皆様、明日は太平洋戦争の終戦記念日です。
日本の300万人におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジア地域での中国人、フィリピン人などアジア人と米英豪などの総数、2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。みんな日本軍の犠牲になったのです。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。世界第二次大戦は人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々72年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
今日は日本軍だけにあった組織的な特攻隊が何故実行され、6000人余の戦死者を出したか考えてみたいと思います。
その内訳は、海軍、4,156名 、陸軍、1,689名 という数が報告されています。(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1018978050)
このような自分の命を捨て敵を攻撃する組織的な戦闘行為は欧米諸国には存在していません。現在のイスラム過激派の自爆テロ以外、世界には例の無い、日本独特の自己犠牲による戦闘行為でした。
私は毎年、8月15日が近づくと、「何故、日本だけに特攻隊があったのか?」と考え込みます。
とても難しい問題ですが、それには2つの要因が深く関連していると考えています。
江戸時代に出来た「武士道」と明治維新後の天皇を中心にした富国強兵策が合体して出来た考え方が特攻隊という組織を生んだのだと考えています。
明治憲法では軍隊の統帥権は天皇にあり、全ての軍人は天皇へ忠誠を誓わなければなかったのです。
それは明治維新以後の日本文化の一部でした。
この文化的背景のもとにアメリカ軍に圧倒された日本軍は武士道の精神で天皇陛下のために死ぬ特攻隊を組織化したのです。
現在の日本人には考えられないでしょうが、日本兵が戦死する場合は必ず「天皇陛下、万歳!」と叫ぶように教育されていたのです。
いわゆる忠君愛国の教育です。
武士道は主君に対する倫理的な忠誠が一番重要とする思想です。そして江戸時代の中頃に、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって書かれました。
この一節が「武士道とは死ぬことを恐れない」という意味で戦争中にもてはやされたのです。
ですから第二次大戦のあった昭和時代には、すべての日本兵は昭和天皇の赤子(せきし)として、昭和天皇に忠誠を誓い、天皇のために死ななければならなかったのです。
それが日本の文化だったのです。
全ての戦死兵は天皇に命を捧げたのです。
そして絶対に生還出来ない条件で敵を攻撃したのが特攻隊だったのです。戦闘機に片道のガソリンだけを入れ、多量の爆薬を積んで行ったのです。また爆弾を船首に積んだ小型の特攻艇も片道の燃料だけで出撃して行ったのです。
私が戦争中に学んだ国民学校の教室の一番前の壁の高いところには昭和天皇の写真が飾ってありまいた。校庭に小型ながら立派な神社のような建物があり、それを奉安殿と呼んでいました。それは教育勅語が納められた建物でした。
このような文化が戦前の日本にあったのです。
ですから日本がアメリカ軍に追い詰められ、沖縄が占領され、日本の都市が焼けつくされると、当然のように特攻隊が増強されて行ったのです。
ですから私は日本独特の特攻隊は江戸時代の武士道と明治維新以後の天皇を中心とした富国強兵策が合流して出来たのだと思います。
この戦前の日本文化は死滅しました。
現在の憲法では自衛隊と言う軍隊の統帥権は国民を代表する総理大臣にあります。憲法改正で一部の日本人は明治憲法を復活させよと主張しています。とんでもない話です。

1番目の写真は我が故郷、仙台市の昭和20年7月10日の大空襲後の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月11日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っていました。
全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。
写真の出典は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Air_raid_Kofu-City.jpgです。

3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。
写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.htmlです。
このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと念じます。
明日の8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘
===参考資料======================
特攻隊とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
神風特攻隊とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
特攻第一号
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された。
特攻で損害を受けた艦船の一覧、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
日本の300万人におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジア地域での中国人、フィリピン人などアジア人と米英豪などの総数、2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。みんな日本軍の犠牲になったのです。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。世界第二次大戦は人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々72年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
今日は日本軍だけにあった組織的な特攻隊が何故実行され、6000人余の戦死者を出したか考えてみたいと思います。
その内訳は、海軍、4,156名 、陸軍、1,689名 という数が報告されています。(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1018978050)
このような自分の命を捨て敵を攻撃する組織的な戦闘行為は欧米諸国には存在していません。現在のイスラム過激派の自爆テロ以外、世界には例の無い、日本独特の自己犠牲による戦闘行為でした。
私は毎年、8月15日が近づくと、「何故、日本だけに特攻隊があったのか?」と考え込みます。
とても難しい問題ですが、それには2つの要因が深く関連していると考えています。
江戸時代に出来た「武士道」と明治維新後の天皇を中心にした富国強兵策が合体して出来た考え方が特攻隊という組織を生んだのだと考えています。
明治憲法では軍隊の統帥権は天皇にあり、全ての軍人は天皇へ忠誠を誓わなければなかったのです。
それは明治維新以後の日本文化の一部でした。
この文化的背景のもとにアメリカ軍に圧倒された日本軍は武士道の精神で天皇陛下のために死ぬ特攻隊を組織化したのです。
現在の日本人には考えられないでしょうが、日本兵が戦死する場合は必ず「天皇陛下、万歳!」と叫ぶように教育されていたのです。
いわゆる忠君愛国の教育です。
武士道は主君に対する倫理的な忠誠が一番重要とする思想です。そして江戸時代の中頃に、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』が佐賀藩の山本常朝によって書かれました。
この一節が「武士道とは死ぬことを恐れない」という意味で戦争中にもてはやされたのです。
ですから第二次大戦のあった昭和時代には、すべての日本兵は昭和天皇の赤子(せきし)として、昭和天皇に忠誠を誓い、天皇のために死ななければならなかったのです。
それが日本の文化だったのです。
全ての戦死兵は天皇に命を捧げたのです。
そして絶対に生還出来ない条件で敵を攻撃したのが特攻隊だったのです。戦闘機に片道のガソリンだけを入れ、多量の爆薬を積んで行ったのです。また爆弾を船首に積んだ小型の特攻艇も片道の燃料だけで出撃して行ったのです。
私が戦争中に学んだ国民学校の教室の一番前の壁の高いところには昭和天皇の写真が飾ってありまいた。校庭に小型ながら立派な神社のような建物があり、それを奉安殿と呼んでいました。それは教育勅語が納められた建物でした。
このような文化が戦前の日本にあったのです。
ですから日本がアメリカ軍に追い詰められ、沖縄が占領され、日本の都市が焼けつくされると、当然のように特攻隊が増強されて行ったのです。
ですから私は日本独特の特攻隊は江戸時代の武士道と明治維新以後の天皇を中心とした富国強兵策が合流して出来たのだと思います。
この戦前の日本文化は死滅しました。
現在の憲法では自衛隊と言う軍隊の統帥権は国民を代表する総理大臣にあります。憲法改正で一部の日本人は明治憲法を復活させよと主張しています。とんでもない話です。

1番目の写真は我が故郷、仙台市の昭和20年7月10日の大空襲後の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。
当時、私は9歳、国民学校の3年生でした。1945年7月11日の明け方、故郷の仙台市が一面紅蓮の炎を上げて燃えているのを高台から何時までも見ていました。仙台の空には低空でゆっくり飛んでいる B-29が何機も見えます。その機体が下の一面の炎で白く光っていました。
全国(内地)で200以上の都市が被災し、焼け野原になってしまったのです。
全国の空襲による犠牲者は、原爆の犠牲者約20万人を含めて50万人と言われています。

2番目の写真は焼け野原になった甲府市の様子です。
写真の出典は、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Air_raid_Kofu-City.jpgです。

3番目の写真は東京の亀戸の空襲後の写真です。
写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.htmlです。
このような戦争の悲惨さを忘れることなく子々孫々に伝承し、平和を守って貰いたいと念じます。
明日の8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘
===参考資料======================
特攻隊とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
神風特攻隊とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
特攻第一号
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された。
特攻で損害を受けた艦船の一覧、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7