山梨県に私は小さな山小屋を持っています。50年以上通いました。山梨県に行ってみると人々は武田信玄を自慢します。武田信玄こそ甲州の英雄なのです。合戦で徳川家康を恐怖の境地に追いやりました。上杉謙信と川中島で激しい合戦を数回しました。領土を広げ、治山治水に務めました。
今日は日本の歴史(4)として武田信玄の隆盛と武田家の滅亡について書きたいと思います。
信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。
晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。
武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。
信玄は1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。
徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。
天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。これが武田家の滅亡になりました。
武田家450年の歴史の終焉でした。勝頼は享年37歳でした。そのお墓を訪ねると天目山の麓の景徳院という山寺にありました。侘びしい粗末な墓石です。悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。
景徳院は後に徳川家康により菩提寺として建てられたお寺です。
以下では武田信玄の館のあった 場所に建てられた武田神社の紅葉の写真をお送り致します。甲府市の中央にある武田神社の紅葉です。武田信玄の館はお堀で囲まれていたので武田神社も当時のお堀で囲まれています。
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1番目の写真は本殿前の紅葉の風景です。写真は全て家内が撮りました。
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2番目の写真は武田神社の拝殿です。武田信玄は山梨県の誇りです。武田家は代々、甲斐の国の守護でした。その生地の韮崎にも武田神社があり、そちらも立派な神社です。
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3番目の写真は武田神社への入り口にある朱塗りの橋と堀です。
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4番目の写真は武田神社を囲む堀の写真です。この神社は信玄の館の跡に作ったのでお城のように掘に囲まれています。
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5番目の写真は武田神社を正面から見上げた写真です。
さて信玄が長野の善光寺の本尊や寺宝や全ての僧侶を甲府に連れ帰ったエピソードを書いておきます。いかにも信玄らしい無法ぶりです。
善光寺は元来、飯田市にありました。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、作った寺が現在の飯田善光寺なのです。それを皇極天皇元年(642年)に勅命により長野に移されたのです。
その善光寺如来を信玄は甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作ったのです。
私は飯田善光寺も長野善光寺も甲斐善光寺もすべて参拝しました。3つとも大変規模が大きくて格段に立派な本堂を有しています。
天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を信州から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで長野善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が信濃へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は長野の善光寺に戻ったのです。
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も長野善光寺の一光三尊(善光寺如来)に執着してそれを自分の都合で動かしたのです。
以上は戦国武将の宗教心の一端を示しています。お釈迦様よりも一光三尊(善光寺如来)を大切にします。仏像信心なのです。私も薬師如来や月光菩薩などなどしい仏像が好きです。
話がそれました。武田信玄の隆盛と武田家の滅亡の話からそれました。お許しください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日は日本の歴史(4)として武田信玄の隆盛と武田家の滅亡について書きたいと思います。
信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。
晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。
武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。
信玄は1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。
徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。
天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。これが武田家の滅亡になりました。
武田家450年の歴史の終焉でした。勝頼は享年37歳でした。そのお墓を訪ねると天目山の麓の景徳院という山寺にありました。侘びしい粗末な墓石です。悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。
景徳院は後に徳川家康により菩提寺として建てられたお寺です。
以下では武田信玄の館のあった 場所に建てられた武田神社の紅葉の写真をお送り致します。甲府市の中央にある武田神社の紅葉です。武田信玄の館はお堀で囲まれていたので武田神社も当時のお堀で囲まれています。
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1番目の写真は本殿前の紅葉の風景です。写真は全て家内が撮りました。
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2番目の写真は武田神社の拝殿です。武田信玄は山梨県の誇りです。武田家は代々、甲斐の国の守護でした。その生地の韮崎にも武田神社があり、そちらも立派な神社です。
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3番目の写真は武田神社への入り口にある朱塗りの橋と堀です。
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4番目の写真は武田神社を囲む堀の写真です。この神社は信玄の館の跡に作ったのでお城のように掘に囲まれています。
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5番目の写真は武田神社を正面から見上げた写真です。
さて信玄が長野の善光寺の本尊や寺宝や全ての僧侶を甲府に連れ帰ったエピソードを書いておきます。いかにも信玄らしい無法ぶりです。
善光寺は元来、飯田市にありました。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、作った寺が現在の飯田善光寺なのです。それを皇極天皇元年(642年)に勅命により長野に移されたのです。
その善光寺如来を信玄は甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作ったのです。
私は飯田善光寺も長野善光寺も甲斐善光寺もすべて参拝しました。3つとも大変規模が大きくて格段に立派な本堂を有しています。
天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を信州から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで長野善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が信濃へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は長野の善光寺に戻ったのです。
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も長野善光寺の一光三尊(善光寺如来)に執着してそれを自分の都合で動かしたのです。
以上は戦国武将の宗教心の一端を示しています。お釈迦様よりも一光三尊(善光寺如来)を大切にします。仏像信心なのです。私も薬師如来や月光菩薩などなどしい仏像が好きです。
話がそれました。武田信玄の隆盛と武田家の滅亡の話からそれました。お許しください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)