宗教を信じればすべてのことが理解出来ますと私は時々書きます。この表現は単なるレトリックで、正確に書けば、「宗教を信じれば科学では理解出来ない世界があることが理解できます」と書くべきです。
今日は日曜日なので少しだけ宗教のことを書きたいと思います。「科学と宗教の違いを簡単に言えば、」という題目なので、短く、簡単に書きます。
そこで早速ですが、禅宗とは何かという事から説明します。
簡単です。お釈迦様が悟りを開いたのは菩提樹の下で座禅をしていた時ということになっています。ですから座禅をすればお釈迦さまの教えが理解出来る。こういう考え方が中心になっているのが禅宗です。座禅という修行だけでなく全ての作務の労働が修行になります。
禅宗は判りやすいので中国や朝鮮半島や日本に広がり数多くの禅宗系の宗派のお寺があります。
その禅宗の言葉に「不立文字」という言葉があります。
文字とは経典の言葉のことです。「不立文字」とは経典だけをいくら読んでも経典の意味が実感できないという意味です。読んだだけでは信じる事ができないというのです。すなわち宗教は言葉では説明がつかないのです。いくら精密な理論を用いても宗教の本質は掴めないのです。これは禅宗に限らずいろいろな宗教に言えることです。
座禅の体験を繰り返しているとある時、目からうろこが落ちるように経典の内容が理解出来るのです。そして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静などという言葉の意味が氷が解けるように簡単に理解出来るのです。
以前、この「不立文字」という言葉を知ったとき、私は思わず、「そうだ!」と叫びました。キリスト教において聖書を何度も、何度も精読しても信者にはなれません。
例えば、カトリックの信仰においては、教会でのミサが一番大切にされています。それは宗教的訓練を重要視しているからです。
そのミサの中でイエス様が最後の晩餐でパンを裂き、弟子たちに与えた行為を再現するのです。そして信者の一人一人が神父さまから小さなパンを貰うのです。
これを毎週繰り返していると聖書の文章が活き活きと理解出来るのです。これは禅宗でいうところの修行に相当します。
勿論、これを洗脳という人がいるかもしれません。しかし一旦信じてしまうと他人の非難があまり重要でなくなります。神の考えの方を重視するようになるのです。
宗教を信じるためにはいくら本を読んでも駄目です。座禅とかミサに参加するとか巡礼をするとか体を動かさないと駄目なのです。それを宗教的訓練と言います。それは仏教の座禅や滝行や回峰行などいろいろな修行に相当します。
宗教は理屈でなく直観で判る分野なのです。
科学では、仮説の理論を組み立て、実験で証明出来る自然現象が研究の対象です。宗教は実験で再現不可能な人間の心の問題を対象にしています。
今日の結論です。科学と宗教の違いを簡単に言えば、理論で説明が出来るのが科学であり、説明出来ないのが宗教なのです。
この世には宗教を信じている人と信じていない人が厳然として存在しています。
此の世で一番重要なことは、宗教を信じている人と信じていない人がお互いに尊敬しあうことです。
無宗教の人は信者をさげすんだり、バカよばわりはしていけません。と同時に信者は無宗教の人を差別したり、お付き合いを拒んだりしていまいけません。これこそが真の平和を実現する鉄則なのです。
両者ともこの小さな青い水の惑星の住人なのですから。
今日の挿絵代わりの写真は先週、北八ヶ岳の八千穂高原で撮った日本一の白樺群生地の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
今日は日曜日なので少しだけ宗教のことを書きたいと思います。「科学と宗教の違いを簡単に言えば、」という題目なので、短く、簡単に書きます。
そこで早速ですが、禅宗とは何かという事から説明します。
簡単です。お釈迦様が悟りを開いたのは菩提樹の下で座禅をしていた時ということになっています。ですから座禅をすればお釈迦さまの教えが理解出来る。こういう考え方が中心になっているのが禅宗です。座禅という修行だけでなく全ての作務の労働が修行になります。
禅宗は判りやすいので中国や朝鮮半島や日本に広がり数多くの禅宗系の宗派のお寺があります。
その禅宗の言葉に「不立文字」という言葉があります。
文字とは経典の言葉のことです。「不立文字」とは経典だけをいくら読んでも経典の意味が実感できないという意味です。読んだだけでは信じる事ができないというのです。すなわち宗教は言葉では説明がつかないのです。いくら精密な理論を用いても宗教の本質は掴めないのです。これは禅宗に限らずいろいろな宗教に言えることです。
座禅の体験を繰り返しているとある時、目からうろこが落ちるように経典の内容が理解出来るのです。そして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静などという言葉の意味が氷が解けるように簡単に理解出来るのです。
以前、この「不立文字」という言葉を知ったとき、私は思わず、「そうだ!」と叫びました。キリスト教において聖書を何度も、何度も精読しても信者にはなれません。
例えば、カトリックの信仰においては、教会でのミサが一番大切にされています。それは宗教的訓練を重要視しているからです。
そのミサの中でイエス様が最後の晩餐でパンを裂き、弟子たちに与えた行為を再現するのです。そして信者の一人一人が神父さまから小さなパンを貰うのです。
これを毎週繰り返していると聖書の文章が活き活きと理解出来るのです。これは禅宗でいうところの修行に相当します。
勿論、これを洗脳という人がいるかもしれません。しかし一旦信じてしまうと他人の非難があまり重要でなくなります。神の考えの方を重視するようになるのです。
宗教を信じるためにはいくら本を読んでも駄目です。座禅とかミサに参加するとか巡礼をするとか体を動かさないと駄目なのです。それを宗教的訓練と言います。それは仏教の座禅や滝行や回峰行などいろいろな修行に相当します。
宗教は理屈でなく直観で判る分野なのです。
科学では、仮説の理論を組み立て、実験で証明出来る自然現象が研究の対象です。宗教は実験で再現不可能な人間の心の問題を対象にしています。
今日の結論です。科学と宗教の違いを簡単に言えば、理論で説明が出来るのが科学であり、説明出来ないのが宗教なのです。
この世には宗教を信じている人と信じていない人が厳然として存在しています。
此の世で一番重要なことは、宗教を信じている人と信じていない人がお互いに尊敬しあうことです。
無宗教の人は信者をさげすんだり、バカよばわりはしていけません。と同時に信者は無宗教の人を差別したり、お付き合いを拒んだりしていまいけません。これこそが真の平和を実現する鉄則なのです。
両者ともこの小さな青い水の惑星の住人なのですから。
今日の挿絵代わりの写真は先週、北八ヶ岳の八千穂高原で撮った日本一の白樺群生地の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)