇元年(642年)に勅命により長野に移されたのです。
その善光寺如来を信玄は甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作ったのです。
私は飯田善光寺も長野善光寺も甲斐善光寺もすべて参拝しました。3つとも大変規模が大きくて格段に立派な本堂を有しています。
天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を信州から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで長野善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が信濃へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は長野の善光寺に戻ったのです。
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も長野善光寺の一光三尊(善光寺如来)に執着してそれを自分の都合で動かしたのです。
以上は戦国武将の宗教心の一端を示しています。お釈迦様よりも一光三尊(善光寺如来)を大切にします。仏像信心なのです。私も薬師如来や月光菩薩などなどしい仏像が好きです。

話がそれました。武田信玄の隆盛と武田家の滅亡の話からそれました。お許しください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「世界で最も美しいと言われる花々」

2022年12月30日 | 写真
マレーシアのクアラルンプール在住のAhmad Fuad Ahmadさんのブログからお借りした写真です。

ブログは「世界で最も美しい10の花」、http://afkra.blogspot.com/2013/05/the-10-most-beautiful-flowers-in-world.html です。
美しい花の写真をお楽しみ下さい。

「日本の歴史(3)魏志倭人伝と邪馬台国の女王、卑弥呼」

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の3世紀は「古墳時代」の始めの頃です。その頃日本には邪馬台国があり女王の卑弥呼が治めていました。中国の3世紀の「魏志倭人伝」にこの邪馬台国と卑弥呼のことが具体的に書かれています。当時の日本には文字が存在していないので「魏志倭人伝」は實に貴重な記録です。
今日は「魏志倭人伝」と卑弥呼と邪馬台国のことをご紹介したいと思います。読み易く箇条書きにしました。

(1)魏志倭人伝とは?

魏志倭人伝は中国の歴史書『三国志』中の第30巻です。第30巻の倭人条の略称です。当時、日本列島にいた民族の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている中国の歴史書です。その歴史書は『三国志』と呼ばれています。西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれました。陳寿の死後、中国では正史として重んじられた歴史書です。
詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D#:~:text=%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%EF%BC%88%E3%81%8E,%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 をご覧下さい。

(2)卑弥呼はどんな女王だったか?

魏志倭人伝には日本と卑弥呼について以下のように書いてあります。
邪馬台国では元々は男子を王として70 - 80年を経たのです。たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が続いたのです。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王にすることによってようやく混乱が鎮まったのです。この女王はが卑弥呼です。
卑弥呼は鬼道に仕え衆を指導します。占いと政治が一体だったのです。卑弥呼は年をとっていて独身でした。そして弟が国政を補佐していました。女王となってからは人と会うことは少なくなります。1000人の従者が仕えていましたが、居所である宮室にはただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをしました。館には城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していました。

1番目の写真は卑弥呼の再現像(大阪府立弥生文化博物館)です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%AF%94%E5%AE%9A です。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられます。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、中国から張政が派遣されて紛争が止まります。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していたと書かれています。
卑弥呼の生年は不明ですが正始8年(247年)頃に亡くなりました。卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬されました。その後再び卑弥呼の一族の女性である13歳の壹與が女王になったのです。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%AF%94%E5%AE%9A をご覧下さい。

(3)邪馬台国の場所


邪馬台国は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。邪馬台国は倭の女王の卑弥呼の女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされています。
邪馬台国の場所は大和説や九州説などがあり明確になっていません。しかし私は九州にあったと思います。大和説は現在の日本の天皇制につながるので天皇を重視する人々が支持します。しかし当時は天皇制が無かったのですから大和説は疑問です。

4)邪馬台国の風俗

邪馬台国の風俗は以下のように書かれています。
1、男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
2,その風俗は淫らではない。
3,男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
4,着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
5,稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
6,牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
7,兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
8,土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
9,家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
10,人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
11,倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
12,真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
13,特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
14,集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
15,敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
16,長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
17,身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
18,女は慎み深く嫉妬しない。
19,盗みは無く、訴訟も少ない。
20,法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
21,宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

なお邪馬台国の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD をご覧下さい。

今日は「魏志倭人伝」と卑弥呼と邪馬台国のことをご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)