ロシアの日本に対する怨念の原因はいろいろありますが、今日は怨念の原因として、日本の4年間にわたるシベリア出兵のことを書きたいと思います。
ロシア側のある資料では、ロシア側の死傷者8万人、6億ルーブル以上のロシアの被害とされています。これはロシアの日本に対する怨念の大きな原因の一つです。
この戦争での日本軍の戦死者は3~4千人でしたが、零下30度という極寒の地で凍傷となった死傷者が1万人に達したのです。 戦費は10億円を越えました。
シベリア出兵は大正期のロシア革命に対する干渉です。干渉戦争です。日本は他の欧米諸国とともにロシアの共産党の軍隊をせん滅するために出兵したのです。世界が共産化するのを防ぐために出兵したのです。
1917年(大正6)、ロシア十月革命が起こると、すぐに12月に連合国最高軍事会議に革命政権を軍事攻撃する干渉計画が出され、英仏米そして日本も1918年にシベリア出兵をします。
そして出兵後、日本は1922年6月ようやくシベリア撤兵の意志を表明、同年10月シベリア本土からの撤兵を完了しました。4年間にわたるロシアの内政干渉でした。武力を用いた内政干渉でした。
当然、ロシアは日本に対して怨念を持ちます。
シベリア出兵を利用して日本はこの機会にシベリア進出をくわだて,欧米諸国との協定を上まわる7万3000の大軍を派遣し,バイカル以東のシベリアを占領したのです。
アメリカ・イギリス軍の撤退後も,日本はそのまま占領し,さらに尼港事件後,北樺太 も占領しました。しかし1922年ワシントン会議の後で日本も撤兵を終了します。さらに1925年の日ソ両国間の交渉で北樺太からも撤退します。
司馬遼太郎は『ロシアについて』という本で書いています。
・・・「大正時代の日本、それまでの日本の器量では決してやらなかったふたつのことをやった」。ひとつが中国に対する「21か条の要求」、もうひとつを「シベリア出兵」・・・と書いています。
そして、・・・・日本軍は、米英仏などが撤兵後もシベリアに居残り、列国から非難された。広岩さんは、「あくなき大陸侵略の一環として、シベリア出兵がなされたと言っても過言ではない」「アジア・太平洋戦争の火種はこのときから広がったと言えるだろう」と結論付けている。・・・・太平洋戦争の火種はシベリア出兵だと言うのです。
ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで正確には不明です。しかしある資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされています。
このシベリア出兵の間に尼港事件が起きシベリアに居住していた多くの日本の民間人がロシア兵に惨殺されたのです。この尼港事件については下記で説明してあります。
「尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑」
(2022年10月27日 に掲載した記事)。
・・・尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。
1895年(明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。
以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。・・・
なお尼港事件を起こしたロシアの司令官とその部下は日本軍によって逮捕され処刑されたのです。この処刑もロシアの日本に対する怨念の原因の一つになりました。
今日はロシアの日本に対する怨念の原因として、日本の4年間にわたるシベリア出兵のことを書きました。
今日の挿絵代わりの写真はシベリア出兵に関する写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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1番目の写真は1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍です。
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2番目の写真は1918年8月、シベリアのニコラエフスクでパレードを行う日本海軍陸戦隊です。
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3番目の写真は1918年 シベリア出兵の日本の騎兵隊の行軍です。
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4番目の写真は広岩近広著、「シベリア出兵――「住民虐殺戦争」の真相 」の表紙です。
ロシア側のある資料では、ロシア側の死傷者8万人、6億ルーブル以上のロシアの被害とされています。これはロシアの日本に対する怨念の大きな原因の一つです。
この戦争での日本軍の戦死者は3~4千人でしたが、零下30度という極寒の地で凍傷となった死傷者が1万人に達したのです。 戦費は10億円を越えました。
シベリア出兵は大正期のロシア革命に対する干渉です。干渉戦争です。日本は他の欧米諸国とともにロシアの共産党の軍隊をせん滅するために出兵したのです。世界が共産化するのを防ぐために出兵したのです。
1917年(大正6)、ロシア十月革命が起こると、すぐに12月に連合国最高軍事会議に革命政権を軍事攻撃する干渉計画が出され、英仏米そして日本も1918年にシベリア出兵をします。
そして出兵後、日本は1922年6月ようやくシベリア撤兵の意志を表明、同年10月シベリア本土からの撤兵を完了しました。4年間にわたるロシアの内政干渉でした。武力を用いた内政干渉でした。
当然、ロシアは日本に対して怨念を持ちます。
シベリア出兵を利用して日本はこの機会にシベリア進出をくわだて,欧米諸国との協定を上まわる7万3000の大軍を派遣し,バイカル以東のシベリアを占領したのです。
アメリカ・イギリス軍の撤退後も,日本はそのまま占領し,さらに尼港事件後,北樺太 も占領しました。しかし1922年ワシントン会議の後で日本も撤兵を終了します。さらに1925年の日ソ両国間の交渉で北樺太からも撤退します。
司馬遼太郎は『ロシアについて』という本で書いています。
・・・「大正時代の日本、それまでの日本の器量では決してやらなかったふたつのことをやった」。ひとつが中国に対する「21か条の要求」、もうひとつを「シベリア出兵」・・・と書いています。
そして、・・・・日本軍は、米英仏などが撤兵後もシベリアに居残り、列国から非難された。広岩さんは、「あくなき大陸侵略の一環として、シベリア出兵がなされたと言っても過言ではない」「アジア・太平洋戦争の火種はこのときから広がったと言えるだろう」と結論付けている。・・・・太平洋戦争の火種はシベリア出兵だと言うのです。
ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで正確には不明です。しかしある資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされています。
このシベリア出兵の間に尼港事件が起きシベリアに居住していた多くの日本の民間人がロシア兵に惨殺されたのです。この尼港事件については下記で説明してあります。
「尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑」
(2022年10月27日 に掲載した記事)。
・・・尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。
1895年(明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。
以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。・・・
なお尼港事件を起こしたロシアの司令官とその部下は日本軍によって逮捕され処刑されたのです。この処刑もロシアの日本に対する怨念の原因の一つになりました。
今日はロシアの日本に対する怨念の原因として、日本の4年間にわたるシベリア出兵のことを書きました。
今日の挿絵代わりの写真はシベリア出兵に関する写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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1番目の写真は1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍です。
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2番目の写真は1918年8月、シベリアのニコラエフスクでパレードを行う日本海軍陸戦隊です。
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3番目の写真は1918年 シベリア出兵の日本の騎兵隊の行軍です。
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4番目の写真は広岩近広著、「シベリア出兵――「住民虐殺戦争」の真相 」の表紙です。